裏切りの方程式 ― The Formula of Betrayal 爆炎の夜 ― 沈黙の報告
那覇湾の風は、湿っていた。
昼の雨が残した匂いが、海からの塩気と混じって倉庫地帯を覆っている。
波止場に並ぶ鉄のコンテナは夜露で鈍く光り、遠くで汽笛が一度だけ鳴った。
その音が消えるより早く、光が世界を切り裂いた。
白い閃光。
次の瞬間、轟音が地面を突き上げ、空気が爆ぜた。倉庫の外壁が風船のように膨らみ、金属が悲鳴を上げて裂ける。
炎が夜空を焦がし、無数の火花が雨のように降り注いだ。
——無音。
衝撃のあとのわずかな空白。
音が戻るとき、世界はもう違っていた。
赤い旗が、炎の中で舞っている。
黎明の象徴だったその旗は、溶けるように燃えながら、ゆっくりと夜気の中を落ちていく。
瓦礫の隙間から人影が転がり出た。玲奈だった。
その身体は衝撃波で吹き飛ばされ、肩口から血が滲んでいる。彼女は呼吸を確かめるように胸を押さえ、かすかに呻いた。
遠くで、誰かが走る足音。
大悟が炎を背に、倒れた彼女へと駆け寄ってくる。
「玲奈——!」
煙と熱気の中で、声はかき消えた。
大悟は膝をつき、崩れた梁を押しのける。玲奈の顔は煤に汚れ、瞳だけがまだ光を宿していた。
彼女の唇が、かすかに動く。
「……だい、ご……報告を……」
大悟は首を振った。
「喋るな。今はいい、玲奈。」
玲奈は息を継ぎ、指先で瓦礫の下を指す。
そこには焦げついた通信機が転がっていた。
赤いインジケータが、かすかに明滅している。
——ピッ……ピッ……
短波の断片が混じる。
爆音に掻き消されながらも、電子音だけが異様な規則で響いていた。
大悟は手を伸ばし、通信機を拾い上げる。
液晶のひび割れた画面に、壊れた文字列が点滅する。
【受信:新規スレッド/Ryu-Talk/投稿者:@Sango】
その名前を見た瞬間、大悟の呼吸が止まる。
風が炎を押し戻し、玲奈の髪をなびかせた。
「……海斗……?」
呟いた声は、煙の中に吸い込まれて消える。
倉庫の屋根が崩れ、再び火の粉が散る。
玲奈の手が震え、力なく落ちた。大悟はその手を握る。冷たい。
炎がゆっくりと彼らを包み込む。
光と影が交錯し、空気が焼ける匂いが満ちる。
「この夜、誰の理想が死んだ?」
心の奥で、言葉がこだました。
守りたかったものが、すべて燃えていく音がする。
通信機のインジケータが、最後に一度だけ赤く点滅した。
その光が消えたとき、海風が吹き抜け、倉庫の炎が一瞬だけ揺らいだ。
遠くで再び汽笛が鳴る。
港の闇が深く沈む。
大悟は通信機を見つめながら、呟いた。
「報告はしない……これは、言葉を持たない夜だ。」
そして、波の音だけが残った。
夜は静かに、すべてを呑み込んでいった。
夜の那覇湾は、息を潜めていた。
潮風が倉庫群の隙間を抜け、遠くのクレーンが軋む音が微かに響く。
次の瞬間——空が裂けた。
白。
世界がひとつの閃光に包まれ、輪郭が消える。
鉄骨が悲鳴を上げるより早く、爆炎が地を突き上げ、空を貫いた。
轟音。
空気そのものが砕け、波が逆流する。
上空のカメラが震え、視界が一瞬、真っ白に焼き潰される。
——無音。
時間が止まったようだった。
煙の中で、火の粉だけが静かに舞っている。
ゆらりと揺れる残光の中、赤い旗が空へと舞い上がる。
それは黎明の象徴——かつての理想の印。
今、その布は炎に包まれ、ゆっくりと灰になっていく。
