再会 ―「琉球はまだ眠っていない」
那覇・旧市街。
観光客の足が途絶える、裏通りの細い道。
雨が細かく降っていた。
湿った風が、塩の匂いを運んでくる。
街灯の下、アスファルトに映る光が揺れる。
ひときわ古びた木の看板――
「MUI」と、掠れた白文字。
琉球の言葉で“眠り”。
その名の通り、通り全体が眠っているような静けさだった。
扉を押すと、小さなベルが鳴る。
かすかな音が、雨音を切り裂く。
中は薄暗く、古いジャズが低く流れていた。
豆を挽く音、カップを置く音。
それだけが、世界の輪郭を保っている。
大悟は傘を畳み、濡れたコートの裾を払う。
視線が一度だけ、店内の奥を探る。
カウンターの奥、窓際。
白い光の中に、ひとりの女の影。
手帳を開き、何かを書き込んでいる。
指先の動きが、記憶の中のリズムと同じだった。
大悟は立ち止まる。
胸の奥で、時間がずれる感覚。
十年という距離が、
わずか一呼吸で崩れ落ちる。
彼女が顔を上げた。
目が合う。
カウンターの向こうで、湯気がひとつ、静かに立ちのぼった。
玲奈は、手帳を静かに閉じた。
黒いペンを指の間で転がし、
その仕草のまま、大悟に微笑む。
「久しぶり。まさか、こんな場所で会うなんてね。」
声は変わっていなかった。
少し掠れて、雨音と混ざるような低さ。
大悟は答えず、コートを脱ぐ。
店内の空気が少しだけ動く。
その中で、彼の視線が彼女を捉えた。
「……偶然じゃないだろ。」
玲奈は小さく息を吐く。
笑ったのか、ため息なのか、判別がつかない。
「公安の人が偶然で動くわけないもんね。」
会話がそこまでで途切れる。
二人の間に置かれたカップの湯気だけが、
ゆらゆらと立ちのぼる。
音が消えた。
雨も、音楽も、遠くへ退いた。
玲奈の視線が大悟の目を捕まえる。
まっすぐに。
だが、その奥――
わずかな痛みが隠しきれずに光った。
大悟は、わずかに視線を逸らす。
その仕草に、十年という距離の重さが宿る。
“こんなはずじゃなかった。”
心の奥で、誰の言葉でもない声が響く。
カップの中の黒い液面に、
二人の姿が歪んで映っていた。
玲奈が、コーヒーのカップを両手で包んだ。
湯気がその指先をやわらかく包む。
目だけが、大悟を見ていた。
「変わったね、大悟。
前は“国なんていらない”って言ってたのに。」
その声には、懐かしさよりも寂しさが混ざっていた。
大悟はカップを持ち上げず、ただ視線を落とす。
「仕事だ。あの頃とは違う。」
玲奈は小さく笑った。
笑いながらも、瞳の奥が揺れている。
「違う? 本当に?
あの時、海斗が言ってたよ。
“国を作るんじゃない。目を覚ますだけだ”って。」
雨の音が強くなった。
窓の外、通りを流れる光が滲んでいる。
店内の空気がゆっくりと沈んでいく。
大悟は短く息を吸い、低く言った。
「……海斗は死んだ。」
沈黙。
カップの縁が、かすかに触れ合う。
小さな音が、雷鳴のように響く。
玲奈はまっすぐに大悟を見た。
その眼差しは、祈りのようでもあり、刃のようでもあった。
「死んだ人の声を、誰が消せるの?」
彼女はゆっくりと身を乗り出す。
声を落とし、囁くように続けた。
「琉球はまだ眠っていない。
海斗の声もね。」
雨がさらに激しくなり、
ガラスを叩く音が、まるで心拍のように重なった。
二人の呼吸が、一瞬だけ同じリズムを刻む。
互いの鼓動が、テーブル越しに伝わるような錯覚。
大悟は、視線を外せなかった。
玲奈の瞳の奥に、十年前の光が生きている。
“彼女の声が、昔の波音と同じだった。
静かで、でも確かに――誰かを呼んでいた。”
外では、雷が遠くで鳴った。
そして、世界の音がすべて雨に溶けた。
玲奈が、カップの縁に指を滑らせた。
その仕草は、何かを名残惜しむようでもあり、
もう二度と触れられないものを確かめるようでもあった。
静かに椅子を引く音。
彼女は立ち上がり、黒いコートのフードを被る。
「また会うよ。
この島が目を覚ます時に。」
その声は、雨の音に溶けながらも、
確かに大悟の胸の奥に残った。
扉のベルが鳴る。
湿った風が店内に流れ込み、
テーブルの上の湯気を一瞬で散らす。
玲奈の背中は、街灯の光の中で揺れ、
やがて、雨と闇のあいだに溶けていった。
静寂。
残されたのは、二つのカップ。
大悟は片方のカップを見つめる。
口紅の跡が淡く残り、
それが雨の雫で滲み、
ゆっくりと形を失っていく。
外では、風が旗を鳴らしていた。
“琉球黎明”の文字が、一瞬だけ稲光に照らされる。
彼は視線を落とし、低く息を吐いた。
「眠っていたのは、島じゃない。
俺の方だ。」
その言葉が、
誰に向けられたものなのか――
彼自身にも、わからなかった。
雨音だけが答えのように響き続けた。




