裏切りの始まり ―「裂け目」
深夜。
黎明本部の通信管理室は、まるで時間が止まったように静まり返っていた。
壁に並ぶ古い端末が、一定のリズムで赤く点滅を繰り返している。
その光はまるで、呼吸を失った心臓の鼓動のようだった。
外では、遠雷が低く唸る。
海から吹き込む湿った風が、散乱した紙資料の端をゆらりと揺らす。
青白いモニターの光が、玲奈の頬を淡く切り取っていた。
彼女は椅子に深く腰を下ろし、眉間に皺を寄せながら通信ログを確認していた。
いつもと同じはずのデータ群。
だが、その中に、ひとつだけ“異物”が混じっている。
画面の中央に、見慣れないラベルが浮かんでいた。
《NPA://Secure-Channel-KAMIYA》
玲奈の指が止まる。
思考が一瞬、空白になる。
「……NPA?」
それは、国家公安の専用通信コード。
黎明の機材には、存在するはずのない経路だった。
カーソルが滑り、転送元の情報が表示される。
そこに記された識別子。
《潜入コード:DAIGO》
玲奈の呼吸が、わずかに乱れる。
画面の反射光が、瞳の奥でゆらめいた。
青白い光が、まるで冷たい刃のように彼女の表情を切り裂いていく。
(玲奈・モノローグ)
――この識別子、見覚えがある。
でも、どうして……大悟の名前が?
指先がかすかに震えた。
それでも、彼女は逃げなかった。
無意識のまま、Enterキーを押す。
画面が切り替わる。
黒い背景の上に、短いテキストが浮かび上がった。
《対象R、信頼関係維持中。黎明の会合情報送信完了。》
その一文を読み終えた瞬間、
玲奈の唇が、音にならないまま開いた。
声が出ない。喉が凍りつく。
胸の奥で、何かが静かに崩れ落ちた。
蛍光灯が一度だけちらつく。
外の雷鳴が遠くで響く。
彼女の世界は、青白い光の中で静かに反転していった。
通信管理室の扉が、軋む音を立てて開いた。
湿った夜風が流れ込み、室内の紙資料をかすかに揺らす。
その風に混じって、重い足音。
大悟が戻ってきた。
だが、玲奈は振り返らない。
モニターの青白い光だけが、彼女の頬を照らしていた。
静かに、しかし確実に、呼吸が震えている。
玲奈
「……これ、あなたの……通信よね。」
声は低く、感情を押し殺したように掠れていた。
その一言で、空気の密度が変わった。
大悟の足音が止まる。
室内に、機械の規則的な電子音だけが残る。
それが、まるで秒針のように二人の間の沈黙を刻む。
玲奈の肩がわずかに震えた。
それは怒りか、それとも恐怖か、自分でも分からない。
彼女はゆっくりと息を吸い、
噛みしめるように言葉を吐き出した。
玲奈
「公安通信コード。“NPA”。
最初から……私たちを——監視してたの?」
その声には涙の匂いが混じっていた。
だが、目は潤んでいない。
まるで涙すら拒むように、玲奈はただモニターを見つめ続けていた。
画面の中央には、まだ《対象R》の文字が淡く光っている。
その光が、彼女の瞳に映り込み、
まるで“証拠”そのものが、彼女の心を焼き付けているかのようだった。
通信管理室の蛍光灯が、一瞬だけ明滅した。
その刹那の光の揺れが、二人の間にある見えない境界をあぶり出す。
大悟
「玲奈、違う。俺は——」
声はかすれていた。
弁解の響きではなく、祈りにも似た、言葉の断片。
玲奈は振り返らない。
ただ、モニターの光に照らされる背中が、怒りと絶望の境で硬直している。
玲奈
「違う? じゃあこのデータは何?」
彼女は机に散らばったプリントの一枚を掴み取る。
その指先は、わずかに震えていた。
玲奈
「黎明の情報を、神谷に送ってた。
私の言葉も、全部——報告してたんでしょ?」
声が割れる。
それでも彼女は言葉を止められない。
手の中の紙が、くしゃりと音を立てて潰れる。
湿った指先に、黒いインクがにじむ。
それがまるで、信頼の形をした血のようだった。
玲奈(震える声で)
「あなた……最初から……」
言葉が途切れた。
喉の奥で、嗚咽と呼吸がぶつかり合い、音にならない音が漏れる。
その瞬間、外で雷が遠く光った。
室内の青い光と混ざり、二人の輪郭が一瞬だけ白く浮かび上がる。
大悟は、一歩踏み出した。
だが、その足は途中で止まる。
玲奈までの距離は、ほんの一歩。
けれど、その一歩が永遠に届かないことを、彼はもう知っていた。
(大悟・モノローグ)
「言い訳は、いつだって——真実より弱い。」
彼の胸の奥で、その言葉だけが静かに沈み、
残されたのは、波音のような沈黙だった。
――波の音が、すべての始まりと終わりを飲み込んでいく。
画面が断片的に切り替わる。
それは記録でも、記憶でもない。
ただ“信じたい嘘”が、形を持った瞬間の連なりだった。
――黎明の旗。
風に裂かれ、夜の照明に翻る。
赤い布が滲んで、血のように見える。
――東恩納議長、議場で拳を掲げる。
「この島の未来を、国家に奪われてはならない!」
声がマイクを割り、映像が一瞬ノイズで白く途切れる。
――神谷の無線。
「玲奈を囮にしろ。感情を持ち込むな。」
冷たい声が、機械の反響の中で何度も繰り返される。
――大悟の沈黙。
青白い光に照らされ、彼の横顔は無機質な影となる。
拳の中に握られた資料が、音もなく崩れていく。
――玲奈の涙。
それは落ちる前に光を反射し、カメラのレンズを一瞬だけ濡らした。
まるで“信じた時間”そのものが、形を失っていくかのように。
映像のリズムが速くなる。
旗、議会、無線、沈黙、涙——すべてが交錯し、
誰が正義で、誰が裏切りなのかが、もう判別できない。
そして、玲奈の声が遠くから重なる。
玲奈
「信じることと、疑うこと。
それが、人間を分ける。」
言葉の余韻が波に溶ける。
夜の砂浜。
寄せる波が月光を抱いては、また引いていく。
波打ち際に、涙の粒がひとつ残る。
その反射が一瞬だけ光を放ち——
次の瞬間、海に溶けるように消える。




