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琉球リバース/Ryukyu Rebirth   “声は消えない”  作者: 南蛇井


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18/27

崩壊 ― 神谷の陥落

午後十一時を過ぎた本庁の廊下は、まるで誰かが世界の音量を下げたかのように静まり返っていた。

 ただ、神谷の個室だけがまだ光を放っている。


 デスクライトが白く冷たい円を描き、書類と顔を平等に照らしている。光はあくまで機械的で、温度を持たない。

 外では雨が絶え間なく降り続け、窓に無数の雫がぶつかっては弾け、筋となって流れ落ちていく。

 その細やかな打音が、一定のリズムで室内を満たしていた。まるで心臓の鼓動を他人に預けたような、不安定な律動。


 電話の着信音が鳴る。

 一度、二度、三度。

 受話器は取られない。

 鳴り止んだ後の余韻だけが、空気を小刻みに震わせる。


 部屋の奥では、古いモデムのような通信ノイズがかすかに鳴っていた。

 その音は、壁の奥から聞こえているのか、機械の内部からなのか判別できない。

 だが確かに――何かが呼吸している。

 国家そのものが、見えない場所で、息をしている。


 神谷は椅子に深く腰を下ろし、両手を組んだまま動かない。

 机の上には報告書、未送信のメール、そして誰にも見せていない辞表の草案。

 それらがデスクライトの光に照らされ、影も持たず、ただ“均等に存在”している。


 沈黙と雨。

 その二つが、音として、あるいは呼吸として、部屋を支配していた。


 神谷の表情は読み取れない。

 光の反射がその輪郭を曖昧にし、まるで“観察される側”の人間のように見える。

 誰が彼を見ているのか、彼自身も分からない。


 外界との通信は絶えない。

 だが、彼の内側の回線はすでに切断されている。

 国家が生きているほどに、神谷は静かに壊れていった。


 デスクの上は、秩序を失った戦場のようだった。

 報告書の束が折れ曲がり、データ端末の画面には未完の入力フォーム。

 その隣に置かれた辞表の草案には、未だ署名がない。


 電話が鳴った。

 短い呼び出し音が、雨音の合間に規則正しく混じる。

 モニターには「本庁統制室」の着信表示。

 だが神谷は受話器に触れない。


 代わりに、指先で机の木目をなぞる。

 雨が窓を叩く音と、電話のベル音とが重なり合い、同じ周期で響く。


神谷(低く)

