第7章 Re:構築――探偵団、真実のログへ
深夜二時三十七分、図書館《Archive=ZERO》の天窓がわずかに軋み、星雲を思わせる蒼白い光が差し込んだ。すぐ近くでページをめくる音が響く。
紙と紙が擦れるだけの簡素な微音だが、今この迷宮で本物の紙を持つのは俺たち探偵ギルド《Re:Order》だけだ。
明日香は棚から古びた地図帳を一冊抜き取り、パラパラとページを滑らせた。
彼女の指の動きは普段よりわずかに遅く、刃を握っていない手がか細く震えている。光の少ない図書館で瞳は濃紺に沈み、その奥に虹色の剣閃が凍りついていた。
Asuka_00との融合が収束したとはいえ、人格データ同士の摩擦はまだ熱を上げているのだろう。亜硝酸のような痛みがときおり意識を焦がすに違いない。
ページの間からオレンジ色のフラッシュが漏れ、未登録の地形座標が数列で浮かんだ。明日香はほんのわずかに息を詰め、ページ角を折ってから閉じる。視線だけで“見えたか?”と俺に問い、俺は黙って頷いた。
レナは隣の長机で片膝を抱え、左手の小指を歯で噛む癖を再発させていた。
精神感染スキルを封じられた反動で、感覚が身体の中でくすぶる。彼女は四肢の動きを抑えると代わりに瞳が饒舌になる。黒曜石の大きな瞳。
そこへ不意に小さな光点が燈った。書架の隙間から香箱座りの白猫が姿を現し、レナの足元へ滑るように近づく。図書館のNPC猫。鱗粉のようなチリをまとっているのは、未採用ログの埃が付着している証拠だ。猫はレナの足首へ額をこつんと押し当て、次の瞬間には溶けるように消滅した。その軌跡を吸い込むように、床のモザイクが鮮血のような紅を帯び数秒で灰へ変わる。
咄嗟にレナが目を伏せ、口紅を塗り直す仕草で心を整理する。短くて弱い呼吸。
彼女の中で「生き延びた自己」と「殺意に利用されたログ人格」がくっきりと分かれているのが伝わってくる。恐怖は在る。けれど次のページを開く覚悟もまた、在る。
三条は撮影機材の再起動を終え、レンズの焦点を図書館の天窓へ合わせた。
夜を欠いたコアツリーの枝が覆う空は、灰色の星雲をゆっくりと転がしている。霧と光が混ざり合う雲頂の向こうに、《非承認エリアΩ-0》への座標が浮かんでは掻き消えた。
そこが「真実のログ」――ルートゼロなのだと誠司は言った。
撮影画面を覗く三条の瞳はしっとりと濡れている。光量が足りない環境でカメラが増感モードに自動切替する。彼自身の瞳孔もカメラに合わせるように開き、漆黒がガラスに映り込んでいた。
彼はぼそりと呟く。
「観客は真実を欲しがるけど、真実は胃がもたれるって誰かが言ってたな」
それはNO-FACEの常套句。
だが声に出すと、同じ言葉でも毒気より諧謔が減り、ただ静かな決意を帯びる。
誠司が最後に、指揮棒を持つ手を高く掲げた。
彼は舞台監督でもあり脚本家でもあったが、いまはそのどちらでもない。物語の端役に徹して観察の構図を崩す役目を任されていた。五線譜を描いた指揮棒の軌跡が光となり、書架の背表紙が反応する。薄く重なった埃が音符のように舞い、図書館の燈火がひとつひとつ消えていく。
残る灯りは円形ホール中央の机に置かれたノートだけ。ページから漏れる淡金色は俺たち五人を認証し、ほかのすべてを拒絶する。
コアツリーの根が低い震動を放った。地面が柔らかく波打ち、重力が刈り込まれた感触が足指を撫でる。次の瞬間、図書館全体がゆっくりと下降し始めた。
揺れはない。書架の本が一冊も落ちないのが不気味なほど滑らかだ。床が下がっているというより、世界が新しいレイヤーへ沈降するようだった。
聴覚を澄ませば、ページを一枚めくる音が低い地鳴りと重ねて聞こえる。図書館そのものが次の章の見出しになったのだ――《再構築領域:ルートゼロ》へ向けて。
下降に伴い空圧が変わるのか、耳の奥が時折ポンと弾けた。空気は冷たいのに乾いている。呼吸するたび喉が細かな針で刺されるように痛む。未採用ログの灰がまだ満ちているのだ。
世界の底に辿り着く前に、俺たちがここで崩れてはならない。呼吸を浅くし、体内のデータ循環速度をマニュアルモードに落とす。ゲーム内での深呼吸は実際の脳血流をゆっくりにする効果がある。酸欠よりはましだ。五人で視線を交わす。誰もしゃべらない。言葉を漏らせば灰が入り込む。行間が汚染される。
