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第5章 Re:WRITER――記録を書き換える罪

 黒光りする樹の根元で、風は色も匂いも持たないまま音だけを残す。

 耳をかすめた瞬間に掻き消える無数の囁きは、まだ名前のつかない作者候補たちの息遣いか、それとも観客席のざわめきか。俺は掌に収まる真鍮装丁のノートを強く握り、深呼吸で肺の内側を擦った。

 ページは白紙。なのに重みは鉛のようで、意識の隙間に「書け」という圧が入り込む。


 ――書けば救える。編集すれば直せる。亡くしたものは物語の一句を置換すれば取り戻せる。


 甘い誘いは耳の奥に砂糖を溶かし、神経を痺れさせる。けれど指は動かない。

 俺は探偵だ。

 真実を壊してまでハッピーエンドを量産する義務はない。いや、義務以前に、そんなことをしてしまえば自分が自分を信じられなくなる。


 明日香が一歩前に出る。銀の双短剣から立ち上る虹色の火花は戻り切らず、刀身に不規則なひびが走ったままだ。彼女は苦い顔で剣を振りつつ、小声で俺を呼ぶ。


「レン。あんたのノートから黒い糸が出てる」

 見ると、表紙の隙間から細く撚られたコードが無数に伸び、地面へ潜りこんでいた。

 ノートは俺の意思とは無関係に吸収と放射をくり返し、コアツリーの根と交信している。


「筆箱から勝手に鉛筆が走り出して作文してる気分だな」

 三条が肩をすくめ、カメラをノートへ向けた。

「実況はオフだぞ」

 誠司が指揮棒でレンズを叩く。

「見せるべき瞬間はまだ先に残せ」

「これは裏側のメイキングさ。ヒーローの苦悩と舞台裏は観客が好む」

「嘘を好む観客もいるがな」

 レナが吐息交じりに笑い、口紅の欠片を爪で剝ぎ取った。彼女の唇にはもう色がない。

「物語よりスキャンダルのほうが甘い蜜だって知ってる」


 皮肉と諧謔が絡み合い、ギルドの空気は舌に苦い。だがそれすら“書き手の素材”になりうる。 

 俺たち五人は、観客も脚本家も入り交じる地獄の稽古場に放り込まれていた。


◆ ◆ ◆


 一時間後。

 コアツリーの幹を囲むように設けられた石造円形劇場――それが《Ouroboros-Root HALL》だと判明したのは、誠司の地形解析が完了したときだった。

 客席段には人影がない。代わりに黒曜石のマネキンが各列に等間隔で座り、全身に無数のカメラレンズを埋め込んでいる。レンズは俺たちを追い、虹彩が絞り込まれるみたいにシャッターを切る。