「……命令は、いつも雨の音に紛れて届く。」


 電話は三度鳴ったのち、途切れた。

 受話器を取らなかった沈黙が、通話記録の代わりに残る。


 直後、モニターの右上が点滅した。

 メールの新着通知。差出人は匿名の統制回線。


 件名:「責任者:神谷浩司」

 本文には、たった一行。


『機密漏洩の全責任を認め、報告を提出せよ。』


 神谷は視線だけで文字を追う。

 それが命令なのか、通告なのか、もう区別がつかない。


 カーソルが最後の句点で止まる。

 その点が、まるで銃口のように画面の中心に浮かんで見えた。


 彼は小さく息を吐き、無言のままウィンドウを閉じる。

 クリック音が、銃声よりも冷たく響いた。


 画面は再び暗くなり、そこには自分の顔だけが映る。

 雨の反射に滲んだその顔は、もはや“公安”の男ではなく、

 ただ“国家に観察されている人間”にすぎなかった。


神谷はゆっくりとデスクの引き出しを引いた。

 軋む金属音が、夜の静寂を裂く。


 中には一枚の古い紙束。

 黄ばんだ端が波打ち、湿気を吸ったそれは、もはや書類というより“遺物”だった。


 ――国家公安憲章・初版コピー。


 かつて彼が新人研修で支給され、胸ポケットに入れていたものだ。

 ページの中央に、赤い線で引かれた一文がある。

 それはまるで血のように、紙面を横切っていた。


『国家の安全は、個の犠牲を許容する。』


 神谷はその文を見つめる。

 一行一行が、かつての自分の信仰を暴く。


神谷モノローグ

「あの頃は、この文を誇りだと思っていた。

 犠牲を“覚悟”と呼び、正義を“形式”に変えた。

 秩序を守るためなら、痛みも沈黙も正義だと、信じていた。」


 彼は紙を指でなぞる。

 インクが古びて滲み、指先に灰色の影を残す。

 汗が滲み、わずかに紙が軋む。


 ふと、彼はそのページを机に置く。

 蛍光灯の光が紙面に落ち、赤線だけが異様な鮮やかさを帯びる。


 その瞬間、神谷は気づく。

 ――これは理念ではない。

 国家が信仰を偽装するために遺した、信仰の遺骸だ。


 机の上のライトがちらつく。

 雨音が一段と強くなり、窓の外が白く滲む。


 神谷は、拳を軽く握った。

 しかし、その手は震えていた。

 信念を失う痛みが、ようやく肉体に追いついてきたのだ。

雨脚が、急に強くなった。

 窓を叩く音が、まるで無数の手が内側へ侵入を試みているかのようだ。


 神谷は立ち上がり、静かに窓辺へ歩いた。

 ガラスの向こう、街はぼやけた光の群れ。

 信号も、ネオンも、雨に溶けて形を失っている。


 その光の反射が、ガラスのこちら側にもう一つの世界を作っていた。


 ――二人の神谷が、そこにいた。


 一人は現実の神谷。

 疲弊し、白い光に照らされた現職の公安官。

 もう一人は、ガラスに映る虚像の神谷。

 輪郭が雨粒に揺れ、まるで別人のように穏やかな表情をしている。


 無言で、二人は見つめ合った。


 反射の中の神谷が、ふと口を動かす。

 声はない。

 だがその唇の形は、確かにこう言っていた。


 ――「もう、いい。」


 現実の神谷は、息を止めた。

 その瞬間、胸の奥で何かがひび割れる音がした。


神谷モノローグ

「守るべき秩序が、もう誰も守っていない。

 なら、俺は何を信じてここにいる?」


 彼は拳を握る。

 だが、拳の中には何もない。

 理念も、命令も、信念も、指の隙間から零れ落ちていた。


 虚像の神谷は、微かに微笑んでいた。

 その表情は、まるで解放された魂のように静かだった。


 次の瞬間――

 雷光が窓を白く染め上げる。

 閃光の中で、反射像の顔が一瞬にして消えた。


 部屋の中には、現実の神谷だけが残った。

 そして、彼の瞳の奥から、

 最後の“信仰”が音もなく崩れ落ちた。


 ――電話が鳴った。


 静寂の部屋に、甲高い着信音が割り込む。

 雨音と混じり合い、まるで誰かが窓の外から爪で叩いているようだ。


 神谷はゆっくりと受話器を取る。

 しかし、耳に届くのは声ではなかった。


 ノイズ。

 そして、その奥で――かすかな“呼吸”のような音。


 人間のものか、機械のものか、区別がつかない。

 呼吸音は一度途切れ、やがて何かを呑み込むようにフェードアウトした。


 神谷は受話器をそっと戻す。

 その動作すら、どこか儀式のように緩慢で、慎重だった。


 机の上。

 報告書、未送信のデータ端末、国家公安憲章。

 全てが冷たく沈黙している。


 彼はモニターの電源を落とす。

 画面が暗転し、部屋の光が半分、奪われた。


 ――闇。


 残されたのは、雨の音だけ。

 天井から滴り落ちるように、規則的に、永遠に。


 神谷は椅子に腰を下ろし、机の上の書類を見つめた。

 白い紙の余白が、彼を見返しているようだった。


 彼はペンを取る。

 指先が震え、ペン先が紙に触れる。


 だが――線は引かれなかった。


神谷(独白)

「報告書には、もう何も書けない。

 ――なぜなら、俺はもう国家を信じていないからだ。」


 ペン先が、ふっと止まる。

 次の瞬間、黒いインクがにじみ、紙の端に小さな“点”を残した。


 それはまるで、言葉の墓標のようだった。


 雨音が少しだけ弱まる。

 静寂が戻る――しかし、それは平穏ではない。

 音を失った空間そのものが、崩壊の音として鳴り続けていた。


――雨が止んでいた。


 その瞬間を、誰も告げなかった。

 ただ、天井の監視カメラだけが、無言で世界の変化を記録している。


 俯瞰の視点。

 灰色の部屋の中央、神谷は椅子に沈み込んでいた。

 デスクの上には書きかけの報告書と、閉ざされたモニター。

 そのすべてが、まるで静物画のように動かない。


 だが――窓ガラスだけが、生きていた。


 夜の街灯を受けて、ガラスの中に“もう一人の神谷”が立っている。

 現実の神谷が俯き、静かに息を吐くたび、

 虚像の神谷はわずかに揺れながらも、姿勢を崩さない。


 ――沈黙する者と、沈黙を見つめる者。


 やがて、現実の神谷はそのまま椅子に沈みきり、

 動きを完全に止めた。


 虚像の神谷だけが、立ったまま彼を見下ろしている。

 その表情には、もはや人間の温度がなかった。


 沈黙。

 空気が密閉され、世界が止まったかのような時間。


 そして――


 机の上の端末が、唐突に光を放つ。

 雨上がりの闇を切り裂くように、電子音がひとつ。


【新着通知:@Sango/送信者:不明】


 神谷は、その音に反応しない。

 ただ、モニターの黒に映る彼の影だけが微かに震えた。


 光は一度だけ点滅し、すぐに消える。


 暗転。

 残るのは、ガラスに映る虚像の神谷――

 沈黙の中で、最後まで立ち続ける“反射”だけ。



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