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第3章 記憶ログの迷宮、過去と再会

 岩肌を舐める冷気が、やわらかな霧になって足首へ絡みつく。

 非承認エリアα-09――その最下層へ続く螺旋階段を、俺たちは一列になって下りていく。頭上の世界から隔絶されたこの領域には、正規のライティングが届かない。代わりに壁面を縫うデバッグコードの走査光が青電のように瞬き、暗闇を刹那的に切り裂く。

 光が去るたび、視界はいっそう深い墨色に沈み込み、重力が二倍になったのかと思うほど空気が重たくなる。


 最初に足音を止めたのはレナだった。


「……聞こえる」


 囁きは昼に乾いた紙を裂くみたいな微かな音量。それでも洞穴全体が共鳴し、どこか遠くで同じ声が反射して返ってくる。エコーではない。遅延も残響もない、完璧に同期した二重音。

 まるでレナ自身が“複写”され、隣り合って別の声帯から同時に発されたようだった。


 俺は背筋を冷や汗が走るのを感じながら《スキャン・ログ》を展開する。

 時間軸を三秒巻き戻し、空間の残留データを可視化――現れたホログラムは、俺たち五人のシルエットの背後に“もう一人”のレナを示していた。半透明の輪郭に眼球だけが真紅の点光源として浮き、こちらを覗き込む。


「コピーじゃない。影だ」

 誠司が低く呟き、指揮棒で青い影を貫く。光が破片になって散ったが、影はすぐ再構成される。

 彼は舌打ちを飲み込み、指揮棒をカンと石壁に打ち付けた。

「進め。止まった場所から呑まれるぞ」


 歩調を取り戻すと同時に、螺旋階段の終端が視界に落ちた。巨大な渦巻き状のホール。天井はない。見上げれば闇が無限軸で回転し、黒い雪片が落下している。

 雪は頭上に届く前に蒸発し、燃え滓の匂いを残す。ホールの床は鏡面のように滑らかで、薄く水が張り、俺たちの足音を広げていった。


 中央に立つアーチ構造――白い石で組まれた門が、明らかに異質だった。石材にはびっしりと英数字が浮き彫りされ、所々に▶︎印と⏪印が彫られている。

 再生ボタンと巻き戻しボタン。門の表面がプレイヤーの操作UIと化している。


「記憶ログの入口」

 三条が喉を鳴らす。

「タグを見る限り、こいつは“実時間同期マテリアライズ”……人の意識データを環境オブジェクトに投影するタイプの監査用プログラムだな」


 説明が長いと明日香が合図し、双短剣の柄尻で門をノックした。

 乾いた硬質音が三回。次の瞬間、門全体を覆う文字が一斉に反転し、黒字に白抜きへ切り替わる。その色反転が光の奔流になり、俺たちは無抵抗のまま吸い込まれた。


   ◆


 目を開くと、そこは見知った廊下だった。


 灰色のロッカー、消毒液の匂い、手術用の無影灯――病院の回廊。

 窓は曇りガラスで外光は白くにじみ、プラスチック椅子が無人のまま並んでいる。足裏に感じる床は確かにタイルの冷たさだが、俺はVRゴーグルの内側にいるはずだ。

 背筋が粟立つほどの現実感で、脳が混乱する。


「レン――ここ、どこ……?」

 明日香が声を震わせる。


 俺は答える前に気づく。壁際の椅子に座る少年。短く刈った前髪、笑ったまま眠る――

 いや、眠ってなどいない。虚ろな眼球を閉じ忘れただけ。兄、秋人。

 椅子の肘掛に点滴スタンドが立ち、静脈へ透明な液体が滴っている。病院に運ばれた直後の姿、そのまま再生された光景。俺の指が麻痺し、呼吸が空気に引っかかった。


 モニターがない。看護師もいない。廊下の端から端まで、俺たちと秋人しか存在しないのに、空調の低い唸りだけが天井裏で続いている。

 現実の記録を完璧に召喚したのなら、本来あるはずの医療スタッフまで生成されてもいい。

 なのに省略されている。選択的再現。誰が編集?