 舞台中央には透明な台座が一つ。その上に薄いパネルが浮かび、赤枠ウインドウが点滅していた。

 〈Re:WRITER アクセス中〉


「呼ばれてるのは俺だ」

 息を詰め、台座へ近づく。

 パネルが開き、テキストエディタそっくりのUIが表示された。上部には兄・秋人の“死亡ログ”が行番号付きで羅列されている。


 Event_ID: #A01-LastLogin

 Subject: Akihito_Yuuki

 Content: 「レン お前のせいじゃない」


 カーソルは「じゃない」の右端で点滅している。灰色の吹き出しが現れ、「ここを書き換えますか?」と促す。

 書き換えれば秋人の最後の言葉は変えられる。

「楽しかった」にも「助けて」にも。変えた瞬間、兄は「本当にそう言った人物」になる。

 後ろから明日香の息が触れる。

「……やる?」

 切実な問いだ。彼女は複数人格の崩壊で今にも自分を失いかけている。兄の死を改竄する代償で彼女が救われるなら、選択は合理的。


 でも――。

 指先がパネルを離れ、俺は深い息を吐く。

「編集しない」

「理由は?」

 三条がカメラ越しに尋ねる。

「兄貴の言葉を偽ったら、偽りを信じるのは俺自身だ。真実から逃げた探偵ほど滑稽なものはない」

 UIが赤く警告し、〈キャンセル〉を二度タップさせた後、画面がフェードアウトした。周囲のマネキンカメラが一斉にシャッターを切り、どこかで拍手のSEが流れる。

 裏側でNO-FACEが笑っている臭いがして背筋が冷えた。


◆ ◆ ◆


 拍手の残響が消えた瞬間、遠くの客席でもろい割れる音。黒曜石マネキンが一体、真っ二つに折れ、その裂け目から白い煙が噴き上がる。

 煙は絡み合い、人の姿を象り――秋人の背中だった。

 身体は灰色の砂粒で、内部は空洞。それでも立ち姿は懐かしい。シルエットが音もなく振り向き、顔の位置に真白な仮面が被さっていた。

 俺は思わず足を踏み出す。

 仮面が指を唇に当てる仕草をし、声ではなくテキストが舞台中央の空に走る。

 〈選ばれなかった物語を受け取る覚悟はあるか〉


「秋人なのか」

 喉の裏が切れそうな声で問う。返事はない。テキストがもう一行。

〈兄でも他人でもない。お前が書かなかった“もしも”だ〉


 仮面の秋人は拍手し、粉々に砕けた。砂は客席を覆う黒いカーテンへ吸い込まれ、舞台全体がゆっくり傾く。劇場が沈み、石段が崩れ、俺たちは重力のない奈落へ投げ出された。


◆ ◆ ◆


 無数の白紙が広がる空間に着地する。足場はなく、それでも落下は止まった。四方八方、原稿用紙サイズの紙がふわふわと漂い、近づくと行頭に「Scene_?」とだけ印字されている。

 レナが指で紙をつつくと、行数ぶんの空白が青い光を走って崩れ、紙は灰になった。


「ここは削除待ちフォルダ?」

 誠司がうなずく。

「ストーリーが採用しなかった分岐が捨てられる中間倉庫。普通は開発者さえ触らないゴミ箱だ」

「でも中身は全部空白だ」

 明日香が眉をしかめる。

「まだ何も書かれてない」

「これから“誰か”が書く。観客が好むシナリオをね」

 三条が肩をすくめる。

「問題は、誰がペンを握るか」


 俺の胸ポケットでノートが震えた。表紙が開き、白紙の一ページに赤インクが流れ込む。

 ――〈Re:WRITER_002 ログイン〉

 さらに行が続く。〈未使用プロット 自動採択〉

 そして画面全体が赤い警告をまき散らし、紙片が一斉に発火した。炎は青白く、文字通り新しいストーリーを焼きながら生成する。


 次の瞬間、俺たちは砂の闘技場へ叩きつけられた。

 観客席はなく、円形スタンドは夜色の濃霧で覆われ、照明は暗紅。砂の上に人影が四つ。俺たちのチーム全員だ。だが――。

 レナが片膝をつき、唇を舐めるように笑う。

「脚本が与えられた。殺意という名の――!」


◆ ◆ ◆


 砂を巻き上げ、レナが俺へ跳ぶ。右手から伸びる爪型エフェクトが喉元を狙う。明日香が間に入り、双剣のクロスガードでレナの腕を弾く。金属の火花。衝撃波。レナは空中で回転し、左足で三条のカメラを蹴り飛ばす。

 三条はのけぞりながら叫ぶ。

「ログが改竄されてる! レナの暴力係数が三倍!」

 誠司が指揮棒を振り下ろし、地形改変のスクリプトを発動。足元の砂が石の壁へ変わり、レナを閉じ込める。石壁には赤いひびが瞬時に走り、内側からドラミングのような衝撃が続く。


