作戦命令 ―「囮」
地下に降りると、空気が一段と冷たくなった。
那覇支局の作戦会議室――厚いコンクリートの壁に囲まれたその空間は、外の湿気も喧騒も届かない。
ただ、壁一面に設置されたスクリーンが青白い光を放ち、室内の輪郭を硬質に浮かび上がらせていた。
中央の長机に、大悟はひとり座っている。
蛍光灯の光がわずかに揺れ、彼の頬に影を作る。
机の上には、数枚の資料――黎明の行動ログ、黒潮会への入金記録、そして玲奈の活動報告。
どれも、数字と証拠で固められた冷たい現実だった。
部屋の隅では機材のファンが低く唸り、
遠くの道路からは、かすかにパトカーのサイレンが聞こえてくる。
それが、この空間で唯一“生きている”音だった。
やがて、大画面がゆっくりと光を強める。
画面の中に、神谷の顔が現れた。
その表情はいつも通り静かで、感情という温度を完全に欠いている。
大悟は無言のまま姿勢を正した。
背筋が、椅子の硬い背にわずかに軋む音を立てる。
呼吸が浅くなる。青白い光の中で、彼の眼だけが冷たく濡れていた。
画面越しの神谷が、ゆっくりと口を開く。
その瞬間、空気の密度がさらに重くなった。
大画面の画素が瞬き、神谷の顔がゆっくりと浮かび上がった。
高解像の映像は克明だが、ときおり画面にノイズが走り、神谷の口元が一瞬だけ崩れる。
その歪みが、言葉の重みを余計に際立たせる。
「黒潮会経由でのルート、評議会の影、すべて把握した。計画はさらに拡大する見込みだ。」
神谷の声は抑えられているが、確信に満ちていた。青白い画面光が部屋の空気を冷たく染める。
「我々は“誘発”ではなく“暴発”を阻止する必要がある。玲奈を使え。彼女を囮にして急進派を動かさせ、実行班のネットワークを露出させる。」
言葉は淡々と、しかし決して曖昧ではない。画面のノイズがまた一閃し、神谷の輪郭がわずかに揺れる。
大悟は短く確認した。返事を探す間もなく、問いが口をついて出た。
「玲奈を囮にする、ということですか?」
モニター越しの神谷の瞳は、冷たい海のように凪いでいた。
口調に微かな揺らぎはなく、核心だけが静かに落ちる。
「そうだ。理想は道具だ。国家を守るためなら、個人は切り捨てる。君は潜入者だ。感情は仕事の障害にしかならない。」
その一文が、作戦室の空気を割った。
言外に含まれる残酷さが、蛍光灯の冷光に輪郭を与える。大画面の光が大悟の顔を白く照らし、彼の瞳の奥に細い影を刻んだ。
机の上に散らばる資料の山が、紙の端でかすかに震える。
大悟は指先で添付ファイルに触れた。玲奈の行動記録、会計の時系列、現地の映像――すべてが数字と列と日時になり、彼女の人となりを証拠に変えている。
声にならない時間が長く流れた。神谷の画面の片隅に一瞬、ノイズが大きく走り、彼の顔が歪んで見えた。その歪みが、まるで命令の本性を暗に映し出すかのようだった。
大悟の喉が乾いた。返す言葉はなかった。代わりに、ゆっくりと息を吐いてから、かすかなうなずきをした。
そのうなずきは承諾の音ではなく、受け流すための身振りに近かった。
神谷の声はさらに低く、しかし冷徹に続いた。
「想定外の事態が起きれば、上が介入する。君は状況を管理しろ。玲奈を失うリスクは承知の上だ。」
画面が最後に一度だけ瞬き、神谷の輪郭が浮かび上がったまま消えた。通信が切れると、会議室には機材の低いうなりと、遠くのサイレンだけが残った。
大悟の手が、資料の束の端をぎゅっと握る。爪が紙に食い込み、薄い痛みが走る。
胸の中で何かが軋み、冷たく沈んでいくのを感じた。画面の青い残光が、いつまでも彼の瞳に滲んでいた。
大悟は資料の束を胸に抱えたまま、机の隅に置かれた白い紙を見つめた。
そこには、神谷の声で語られた“作戦の骨子”が淡々と箇条書きにされている――だが、文字が示すのは技巧や戦術ではなく、誰を道具として扱うかという冷たい決断の輪郭だった。
