疑念の渦 ― 内通者
公安那覇支局・第3会議室/午前6時
夜が明けたとは思えないほど、灰色の空が重たく沈んでいた。
カーテンの隙間から差し込む曇天の光が、会議室の白壁を淡く染めている。
青白い蛍光灯が一つだけ点き、規則的な点滅を繰り返していた。
その光が、まるで誰かの呼吸のように、部屋の空気を震わせる。
電子音のノイズが静寂を切り裂く。
モニターから漏れる通信の砂嵐音。
換気扇の低い唸り。
そして遠く、港の方角からかすかに響くサイレン。
昨夜の爆発現場――まだ燃え尽きていない“何か”の残響だ。
神谷は、会議机の端に座っていた。
無人の椅子が、十脚。
その中央に置かれた大型モニターが、断続的にノイズを吐きながら、上層部の映像を映している。
顔の輪郭はぼやけ、声も途切れ途切れだ。
それでも命令だけは、確実に届く。
「内部情報が外部へ流出した。ソースは“Ryu-Talk”だ。」
神谷は目を細めた。
その名を聞いた瞬間、胸の奥に冷たいものが沈む。
昨夜の爆発と、この新しい報告――偶然であるはずがない。
「問題は投稿者だ。」
「公安専用コードが、スレッドの一部に含まれていた。」
砂嵐が画面を覆うたびに、上層部の声は金属音のように歪んだ。
無機質な光が、神谷の頬を白く照らす。
まるで“機械に監視されている人間”のようだった。
神谷「……内部者の可能性は?」
短い沈黙。
ノイズが、一瞬だけ完全に消える。
「潜入捜査官“DAIGO”。黎明との接触頻度が異常だ。」
神谷の拳が、机の上でゆっくりと固くなる。
指先が、かすかに震えている。
神谷「彼は命令通り動いたはずです。」
「“はず”は報告にならん。」
その言葉が終わると同時に、画面の映像が大きく歪んだ。
上層部の顔がノイズで崩れ、幾何学模様のように滲む。
まるで国家というシステムそのものが“不安定な信号”でできているようだった。
神谷は黙ったまま、椅子にもたれた。
蛍光灯の光がちらつき、彼の影が壁に不規則に揺れる。
胸の奥で、何かが静かに軋んだ。
それは怒りでも悲しみでもない。
もっと深い、信頼の崩壊の音だった。
神谷
「理想を掲げた者が、理想に殺される。
俺たちはいつから、“正義”を維持するために嘘をつくようになった?」
画面が完全にブラックアウトした。
その直後、端末の通知ランプが点滅を始める。
差出人不明の新着メール。
件名には、たった一行。
『内部に、もう一人いる。』
差出人:@Sango
神谷の指が止まった。
呼吸が浅くなる。
その名を、確かに覚えていた。
神谷(低く)
「……比嘉、海斗……?」
蛍光灯の音が止まり、部屋が静寂に沈む。
次の瞬間、画面が完全に闇に落ちた。
残るのは、電子の残響――国家の鼓動のようなノイズだけだった。
公安那覇支局・第3会議室/午前6時25分
モニターの明滅が、神谷の顔を断続的に照らしていた。
青白い光のたびに、彼の瞳が硬質な反射を見せる。
机上の端末が、低い電子音を鳴らす。
【新規データ受信/送信者:本庁監査部】
神谷は無言でファイルを開く。
映像ウィンドウが立ち上がり、再生が始まる。
ノイズ混じりの画面の中で、見慣れた二人の姿が現れた。
――黎明拠点。
――爆発の十数分前。
そこには、大悟と玲奈がいた。
彼らの通信ログが、断片的に映像に重ねられている。
暗号化を解かれた文字列が、赤い警告色でスクロールしていく。
《対象Rとの通信頻度:異常値》
《内部情報流出リスク:高》
《最終交信ログ:00:12/“報告を……”》
神谷の指先が、机を叩くように止まった。
画面から微かに玲奈の声が流れる。
ノイズに潰されながらも、その言葉だけが、はっきりと耳に残った。
「……報告を……」
わずか数秒の音声。
だが、それが何よりも生々しく響いた。
神谷は、唇を固く閉じる。
彼が命じ、彼が守らなければならなかった二人――
いま、国家の記録上では“裏切り者”として分類されている。
上層部A(通信越し)
「黎明の残党と通じていた。これ以上の証拠は不要だ。」
音声が冷たく、刃物のように響く。
命令の言葉には、判断も感情もない。
ただ“切り捨てる”という目的だけが、均一な声の中に潜んでいる。
神谷はしばらく黙っていた。
椅子の背に深くもたれ、片手で額を押さえる。
蛍光灯がまた一度、明滅した。
その光のちらつきが、まるで彼の信念を測るメトロノームのように、静かに時を刻んでいた。
神谷(低く)
「……了解。」
たった二文字。
だがその声の奥には、確かな“抵抗”があった。
言葉としては服従。
だが響きの中には、命令そのものへの拒絶が潜んでいた。
彼は再生を止め、画面を暗転させる。
そこに映るのは、自分の顔だけ。
どこか他人のような、冷えた表情。
信じてきた秩序が、仲間を切り捨てるための道具に変わる――
その現実が、静かに彼の内側を侵食していく。
神谷
「俺たちは、何を守ってきた?