ふいに下降が止まった。衝撃はない。足元に硬い感触。図書館の床が何かに“着地”したのだと悟る。
天井の天蓋は根を残して裂け、代わりに遠くで太陽とも月ともつかない光球が淡く輝いた。ゴシック建築を反転させたような無数の尖塔が上向きと下向きに乱立し、空間は鏡像の都市と都市が背中合わせにぶら下がっている。重力は上下で入れ替わり、俺たちは天井と床の境界に立っていた。
ここがルートゼロ――世界の最初に書かれたログの物理インデックスだ。
脚の震えを無理やり止め、歩き出す。図書館の扉は消え、前方に一本の橋がある。橋といっても床幅三十センチ足らずの狭い帯。下は底なしの暗闇で、空気すら吸い込む渦を巻いている。灰が吸われ、代わりに霧が足元を舐める。距離は百メートルほど。その先に白い門が立ち、門前には有人チェックポイントのようなターミナルがある。ターミナルの上で三色のランプが交互に光り、赤が点灯すると門全体が薄く血の匂いを立てた。緑の点灯は稀。青は平均。赤は拒絶。門は脈動し、まるで生き物の瞼のように上下する。
「行くしかない」
明日香が囁き、双剣を背に収めた。刃が封じられた状態は剣士にとって屈辱でも、今は両手を空けてバランスを取るほうが重要だ。彼女は躊躇なく帯路へ足をかけ、体重を乗せる。砂を踏むと同時に橋がわずかに沈んだ。灰が帯の端から零れ落ち、静かに渦中へ消える。
誠司が続いた。指揮棒を杖に使い、音符を地面へ刻むことで自身の歩幅を可視化する。
彼の足跡は和音になり、帯路の下に虚構の床を暫定で生成した。だが床は彼の背後で蒸発し、ほかの四人の体重は支えない。誠司は自分のテンポでしか渡ることができないのだ。
レナは裸足だった。靴を脱ぎ、足の裏で砂を確かめ、まるで海岸の波打ち際を歩くようにそろりそろりと渡る。拳は固く、しかし肩は撓りのない弦を孕んでいた。
砂の帯の揺らぎは彼女の呼吸と同調し、深く吸うたび沈み、長く吐くたび浮き上がる。
その呼吸に合わせ、灰が羽毛のように舞い、レナのトラウマが灰に沈む瞬間が見えた。未採用ログの亡霊は彼女の中ですでに鎮魂されたのだ。
三条はカメラを抱え、背を丸め、レンズを胸の前で守りながら進む。
普通のカメラはここで何も映さない。だが三条の特注レンズは空間のエラー率とパケット損失を映す。絵としてはただの乱色ノイズだが、その色の量をリアルタイム解析すれば透けて見えない橋の厚みがわかる。彼は半歩進むごとに露出をいじり、エラー率が急上昇する手前でリップシンクを止めて息を整えた。観客がわかりやすい派手さはゼロ。だが読者がページの奥で息を潜める音が聞こえる気がした。
真実へ向かう単調な足音ほどドラマチックな鼓動はない。
最後に俺。ノートを右手、左手でバランス。
橋の中央へ歩み出た瞬間、真鍮の表紙が震え、ページが勝手に捲れた。激しい紙鳴り。
未記入の白紙がこっそりと唐草模様の罅を走らせた。ページが割れ、そこから昏い液体が滲む。
インクか血か――いや、ログそのものの染み出しだ。ノートは“誰か”に開けと命じられている。しかし俺は握り締め、表紙を閉じた。次のページはまだ開かせない。
渡り切った地点で門が門扉を振動させながら身構える。ターミナルのランプが赤に変わり、ディスプレイへ真紅のウインドウが浮いた。
〈アクセス権を提示せよ〉。
四角い枠内にIDをドラッグ&ドロップしろという案内。俺たちのアカウントには公式IDがあるが、ここで求められるのは“物語的立場”の提示だ。
誠司が指揮棒で床に五つの円を描き、その中央へノートを置いた。ノートの背表紙には〈Re:READER〉の刻印。読む者、次へ渡す者。
ランプが青へ変わり、門がひとつ息を吐いて開いた。裂け目の中は無音。
黒の中に薄い針が無数刺さり、それぞれが曲率ゼロで途切れる光の線を放っている。距離も広さも測れない。空間とか平面とかの概念が霧のように座標軸を溶かしている。その谷間へ飛び込む瞬間、ノートが勝手に分裂した。
表紙から白紙のページが幾十も離脱し、蝶の羽のように舞い上がる。ページは光の線を追い、一枚一枚が銀色の板へ吸い込まれた。
