第2章:精神の文明開化は、常に指先から始まる。
新宿御苑での奇妙な邂逅の後、吾輩、夏目金之助は、桃色の衣類を纏った男、編集者という奇妙な肩書を持つ若者に引きずられるようにして、目の前にそびえ立つ「自動扉」なる異界の門に差し掛かった。
門は、吾輩が近づくと同時に、まるで意思を持つかのように音もなく左右に割れた。
「……おのれ。これがこの時代の結界か。人智を超えた、物理の術か」
吾輩は思わずそう呟いたが、桃色の男は「いや、自動ドアっすねw」と、また奇怪な「草」とやらを生やしている。
その薄っぺらな笑いが、吾輩の神経を度々逆撫でする。
店内に足を踏み入れると、その瞬間に吾輩の五感は衝撃に襲われた。
煌々たる照明は眼を焼くような白さであり、耳には奇妙な電子音が鳴り響いている。
そして何より、鼻腔をくすぐる、今まで嗅いだことのない甘ったるい匂い……。
壁一面に積み上げられた色彩豊かな品々。
それは、まるで西洋の珍奇な工芸品店の如き様相を呈していた。
「編集者君。この甘露なる匂いは何だ。そして、この精巧な箱詰めされた品々は。これら全てが、文明開化の最先端であると申すか」
吾輩は、その中でも一際目を引く、手のひらサイズの小さなパンにチョコが埋め込まれた、黄金色の箱を手にとった。
「おお、これはまさしく! 明治の世には存在せぬ、宝石箱ではないか。編集者君、これこそが、吾輩が求めていた『文明開化の味』というやつだわ」
「あー、それチョコあ〜んぱんっすねw 好きでしょ、先生」
奴は、吾輩の心の内を見透かしたかのような口ぶりで、また奇妙な「草」を生やす。
「案ずるな、編集者君。文明の利器への対価なら、吾輩が支払ってやるわ。釣りは、君が取っておきたまえ、些末だが礼だ。」
吾輩は懐から、一枚の紙幣を恭しく取り出した。
日本銀行兌換銀券(10円札)。
大黒天が描かれた、重厚な手触りのそれ一枚あれば、この店の棚など全て買い占めても余るはずであった。
だが、編集者の反応は、吾輩の予想を無慈悲に裏切った。
「え、10円? ウケるw 先生、何すかその古いお札。これ、今のレジじゃ1円にもならないっすよ。っていうか、博物館行きですよそれw」
「な、何だと? これが、紙屑だと申すか」
「あ、僕がPayPayで払っときますよ。」
「宝石箱」を、格下の若者に奢られるという屈辱、おのれ。
そこで、店員なる若者が「袋はいりますか?」と問いかけてきた。
吾輩は、その一言に込められた現代社会の闇を瞬時に察知した。
「何と! 施しでは飽き足らず、国家は今、吾輩が購入した菓子一つにまで『袋』という名の徴収を課すのか! 文明開化とは、かかる民衆から細々と財を巻き上げる、卑しき施策であったかッ!!」
吾輩は、店内に響き渡る声で、この時代の闇を告発する大演説をぶちかました。
「先生、ご迷惑をおかけしてすみません!」
コンビニを出て、編集者は申し訳なさそうに頭を下げた。
しかし吾輩は、甘美なるチョコあ〜んぱんとやらを口いっぱいに頬張りながら、満足げに頷いた。
「いや、構わん。この文明開花の宝石箱の味を知れただけでも、この時代に来た甲斐があったというものだわ。それにしても、目の前に突きつけたり、宝石箱購入時に、『ペイペイ!』などと奇妙な呪文を唱える光る板。あれはなんなのだ」
「ああ、これっすか? スマホですよ、スマホ。これで動画も撮れるし、文章も書けるし、何でもできるんです。先生も使います?僕、最近iPhone17に機種変して、こっちの15はもう使わないんで。あ、中古ですけど白ロムなんで、Wi-Fiあれば使えますよw」
そう言って編集者から差し出されたのは、あいふぉんふぃふてぃーんと言う呼び名らしい、光沢のある黒い板だ、しかもしろろむ、やら、わいふぁい、やらまた新たなる呪文を唱えている。
しかしその光る板は、まるで黒曜石を削り出したかのような、禍々しい輝きを放っている。
「これが、吾輩の魂を抜き取る、というものか」
吾輩は恐る恐る、その板に指先を触れた。冷たい金属の感触が、指の腹から脳髄へと伝わる。
「さ、先生。アカウント作りましょう。利用規約、同意してくださいね」
編集者は、吾輩の指先をそっと誘導する。画面には、夥しい数の小さな文字が羅列されていた。
「これほどの文量か。この全てを理解せねば、この板は吾輩の魂を抜くというのか。……卑劣な」
吾輩は、あまりの文字数に眩暈を覚えた。
だが、編集者は
「高速スクロールでOKっすよw」
と、軽々しくそう言った。
「何と! そのようにして、人は『契約』という名の精神を、なんの躊躇もなく放り出すのか! この時代とは、かくも無責任な時代であったかッ!!」
吾輩は、憤慨しながらも、もはやどうすることもできず、編集者の指示通り、高速で画面を下へと滑らせた。
利用規約の膨大な文章が、まるで砂嵐のように指先を通り過ぎていく。
そして、最後に表示された「同意」のボタンを、吾輩の指が、まるで何かに吸い寄せられるかのように押した。
その瞬間、吾輩の内側で、何かが弾けた。
物理的な爆音ではない。
だが、確かに吾輩の「明治の精神」の核が、音を立てて砕け散ったように感じられた。
「魂が。吾輩の魂が抜かれたわ」
吾輩はそう呟いた。
目の前で、編集者が
「おめでとうございます! 漱石先生、これで令和の時代にアップデート完了っすね!」
と、満面の笑みを浮かべている。
「れいわ、だと?」
吾輩は、その聞き慣れぬ、だがどこか雅びを含んだ響きを反芻した。
「君、今『れいわの時代』と言ったかね?それは、今の元号なのか? 睦仁様(明治天皇)の御代は、嘉仁様(大正天皇)の御代はどうなった。大正は、いつまで続いたのだ?」
吾輩の問いに、編集者は一瞬、困ったように頭を掻いた。
「えーと、大正の後は昭和、平成で、今は令和の7年っすね。大正15年が1926年なんで、来年で100年ですよ、マジで」
100年。
残ったのは、画面に表示された、
「Googleアカウント作成完了」
の文字と、吾輩の指先に残る、奇妙な冷たさ。
「そうか。ここは、もはや吾輩の知る日本ではない。令和、という名の、全く別の異界なのだわ」
吾輩は、甘美なる宝石箱、チョコあ〜んぱんを手に、ビルヂングの狭間から覗く白々しき朝陽を仰ぎ見た。