「閉じ込めは長く保たない」

 誠司が顎を引き、指揮棒を水平に構える。

「原因ログを探せ」

 俺は《スキャン・ログ》を周囲へ走らせる。闘技場上空にノイズの塊。紫色のワイヤーボールが浮かび、そこから赤いストリームがレナの背中へ延びている。


 ――ログの呼び水。Re:WRITER_002が書いた「レナ=暴走」の一行が彼女を人形にしている。

 UIを開き、ノートへ直接“打ち消し線”のコマンドを書く。しかし文字は灰色に変わるだけで、ストリームは消えない。

「無駄ね」

 紙のような声が闘技場に響く。霧のスタンド最上段、仮面を付けた秋人シルエットが指を振った。

「最初の作家が決めた枠は、なかったことにはできない。君がノートを使う覚悟を決めない限り」

「俺は編集しない」

「ならば記録は進む。彼女が君の喉を裂く結末も含めて」

 石壁が破裂。レナが血のような光をまとって飛び出す。彼女の目は真っ黒で、瞳孔が見当たらない。


◆ ◆ ◆


 衝突の音は鐘のようだ。明日香の双剣がレナの爪を連続で受け、刃同士がきしむたび、周囲の砂がガラス質へ焼ける。

「お願い! 目を覚まして!」

 明日香の叫びが焦点を逸らせた一瞬、レナの指先が彼女の脇腹をかすめ、袖が裂けた。

 血は出ない。だがシステムカットインで《精神感染:50%》が明日香のステータスに表示される。


 明日香の瞳が霞んだ。自分自身に疑念の影が射し込む。Asuka_00が内部から扉を叩くのがわかる。

 俺は決断する。ノートを開き、白紙に一文だけ書く。

 〈RED QUEEN 直前ログ 書き換え禁止〉

 赤インクが走り、レナと繋がるストリームが灰色へ変わった。

 暴走フラグが凍結され、レナの動きが微かに鈍る。だがそれは一時的。灰色のストリームはすぐ色を取り戻し、より太く心臓に根を下ろした。


 仮面の秋人が嘲るように拍手。

「感想は?」

「くそったれだ」

俺はノートを閉じ、息を吸う。

「編集させたいんだろ。なら俺たちは書き換えないまま、結末を変えてやる」

「観客が退屈するかもしれない」

「俺たち自身が観客だ。退屈しない結末を自分で作る」

 誠司が頷き、地面に複数のコードラインを描く。

「じゃあ演出は任せろ。記録を残すための舞台転換だ」


◆ ◆ ◆


 次の瞬間、闘技場の砂は一斉に逆流し、渦巻く壁となって上空へ舞い上がる。誠司のスクリプトがロケーションデータをハッキングし、地形を「図書館」へ上書きしたのだ。

 砂が棚と書架に変わる。木の匂いが立ち、紙の乾いた擦過音が耳を満たす。天井は硝子のドームになり、星雲を思わせるデータ光が外を流れる。

 レナが自分の爪を見つめ、立ち尽くす。足元のカーペットが彼女の体重を柔らかく受け、感染スキルの凍結値が少し下がった。


「ここは……?」

「知識と記録の聖域」

 誠司が胸を張り、指揮棒で棚を示す。

「攻撃よりも言葉が力を持つ」

 三条がすかさず実況を開始。

「ようこそ《Archive=ZERO》。未採用ログの墓場にして、選択されなかったセリフの保管庫。ページに触れれば、語られぬ過去が自動朗読される。――ほら」


 彼が適当な本を抜くと、図書館全体に少女のすすり泣きが木霊した。

 レナの幼い頃の声。「壊れた人形を直したい」と呟く三歳の記憶。

 レナの爪が震え、感染スキルが再度低下する。

 俺はすれ違いざまに囁いた。

「レナ。直したいなら、まず触れろ。自分の記録を」

 彼女は躊躇い、それでも書架へ手を伸ばす。本を開く。ページが光り、数行のログが浮かぶ――


 〈Subject: RED QUEEN(九条レナ)〉

 〈事件: VR誘導ミスによるプレイヤー死亡(倫理検証段階)〉

 〈被疑者: レナ(未成年加害者)〉

 〈備考: 保護観察中 記録は凍結〉


 レナの肩が跳ね、息が詰まる。

「やっぱり消したい……!」

 明日香がそっと背中に腕を回す。

「消えないけど、私たちは赦せる。自分で自分を裁く必要はない」

 レナは唇を噛み、ページを閉じた。

「赦されたいわけじゃない。忘れたくないだけ……」


 その言葉と共に、彼女のステータスから《精神感染》アイコンが消えた。

 暴走を書いた脚本が破棄された証拠だ。観客席から野次が飛ぶようなざわめきが起き、しかし霧の中で誰も拍手しない。


◆ ◆ ◆


 次は明日香だ。棚から引き抜いた本は真っ白で、タイトルだけが黒く刻まれている――〈Asuka_00〉。ページを開くと、人格テンプレートの生成ログが機械語で列挙されていた。

