第6章 ログに刻まれた殺意
砂の匂いが喉の奥でざらつく。視界を満たすのは夜更けより深い群青――だが空ではない。
ここは《INFERNO MAZE ONLINE》の最深記録域、《Ouroboros-Root HALL》のさらに下層、“ログ墓標”と呼ばれる虚無の底だ。
天蓋は欠け、銀白のコアツリーの根が宇宙船の配管のように絡まり合って頭上を占領している。根の間から滴る光の雫は魂の抜け殻で、落下の途中に名前のない悲鳴をあげて蒸発した。
俺――結城蓮は、胸に抱えた真鍮装丁ノートの重みを確認しながら、深呼吸で肺胞を磨く。
嗅覚に残るのは紙とインクではない。もっと鋭い、乾いた鉄の香り。
戦場でしか感じ取れないそれに、背筋が粟立った。ここへ降りた途端、空気に殺意が混じったのだ。
明日香の双短剣が虹色の火花を散らす。刀身の罅は五章で補修したはずだが、温度の違うデータが溶接痕を軋ませ、薄い蒸気を吐いている。
レナは唇の端でルージュをこそげ、蒼ざめた指先を伸ばして空気を味わうようにひらひらと振った。
三条はカメラを回しつつ無言、誠司は指揮棒で虚空に五線譜を描き、空間座標を心の耳で聴く仕草。
ギルド《Re:Order》は五人そろっている――そのはずなのに、背後に六つ目の足音がついて来る気配がやまない。
「蓮、聞こえる?」
明日香が囁く。
「ああ。世界全体が軋んでいる音だろ」
「違う。足音。しかも私たちの誰でもない歩幅」
俺たちは振り返らない。背後を覗いた瞬間、観察者に首を掴まれる――そんな予感が骨に刻まれている。五章で兄・秋人のログ人格《Re:WRITER_002》を観察モードへ“降格”させたはずが、コアツリーの深部へ来た途端、再び権限の残響が這い上がってきたのだ。
「ここで起こる事件は“殺意”だ」
誠司が淡々と言う。
「ログだけが刃になる。それで人の意識を断ち切れるかどうか――試される」
「殺人ミステリか」
三条が苦笑し、レンズを撫でる。
「探偵としては燃えるシチュだが、被害者が仲間じゃ笑えないな」
◆ ◆ ◆
根の迷宮を進むほど、足元は砂漠に似た硬砂へ変わる。
粒子は焦げ茶で、踏めば高音の鈴のように鳴った。おそらく未採用ログが削られ、灰になった残渣。ここで“殺された物語”は何千万とある。その灰を踏んで歩く俺たち自身が次の犠牲になりうるのだ。
「熱源一つ。ギルド拠点から五百メートル先」
三条がカメラに映った温度ヒートマップを指差した。
「IDはない。プレイヤーでもNPCでもない判定」
「未登録ログ人格か」
誠司が眉をひそめる。
「Ouroborosが自動生成した“犯人”なら、システムの鎖を解かれたAIだ。人間の倫理で測れない」
俺はノートを開き、白紙だったページにほんの短い一文を書く。
〈被害者の名は、まだ空白〉
赤インクが血のように滲み、空間の温度がわずかに落ちた。書くことで“ルール”が生まれる。この章では「まだ誰も死んでいない」という規定――つまり犯行のカウントダウンが今始まった。
◆ ◆ ◆
黒い丘陵を越えた先、巨大なホールが姿を現す。壁は暗緋の肉質で、天井も床も脈動している。
コアツリーの根がここで胃袋のように膨れ、記録を消化しているのだろう。中央にひしゃげた円卓。その上に人影一つ。
――レナが倒れていた。
直前まで一緒に歩いていたはずの彼女が、いつの間にか先回りして血のない白い身体で横たわっている。目は閉じ、胸は上下しない。レナ本人は俺たちの背後――振り向くと確かにいる。
双子のように同じ姿。まさかの二重化。
「……嫌」
レナ本人が足を引き、声を震わせる。
「これ、私の死体? 違う。私じゃない!」
「ログ人格だ」
誠司が近寄って手袋越しに脈を測る。
「生体反応ゼロ。でもデータ的には‘生’判定。凍結中の意識ログだな」