やがて音が戻る。
破片が降り注ぐ。金属片が地面を叩く鋭い音。
遠くで倉庫の屋根が崩れ、空気の波が再び押し寄せる。
海風が煙をかき乱し、赤い炎を引き裂く。
画面の中で、燃え落ちる旗が地面に触れた瞬間——
鮮やかな赤が、闇の中で最後の光を放った。
その色は、血と同じ。
理想の名を掲げていた者たちの、終焉の色だった。
炎は、夜の輪郭を呑み込んでいた。
破裂音の余韻がまだ空気を震わせている。
玲奈の身体が、衝撃波に弾かれて宙を舞った。
スローモーション——。
燃え上がる火の粉の中で、金属片が回転しながら軌道を描く。
その一片が、玲奈の肩をかすめた。
刹那、血の粒が飛び散り、炎の光を受けて宝石のように瞬いた。
彼女の身体が地面に叩きつけられる。
その衝撃音さえ、遠く、鈍く響く。
大悟は咄嗟に顔を上げ、叫びもせず走った。
肺が焼ける。足元の瓦礫を踏みしめるたび、靴底が焦げる。
彼は地面を這うように、玲奈のもとへ進む。
炎が彼の背を照らし、影が長く、歪んで揺れる。
> (モノローグ・大悟)
> 「この夜、誰の理想が死んだ?」
風が吹き抜ける。
燃え落ちた梁が崩れ、空に火花を散らす。
その背後の壁には、かつて黎明の誇りとして掲げられていた旗がまだ残っていた。
——『未来を奪わせるな』。
その言葉のうち、「な」だけがまだ燃え残っていた。
やがて炎がそれを包み込み、形を失い、灰になって空へと舞い上がる。
風が吹き抜けるたびに、灰が舞い、まるで理想そのものが空気に溶けていくようだった。
大悟はその光景を見つめたまま、立ち尽くす。
足元で、玲奈が微かに呻いた。
大悟は我に返り、手を伸ばす。だが、その手は震えていた。
火の粉が降る中、二人の影が重なり、そして裂けた。
瓦礫の山を、炎がゆっくりと照らしていた。
風が吹くたび、金属の焦げた匂いが立ちのぼる。
大悟は膝をつき、瓦礫を掻き分けた。
手のひらに感じる熱が、皮膚を焼く。
その奥で、玲奈の身体が見えた。肩口から血が滲み、衣服が煤にまみれている。
彼は息を呑み、手を伸ばす。
玲奈のまぶたが微かに動く。
焦点を失った瞳が、ぼんやりと彼を見上げた。
> 玲奈(掠れ声)
> 「……だい、ご……報告を……」
大悟は首を横に振った。
その動きは、炎の明滅に合わせて影を揺らす。
> 大悟
> 「もういい、玲奈。喋るな。」
玲奈の唇がわずかに動く。
その指先が震えながら、瓦礫の隙間を指した。
そこにあったのは、焦げついた通信機だった。
コードは断線し、筐体は熱で歪んでいる。
それでも、赤いインジケータが微かに瞬いていた。
ピッ——……ピッ——……
デジタル音が、火の音の合間に割り込む。
音は一定の間隔で鳴り続け、やがて液晶の一部が光を取り戻した。
大悟は手を伸ばし、それを拾い上げる。
煤が指先にまとわりつく。
画面には壊れかけた文字列が流れていた。
> 【受信:新規スレッド/Ryu-Talk/投稿者:@Sango】
炎の反射が、その青白い画面に踊る。
ノイズ交じりのデータの奥で、断片的な文字がちらつく。
誰かが、生きているような錯覚。
――“@Sango”。
大悟の喉が、かすかに鳴った。
風が、焦げた布を巻き上げ、夜空へ散らす。
通信機の音だけが、世界の呼吸のように続いていた。
ピッ——……ピッ——……
それは、まだ終わっていないという、沈黙の報告だった。
