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琉球リバース/Ryukyu Rebirth   “声は消えない”  作者: 南蛇井


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帰郷 ―「風はまだ、あの匂いがする」

到着ロビーに、あの曲が流れていた。

――「ハイサイおじさん」。

明るく、能天気で、どこか無防備なリズム。

観光客たちが笑い声を上げ、スーツケースの車輪が床を転がっていく。

大悟は、足を止めた。

湿った空気が肌に張りつく。

東京の乾いた冬に慣れた身体には、ここが異国のようだった。

視界の端に、窓越しの南国の光。

それは、記憶よりも白く、痛い。

コンベアの上で、自分の黒いスーツケースがゆっくりと回っている。

まるで時間が一周して戻ってきたような、しかしどこか違う――そんな動き。

彼は無言でそれを手に取る。

手のひらに伝わるプラスチックの冷たさ。

その中に、東京の埃と、未だ乾ききらない過去の匂いが混じる。

アナウンスが流れた。

「ゆたしく、うちなーへめんそーれ――」

その言葉の響きに、胸の奥が一瞬だけ疼く。

だが、すぐに息を整える。

それはもう、自分には向けられた言葉ではない。

モノローグ。

風がぬるい。

十年前と変わらない。

だけど……もう、あの頃の俺はいない。

彼の視線の先、ロビーの外には観光客で溢れた那覇の街。

笑顔とシャツの色彩の海の中で、

ただ一人、佐久間大悟だけが、

この島の“懐かしさ”を痛みとして嗅ぎ取っていた。

夜の国際通りは、まるで別の国のようだった。

ネオンサインが風に滲み、英語の看板が並ぶ。

「OKINAWA BEER」「TACO RICE」「U.S. FRIENDLY」。

そのどれもが、観光客向けの笑顔で塗られている。

お土産屋の前では、米兵たちが肩を組み、ピースサインを向けていた。

シャッターの光が弾け、笑い声が夜空に飛ぶ。

沖縄ソバの湯気の向こうに、観光客の列。

湿気と油と香辛料が、空気の中で溶け合っている。

佐久間大悟は、歩道に立ち、静かにその景色を見ていた。

故郷は生きていた。

だが――それは彼の知る島ではなかった。

車のクラクションが鳴り、

スモークガラスのセダンが横付けされた。

運転席から声がかかる。

「乗れ。……暑さで倒れるぞ、東京もん。」

声の主は東恩納修。

無精髭、皺だらけのシャツ、サンダル。

だが、目だけは鋭かった。

獲物の呼吸を読む獣のように。

大悟は無言で助手席に乗り込む。

車内には煙草と汗の匂い。

窓を開けると、潮風と排気が入り混じった。

東恩納は煙草をくわえ、火を点けずに言った。

「東京の犬が帰ってくるとはな。

あんた、変わったよ。」

煙草の先が唇で揺れる。

「目の奥が、もう“こっちの色”してねぇ。」

大悟は答えない。

ただ、視線を外に向ける。

車窓の外、遠くに鉄のフェンスが続いている。

“U.S. Property”――立入禁止の看板が、無表情に光る。

その向こうで、基地の照明が夜を切り裂いていた。

街の壁にはスプレーの跡。

赤い文字で書かれた落書きが、ヘッドライトに浮かぶ。

“琉球は眠らない”

その言葉が、大悟の胸の奥を一瞬だけ震わせた。

十年前の声が、風に混じって蘇る。

「この島は目を閉じてるだけだ。

起こせば、まだ息してる。」

――比嘉海斗の声。

大悟は目を閉じ、呼吸を整える。

風が、髪をかすかに揺らす。

どこからか、太鼓の音が聞こえた。

夏祭りの残響か、あるいは――過去の記憶か。

セダンは国際通りを抜け、郊外へと向かっていく。

街の明かりが後方に遠ざかる。

その光の列が、まるで眠らない島の鼓動のように、

静かに脈打っていた。

国際通りを抜けると、街の喧騒はすぐに途切れた。

車のライトが、暗い海沿いの道を照らし出す。

風が変わる。

潮とサトウキビの匂いが混じり合い、懐かしいざらつきを残す。

エンジン音が遠ざかると、あたりに残るのは風の音だけだった。

サトウキビ畑がざわざわと揺れ、

その音がまるで誰かの囁きのように大悟の耳に触れる。

古びた石垣。

欠けた瓦屋根。

昼の熱をまだ残した土の匂い。

すべてが彼の記憶の中にある。

しかし、そのどれもが微妙に違っていた。

角度も、色も、音も。

まるで過去を模した偽物のように。

彼は歩きながら、自分の足跡が砂に沈んでいくのを見た。

十年前、この道を仲間たちと歩いた。

未来のことを語り、馬鹿みたいに笑っていた。

その“未来”はもう、どこにもない。

“帰郷”とは、いったい何を指す言葉だろう。

彼の胸の中で、静かに問いが立つ。

ここにあるのは「記憶」であって、「故郷」ではない。

戻ってきたのは土地であって、時間ではない。

風が吹いた。

髪をかすかに揺らし、

サトウキビの海がざわめいた。

その匂いは、あの頃と同じだった。

モノローグ。

この街に帰ってきたのに、誰も俺を迎えない。

それでも風は――まだ、あの匂いがする。

カメラは引いていく。

海と畑と、ひとりの男の背中。

風が強まり、空が白く光る。

そして、視界の隅。

遠くの防波堤の上で、

赤と金の旗がひるがえった。

“琉球黎明”――

その紋章は、波と太陽。

だが、大悟はまだ気づかない。

彼の世界には、まだ風しかなかった。

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