国家か、正義か。
それとも、信じるという幻想か。」
蛍光灯が音を立てて消えた。
室内に残ったのは、端末の電源ランプの赤だけ。
その光が、まるで失われた信頼の残り火のように、かすかに瞬いていた。
公安那覇支局・第3会議室/午前7時03分
会議が終わった。
通信ウィンドウがひとつずつ閉じていく。
最後の音声がフェードアウトし、モニターが静かに黒へ沈む。
電源ランプが消える瞬間、短い「ピッ」という電子音が室内に反響した。
その音が、まるで“命令の余韻”のように、空気に滲む。
暗闇。
外の曇天からわずかに光が差し込み、机の縁だけを白く浮かび上がらせている。
神谷は椅子にもたれたまま、動かない。
換気扇の低い唸りと、遠くのサイレンの名残が重なり、
まるでこの部屋そのものが、巨大な心臓の鼓動の中にあるかのようだった。
彼は天井を見上げた。
蛍光灯が微かにちらつき、その光が彼の顔に影を刻む。
その影は、規則的でも静寂でもない。
まるで信念の形が、光の揺らぎに合わせて崩壊していくようだった。
神谷
「理想を掲げた者が、理想に殺される。
俺たちはいつから、“正義”を維持するために嘘をつくようになった?」
声に出した瞬間、自分の言葉が部屋に溶けた。
反響すらしない。
正義という語が、意味を失った金属音のように消えていく。
神谷は額に手を当て、長く息を吐いた。
その吐息が、ひとつの“降伏”のようにも、“祈り”のようにも聞こえた。
モニターの黒い画面に、ノイズがわずかに戻る。
白い粒がゆらめき、まるで脈打つように明滅を繰り返す。
それはもはや映像ではない。
“国家”という見えないシステムの呼吸のように、
一定のリズムで、淡く生きている。
神谷はその光を見つめながら、ゆっくりと呟いた。
「秩序を守るとは、誰の痛みを選ぶことなんだ……?」
ノイズが一瞬だけ強く光り、そして消えた。
部屋は完全な闇に包まれる。
その静寂の中、唯一残ったのは――
通電を示す赤いインジケータの点滅。
それはまるで、国家の心臓がまだ鼓動を続けていると
彼に告げているようだった。
公安那覇支局・第3会議室/午前7時16分
沈黙の部屋に、突如として小さな電子音が割り込んだ。
モニターの電源は落ちたまま――なのに、
神谷の端末だけが、ひとりでに青白い光を放ち始める。
画面中央に、ひとつの通知が浮かび上がる。
差出人不明。
送信経路は不明瞭で、追跡タグも反応しない。
それでも件名だけが、はっきりと残っていた。
【件名:内部に、もう一人いる】
【送信者:@Sango】
神谷の手が止まる。
指先が、キーの上で微かに震えた。
彼の瞳が光を映し込み、わずかに見開かれる。
口元が、何かを言いかけて止まる。
そして、低く掠れた声が漏れた。
「……比嘉……海斗……?」
呼んだその名は、誰もいない部屋の空気に吸い込まれていく。
換気扇の音が微かに揺らぎ、蛍光灯の光がまた一度だけ明滅した。
モニターの画面上で、@Sango の文字列が一瞬ノイズに覆われる。
だが次の瞬間――まるで誰かが「見ている」と示すように、
カーソルがひとりでに動き、メール本文が開かれた。
本文は、たった一行。
《あなたも、監視されている。》
神谷の呼吸が止まった。
その瞳の奥に、はじめて“恐れ”の色が浮かぶ。
モニターの青光が、彼の顔の右半分を照らし、
左半分を闇に沈める――まるで“信念と疑念”の境界線のように。
外で風が吹き、窓ガラスが低く鳴った。
どこか遠く、無線の断片がかすかに混じる。
《……Ryu-Talk……新規スレッド更新……》
神谷は静かに画面を閉じる。
だが、インジケータの光だけは消えない。
まるで部屋そのものが、
ひとつの“監視の目”として生きているかのように――。