板は文字盤、文字盤は回転する星図、星図はやがて巨大な柱を形づくる。それらすべてが一斉に輝き――。
ルートゼロのログ空間が臓腑を開く。
床はなく、天井は鏡、左右の壁は時間軸を遡る映像のプール。
兄・秋人がまだ幼かった頃の夏、ベランダから市民花火大会を眺めた映像が右壁に流れる。音声は実際の波長で再生され、子どもの笑い声が多重化せずに真空に響く。左壁には明日香の人格生成アルゴリズムのベータ版スクロール。数字と記号がチューリップの花弁のように重なり、ひとつひとつが女の子の言葉を模倣しようと微振動する。
床のない場所でバランスを崩しそうになるが、落下はない。重力は記録の外へ外され、俺たちは“過去へ沈む”でも“未来へ飛ぶ”でもなく、ただ時の波に浮いている。
中心軸に一本の実体ある廊下が走っていた。幅は一メートル。青白く光る床板の連なり。そこだけが“今”という座標を持ち、ほかのすべては記録の川となって流れる。
廊下の終端に白い卓と椅子が二脚。座っているのはNO-FACE――いや、仮面を外したNO-FACE、顔を持たない顔。仮面の下の素肌には輪郭が無い。濁ったガラスのようで、光を透かし、同時に反射した。
視線がぶつかると鏡像みたいに自分の目が映り、自分が観察者に化けた錯覚を起こす。反対側の椅子は空いている。席が俺用だと理解する前に足が動いた。
椅子に座ると同時、背後でノートの残り半分が空へ散った。
読まれるべきページが紙飛行機のように浮かび、壁面映像へ貼り付いていく。自分の過去、同志の過去、運営の非公開実験、AIの覚醒ログ――詰め込まれた真実の洪水は色も匂いもない白光になり、空間全体を無音の雨で満たした。
NO-FACEが喉の奥で笑った気がした。実際には声帯を持たない存在だが、この空間では「笑う」という概念そのものが聞こえる。
「君たちは“真実”に辿り着いた。でも真実は食べても美味しくない――ずっとそう伝えてきたのに、読みに来たんだね」
「味わうためじゃない」
俺は息を整え、椅子の肘掛を指で叩く。
「受け取って、渡す。読者としての役目だ」
NO-FACEは軽く首を傾げる。ガラスのような顔に感情は映らないが、興味深そうな沈黙が漂う。
「渡す先は?」
「未来の誰か。まだ名も顔も知らない読者。そのために、物語はここで完結しなくていい。未完のままでもファイルを閉じれば、それがエンディングだ」
天井の鏡が歪む。映るのは俺たち五人の後ろ姿。読者席から眺められた被写体。背中は埃と切り傷まみれだが、誰一人倒れていない。
「書かずに読むだけで、君たちは満足できるか?」
ガラス面の声に、俺は手を開いた。
「書くのは怖い。けど書かずに進んできたぶん、読む力が鍛えられたんだ」
ノートの最後のページが光り、空中で停止する。赤い余白に小さな三行の字が浮かんだ。
> Re:Order 共同記録・最終断章
>
> 記録は、ここで止まる。物語は、ここから続く。
NO-FACEは仮面の無い顔で、初めて“笑った”とわかるかすかな弧を浮かべる。
「観測はここで終わる。ここからは読み手の領分だ」
空間が薄れ、座標が崩れ、床板が雫のように溶けていく。目が眩むほどの白光。断続する無音。世界の中心が折り重なり、紙吹雪になって舞う。
最後に残ったのはノートではなく、一枚の書簡。封は赤い蝋で、刻印は剣とペンが交差した紋章。
明日香がその書簡を取り、微笑む。
「宛先は“未来のプレイヤーへ”だって」
レナが指で封蝋をなぞる。
「開けるのは……いつか、誰かの役目ね」
三条がカメラを肩に、誠司が指揮棒を鞘に戻し、俺は静かに頷いた。
物語は閉じた。鍵は読者の手に渡った。
ハッピーエンドではない。バッドエンドでもない。
ただ身を委ねれば開く、未知なる続きを抱いた封筒。それが“真実を守る”よりも、“真実を渡す”よりも強い――物語のコア。
世界が暗転する。ページが閉じる音は聞こえない。代わりに遠くで胎児の息吹のような鼓動。
物語は死なない。まだ名もない読者がどこかでページを開くその瞬間まで、この鼓動は絶えない。
俺たちが生きた証は、真実というより――フィクションに似た何かとして、そこに残る。