潜入 ―「黎明の影
夜。
那覇港のはずれ、潮と錆の匂いが入り混じる。
使われなくなった倉庫群が、闇の中に沈んでいた。
外壁の塗装は剥がれ、鉄のシャッターは風を受けて微かに軋む。
港を渡る湿った空気が、どこか遠くの波音を連れてくる。
若者たちが数人、外で煙草を吸っていた。
ひとりは無線機を弄り、もうひとりは安物の拳銃を腰に下げている。
誰もが落ち着かない様子で、夜を警戒していた。
空には重い雲が垂れ込め、光のない星空。
街の喧噪は届かず、聞こえるのは風と、時折響く波の砕ける音だけ。
遠景からカメラが静かに寄る。
足音がひとつ――
コンクリートを濡らした靴音が、海鳴りと重なる。
大悟だった。
コートの裾はまだ雨に濡れている。
歩みはためらいがちで、どこか探るような足取り。
彼の足元に、水たまりが光を宿していた。
倉庫の灯りが、その薄い水面にぼんやりと映り、波紋のように揺れている。
彼はその光を一瞥し、ふと息を吐いた。
――夜の底で、誰かが息を潜めている。
そんな気配がした。
倉庫の前で足を止めたとき、玲奈が小さく息を吐いた。
風に乗って、潮と油の匂いが漂う。
その横顔には、微かな緊張が刻まれていた。
「彼らは理想で動いてる。
……でも、理想だけじゃ足りない。」
その言葉は、自分に言い聞かせるようでもあり、
隣を歩く大悟への警告のようでもあった。
彼女が扉に手をかける。
古い蝶番が悲鳴をあげ、鈍い金属音が夜を裂いた。
中は、思ったより明るかった。
裸電球がむき出しの梁からぶら下がり、黄ばんだ光が床に落ちている。
十数名の男女が集まっていた。
元自衛官、土木作業員、学生、フリーター――
バラバラな服装、バラバラな目の色。
その混ざり合わなさが、逆にこの場所の温度を作っていた。
壁には「琉球黎明」の旗。
波と太陽をかたどった紋章。
その下に、赤いペンキで書かれたスローガンが滲んでいる。
《眠る島に、火を。》
玲奈が一歩前に出て、短く紹介した。
「彼は“RyuTalk”の初期メンバーだった。
東京にいたけど……戻ってきた。」
その言葉に、場の空気が一瞬ざわめく。
いくつもの視線が、大悟の胸元を射抜くように向けられる。
その中で、ひときわ鋭い目をした男が立ち上がった。
黒いTシャツに迷彩のズボン、髪は短く刈られ、腕には古い傷跡。
伊波翔太。
黎明の実働班リーダー――元陸自通信兵。
彼の視線は冷たいが、どこかで仲間を探すような焦点をしていた。
「あんたも“捨てられた側”だろ。
なら、こっちに来い。」
その声に、場の空気がわずかに揺れた。
大悟は一瞬だけ息を呑み、
答える代わりに、ゆっくりとうなずいた。
――潜入の扉は、静かに、確実に開かれていく。
倉庫の空気が重く沈む。
錆びた鉄と海風のにおいが、息苦しいほど濃い。
裸電球の下、伊波翔太がゆっくりと歩み出てきた。
大悟を正面から見据え、言葉を探すように沈黙する。
無言の数秒――その間、彼の瞳だけが獣のように動いていた。
やがて、低く割れる声が闇を切る。
「“公安”の匂いはしねぇな。
……だが、都会の匂いはする。」
一拍置いて、彼は口の端を歪めた。
笑っているのか、試しているのか、その境は曖昧だった。
「あんたも“捨てられた側”だろ。
なら、こっちに来い。」
倉庫の隅で、誰かの靴音が鳴る。
若者たちが大悟を囲むように視線を投げた。
その瞳の中に――期待、不信、そしてどこか祈りにも似た光。
誰もが、居場所を探している。
