分裂の兆候 ― 波が割れる音
静寂の夜だった。
海鳴りも遠く、風すら息を潜めている。
那覇港の外れにある、朽ちた廃工場――かつて荷を積み下ろした鉄骨の梁は錆びつき、今はただ、潮風の中で軋む音を立てていた。
カメラ(あるいは視点)はゆっくりと天井から降りていく。
ゆらめく裸電球がひとつ。
その下、古びた会議机の上には一枚の紙が広げられている。
《琉球独立宣言草案》。
端が黒く焦げ、灰となってはらりと床に落ちていく。
その焦げ跡はまるで、理想が燃え尽きていく軌跡のようだった。
静けさの中で、誰もが息を殺している。
空気は重く、湿って、油と錆の匂いが混じっていた。
遠くで波が砕ける音が、ゆっくりと響く。
それが唯一、この夜が“まだ生きている”と告げる証だった。
そして――
「この夜、黎明は分裂した。」
ナレーションのような声が、空気の奥で低く響く。
「理想が熱を持ち、信念が武器に変わる、その瞬間に。」
裸電球がかすかに揺れる。
光が、会議机の上に座る者たちの表情を断片的に照らし出す。
怯え、怒り、迷い――それぞれが“信じること”の形をして、同じ光を奪い合っていた。
次の瞬間、風が壁の穴から吹き込み、
紙の端をめくる。
焦げた草案の上に、薄い灰がひとひら落ちる。
まるで、何かが静かに崩れ落ちていくように。
錆びた鉄骨の軋みが、遠い雷鳴のように響く。
裸電球の光が微かに揺れ、工場の中の空気をざらつかせていた。
その光の下、玲奈がゆっくりと立ち上がる。
テーブルに両手を置き、静かに――だが、確かな熱をこめて言葉を放った。
「……暴力は、敵を生むだけ。
この島の痛みを、また繰り返すことになる。」
その声は低く、抑えられていたが、
揺らぐ電球の光をも止めるほどの重みを持っていた。
対面の伊波が、苛立ちを隠さず立ち上がる。
椅子が床を擦る音が金属的に響き、
次の瞬間、彼の拳が机を叩いた。
――乾いた衝撃音。
裸電球がぶらりと揺れ、影が壁を波のように走る。
「理想だけじゃ、この国は変わらねぇ!」
「血を流さなきゃ、誰も目を覚まさない!」
伊波の声が、海鳴りのように工場の空気を震わせた。
その叫びは激情か、祈りか。
誰もすぐには返事をできなかった。
玲奈は一歩、前へ出た。
瞳は揺らがない。
声は静かだったが、言葉の端に確かな痛みが滲んでいた。
「血を流せば、誰かがまた眠るだけ。
――あなたは、それでも“黎明”って名を口にできるの?」
その一言が、工場全体の温度を変えた。
誰も動かない。
ただ、風がひとつ吹き抜け、壁の穴から錆びた看板が音を立てた。
伊波は玲奈を睨み返す。
その表情の奥にあるのは怒りではなく、
どこかで自分の理想を試されているような、戸惑いだった。
周囲の若者たちはざわめく。
「どっちが正しいんだ」「本当に戦うのか」――
囁きが空気の底で波のように重なり合う。
玲奈と伊波。
二人の顔を照らす光は半分だけ。
残りの半分は、闇の中に沈んでいる。
その光と影の境界に、
――“理想”と“現実”の亀裂が、確かに生まれていた。
テーブルの端。
割れた蛍光灯の残骸を踏みしめながら、大悟は黙って二人を見つめていた。
玲奈の声は、かすかに震えている。
それでも、その震えの中に確かな芯があった。
彼女はまだ“純粋”であろうとしている――理想の形を、失いたくないと願っている。
一方の伊波。
その目には、熱よりも先に「焦り」と「空虚」が滲んでいた。
誰かを奮い立たせようとする怒りは、もう信念の声ではない。
自分自身に言い聞かせているだけの、虚ろな響きだった。
大悟は目を伏せ、深く息を吐く。
掌の中の汗が、冷たい金属の匂いと混じる。
「理想は、熱に焼かれた紙のようだ。
触れれば崩れる。けれど、それでも手放せない。」
心の中で呟いたその言葉は、誰にも届かない。
玲奈の声も、伊波の声も、遠くで波の音と混ざっていく。
光の下で交錯する言葉たちは、もはや理解を求めてはいなかった。
それぞれが、自分の“正しさ”を証明しようとしていた。
「どちらも、真実だ。
どちらも、間違いじゃない。
なのに、どうして――人は分かたれる?」
その思いが胸の奥でひずみ、軋む。
熱と理性の境界で、何かが崩れていく音がする。
裸電球がまた一度、明滅した。
光が弱まり、闇が少しずつ会議場を侵食する。
その闇の中で、大悟の表情だけが、波のように揺れていた。
沈黙を切り裂くように、伊波が立ち上がった。
その目には激情よりも、もう後戻りできない諦念の色があった。
「もうお前たちのやり方には付き合えねぇ!」
怒号が、薄暗い廃工場の天井にぶつかって反響する。
立ち上がった数名の若いメンバーが、伊波の背に続いた。
誰も彼を止めようとしない。
止める言葉を、誰も持っていなかった。
その足音が、鉄骨の通路を伝って遠ざかっていく。
カン、カン、と金属が鳴り、音がゆっくりと波のように広がる。
まるで“海”そのものが割れていくようだった。
理想の波が――二つに分かれていく。
玲奈は動かない。
ただ、立ち尽くしていた。
去っていく背中を、見送ることしかできなかった。
彼女の手の中では、紙の端が震えている。
“独立宣言草案”。 その焦げ跡が、風にめくれた。
風が吹き抜ける。
裸電球が激しく揺れ、影が壁の上で踊る。
誰も言葉を発しない。
ただ、黎明という名の灯が、ひとつ消えていく音がした。
「その夜、黎明は一つの身体を裂かれた。
理想が、血の匂いを帯び始めた。」
電球の光が、最後にひときわ明るく瞬き、そして――暗転。
廃工場の空気は、沈黙で満たされていた。
鉄の匂いと油の湿った残り香。
揺れていた裸電球が、ようやく止まる。
わずかな光が、灰のように冷たく空間を照らす。
カメラ(視点)は大悟の横顔を捉える。
彼は何も言わず、ただ前を見ている。
瞳の奥に、燃え残った光がひとつだけ、淡く揺れている。
その表情には、後悔でも、怒りでもない。
ただ――理解の及ばない何かを、静かに受け止めようとする影があった。
背後では、玲奈がゆっくりと椅子に座り込む。
肩が小さく震え、指先が宙をさまよう。
その手元には、床に落ちていた旗の切れ端。
焦げ跡に縁取られた布地。
そこに残された文字――《眠る島に、火を。》
だが、“火”の文字だけが黒く焼け落ち、形を失っている。
玲奈はそれを見つめたまま、声を出さない。
唇がかすかに動いた気がしたが、その言葉は風に溶けた。
風が、旗の端をそっと揺らす。
火のない炎のように。
カメラがゆっくりと大悟の顔に寄る。
その目の奥に、燃え残ったものが反射する。
大悟(心の声)
「この夜、誰の理想が死んだんだろうな……。」
照明が一瞬だけ、光を強める。
まるでその問いだけを、世界に焼き付けるように。
そして――消える。
暗転。
遠く、波の音がかすかに届く。
潮の満ち引きが、まるで答えの代わりに響いていた。