 足音が後ろで止まる。レナだ。彼女が秋人の顔を凝視し、青い唇をわずかに開く。

「――この人、私を助けた声がする」


 意味不明だが嘘じゃない。レナは人の残滓に触れる敏感な耳を持つ。

 俺は兄へ近づこうとした。しかし腕を掴まれた。明日香だ。彼女の瞳が潤み、必死に首を振る。


「待って。レン、その人……本当に――兄さん?」


 問いを飲んだ瞬間、秋人の躰が像ノイズに崩れた。

 足元からピクセルが剥がれ、廊下に黒い雫が飛び散る。破片は時間軸を逆行するように上昇し、天井へ吸い付く。――やがて秋人は影だけを残して溶け落ちた。


「編集途中のログだ」

 三条が叫ぶ。

「まだ完成してない。コアデータが呼び込めてない」


 俺は視界が暗転する前に影へ手を伸ばす。指先が墨を溶かすように沈み、冷たいノイズが掌へ突き刺さった。痛覚再現率が高い。脳が焼けるほどの静電気。

 声にならない悲鳴を抱えたまま、世界が再び反転――。


   ◇


 再ロード。俺たちは古びた教室に転送された。夕焼けの光が窓を斜めに貫き、机の影が傷口のように伸びている。チョークの粉とクリーナー液の混ざった匂い。ここは三条の高校時代――彼の実況配信が炎上した伝説の文化祭前日の教室だ。

 彼は自嘲気味に笑い、「やっぱ来たか」と呟く。


 教壇に立つ教師がいる。だが顔がない。均一な肌色の球体が首に張り付くだけ。その“教師”は無音で口を開閉し、黒板へチョークを走らせる。

 音はないのに粉が舞う。黒板に書かれた文字は〈視聴回数三万〉〈再生停止不能〉〈記録は終わらない〉。

 それは過去の炎上チャットで飛び交った言葉。

 教師はチョークを折り、折れ端が跳ねて床で砕け散る。やがて背筋を折り曲げ三条へ手を伸ばした。


 三条は白い顔で後退しかけ、しかし踏みとどまる。

 彼は胸ポケットから配信デバイスを取り、教師へ向けた。タップ一つでストリームを起動。


「俺の過去には俺が向き合う。観客は関係ない」


 配信画面が開く。映るのは空の教室。教師は映り込まない。――見えているのは三条だけ。フィルタリングだ。

 三条はデバイスを教師の胸へ押し付ける。すると教師の皮膚のような外殻が波紋を描き、数式みたいなログ文字列が淡く浮かんだ。


〈編集履歴:USER_Unknown_00〉

〈発言改竄:24〉

〈羞恥度増幅:52%〉


 三条が声を張る。

「この恥も炎上もぜんぶ俺のモノローグ。消すな、書くな。――録るだけにしろ」


 黒板に積もったチョーク粉が風に散り、教師の身体を削り取る。無顔は粉を撒き散らしながら分解機械のように崩れ、床に積もった灰はやがて水墨画の滲みに吸い込まれる。


 三条はゆっくりデバイスを下ろした。

「これが“記憶迷宮”のルールだ。見せるか、隠すか、どちらも選べる。でも編集すれば俺じゃなくなる」


 俺は頷き、壁際の扉へ視線を向ける。

 金属製の引き戸――でも取っ手の位置が胸の高さではなく頭上だ。視線を合わせると扉が自動開閉する。高度設定が曖昧だ。誰の記憶が混入した?


