終幕 ― 「声のない通信」
夜と朝の境界に、世界が息を潜めていた。
朽ちた観測所の内部。崩れた壁、剥き出しの配線、錆びた計器。
その死んだ空間のただ一点だけ――ポータブル端末の液晶が青白く脈打ち、
まるで心臓の鼓動のように、かすかな明滅を繰り返していた。
風が吹き込むたびに、垂れ下がったケーブルが揺れる。
壁に映る影が、神経のようにうごめき、
まるで建物そのものが何かを「思い出している」ようだった。
外からは海鳴り。
岩を叩く波の音が、鈍く、重く、遠雷のように響く。
それは地の底から聞こえる“記憶”の声のようでもあった。
通信機のノイズが、ふいに強まった。
「ジ……ジジ……ッ……」
空気そのものがざらつき、金属の匂いが漂う。
大悟は指を止め、モニターに目を凝らす。
青白い光の奥、波打つノイズの層の中から――
“声” が、滲み出した。
> 『……大悟、まだ……信じてるのか?』
その一瞬、彼の呼吸が止まる。
音の粒が、まるで誰かの息遣いのように脈を打っている。
声は掠れて不明瞭だが、その響きは確かに覚えていた。
比嘉海斗。
かつて共に“黎明作戦”を支え、そして消息を絶った男。
モニターに、映像の断片が走る。
赤い閃光。崩壊する観測塔。
そして、炎の中で振り返る玲奈の後ろ姿。
画面全体をノイズが覆い尽くし、輪郭が崩れていく。
大悟は、静かに呟いた。
> 「海斗……お前が“秩序”を壊したのか。それとも、救ったのか。」
応答はない。
ノイズが一瞬だけ消え、代わりに――波の音 が流れ込んだ。
その音は、遥か昔に聞いた海の記憶のように穏やかで、どこか悲しかった。
画面の奥で、微かに光が瞬く。
それは呼吸のようでもあり、心臓の鼓動のようでもあった。
> 「……海斗……」
呼びかけても、返るのは沈黙と潮騒だけ。
それでも大悟は、端末の光を離さなかった。
まるで、その沈黙の向こうに“真実”が息をしていると信じているかのように。
通信の終端が、静かに訪れた。
ノイズが消え、機材の唸りも止む。
倉庫の奥に、沈黙だけが残る。
大悟は椅子から身を起こし、そっと通信機に触れた。
温度はまだ残っている。
まるで、誰かの手のひらのぬくもりのように。
モニターに最後の信号が浮かぶ。
> 【USER: @SANGO】
> 【STATUS: DELETED / LAST SEEN: 48H AGO】
青白い光が、彼の頬を淡く照らす。
その光はどこか懐かしく、まるで“遺影”の輝きのようだった。
大悟は目を閉じた。
胸の奥で、何かが静かに溶けていく。
> 「信じることも、裏切ることも、
> もう同じ場所に立っている。」
その言葉は祈りのようでもあり、諦念のようでもあった。
彼の唇からこぼれる息が、冷たい空気の中で白く揺れる。
外では風が吹き抜け、崩れた壁の隙間から夜明けの光が滲み始める。
黒と青の境界線――そのわずかな明るみが、廃墟の天井を淡く染めていく。
機材のランプが最後に一度だけ点滅し、
まるで誰かが“ありがとう”と囁いたような、微かな電子音を残した。
大悟は静かに目を開ける。
そこにもう、ノイズはなかった。
ただ、信仰の余白 だけが、光と影の狭間に残っていた。
沈黙が続くはずの通信機が、突如として微かな脈動を始めた。
断続的に点滅するランプ。
まるで誰かが、暗闇の向こうからノックしているようなリズム。
大悟は息を潜め、波形の揺れるモニターを見つめた。
低いノイズが空気を震わせ、次の瞬間――声が滲み出す。
> 『……真実って、いつも“誰かの裏切り”の形をしてる。』
玲奈の声だった。
あのときと同じ、感情を押し殺した囁き。
それなのに、確かに“生きている”温度があった。
彼の喉が動く。だが、言葉にはならない。
ただ、指先が震え、通信機の外殻をかすかに叩く。
その震えが、波形の揺らぎと重なった。
次の瞬間、モニターが乱れた。
ノイズの奔流が画面を覆い、光の粒が崩壊していく。
信号は、ひとつの断末魔のように――消えた。
静寂。
大悟はゆっくりと顔を上げる。
外の闇が、淡くほどけていく。
崩れた天井の隙間から、夜明けの最初の光が差し込む。
その光が、彼の頬を照らした。
濡れたような瞳の中で、光が一瞬だけ反射する。
それはまるで、最後の通信が彼の中で再生されたかのようだった。
大悟は、かすかに微笑む。
風が吹き抜け、機材の残骸が小さく鳴った。
――そして、黎明が完全に訪れる。
廃墟の中に、音だけが途切れた。
外の海鳴りも、風のざわめきも、すべてが遠ざかっていく。
通信機のランプが、規則正しく点滅を繰り返していた。
緑、そして青。
まるで波が岸辺に寄せては返すように――静かな、呼吸のリズム。
だが、その光の奥には、もう何の音も存在しなかった。
スピーカーは沈黙し、空気だけが小さく震えている。
モニターに、ゆっくりと文字が浮かぶ。
> 【END TRANSMISSION】
> 【LOG SAVED : /RENA.LOG】
その表示が、まるで墓碑銘のように淡く光る。
誰もいない空間に、その光だけが残り、そして――消えた。
風が止んだ。
残るのは、遠い海の音。
波が岩に当たり、静かに砕けていく。
やがて、東の空がわずかに明るみ始める。
廃墟の窓から、夜明けの光が流れ込み、
壁に伸びたケーブルの影を柔らかく染めていく。
それはまるで、沈黙そのものが次の通信を待っているかのようだった。
誰もいない観測所の片隅で、
ランプがひときわ強く瞬き――そして、完全に光を絶やした。




