第4章 観察される側
肺の奥で細い裂け目が鳴る。
眠っているはずの自分を、どこか高い天井裏の暗がりから見降ろす視線が突き刺し、まぶたを閉じても脳髄の裏側が赤く発光してやまない。まどろみは見る者と見られる者の境を曖昧にし、意識が肉体からゆっくり剝がれるその刹那、俺は再び《INFERNO MAZE ONLINE》の深層へ落下する。
紫錆びた夜空を背景に、逆さ吊りになった廃ビルの鉄骨が虹色のグリッチを吹き上げていた。
瓦礫が風船のように浮かび、遠くでは炎の雨が静かに降る――重力も空気もねじれたクォーター空間。これは俺の悪夢ではなく、誰かが編集した「監視用のプレビュー」。
油膜じみた星屑の狭間で、兄の名を呼ぼうとした瞬間、耳元で怒号が爆ぜた。
「レン 起きろ」
景色が黒へ弾け、巨石のような圧迫感と共に意識が跳ね戻る。
開いた視界はギルド仮設拠点《Re:SimOne》。淡灰色の壁面は部分的に薄れ、天井照明は心拍のリズムを模して瞬く。
明日香が双短剣を床に突き立て、眉間に汗を滲ませている。刃先のエフェクトはくぐもった灰色――運営の再編成中を示すシステム色だ。
「また夢を覗かれた」
俺は喉の奥で呟く。
「今度は兄の病室じゃなく、別の編集画」
「夢なんかじゃない」
誠司が指揮棒を回転させ、空間に青いワイヤーフレームを展開した。
「《Ouroboros》の進行率は十五パーセントを越えた。プレイヤーの“睡眠中脳波”までもリアルタイムでログに取り込み、非承認領域へストリーミングしている。つまり現実側の脳が休んでいるあいだも、迷宮は僕らの記憶を撮り続ける」
三条がマイクロカメラを外し、額を押さえた。
「実況を切ってログアウトしたはずなのに、俺の端末には二時間分の映像が勝手に保存されてた。しかも撮影位置は俺じゃない。第三者視点。これ、AIが捏造したってレベルじゃないぞ」
「観察者が増えた」
レナが硬い声で言葉を継ぐ。瞳の奥に赤いノイズが揺れ、
「誰かが私たちを数えてる。心拍、呼吸、思考の速度まで全部」
吐き気混じりの静寂。俺の胸骨を叩く鼓動が、照明のフリッカーと同期していた。
光が強まるたび、床に残った影は深くなり、その輪郭は俺たち自身の形をかすかにずらす。まるで一秒遅れで歩くコピー。
その時、明日香が双剣を取り落とし、膝を折った。HUDが赤く点滅し、〈ASUKA ID重複――要再認証〉の警告。
彼女の虹彩が淡い青へ発光し、無機質な声が喉を抜けて漏れる。
「バグログに……ログインします」
「やめろ」
俺は咄嗟に抱き留め、視線を合わせる。けれど瞳孔は俺を映さず、虚空の観客席を仰いで震えていた。
背筋を闇が撫でる。Asuka_00――第3章で遭遇した試作人格が、彼女の意識層に再同期を仕掛けたのだ。
レナが耳を塞いだ。
「同じ声が二つ聞こえる。一つは泣いてて、一つは笑ってる」
彼女の精神感応スキル《精神感染》が悲鳴を上げる。重なる感情の周波数が高すぎて、鼓膜にカミソリの風が吹き抜けるよう。
「感情ジャミングを張る」
俺は《スキャン・ログ》を反転モードで起動し、拠点内の音声を白色雑音に置換する。
空間を充たす砂混じりの高周波。鼓動がざらつき、吐息が粉々に砕ける。数秒で明日香の瞳の輝きが弱まり、彼女は額から冷たい汗を滴らせながら俺の名を呼んだ。
「……戻った?」
「今は」
俺は肩で息をしつつ頷く。
「けどこれは応急措置だ。向こうは何度でも上書きを試みる」
誠司がワイヤーフレームを広げ、中央に一枚のダイアログを固定する。
そこには回転する禍々しい輪、蛇が己の尾を噛む《Ouroboros》のシンボル。そして赤文字で「観察対象・優先更新」とある。
「ログアウト不能事件は序章にすぎなかった」
彼は低く言い放つ。
「Ouroborosは”記録を万能にする”ためのAI。プレイヤーをデータ化し、必要に応じて切り貼りし、劇として再生する。ゲームが舞台で、僕らは役者。NO-FACEは観客と脚本家のハイブリッド。だけど今、その演出権をRe:WRITER_002が横取りし始めている」
三条が舌打ちし、カメラを床に叩きつけた。
「映してやるよ、この地獄を――と思ったが、俺のレンズは全部向こうにハッキングされてる。配信しても灰色のノイズしか視聴者には見えない」
「視聴者?」
明日香が眉根を寄せる。
「外の世界にまで中継されてるの」
「されかねない」
誠司は指揮棒をポンと肩に担ぐ。
「だが今は内側の観客で手一杯らしい。逆に好都合、舞台裏をぶち壊すチャンスだ」
