告白の夜 ―「信じたい嘘」
玲奈は、ひとり屋上に立っていた。
夜風が濡れた髪を揺らし、彼女の手の中で一枚の紙が震えている。
それは――黎明の会計データを印刷したもの。
黒いインクが、雨に滲んで輪郭を失いかけていた。
月のない空の下で、その紙だけが微かに白く光って見える。
玲奈は指先で端を押さえながら、低く息をついた。
(玲奈・モノローグ)
「この紙一枚で、すべてが変わる。
でも――誰を責めればいい?」
風が答えのない問いをさらっていく。
港の汽笛が遠くで鳴り、夜の街がほんのわずかに震えたように感じた。
そのとき、背後で金属の軋む音が響く。
屋上のドアが開いた。
足音。濡れたコンクリートを踏む音が近づいてくる。
玲奈は振り返らずに、静かに口を開いた。
「来てくれたんだ。」
声はかすかに濡れていた。
振り向かなくても、誰なのかは分かっていた。
大悟はドアの前に立ち、しばし黙って彼女の背中を見つめていた。
夜風が二人のあいだを通り抜け、濡れた床の光がゆらめいた。
二人の間に、言葉よりも重い沈黙が落ちていた。
遠くで波が砕ける音がする。
潮風が、濡れた屋上の空気を撫でていく。
玲奈は視線を海に向けたまま、かすかに唇を開いた。
「ねえ、大悟。」
声は、まるで何かを確かめるように、そっと宙に浮かぶ。
「もし……私が間違ってたら、あなたはどうする?」
大悟は少しだけ目を細めた。
玲奈の背中越しに、夜の街灯が淡く滲んでいる。
その光に、雨粒の名残がかすかに瞬いていた。
彼は答えを探すように、しばらく黙り込んだあと――
低く、静かな声で言った。
「間違いなんて、誰も裁けない。」
その言葉に、玲奈は小さく笑った。
だが、その笑みはどこか儚く、痛みに似ていた。
(玲奈・心の声)
“彼を信じたい。
でも――もし、この手の温もりが偽りだったら?”
沈黙が、再び二人の間に降りてくる。
風が吹いた。
足元の水たまりに映る二人の影が、ゆっくりと重なり、ひとつになる。
次の瞬間、波紋が広がり、影は揺れて――割れた。
光が滲む水面の中で、二人の姿は別々の形に戻る。
その瞬間、玲奈の胸の奥で、何かが静かに崩れ落ちた。
玲奈は、ゆっくりと一歩、また一歩と近づいていった。
靴の底が濡れたコンクリートを踏むたび、静かな水音が響く。
大悟は動かない。
ただ、その姿を受け止めるように立ち尽くしていた。
やがて、玲奈は彼の真正面に立つ。
夜の風が二人の間をすり抜け、玲奈の髪を揺らす。
その瞳には、疑いと痛みと――まだ消えきらぬ信頼の光が同居していた。
「あなた、何を隠してるの?」
その問いは、怒りではなく祈りのようだった。
大悟の目がわずかに揺れる。
ほんの一瞬の迷いが、沈黙の中に滲む。
言葉が出ない。
何を言っても、何を言わなくても、すべてが嘘になる気がした。
玲奈の手が、そっと彼の胸元に触れた。
冷たい指先が、シャツ越しに彼の体温を探るように震える。
「信じさせてよ。」
声が、かすかに震えた。
「嘘でもいい。今だけでいいから――“本当”だって言って。」
大悟は息を呑む。
その瞳に映る玲奈の顔が、ゆらめく水面のように揺れる。
言葉は出ない。
喉が焼けつくように痛い。
彼の沈黙が、何より雄弁に“真実”を語っていた。
玲奈の指先が離れる。
風が吹き抜け、二人の間の温度を奪っていく。
屋上の水たまりが、夜の灯を歪ませながら波紋を広げた。
その光の中で、玲奈の声だけが、最後の残響のように震え――
雨上がりの空気へと溶けていった。
玲奈は、ゆっくりと一歩、後ずさった。
その足が水たまりに沈み、静かな波紋が広がっていく。
揺れた水面が、二人の影を引き裂くように震え――
やがて、完全に分かたれた。
風が吹き抜け、どこか遠くで鉄骨が軋む音。
街灯が flicker(明滅)し、光が途切れる。
暗闇が一瞬、二人を飲み込み――
再び灯った時、そこには玲奈の背中だけがあった。
大悟
「真実を守ることよりも、
嘘を壊さないほうが、優しい夜もある。」
玲奈は何も言わず、背を向けたまま歩き出す。
足音が、鉄の階段をゆっくりと下っていく。
その音が途切れたとき、屋上には雨上がりの匂いだけが残った。
大悟はしばらく、その消えた方向を見つめていた。
濡れた床に映る自分の影が、滲んで、歪む。
それはもう、人の形を保ってはいなかった。
――遠くで、雷鳴が鳴る。
光が空を裂き、雲の底を白く染める。
次の嵐の気配が、静かにこの夜に落ちてくる。
そして、波音の向こうで、黎明がゆっくりと壊れていった。