目的は単純明快に書かれている。
急進派の実行班と、彼らを操る影の経路を暴くこと。
黒潮会と評議会の介在を、証拠として掴ませること。――国家が望む「因果の鎖」を可視化するための、その一点に作戦は収斂していた。
手段の欄に並ぶ言葉は、現場の匂いよりも皮肉なほど事務的だった。
「玲奈を公に露出させ、急進派の重要会合へと誘導する」「会合を“記録”して証拠化する」――
そこに書かれているのは、人物を舞台装置に変えるための演出計画であり、彼女を“駒”にするという宣言でもある。
詳細は記されていない。代わりに、誰がどの瞬間にどんな気配を漂わせるべきか、という演出的な指示が微かに匂った。それは軍事的な図面ではなく、演劇台本に似ていた――人間の身体と感情を使った一種の舞台計画。
タイミングは“次の物流夜”に合わせる、とだけ書かれていた。
夜が持つ遮蔽性、その時間帯に生まれる隙を利用し、外部との接触が活発になる瞬間に絞る――と、理屈は冷たく説明される。だが、その言葉の裏にあるのは、時間を切り取って人を動かす非情さである。
補助の欄には、遠隔監視や周辺の“可視化”とだけ記されている。
それは技術的な用語を避けた表現であり、物語としては「見えないものを見えるようにする」という演出意図に他ならなかった。神谷は現場介入を最小限にして、あくまで“誘導”の成否を確認する立場を取るつもりだというトーンが、白い紙の余白から漂ってきた。
大悟はその紙を撫でるように指でなぞった。
文字は冷たいが、そこに書かれているのは生身の人間の運命だと、彼は改めて思い知らされる。
語られている「手段」は、脚本の一節のようにも見えれば、刃のようにも見える。どちらの視点で読むかによって――使う側の都会的冷静さと、使われる者の脆さが、紙面の上で微妙にずれる。
彼は胸ポケットから、玲奈の短いメモを取り出す。そこには小さな字で――《信じることを、忘れないで。》とだけ書かれている。紙の端で自分の指が震えた。
作戦はすでに線引きされており、あとは時間がその輪郭をなぞるだけだ。だがその「線の引き方」に、彼自身がどう折り合いをつけるのかは誰も決めてくれない。
大悟は深く息を吸い、紙をテーブルに戻した。蛍光灯の冷たい光が資料の山を白く浮かび上がらせる。
外から遠く、波の低い音が届く。音は静かに、だが確実に、次の行動へ向かう世界の歯車を刻み始めている。
紙面にはもう一行、余白に書き添えられた注意があった。短く、無情な命令文だ。
「想定外の事態は上に報告。玲奈の損耗は容認範囲に入る。」
大悟はその一文を読み返した。文字が暗闇の中で重く沈み、彼の胸の中で何かが冷たく、ゆっくりと崩れていくのを感じた。
作戦は設計され、舞台は整い、登場人物たちはそれぞれの役を演じることになる。だが、舞台の裏で燃え上がるのは、誰のための「正義」なのか――その問いだけが、冷たい蛍光の下で生き残った。
蛍光灯の白い光が、密閉された作戦室の空気を硬く固めていた。
大画面に映る神谷の顔が、ふいにノイズで歪む。静電気のようなちらつきが走り、輪郭が一瞬、崩れる。
そのわずかな乱れが、言葉以上に雄弁だった――国家という巨大な構造が、安定しているようで、どこか脆く揺らいでいることを暗示する。
ノイズが収まると、神谷は再び冷たい輪郭を取り戻した。
声は変わらず、淡々としている。
しかし、その沈黙の合間にだけ、機械越しの温度差が確かに存在していた。
神谷
「玲奈を利用しろ。急進派を誘導して、爆破計画を炙り出す。」
言葉が静かに落ちる。
一瞬の間――時間が伸びるように、何も音がしない。
蛍光灯の低い唸りと、遠くのサイレンだけが室内の現実を支えていた。
大悟
「……彼女を、囮に?」
