崩壊 ― 神谷の陥落
午後十一時を過ぎた本庁の廊下は、まるで誰かが世界の音量を下げたかのように静まり返っていた。
ただ、神谷の個室だけがまだ光を放っている。
デスクライトが白く冷たい円を描き、書類と顔を平等に照らしている。光はあくまで機械的で、温度を持たない。
外では雨が絶え間なく降り続け、窓に無数の雫がぶつかっては弾け、筋となって流れ落ちていく。
その細やかな打音が、一定のリズムで室内を満たしていた。まるで心臓の鼓動を他人に預けたような、不安定な律動。
電話の着信音が鳴る。
一度、二度、三度。
受話器は取られない。
鳴り止んだ後の余韻だけが、空気を小刻みに震わせる。
部屋の奥では、古いモデムのような通信ノイズがかすかに鳴っていた。
その音は、壁の奥から聞こえているのか、機械の内部からなのか判別できない。
だが確かに――何かが呼吸している。
国家そのものが、見えない場所で、息をしている。
神谷は椅子に深く腰を下ろし、両手を組んだまま動かない。
机の上には報告書、未送信のメール、そして誰にも見せていない辞表の草案。
それらがデスクライトの光に照らされ、影も持たず、ただ“均等に存在”している。
沈黙と雨。
その二つが、音として、あるいは呼吸として、部屋を支配していた。
神谷の表情は読み取れない。
光の反射がその輪郭を曖昧にし、まるで“観察される側”の人間のように見える。
誰が彼を見ているのか、彼自身も分からない。
外界との通信は絶えない。
だが、彼の内側の回線はすでに切断されている。
国家が生きているほどに、神谷は静かに壊れていった。
デスクの上は、秩序を失った戦場のようだった。
報告書の束が折れ曲がり、データ端末の画面には未完の入力フォーム。
その隣に置かれた辞表の草案には、未だ署名がない。
電話が鳴った。
短い呼び出し音が、雨音の合間に規則正しく混じる。
モニターには「本庁統制室」の着信表示。
だが神谷は受話器に触れない。
代わりに、指先で机の木目をなぞる。
雨が窓を叩く音と、電話のベル音とが重なり合い、同じ周期で響く。
神谷(低く)
「……命令は、いつも雨の音に紛れて届く。」
電話は三度鳴ったのち、途切れた。
受話器を取らなかった沈黙が、通話記録の代わりに残る。
直後、モニターの右上が点滅した。
メールの新着通知。差出人は匿名の統制回線。
件名:「責任者:神谷浩司」
本文には、たった一行。
『機密漏洩の全責任を認め、報告を提出せよ。』
神谷は視線だけで文字を追う。
それが命令なのか、通告なのか、もう区別がつかない。
カーソルが最後の句点で止まる。
その点が、まるで銃口のように画面の中心に浮かんで見えた。
彼は小さく息を吐き、無言のままウィンドウを閉じる。
クリック音が、銃声よりも冷たく響いた。
画面は再び暗くなり、そこには自分の顔だけが映る。
雨の反射に滲んだその顔は、もはや“公安”の男ではなく、
ただ“国家に観察されている人間”にすぎなかった。
神谷はゆっくりとデスクの引き出しを引いた。
軋む金属音が、夜の静寂を裂く。
中には一枚の古い紙束。
黄ばんだ端が波打ち、湿気を吸ったそれは、もはや書類というより“遺物”だった。
――国家公安憲章・初版コピー。
かつて彼が新人研修で支給され、胸ポケットに入れていたものだ。
ページの中央に、赤い線で引かれた一文がある。
それはまるで血のように、紙面を横切っていた。
『国家の安全は、個の犠牲を許容する。』
神谷はその文を見つめる。
一行一行が、かつての自分の信仰を暴く。
神谷
「あの頃は、この文を誇りだと思っていた。
犠牲を“覚悟”と呼び、正義を“形式”に変えた。
秩序を守るためなら、痛みも沈黙も正義だと、信じていた。」
彼は紙を指でなぞる。
インクが古びて滲み、指先に灰色の影を残す。
汗が滲み、わずかに紙が軋む。
ふと、彼はそのページを机に置く。
蛍光灯の光が紙面に落ち、赤線だけが異様な鮮やかさを帯びる。
その瞬間、神谷は気づく。
――これは理念ではない。
国家が信仰を偽装するために遺した、信仰の遺骸だ。
机の上のライトがちらつく。
雨音が一段と強くなり、窓の外が白く滲む。
神谷は、拳を軽く握った。
しかし、その手は震えていた。