炎が夜の海風にゆらめき、焦げた鉄の匂いがあたり一面に漂っていた。
崩れた倉庫の奥、地面に倒れ込む玲奈の頬を、炎の赤がゆっくりと撫でていく。
灰が静かに降り積もり、彼女のまつ毛と髪を白く染めた。
大悟は、言葉を失ってその姿を見つめていた。
焦げたコートを脱ぎ、そっと彼女の身体にかける。
布地の下で、かすかな呼吸の上下が見える。
それだけが、まだ世界とつながっている証だった。
瓦礫の向こう、崩れた梁の隙間から、夜の海が覗いている。
炎の反射が波に揺れ、赤と黒が入り混じる。
それはまるで、燃え上がる“国家の地図”のようだった。
どこまでが現実で、どこからが幻想なのか――その境界すら曖昧に溶けていく。
風が吹く。火の粉が空へ舞い、ひとつ、またひとつと消えていった。
そのたびに、大悟の胸の奥で、何かが小さく崩れていく。
> 大悟
> 「守るために戦ったのに……
> 戦うことが、もう何を守るのかも分からない。」
彼の声は、炎の音にかき消され、夜の海に溶けた。
残ったのは、静かに燃え続ける炎と、沈黙だけだった。
港の向こうで、消防車のサイレンが小さく鳴り響いていた。
音は波間に揺れ、やがて海風に溶けて消える。
大悟は、焦げた通信機を掌の中で見つめていた。
液晶には、わずかに残る青白い光。
そこには《通信未送信/破損データ》の文字が、滲むように浮かんでいる。
指先が震えた。
“送信”のアイコンが何度も光を反射する。
だが、彼は押さなかった。
その瞬間に何かが終わってしまう気がした。
> (SFX:無線断片)
> 「……黒潮会の影を確認……黎明……壊滅……」
雑音混じりの声が、遠くから流れ込む。
報告の言葉でさえ、今はただの騒音にしか聞こえない。
彼の隣で、玲奈が浅く息をしている。
その呼吸は不規則で、風の音に溶けていくようだった。
大悟は無言でその手を握る。
冷たい。
それでも、離せなかった。
炎の光が彼の顔を下から照らす。
その瞳の奥に、崩れ落ちる倉庫の炎が映り込む。
赤と黒が交錯し、まるで心そのものが燃えているかのようだった。
> 大悟
> 「報告は、もう意味を失った。
> 誰が敵で、誰を守るためだったのか。
> この炎が答えるなら――それは、沈黙だ。」
通信機の光が消える。
港の方角で風が唸り、炎が一瞬だけ高く舞い上がった。
夜が、再び静かに沈んでいく。
煙がゆっくりと夜空へ昇っていく。
風の流れに乗って、黒と灰が混ざり合い、やがて星明かりを覆い隠した。
炎は、もうほとんど力を失っている。
倉庫の鉄骨は歪みながら静まり、焦げた匂いだけが港に残った。
遠くで、海の波がゆるやかに岸を撫でる。
赤い旗が――燃え残ったその切れ端が――ふわりと空を横切る。
焦げた布の端が風に裂かれ、火の粉を散らしながら、海面へと落ちていった。
水面に触れた瞬間、炎の反射が波に崩れる。
その光は、まるで誰かの記憶が溶けていくように、形を失って消えた。
> 大悟
> 「報告はしない。
> これは、言葉を持たない夜だ。」
彼はただ、静かに立ち尽くしていた。
炎の消えた空間で、音はひとつも響かない。
玲奈の名も、組織の名も、もう風に飲み込まれた。
そのとき——
沈黙を切り裂くように、ひとつの音が闇に残る。
> (SFX:デジタル音)
> 「ピッ——……ピッ——……」
壊れた通信機の奥で、“Ryu-Talk”の通知が光った。
誰もそれに触れず、誰も応えない。