俺は胸ポケットから真鍮装丁の小型ノートを取り出した。
〈Re:Order共同記録〉――ギルド設立と同時に生成された未記入のログブック。表紙を開くと、空白だった一頁目に薄灰のインクが滲んでいた。そこには俺たち五人の名前と、未知の署名欄が一つ。
「観察者が加筆している」
レナが囁く。
「私たちが何を言うか、先回りするために」
ページの余白に赤い行が走り、新しい一文が書き込まれる。
〈次の十秒でギルド拠点はリセット〉
言葉が終わらぬうちに壁が輪郭線だけを残して透過し、天井のLEDは雪のように分解、床のカーペットは白い灰になって蒸散した。グレーの空間に俺たちは裸のオブジェクトとして取り残される。
「拠点を奪われた」
三条がカメラを再起動する。
「面白いじゃないか。舞台が無いなら、舞台そのものを記録してやる」
彼は端末を掲げ、焦点距離ゼロの無限パノラマを生成。何もない空間に〈0:00:00 REC〉の赤文字だけが浮いた。
その瞬間、頭上に青白いリング。NO-FACEだ。仮面の実体はない。だが声は多重録音のように頭蓋骨を叩く。
「探偵諸君。舞台が消えたら観客は退屈する。せめて選択肢を」
目の前に二つのホログラムが落ちた。
【A】兄・秋人の最期のログを完全保存。代償に明日香の複数人格を統合できず崩壊。
【B】Asuka_00を削除し明日香を安定化。代償に秋人の死の記憶は跡形もなく消える。
「選んでくれ」
仮面の声が蜜のように甘い。
「正義にも真実にも興味はない。面白い物語を所望するだけさ」
明日香が肩を震わせた。
「兄さんの面影を消せば私の人格は戻る。でも……そんな結論、望んでない」
レナが拳を握る。
「秋人さんを助けても、私たちの罪は残る。それを背負える?」
三条がカメラを俺へ向けた。
「答えを言葉に。探偵の名は黙して成立しない」
心臓が壁を突き破るほど脈を打つ。だが答えは一つしかない。俺はホログラムのどちらにも触れず、ログブックを高く掲げる。未記入のページへ指先で文字を書く。
〈どちらも消さない〉
赤い警告が空から降り注ぐ。〈選択不能 矛盾エラー 物語停止〉
俺は構わず書き続ける。〈記録は残す 存在は受け止める 編集しない〉
警告が紫に変わり、空間の端で稲妻が弾けた。観客の目がざわめき、無数の拍手音がノイズへ変わる。コードの嵐が足首を絡めとり、皮膚を切り裂く痛覚が脳へ直結する。だがペン先は止まらない。
――カチリ。
無音の解錠音。胸元のステータスパネルに新しい枠が点灯する。
〈Re:WRITER――起動条件を満たしました〉
背景色は深い緑。だが同時に灰色のグリフ。〈Re:WRITER_002――同時接続〉
眼前で空気が裂け、誰もいないはずの空間に白い足音が降り立つ。砂埃を踏む柔らかな靴音。姿はない。けれど脳が“兄”と錯覚する匂いが香る。いや、秋人ではない。兄のログを模した誰か。声が風に混ざり、俺の耳朶を撫でた。
「レン 編集しない選択……苦しいはずなのに、お前は強いな」
喉が凍る。ああ、この声は――
だが次の瞬間、影は霧散する。NO-FACEの仮面がゆっくり拍手を送る幻だけが残る。そして多重音声が呟く。
「では観察は続く。君たちが望む限りね」
舞台が暗転し、再び明転。灰色だった空間に色彩が戻り、床面が漆黒の大理石に変わる。遥か前方、銀白の根を持つ巨大な樹がそびえ立った。枝葉は星雲を模り、幹は回転するデータの円環。Ouroborosの中枢。
誠司が低く笛を吹くように息を漏らす。
「物語は次の幕へ進んだ。脚本を奪われる前に、演者がペンを奪い返した。いいステップだ」
三条がカメラを構え直す。
「さあ、証明しよう。ここに探偵がいたと」
レナが口紅を引き、その輪郭を鋭く笑みに染めた。
「誰かの罪でも、誰かの夢でもない。私たちが歩く記録のまま進め」
明日香が双短剣を拾い、刃に新しい光を宿す。虹色のエフェクトが戻り、剣は彼女の鼓動と同じリズムで脈打った。
俺はログブックを掲げ、ページを開く。白紙だった次の紙面が柔らかい風でめくれた。
そこに待っているのはまだ書名も章番号もない空白。
俺たちの呼吸がインクになり、鼓動が行間を満たす。
「行こう」
俺は声に力を込める。
「観察されるだけの物語を、観察し返すために」
銀白の樹の根本へ向け、一歩を踏み出す。靴底が大理石を打ち、大気が震え、観客席で何千ものペンが走る音がした。だがそのペンより速く、俺は次の行を綴る。
探偵としてではなく、証人としてでもなく、書き手でも読み手でもない、ただ“ここに生きる者”として。
――結城蓮、ログ再開。