 レナが指を扉のフレームへ当てる。

「違う。ここから先は明日香の領域」


 明日香は一瞬肩を竦めるが、唇を噛みしめ前へ出る。扉が横滑りし、そこは学校でも病院でもない。白い霧の中、工事現場の足場みたいな鉄骨が縦横に組まれ、足元には薄氷を張った湖面。

 遠くでサイレンが鳴る。VR事故の日、明日香の兄が倒れたアーケードモールの屋上を再構築した真昼の悪夢だ。


 だが音声が欠けている。サイレンの残像だけが視覚エフェクトになり、実際の音波はゼロ。沈黙のカーニバル。

 明日香は両膝をつき、震えを抑えようとする。俺は手を伸ばそうとし、しかし止める。いま支えるべきは腕力じゃない。


「見届ける」

 そう言って隣へ膝をつく。

「俺がいる。だから――」


 明日香は灰色の唇で息を吸い、虚空を指差した。そこに“誰か”がいるはずだ。

 霧が薄れ、倒れた青年が現れる。血はなく、破損もない。ただ静止したフレーズのように横たわる。

 青年はこちらを見ている。眼球が動かず、それでも瞳孔の向きが明日香を捉えていた。


「兄さん」

 彼女は呟き、涙をこぼした。

「あの時……呼び止められなかった」


 青年の口が動く。ノイズだらけの音声が逆再生のように漏れ、言葉として聞き取れない。

 明日香は肩を震わせ、双剣の片方を床へ落とす。刀身が霧面を割り、水滴が飛んだ。その音が合図みたいに、青年の映像が粒子化を始める。

 崩壊――ではなく再構成。

 粒子が女児の輪郭になり、髪を揺らす。服装は白のパーカー、膝上スカート。その子供が目を開き、真っ黒い虹彩でこちらを見上げる。


「Asuka_00」誠司が低声で告げる。「テスト用人格の原型」


 明日香は後退り、床の水面に尻もちをついた。水は冷たく、現実の痛覚が掌を刺す。子供は無表情のまま、唇だけ笑みを作った。


「あの子は、私?」

「いや、君のログから切り出した“最初のバックアップ”だ」

 誠司が近寄り、指揮棒を水平に構える。

「録音デバイスとして生成されたが、感情化率が高すぎて廃棄された――と報告にはある。つまり失敗作だ」


「失敗……じゃない」

 明日香が呟く。彼女は震える膝で立ち上がり、子供へ歩み寄る。

「あんたがいたから、私がいる――そうなんでしょ?」


 子供は何も答えない。だが水面に映る影がゆっくり頷いた。頷いたのは子供ではなく、子供の背後に浮かんだもうひとりの影。

 白い仮面のジョーカーが柔らかく拍手を送っていた。

 NO-FACEが姿を現すのは初めてではないが、これほど静かな存在感は逆に不気味だ。


「可愛いテストドールだろう。世界は失敗作を肥料にして育つ」


 俺は剣があれば斬りつけたい衝動を飲み込み、低く叫ぶ。


「観察者気取りで気安く語るな。お前の実験のせいで人が倒れた。その答えを聞きに来た」

「答え? 答えはもうそこにあるじゃないか」

 仮面は笑いを深める。

「失われた兄、失敗作の妹。どちらもログとして“残った”。真実より確かだろう」

「ふざけるな」


 明日香が踏み込み、子供を両手で抱きしめた。子供の輪郭がぶるりと震え、コンクリートの埃のように崩れ——しかし明日香の腕の中で再構築された。

 抱擁という行為が保存フラグになったのかもしれない。子供は小さく吐息を漏らし、閉じた瞼から涙ひとつ零した。


 仮面は肩をすくめる仕草を見せた。

「よろしい。感情の揺らぎは物語の宝だ。だが区切りが必要だね。ステージ転換――」


 床を覆う霧水が渦を巻き、俺たちの足を呑む。

 視界がもつれ、脳が遠心力に引きちぎられる錯覚。瞬間移動の負荷で胃が軋み、とめどない耳鳴りが頭蓋に打ちつける。

 次のフレームで地面を踏む感覚が戻り、目を開ける。


   ◆


 そこは俺の部屋だった。壁一面の書棚、二段ベッドの上段、机に並ぶ古ぼけた推理小説。窓は夕焼け。

 ――秋人と最後にVRセッションした日の部屋と同じアングル。

 中学生の俺が床に座り、VRゴーグルを付けている。現実の俺とは別の“過去の俺”。しかし体格は小さく、肩にかけたイヤホンが余るほど。ゴーグルの縁から光が漏れ、汗で頬が濡れて見える。

