封鎖 ― 「沈黙する女」
那覇支局の地下深く。
拘置区画の第2審問室は、まるで現実から切り離された無菌の箱のようだった。
白色のLEDライトが、天井から垂直に降り注ぐ。
光は過剰で、影を殺す。
椅子も机も、床までもが均一な灰色で、
そこに人の存在を拒むような冷たさがあった。
空調の低い唸りが、絶えず部屋の奥を震わせている。
「ゴォ……」と機械が呼吸するたび、
玲奈の前髪が微かに揺れた。
遠くで鉄製のドアが閉まる音がした。
重く、沈んだ音が、
まるでこの場所全体を“密閉”していくように響く。
蛍光灯の電流が、
心拍のようなリズムで微かに鳴っている。
「ジ……ジ……」と。
生きているのは、光と機械だけ。
天井の隅には監視カメラがひとつ。
無機質な黒いレンズが、
玲奈と、これから入ってくる神谷の動きを無言で見下ろしている。
部屋は完璧な左右対称。
中央には冷たい金属製のテーブル。
その片側に玲奈が座り、
もう片側――空いた椅子には、
いままさに神谷が入ってくる。
彼女の両手首には拘束具。
金属の帯が肌に食い込み、
爆発の夜に負った火傷跡が、その白い光の中で赤く浮かび上がっていた。
玲奈は目を閉じ、
ひとつ、浅い息を吐く。
――影がない。
この部屋には、誰の影も落ちない。
それはまるで、
“国家の白”――清潔さと暴力が同居する光の檻。
彼女の耳には、
天井から微かに聞こえる監視カメラの駆動音が届く。
「キィ……」と、
誰かがそこに“覗いている”ことを告げる小さな音。
玲奈は瞼を開き、
無機質な壁を見据えた。
白すぎるその光の中で、
彼女の瞳だけが、黒く、深く、沈黙していた。
玲奈は、金属椅子に拘束されていた。
両手首を繋ぐベルトが、肌に微かな痕を刻んでいる。
だが彼女はその痛みを感じていないように、背筋をまっすぐ伸ばし、
視線を真正面に固定していた。
呼吸は浅く、一定。
光の下で、瞳だけがかすかに揺れる。
ドアのロックが外れる音――「カチン」。
そして、開閉の音が空間に響く。
冷気が流れ込むように、神谷が入室した。
無駄な言葉も挨拶もない。
ただ、規律だけを纏った歩調で、玲奈の正面まで進む。
テーブルの上に分厚い資料ファイルを置く。
「ドン」と音が跳ねて、金属の反響が室内を巡る。
紙がわずかに震え、光を反射した。
神谷
「……君がデータを外部に流したのか?」
静寂。
玲奈は答えない。
まぶたが一瞬だけ震える。
だが顔は動かない。
唇の輪郭は、まるで硬化した彫像のようだった。
彼女の瞳は、神谷を見ているようで見ていない。
壁の白と同化するような、焦点のないまなざし。
神谷の声が空気を割いても、そこに反応はない。
沈黙が、二人の間に“第三の存在”として立ち上がる。
言葉よりも重く、目に見えない壁として。
蛍光灯の音だけが、代わりにこの空間の会話を続けていた。
「ジ……ジ……」
まるでこの部屋そのものが、玲奈の代わりに呼吸しているかのように。
神谷は、ゆっくりと椅子を引いた。
金属が床を擦る音が、冷たい部屋に長く尾を引く。
腰を下ろし、手元の端末を起動する。
青白い光が立ち上がり、宙に揺らめくようなホログラムが広がった。
そこに映し出されたのは――
黎明拠点、爆発直後の監視映像。
炎。
崩れる鉄骨。
そして、瓦礫の中で倒れる玲奈。
その背後、駆け寄る大悟の姿。
映像が止まる。
炎の光が、二人の影を凍らせたまま切り取っている。
神谷
「爆心地で、君が最後に触れた通信機。
そこから“Ryu-Talk”へのアクセスログが検出された。」
玲奈は視線を動かさない。
瞳の奥に、映像の赤が反射している。
無反応のまま、両手首をわずかに動かした。
手錠の金属が鳴る。
「カチ、カチ……」
乾いた音が、彼女の呼吸のリズムのように空気を刻んでいく。
神谷(低く)
「何を隠している?」
沈黙。
玲奈の喉が動く。
唇がかすかに開く――だが、音は出ない。
声帯の震えは、空気の層に飲み込まれて消えた。
白い照明が、彼女の肌の血色を奪っていく。
その沈黙は、拒絶ではなく、戦いだった。
玲奈
「言葉は、武器。
沈黙は、抵抗。
喋れば、国家の脚本の一部になる。」
神谷の表情が揺れる。
わずかに、瞳の奥で光がきしむ。
彼は問いかける側でありながら、
沈黙の中に“敗北”の匂いを感じ取っていた。
この部屋の支配者は、もはや彼ではない。