この国のどこにも居られず、海の果てに沈もうとしている魂たち。
大悟は一瞬、息を飲む。
その中に、かつての自分の影を見た。
唇がわずかに動く。
その声は静かで、けれど確かに倉庫の空気を震わせた。
「……俺はただ、帰る場所を探してるだけだ。」
短い言葉が落ちた瞬間、
その場の空気が、ほんの少しだけ変わった。
玲奈が視線を上げる。
わずかに揺れる瞳。
その奥に、かつて知っていた“佐久間大悟”を探していた。
だが彼女はすぐに目を逸らし、
その感情を、湯気のように胸の奥へ閉じ込めた。
沈黙。
波の音が、遠くでかすかに響く。
伊波がゆっくりと頷く。
その仕草は、敵を受け入れるのではなく――
同じ傷を嗅ぎ分けた者同士の、無言の同意だった。
倉庫の奥には、雑多な機材が散乱していた。
古びたパソコンが数台、ケーブルが床を這い、
モニターには不安定な監視映像が映っている。
机の上には空き缶、煙草の吸い殻、
そして「寄付金」と書かれた段ボール箱。
その隣に、誰かの手で組まれた手製の通信機。
半田の焦げた匂いが漂う。
誰もが何かをしていた。
地図を広げて議論する者。
SNSの画面に指を走らせる者。
古びた銃を手入れしている者。
統率も秩序もない。
だが、奇妙な一体感があった。
「理想」ではなく、「欠落」で結ばれた群れ。
――ここには、戦士はいない。
ただ、居場所を失った人間たちがいるだけだ。
大悟は静かに立ち尽くし、
その光景を目の奥に焼き付けるように眺めていた。
“革命なんて言葉は似合わない。
ここにあるのは――居場所を失った人間たちの寄せ集め。
国家に切り捨てられた者たち。
そして……俺も、その一人だ。”
モニターの光が彼の横顔を照らす。
その半分は白く、半分は闇に沈む。
光と影の境界で、彼の輪郭がゆっくりと溶けていく。
まるで、二つの世界のどちらにも属せない存在のように。
倉庫の奥から、黎明のスローガンがかすかに聞こえた。
《眠る島に、火を。》
その言葉が、
燃え残った灰のように彼の胸に沈んだ。
倉庫の空気が、ひときわ重く沈む。
誰もが息を潜める中、伊波がゆっくりと前へ出た。
彼の手には、黒い小型の端末。
拳ほどの大きさの通信機――角には擦れた傷、手作りのような粗さがあった。
伊波「これで指令が来る。電波は追えない仕組みだ。
……あんたが本気かどうか、試してみる。」
彼の声は低く、静かな圧を帯びていた。
命令でも脅しでもない。
これは“信頼”を渡す代わりに、覚悟を求める声だった。
大悟は無言で端末を受け取る。
その手が一瞬だけ震えるのを、誰も見逃さなかった。
玲奈は少し離れた場所で、その光景を見つめている。
彼女の瞳が、ほんのわずかに揺れた。
けれど何も言わない。
その沈黙が、言葉より深く彼の胸を刺した。
倉庫の奥、古いモニターが光を放つ。
画面には、夜の波打ち際――闇の中、寄せては返す白波。
そのノイズ混じりの映像の向こうで、
かすかな音声が流れた。
「……この島を、再び目覚めさせよう。」
誰の声か、判別できない。
だがその響きは、大悟の心を撃ち抜いた。
それは、かつて海斗が言っていた言葉。
忘れようとして、忘れられなかった声。
拳が静かに握られる。
爪が掌に食い込む。
表情は動かない――だが、
その震えが、心の奥の揺らぎを物語っていた。
倉庫の蛍光灯がチカリと瞬く。
その一瞬の光の中で、大悟の顔が浮かび上がる。
冷たいはずのその目に、
消えかけた炎が、再び灯っていた。




