報告 ―「国家の影」
大悟は椅子に深く腰を下ろした。
椅子の脚が床を擦る微かな音が、夜の静寂を切り裂く。
無言のまま、端末にメモリカードを差し込むと、
黎明内部での映像記録が無機質な光を放ち始めた。
画面には、伊波が若者たちを前に演説する姿。
黒潮会の構成員と倉庫裏で交わした取引の瞬間。
そして、断片的に映り込む名前――東恩納議長。
映像が止まり、モニター越しの神谷がゆっくりと頷く。
その表情には、何の感情も浮かばない。
ただ、確認済みの事実を整理する機械のように、
冷たく口を開いた。
神谷
「予想通りだ。黒潮会は評議会経由で政府の裏予算を受けている。
国家が“黎明”を育てていた。……利用するためにな。」
その声には一切の熱がなかった。
まるで誰かの命のやり取りでさえ、統計の一項目に過ぎないとでも言うように。
事実を口にしているのに、そこには“驚き”という人間の要素が欠けていた。
蛍光灯の光が、大悟の頬を横切る。
彼の指先が、机の下でわずかに震える。
拳を作ったことに、自分でも気づかない。
報告者としての義務と、
一人の人間としての怒りの境界線が、
その瞬間、かすかに軋んだ。
「……利用、ですか。」
大悟の声は、自分のものとは思えないほど低く、乾いていた。
モニターに映る神谷の顔は、どこまでも静かで、凪いだ湖面のように揺れない。
しばしの間が落ち、やがて大悟は問う。
大悟
「それでも、止められるんですか?」
わずかに、神谷の視線が横に流れる。
しかし、その目の奥には一滴の感情もない。
長い沈黙ののち、淡々とした声が空気を裂いた。
神谷
「止める必要はない。
計画を“管理”すればいい。
君の役目は“玲奈”をコントロールすることだ。」
その言葉は、氷のように冷たい命令だった。
人の名前が、ただの“対象”として処理されていく。
大悟は言葉を失い、視線を落とす。
机の上の端末には、黎明内部での映像が静止している。
そこに映る玲奈の横顔――あの、理想を語る時のまっすぐな微笑。
彼の喉が音もなく鳴る。
何かを言いかけて、唇を閉じる。
蛍光灯の光が、玲奈の映像の中でゆらめいた。
神谷
「君は潜入者だ。感情を持ち込むな。
理想は任務を歪める。」
それは、命令である以上に、切り捨ての言葉だった。
通信が切れ、画面が暗転する。
その黒に、自分の顔がぼんやりと映る。
大悟は、拳を握ったまま動けなかった。
胸の奥――氷のように冷たいものが、
静かに、確かに沈んでいくのを感じていた。
モニターの光が消える瞬間、部屋の温度がわずかに下がったように感じた。
通信の終わりを告げる電子音が静寂に吸い込まれ、灰色の会議室に残ったのは、機械の微かな唸りと、大悟の呼吸だけだった。
大悟
“正義も国家も、もう輪郭が見えない。
ただ命令だけが、現実として残る。”
声にならない思考が、胸の奥で溶けていく。
彼はゆっくりと視線を落とした。
デスクの上には、一通の短い通信メモが残っている。
玲奈からのものだ。
削除するよう命じられていたが、指はずっとそのボタンを押せずにいた。
《信じることを、忘れないで。》
たったそれだけの言葉。
なのに、その一行が、命令よりも重かった。
神谷の最後の声が、まだ耳の奥に残っている。
――「理想は任務を歪める。」
彼は目を閉じ、息を吐く。
蛍光灯の白い光が一瞬、flicker(瞬く)。
壁に映った自分の影が揺れ、歪み、そして消える。
残ったのは、暗いガラスに映る自分自身――
国家の影と、裏切りの輪郭が重なった、ひとりの男の顔だった。
室内には、もう音がなかった。
機械の駆動音すら止まり、世界が息を潜めたように沈黙している。
その沈黙を裂くように、遠くから港の汽笛が響いた。
夜霧に濁るその音は、悲鳴のようにも、祈りのようにも聞こえる。
大悟はゆっくりと立ち上がった。
椅子の脚が床を擦る鈍い音が、虚空に滲む。
窓際へ歩み寄り、濡れたガラスに手を触れる。
指先に伝わる冷たさが、現実の境界を確かめるようだった。
外では、港の灯りが滲み、雨粒の軌跡とともに街の輪郭が溶けている。
大悟
「この国は、いつからこんなに静かに嘘をつくようになった?」
その声は、誰にも届かない。
ただ、夜の闇がそれを受け止めるように揺れた。
彼は答えのない問いを胸に、ゆっくりと席へ戻る。
椅子に沈み、深く息を吐いた。
吐息が白く浮かび、すぐに消える。
――「国家の影」が、静かに、彼の中へ沈んでいった。
蛍光灯がひとつ、微かに明滅する。
それが消えると同時に、会議室は完全な闇に包まれた。
残るのは、窓の外でかすかに瞬く港の光だけ。
まるで、この国のどこかでまだ消えずにいる、
誰かの“理想の残り火”のように。