――玲奈の沈黙こそが、この空間を支配していた。
神谷は短く息を吐いた。
深くもなく、浅くもない――ただ、自分の中の「呼吸」という機能を確認するための動作だった。
彼は机に両手を置き、視線を落とす。
白い照明の下で、彼の影だけがどこにも存在しない。
神谷
「……あの夜、君は大悟をかばった。」
「彼の裏切りを、知っていたのか?」
玲奈の瞳が、わずかに揺れた。
ほんの一瞬、そこに“痛み”の色が差す。
しかしすぐに、何かを押し殺すようにその光は消えた。
まるで、感情そのものが国家によって検閲されるかのように。
神谷の視線が、彼女の手首へと落ちる。
そこに残る火傷の痕。
爆炎の記憶が、肉体の上で未だに燃え続けていた。
だが、その痕は今――
“痛み”ではなく、“記号”としてそこにあった。
国家が人間をデータ化するように、玲奈の傷もまた「記録」へと変えられていく。
神谷(独白のように)
「国家は、沈黙を恐れる。
だからこそ、君の黙りは――報告よりも重い。」
玲奈は、ゆっくりと顔を上げた。
その動作は、抵抗でも挑発でもない。
ただ、存在を取り戻すための“動き”だった。
光の中で、彼女の瞳は黒く沈む。
どんな反射も、もう映らない。
鏡のようだった彼女の瞳は、今や光を拒絶する深淵となっていた。
神谷(心中)
「……あの目に、俺は何を映してきた?」
照明の音が、微かに唸る。
その中で、ふたりの沈黙だけが――
尋問室という“国家の白”に、ゆっくりと黒い影を滲ませていった。
監視カメラのランプが、静かに赤く点滅していた。
その明滅は心臓の鼓動のようで――
いや、もはやこの部屋そのものが“生きている”ようだった。
壁の中を流れる電流が、冷たく囁く。
「見ている。記録している。」
そんな声が、空調の低い唸りに混じって聞こえる気がした。
神谷はわずかに首を上げる。
天井の隅、黒いドームレンズの中に“誰か”の視線を探す。
そこには、もう正義も命令も存在しない。
ただ、観察するだけの国家の眼があった。
その眼が、神谷をも“データ”として見つめている。
彼は一瞬だけ、肩で呼吸をした。
人間としての体温を確かめるように。
玲奈がその視線を追う。
唇が微かに震え、音にならない呼吸が漏れる。
しばらくの沈黙の後――
その唇が、かすかに言葉を紡いだ。
玲奈(かすれ声)
「……あんたも、見られてる。」
その瞬間、空気が変わった。
冷たさが鋭くなる。
室内の酸素がわずかに減ったような、息苦しい静寂。
神谷は返事をしなかった。
ただ、玲奈を見つめる。
その眼差しに、感情があったのか――それすら、もはや誰にも判断できない。
蛍光灯が一度だけ、チカリと点滅する。
一瞬だけ、二人の影が床に落ちる。
初めて生まれた“人間の証”。
しかし――
次の瞬間、光が戻り、影は消えた。
まるで、存在そのものが国家のホワイトアウトに吸い込まれるかのように。
白い光だけが残る。
清潔で、無慈悲な白。
この部屋にはもう、
「罪」も「正義」も「影」も、許されていなかった。
神谷は、無言のまま資料ファイルを閉じた。
金属の表紙がわずかに軋み、空気の薄い音を立てる。
それは、尋問の終わりを告げる音でも、真実を封じる音でもなかった。
ただ、この部屋の“時間”が一枚、静かに綴じられた音だった。
玲奈は動かない。
微動だにせず、視線を一点に固定したまま。
まるで、沈黙そのものが彼女の発言であり、抵抗であり、
国家への最後の報告であるかのように。
神谷はしばらく彼女を見つめていた。
その目に、怒りも哀れみもなかった。
ただ、理解と諦念の狭間で揺れる、人間の残響だけがあった。
モノローグ(玲奈)
「声を奪われても、沈黙は消せない。
沈黙は、記録されない証言だ。」
空調の唸りが再び響き出す。
カメラが、静かに二人の姿を俯瞰で捉える。
その映像は、冷たいデータとして保存される。
息遣いも、瞬きも、沈黙までもが“観測対象”として。
レンズ越しのモニターには、
玲奈と神谷――二つの“人間の形”が、灰色のノイズに分解されていく。
やがて、画面のコントラストがゆっくりと落ち、
ただ一つの色だけが残る。
赤。
玲奈の手首の火傷の痕。
それは、痛みの証ではなく、
“国家に焼き付けられた印”のように、無機質な輝きを放っていた。
その赤が、監視モニターの奥でわずかに脈動する。
まるで、生きているように。




