ぬるい夜明け ― The Lukewarm Dawn
街は、死んでいた。
電力を失ったビル群は、まるで灰色の墓標のように並び、
スクリーンは一枚残らず沈黙している。
焦げた広告パネルには、ひび割れた言葉だけが残っていた。
「秩序を守れ」
「未来はここにある」
それらの標語は、もう誰にも届かない。
瓦礫の間を、一人の男が歩いていた。
白田大悟。
その背は、崩れた都市の廃墟の中で、ひどく小さく見えた。
風が吹く。
どこか遠くで、倒れた鉄骨が軋む。
世界が呼吸している――そう錯覚できるほどの、かすかな音だけがあった。
道端に、一枚のビラが貼りついている。
雨に濡れ、文字は滲み、顔写真は判別できない。
【WANTED : SHIRODA DAIGO / CLASSIFIED THREAT】
彼自身の名。
だが、大悟はそれを見ても足を止めなかった。
彼の表情には、怒りも誇りもなかった。
あるのは、すべてを受け入れた者だけが持つ静かな表情――
“敗北の安堵”とも呼べるような穏やかさ。
足元まで押し寄せた波が、瓦礫の隙間をさらう。
潮風がコートを揺らし、金属の匂いが鼻を刺す。
それでも彼は歩く。
燃え尽きた都市の中を、
まるでまだそこに“何か”を探しているかのように。
通信基地は、黒焦げた金属とガラスの墓場だった。
かつて青光を放っていた機器たちは、今や冷え切った残骸に過ぎない。
風が吹くたび、倒れたアンテナが微かに軋み、
その音が、まるで遠い昔の通信を再生しているように響いた。
大悟は瓦礫の間を進み、膝を折る。
灰にまみれた手で、焦げた金属のかけらを一つずつ払う。
その中に――わずかに光を残す端末があった。
玲奈が最後まで手放さなかった記録装置。
外装はひび割れ、ガラスは半分溶けている。
それでも、内部の回路のどこかがまだ生きているのか、
青い微光がゆらりと瞬いた。
大悟はそっと手に取る。
指先に伝わる感触は、もう“機械”ではなかった。
まるで、冷たくなった心臓のように――
かすかに、失われた温度の記憶だけを残していた。
その瞬間、スピーカーがひとりでに震える。
ノイズ混じりの音が流れ、途切れ途切れに、言葉の断片が浮かぶ。
《……理想……声……記録……》
《……だが……残る……祈り……》
音はすぐに途切れ、沈黙が戻る。
だが、大悟の耳には、確かに誰かの声が残響していた。
玲奈の声。海斗の笑い。BlueLagoonの穏やかな波。
それらが、世界のどこかでまだ呼吸している――そんな錯覚。
彼は目を閉じ、低く呟く。
「誰も残らなかった。」
「それでも――この沈黙は、意味がある。」
風が再び吹く。
断線したケーブルが揺れ、瓦礫の影が波のように揺らめく。
それはまるで、亡霊たちが最後に“応えている”かのようだった。
夜と朝の境界が、ゆっくりと溶けていく。
空はまだ夜の色を残しているが、海面の端にはかすかな光が滲み、
灰と青が混ざり合う“ぬるい夜明け”が始まっていた。
大悟は海辺に立ち、しばらく波の動きを見つめていた。
潮風は弱く、砂をわずかに撫でて通り過ぎる。
彼はゆっくりと腰を下ろし、崩れた防波堤にもたれかかる。
どこかでカモメの鳴き声がしたが、それさえも夢の外の音のようだった。
そのとき――ポケットの中で、スマホが小さく震えた。
まるで、沈黙の底から何かが呼びかけてくるような微かな振動。
画面には、ひとつの通知。
Sango:「声は、まだ届く。」
大悟の呼吸が止まる。
指先がかすかに震え、画面を見つめる。
その名前――“Sango”。
かつての仲間、海斗の記憶から生まれた人工の声。
そのデータは、黎明作戦とともに消えたはずだった。
なのに、今――。
彼は何も押さない。
返信も、再生も。
ただ静かに、その言葉を胸の奥で反芻する。
「……声は、まだ届く。」
光が彼の頬をかすめる。
夜明け前の淡い青が、瞳の奥に反射し、
その輝きの中に――ほんの一瞬、“青い波形”がよぎった気がした。
それは、もう二度と会えない“誰か”のまなざしのように。
そして、次の時代へと続く“声”の余韻だった。
夜明け前の空は、まだ灰色のままだった。
けれど、その灰の向こうに、かすかな温度があった。
世界がもう一度呼吸を始めようとしている——そんな気配。
大悟は砂の上に膝を立て、スマホを胸に抱く。
冷たい風が頬をなぞる。
画面には、もう何も動かない通知の光。
けれど、そこに確かに「誰かの声」が残っている気がした。
Sango:「声は、まだ届く。」
その言葉を、心の中でゆっくりと繰り返す。
まるで祈りのように。
やがて、大悟は立ち上がった。
足元の波が彼の靴を濡らす。
潮の匂いが胸の奥に広がる。
彼はスマホを胸元で握りしめ、
少しだけ目を閉じた。
そして――ほんの一瞬、微笑む。
「……理想はもう、形を持たなくていい。」
呟く声は、風に溶けた。
次の瞬間、彼の手からスマホが放たれる。
弧を描きながら夜明けの空を横切り、
そのまま海へと吸い込まれていく。
“ちゃぽん”という小さな音。
波が静かにその場所を飲み込み、
光が水中でゆらめいた。
それはまるで、“声そのもの”が海に還っていくようだった。
「波になって、誰かの心に触れれば、それでいい。」
彼の言葉が、朝の風に消える。
もう誰もいない海辺で、ただ波だけが、
新しい“声”を運び始めていた。
夜と朝の境目が、水平線の上で滲んでいた。
海と空の境界が曖昧に溶け合い、世界全体が“ぬるい光”に包まれていく。
瓦礫と砂浜のあいだに立つ白田大悟の姿が、徐々に小さくなっていく。
風が吹く。
潮の匂いが、夜の残り香を押し流す。
街は崩れ、声は途絶えた。
だが、沈黙の向こうで――何かが、まだ呼吸している。
海面には淡い光が反射していた。
沈んだスマホのあたりだけが、
まるで心臓の鼓動のように、微かに明滅する。
“トン、トン。”
波が岸に寄せては返す。
それがこの世界の唯一のリズム。
遠くで、一羽の鳥が鳴いた。
その声は小さく、けれど確かに、生の証だった。
音楽はない。
言葉もない。
ただ、自然の呼吸だけが世界を満たしている。
そして、画面がゆっくりと白に溶けていく。
【THE LUKewarm DAWN】
― “理想は死んだ。だが、希望はまだ、微熱を持っている。”
その文字が、波の反射に揺れながら静かに浮かび、
やがて光の中へと消えていった。