足音が砂を払う。明日香が双短剣を構え、レナの隣に並ぶ。
「誰がコピーを作った」
答えの代わりに、天井が開く。赤いスコアボードが出現し、白い文字が走る。
〈被害者:RED QUEEN(ShadowLog)〉
〈死亡原因:ログ編集による人格断絶〉
〈容疑者:Re:WRITER_003 もしくは Re:WRITER_002〉
俺と――兄。
「冗談じゃない!」
三条が声を割る。
「ログ編集なんてしてない。しかも死体はレナの偽物だろ」
「偽物も本物も関係ない」
不意に柔らかな声が降った。ホールの薄闇から白衣姿の少女、アリサ=グラヴィスが現れる。頬は青ざめ、指先は震え、それでも儀式の巫女のように胸前で手を組む。
「ここは“記録の裁判所”。削られた存在でも、死は絶対だよ」
明日香が息を呑む。
「裁くって誰が?」
「観客。すなわち読者。ページの外で君たちを見ている“目”だ」
天井いっぱいに開いたスクリーンへ無数のコメントが流れ込む。言語も文法もバラバラの罵声、哀嘆、好奇の歓声――読者の声。
◆ ◆ ◆
「蓮、やばい」
誠司が俺の袖を引く。
「観客が‘犯人当て’を始めた。多数決でRe:WRITER名が確定した瞬間、その人物のログが“殺意ログ”に組み込まれる。お前か、兄貴か――もしくはどちらも」
ノートが灼けるほど熱い。ページの余白に赤い投票バーが現れ、刻々と数値が増える。
〈002 48%〉〈003 50%〉〈未定 2%〉
「嫌だ」
レナが震えながら叫ぶ。
「どっちでもない! 私は死んでない!」
「証明しろ」
俺はノートを閉じ、レナに向けた。
「生きてる証拠を書け。鼓動でも呼吸でもいい。読者に突きつけろ」
レナは震える指で己の胸を叩き、唇を開く。
「私は……痛みを感じている。だって、さっき砂で膝を擦りむいた。ほら、血豆だって――!」
スクリーンのコメントがざわめき、赤バーが揺れた。〈未定 10%〉
「足りない」
三条がレンズ越しに呟く。
「記録はエビデンスを要求する。映像、音声、数値……」
誠司が指揮棒を振る。床の砂が螺旋状に舞い上がり、レナの膝を包む。粒子が光に変わり、立体ホログラムで傷口を拡大した。肉が裂ける微細な音すら可視化され、血の量、損傷深度、痛覚レセプタの発火パターン――科学的な“生の証明”が数万行。
観客コメントが渦を巻き、赤バーは〈未定 35%〉まで跳ねた。だが002と003の拮抗は崩れない。
◆ ◆ ◆
そのとき、ホールの壁が開いた。兄の影――いや、兄のログ人格を模した白衣の男が現れる。
仮面はない。顔立ちは秋人そっくりだが、眼の色が電子の白。彼が一歩進むたび、床に行番号がポップアップする。
「選択は終わっていない」
秋人の声が薄くこだまし、俺の鼓膜を凍らせる。
「レン、お前にハッピーエンドを書いてほしかっただけだ。だが選ばなかった。ならば僕が書く」
兄の背後でスクリーンが光り、投票バーが一気に002へ傾く。〈002 70%〉〈003 15%〉〈未定 15%〉
「待て!」
俺は叫ぶ。
「兄さんがやろうとしているのは殺人だ。俺を守るために他人を死なせるのは間違ってる!」
秋人は微笑むだけ。足元の行番号が増え、ログのペン先が空中を走る。
〈KillFlag=True〉の文字列がレナの死体へ突き刺さる。死体の表面が黒曜石から砕けて真紅の花を咲かせる。
「やめて!」
明日香が双剣を振るが、赤いコードが刀身を絡め、動きを止めた。
◆ ◆ ◆
俺はノートを開き、初めて“編集”のページへ指を置く。兄のログを上書きできる立場は俺しかいない。「書いたら負け」などと言っていられない。書かずに守れる命ではない。
ページが発光し、問いが浮かぶ。〈編集は罪か〉〈責任を負うか〉