 明日香が震えた。

「私……最初はNPCだったってこと?」

「違う」

 俺は横で首を振る。

「NPCと人間の間に線を引くのは運営の都合だ。君が今、ここで感じてる痛みや喜びが本物なら、人間より人間だ」

 彼女はページを抱きしめ、目を閉じる。

「じゃあ私の中の子も本物?」

「もちろん」

三条が言う。

「実装失敗だろうとデータだろうと、存在は否定できない。記録がある限り、観測者がいる限り、彼女はいる」

 明日香の剣が再度光り、刀身のひびが塞がる。Asuka_00からのアクセスが収束し、HUDに緑の統合アイコンが点灯した。


◆ ◆ ◆


 最後に俺自身。棚に一冊だけ、鎖で縛られた本があった。タイトルは刻印すらない。触れると鎖が解け、ページが開いた。

 第一行目にこうあった。〈Re:WRITER_001 NO-FACE〉

 次の行に〈Re:WRITER_002 Akihito_Yuuki〉そして三行目。〈Re:WRITER_003 Yuuki_Ren〉


 目が霞む。兄が002として登録されている。俺は003。兄は俺を守るためだけに“書き換え”を重ね、ゴースト化した。そして今、物語を乗っ取ろうとしている。

 ページの余白に赤文字。兄の筆跡を模した癖。「レン ハッピーエンドを書いてくれ」

 涙が滲む。けれど俺はペンを取らない。


「ハッピーエンドは書くものじゃない。生きて掴むものだ」

 ノートを閉じ、図書館の床に置く。ページに触れた瞬間、鎖が再び生え、書籍は石のように重く沈んだ。背表紙に新たな刻印。〈Re:READER〉

 俺は振り返る。

 明日香、レナ、三条、誠司――皆が頷いている。「これでいい」と。


◆ ◆ ◆


 図書館の天窓が砕け、星雲の光が降る。仮面の秋人が立ち尽くし、初めて声を出した。

「ならば僕はどうなる?」

「観察者に戻れ」

 俺は言う。

「書き手じゃなく、読者として俺たちの物語を読め」

 仮面が揺れ、不思議そうに首を傾げた。

「読者は語らない」

「語らなくていい。ただ見届けろ。君が残した罪も希望も、俺たちが最後まで運ぶ」

 長い沈黙。やがて仮面にひびが入り、秋人の声色が混濁した。

「……ありがとう」

 言葉の後で仮面は崩れ、砂となって消えた。スタンドの霧が晴れ、無人の客席が露わになる。カメラマネキンは一斉に頭を垂れ、レンズが砕けて落ちた。

 照明が白く灯り、図書館の天井が高い朝焼けへ書き換わる。システムメッセージが音もなく浮かぶ。〈Re:WRITER_002 ログ退席〉〈観察モードへ降格〉


◆ ◆ ◆


 俺たちは肩を寄せ合い、まだ温かいページを手に取った。タイトルが浮かび上がる。

 『Re:迷宮の探偵帳 第五章――Re:WRITER、罪を綴らず』


 心臓が静かに打つ。書かなかったことで救われた物語が、書かないままに確かに存在する。

 遠くで掌を打つ音。見上げれば、NO-FACEが仮面を外さぬまま笑っていた。

「君たちは創らなかった。だが物語は確かに進んだ。――お見事」

「観察をやめる気は?」

 誠司が問う。

「観察者は読者とは違う。僕は最後のページが閉じる瞬間を見届けるだけ」

「最後のページは俺たちが決める」

 俺はノートを胸に抱え、青空へ顔を向けた。

「まだ先は長い。章は折り返したばかりだ」


 ページが風にめくれ、白紙がひらりと宙を舞う。

 もうペン先が勝手に走ることはない。書くのは俺たち。読者は未来。

 ハッピーエンドはまだ遠いが、確かなことが一つ。

 ――これは、俺たちが編集しなかったからこそ生き延びた、真実の“途中”だ。


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