信念を失う痛みが、ようやく肉体に追いついてきたのだ。
雨脚が、急に強くなった。
窓を叩く音が、まるで無数の手が内側へ侵入を試みているかのようだ。
神谷は立ち上がり、静かに窓辺へ歩いた。
ガラスの向こう、街はぼやけた光の群れ。
信号も、ネオンも、雨に溶けて形を失っている。
その光の反射が、ガラスのこちら側にもう一つの世界を作っていた。
――二人の神谷が、そこにいた。
一人は現実の神谷。
疲弊し、白い光に照らされた現職の公安官。
もう一人は、ガラスに映る虚像の神谷。
輪郭が雨粒に揺れ、まるで別人のように穏やかな表情をしている。
無言で、二人は見つめ合った。
反射の中の神谷が、ふと口を動かす。
声はない。
だがその唇の形は、確かにこう言っていた。
――「もう、いい。」
現実の神谷は、息を止めた。
その瞬間、胸の奥で何かがひび割れる音がした。
神谷
「守るべき秩序が、もう誰も守っていない。
なら、俺は何を信じてここにいる?」
彼は拳を握る。
だが、拳の中には何もない。
理念も、命令も、信念も、指の隙間から零れ落ちていた。
虚像の神谷は、微かに微笑んでいた。
その表情は、まるで解放された魂のように静かだった。
次の瞬間――
雷光が窓を白く染め上げる。
閃光の中で、反射像の顔が一瞬にして消えた。
部屋の中には、現実の神谷だけが残った。
そして、彼の瞳の奥から、
最後の“信仰”が音もなく崩れ落ちた。
――電話が鳴った。
静寂の部屋に、甲高い着信音が割り込む。
雨音と混じり合い、まるで誰かが窓の外から爪で叩いているようだ。
神谷はゆっくりと受話器を取る。
しかし、耳に届くのは声ではなかった。
ノイズ。
そして、その奥で――かすかな“呼吸”のような音。
人間のものか、機械のものか、区別がつかない。
呼吸音は一度途切れ、やがて何かを呑み込むようにフェードアウトした。
神谷は受話器をそっと戻す。
その動作すら、どこか儀式のように緩慢で、慎重だった。
机の上。
報告書、未送信のデータ端末、国家公安憲章。
全てが冷たく沈黙している。
彼はモニターの電源を落とす。
画面が暗転し、部屋の光が半分、奪われた。
――闇。
残されたのは、雨の音だけ。
天井から滴り落ちるように、規則的に、永遠に。
神谷は椅子に腰を下ろし、机の上の書類を見つめた。
白い紙の余白が、彼を見返しているようだった。
彼はペンを取る。
指先が震え、ペン先が紙に触れる。
だが――線は引かれなかった。
神谷(独白)
「報告書には、もう何も書けない。
――なぜなら、俺はもう国家を信じていないからだ。」
ペン先が、ふっと止まる。
次の瞬間、黒いインクがにじみ、紙の端に小さな“点”を残した。
それはまるで、言葉の墓標のようだった。
雨音が少しだけ弱まる。
静寂が戻る――しかし、それは平穏ではない。
音を失った空間そのものが、崩壊の音として鳴り続けていた。
――雨が止んでいた。
その瞬間を、誰も告げなかった。
ただ、天井の監視カメラだけが、無言で世界の変化を記録している。
俯瞰の視点。
灰色の部屋の中央、神谷は椅子に沈み込んでいた。
デスクの上には書きかけの報告書と、閉ざされたモニター。
そのすべてが、まるで静物画のように動かない。
だが――窓ガラスだけが、生きていた。
夜の街灯を受けて、ガラスの中に“もう一人の神谷”が立っている。
現実の神谷が俯き、静かに息を吐くたび、
虚像の神谷はわずかに揺れながらも、姿勢を崩さない。
――沈黙する者と、沈黙を見つめる者。
やがて、現実の神谷はそのまま椅子に沈みきり、
動きを完全に止めた。
虚像の神谷だけが、立ったまま彼を見下ろしている。
その表情には、もはや人間の温度がなかった。
沈黙。
空気が密閉され、世界が止まったかのような時間。
そして――
机の上の端末が、唐突に光を放つ。
雨上がりの闇を切り裂くように、電子音がひとつ。
【新着通知:@Sango/送信者:不明】
神谷は、その音に反応しない。
ただ、モニターの黒に映る彼の影だけが微かに震えた。
光は一度だけ点滅し、すぐに消える。
暗転。
残るのは、ガラスに映る虚像の神谷――
沈黙の中で、最後まで立ち続ける“反射”だけ。