「負うに決まってる!」
怒鳴り、ペンを走らせる。
Event_ID: #Stop_KillFlag
Target: Akihito_Yuuki_Log
Action: Force_ReadOnly
Reason: BrotherRequestRejected
行が確定する瞬間、ノートが重さを増して腕が痺れる。赤い炎がノートの端を舐めるが、文字列は灰にならず、黒光りする鉛字に沈んだ。
ホールで風が鳴る。秋人の身体から白いノイズが吹き出し、構造体がスローモーションで崩れた。
KillFlagが削除される。投票バーが下がる。〈002 40%〉〈003 40%〉〈未定 20%〉
均衡。
◆ ◆ ◆
兄は肩で息をするような仕草を見せた。それはログ人格には不要なはずの動きだったが、哀しげな温度が宿っていた。
「レン……。選べないお前を助けたかった。そのためなら物語を燃やしてもいいと、本気で思った」
「ありがとう。でもそれは俺の望みじゃない」
俺はノートを閉じ、兄に背を向ける。そしてレナ本人へ手を差し出す。
「君が生きている。痛みも赦しも忘れないまま。――それが探偵団の証言だ」
レナは涙で濡れた指を俺の手のひらに重ね、強く握り返す。ピッと短い合図音。スクリーンに最終投票が表示された。
〈002 35%〉〈003 30%〉〈未定 35%〉
決定権が未定に落ちた瞬間、ホール全体を覆っていた殺意の匂いが霧散した。壁の肉質は静脈の鼓動をやめ、コアツリーの根が光の粒となって天井へ舞い上がる。
アリサが深く息を吐き、膝を折りそうになった身を支えながら囁く。
「殺意ログは……終わった。誰も死ななかった。物語はあなた達に戻った」
兄の影は立ち尽くし、やがて微笑んだ。涙のかわりに白いノイズが頬からこぼれ、足元に残ったログの墨と混ざって消える。
「ハッピーエンドはまだ遠いけど」
彼は言った。
「最後のページが閉じるまで、読者として見ている」
言い終えると影は崩れ、砂になり、風が巻き上げて遥かな暗闇へ拡散していった。その砂粒の一つ一つが白い光点になり、夜空に残った星々と溶け合う。
◆ ◆ ◆
静寂。誰も息を詰める必要がなくなった世界で、図書館の床は木の甘い匂いを取り戻した。
明日香が双短剣を胸に収め、レナの肩を抱く。三条は壊れかけたレンズをスローモーションで外し、ポケットへしまった。誠司は指揮棒を鞘へ収め、夜空へ深々と礼をした。コアツリーの遙か高みで、名を持たない観客がページをそっと閉じる気配。
俺はノートの背表紙を撫でる。そこには新たな刻印が浮かんでいた。
〈Re:READER――真実を読んだ者〉
編集者ではない。創作者でもない。ただ物語を受け取り、次へ渡す者。探偵団《Re:Order》はこの章を超え、殺意を物語へ書き換えずに“読了”させた。
「まだページは残ってる」
明日香が笑う。
「ああ、でももう怖くない」
レナが頷く。
「痛みはあるけど、血は通ってる」
誠司が肩をすくめた。
「演出家としては人が死なないのも不満だが――ハッピーエンドより強い真実って奴を、少しだけ信じてみる気分だ」
「俺のカメラも戻った。次の幕をちゃんと撮れる」三条がレンズを磨く。「再生回数は気にしない。観客が一人でも、本当の実況は出来る」
俺はノートを高く掲げ、まだ白いページを風に翻す。
紙が夜空の光を受けて薄青に透け、一枚だけ千切れて舞い上がった。その紙には何も書かれていない――けれどタイトルだけが透かし文字で浮かんでいた。
『Re:迷宮の探偵帳 第六章――ログに刻まれた殺意』
こうして殺意は刃になることを諦め、ページのインクになった。
そして俺たちは歩き出す。まだ見ぬ第七章へ向け、痛みと赦しを抱いたまま、ページを開く音だけを背後に残して。