神谷の目が、かすかに細められる。
表情の筋肉が一ミリも動かないまま、確信の響きだけが返ってくる。
神谷
「理想は道具だ。国家を守るためなら、個人は切り捨てる。」
その瞬間、モニターの下部で短い電子音が鳴った。
淡く、ほとんど旋律のように聞こえる。
だがそれは音楽ではない――命令が記録され、承認された合図だ。
沈黙が続く。
大悟は返答しない。
ただ、青白い光の中で、自分の指がかすかに震えているのを見ていた。
机の上の資料、玲奈の行動記録。彼女の名が印字されたページを、無意識のうちに掴む。
紙が皺を立て、指先の血管が浮き上がる。
神谷の声が、最後にもう一度だけ落ちる。
「君は潜入者だ。感情を持ち込むな。――理想は、任務を歪める。」
その言葉の余韻が静まりきる前に、画面が暗転した。
モニターの明かりが消える瞬間、大悟の顔に残っていた青白い光もゆっくりと溶ける。
静寂の中、彼の呼吸だけが微かに揺れていた。
握り締めた資料の角が湿り、紙の端が少しだけ破れている。
それはまるで、国家という無機質な構造の中で、ひとりの人間の温度が滲み出た痕のようだった。
作戦室の静寂が、耳鳴りのように重くのしかかっていた。
暗転したモニターの余熱がまだ空気の中に残っている。蛍光灯の冷たい光が、コンクリートの壁に無機質な白を落とす。
大悟は動かない。
返答の言葉は喉まで上がっていたが、口を開く直前で止まった。
代わりに、ほんのわずかに頷く。
それが「了承」の意なのか、「諦め」の意なのか、自分でも判然としなかった。
表情は凍ったまま。
目の奥の光が消え、そこに残るのは任務に塗りつぶされた影のような静けさ。
時間が止まったかのように、彼の周囲だけ空気の流れが途絶える。
机の上、散らばった資料の隙間に、ひとつの紙片がある。
玲奈がかつて書いた短いメモ――《信じることを、忘れないで。》
その文字が、蛍光灯の光で淡く反射していた。
大悟は目だけでそれを見つめる。
視界の端に、端末の画面が光っている。
「削除」ボタンが赤く点滅している。
指先が、そこへ伸びかけて、止まる。
――押せない。
モノローグ:
「玲奈を守るために潜り込んだ。
だが今、国家は“守る”という言葉の上に立っていない。
命令だけが善で、個人は消耗品。
正義の形を問うことさえ、裏切りになる。」
指が机を叩く。
その小さな音が、広い部屋にやけに響く。
ポケットの暗号端末に触れる。
冷たい金属の感触。
その瞬間だけ、わずかに指先が震える。
彼は深く息を吐き、目を閉じる。
外のサイレンが遠くで鳴っている。
どこかで誰かが命令を実行し、誰かが消えていく音。
そして――大悟は静かに目を開ける。
そこにはもう、“誰かを守る”という意志ではなく、
“命令を遂行する機構の一部”の冷たい光が宿っていた。
神谷の声が途切れた瞬間、
モニターにざらりとノイズが走った。
映像が一瞬、歪んで、神谷の顔が複数に分裂したかのように揺らめく。
その歪んだ像の奥から、
誰のものとも判別できない“笑い声”が、かすかに混じる。
遠く、深海の底から響いてくるような、歪んだ笑い――
まるで国家そのものが、誰かを嘲るように。
大悟はその音を聞きながら、
ゆっくりと視線をモニターから外した。
顔に青白い光が残り、瞳の奥でわずかにそれが震える。
彼は立ち上がり、会議室の小さな窓のほうへ歩く。
夜の那覇の港が、黒い海に沈んでいた。
波の上を、街の灯がわずかに滲み、
その光はまるで息をしているように揺れている。
「誰かが笑っている。
命令の向こうで、見えない何かが――。」
狭い作戦室が、やがて一人の人間を飲み込むように小さくなっていく。
長回しの中で、彼の輪郭が闇に溶け、
窓の向こうの海と街の光が、国家の広がりを暗示する。
その世界のどこにも、個の痛みは届かない。
音は消え、最後に残るのは、
波とノイズの混じった微かな振動――
まるで、正義の亡霊がまだ電波の奥で息をしているようだった。
神谷の声がもう一度、画面越しに落ちた。
言葉は冷ややかに整えられ、余計な情緒を一切含まなかった。
「想定外の事態が起きたら東京本庁が介入する。君は状況判断で進めよ。」
その一文は一見、現場指揮への信頼を示すようでありながら、同時に責任の放棄をも含んでいた。
「介入する」とは言うが、具体のラインは曖昧にされ、最終判断は現場に委ねられる。
つまり、発生する被害の計数は現場の裁量に委ねられる――という冷徹な現実が、淡々と提示された。
神谷の次の言外の含意は、より露骨だった。言葉にはされないが、空気ははっきりと伝えてきた。
玲奈の安全は“最優先”ではない。
国家の枠組みの中で守るべきものと、切り捨てられるもの。
その線引きが、無言のうちに示される。
大悟は答える言葉を持たなかった。
喉元に声はあるが、それを外へ出すことは許されていないように感じた。
代わりに、ゆっくりと小さくうなずくしかなかった。
うなずきは承諾でもなく、抵抗でもなく、ただ現実を引き受けるための動作だった。
胸の中で、何かが割れる音がしている。
彼はかつて、玲奈を守るために潜り込み、彼女の笑顔を見守ることで自分の正しさを確かめようとしていた。
だが今、国家はその「守る」という言葉を自らの都合で翻している。
命令と正義が一つに見え始める時、個人の温度は奇妙に下がっていく。
大悟の手は、机の上の玲奈のメモに触れた。
《信じることを、忘れないで。》——消すことはできない。
胸ポケットの暗号端末に指をかけると、指先がわずかに震えた。
その震えが、答えを物語っている。
「わかった」とは言わない。
だが彼は、任務を継続することを選んだ。
選んだのか、選ばされたのか、自分でも判別がつかないままに。
画面が黒くなり、作戦室の青白い残光だけが彼を包む。
外の波は静かに寄せ、そして引いていく。
大悟は資料を胸に抱え、階段へ向かった。
足音がコンクリートを叩くたび、彼の内側で二つの世界が少しずつ遠ざかり、あるいは近づいていくのを感じた。
――決断は下されたが、魂の分裂はまだ始まったばかりだった。
蛍光灯が低く唸り、
モニターの電源が落ちると同時に、部屋は一瞬にして無音の闇に沈んだ。
青白い光の残像が、神谷の輪郭を空間に焼き付けたまま消える。
静寂の中で、ファンの回転音と、遠くから聞こえる港の汽笛だけがかすかに響く。
湿った夜の空気が地下のコンクリートに溜まり、呼吸の音さえも重く反響する。
大悟はゆっくりと立ち上がった。
机の上に散らばった資料を一枚一枚、無言で揃え、胸に抱きしめるように抱える。
紙の束の端に指が触れた瞬間、玲奈の文字が一瞬だけ目に入った——
《信じることを、忘れないで。》
彼は目を閉じ、深く息を吸い込む。
蛍光灯の光が彼の頬をかすめ、そこに冷たい陰を刻む。
(モノローグ・大悟)
「国家の言葉は、時に最も冷たい慈悲だ。
俺は何を守る——彼女か、秩序か、それとも自分自身の良心か。」
その問いは声にならず、胸の内で鈍く反響する。
彼は資料を抱えたまま、ゆっくりと階段を降りていく。
階段の照明が一段ごとに明滅し、彼の影が壁面に長く伸び、そして歪む。
まるでその影が、彼の中で崩れ始めた信念のかたちを映しているかのように。
重い扉を押し開けると、外の夜気が一気に流れ込んだ。
港の灯りが雨粒のように滲んで見える。
その瞬間、無線機が小さくざらついた。
「……急進派、動き始めた――!」
オペレーターの焦った声が断片的に響く。
大悟は立ち止まる。
胸の奥で、何かが静かに切り替わる。
雨上がりの風が吹き抜け、
ページの端が一枚、ひらりと舞った。
次の嵐が、もうすぐそこまで来ていた。