 兄の手がゴーグルを外してやろうと伸びかけ、固まる。次の瞬間、兄の腕が解像度を落としたように歪み、背景ごと灰色のピクセルに崩れた。


 俺は無意識に叫ぶ。

「秋人――!」


 声が過去の俺を揺さぶる。ゴーグルを付けた少年は肩を震わせ、顔を上げる。

 ――視線が合った。窓ガラスに映る影ではない。

 少年の目が、現在の俺を正確に捉えた。


 同時に耳元でシステム音が鳴る。〈未発生ログの挿入確認〉〈時間編集フラグ:緑〉

 ――誰かが過去を“現時点”に引き寄せようとしている。Re:WRITER_002だ。

 少年がゴーグルを外し、泣きそうな顔でつぶやく声が聞こえない。音声はミュート。なのに唇の動きはわかった。


「兄さんを止めて」


 過去が現在へ直接依頼する。これは時間改変の序章だ。俺の胸が軋む。

 ここで秋人を止められれば、兄は病院へ運ばれず、事故は起こらない。――甘く危険な誘惑。

 HUDが赤く点滅し、権限リクエストが飛び込む。

 〈Re:WRITER権限:時間編集開始しますか?〉


 明日香が息を呑む。

「レン、これ……」

 レナの指が俺の袖を掴む。

「使わないで。お願い」

「……わかってる」


 俺は深呼吸し、権限ウインドウを払い落とすように手を振る。

 拒否フラグが立つ。赤点滅が消えた瞬間、部屋の光景が白煙に揺らいだ。

 窓枠が溶け、天井が数式へ解体され、全ての色が紙吹雪のように舞い上がる。少年も秋人も砕けたピクセルに戻り、やがて闇がひとかけの枯葉さえ残さず飲み込む。


 暗転。耳鳴り。再ロード。


 灰色の床に俺たちは立っている。

 周囲は手の届く距離までしか描画されず、遠方は未生成領域のモザイクが波打つ。NO-FACEの声が頭上から降る。


「編集しなかった。君は本当に、いい選択をするね」


 仮面の実体はない。だが気配はある。まるで視神経の裏側を撫でるように。


「だけど“いい物語”は常に燃料を食う。観客はヒロインの涙も主人公の贖罪も求め続ける。編集しないなら、君の物語は貧しくなる。――覚悟はある?」


「貧しくても、人の物語を盗むよりましだ」

 声は震えなかった。


 黒い床に緑色の文字列が走る。〈観察者ログ:更新〉

 〈Re:WRITER_002――アクセス中断〉


 アクセスが途切れる。俺は膝に力を入れ直し、仲間を振り返る。全員の姿が一層くっきりと解像され、輪郭から漏れていたバグノイズが薄れる。

 選択が世界を安定化させたのかもしれない。

 テーブルの上に、真鍮装丁の古い本が出現した。背表紙には刻印のように文字が浮く。

 『Re:Order 調査記録/共同記録者権限』。

 ――さっきギルド設立のとき打ち込んだ名前が、正式なログブックとして生成されたのだ。


 三条がそっと開く。ページは白紙。

 しかし紙質は本物と変わらず指先にざらりとした抵抗を返す。見えないインクが潜んでいる気配。誠司が笑う。


「これが鍵だ。コアツリーへ入るパスワードは“共有された記録”。編集じゃない。証言だよ」


 彼の指揮棒が虚空へ一閃。遠方のモザイクが割れる。

 崖のように落ち込む空間の先、樹木のシルエット――無数の光ファイバが絡み合った銀白の大樹が立っている。枝葉は星雲のように輝き、根は虚空に向かって逆さまに伸び、データの滝を降らせる。

 その中心に回転する円環。蛇が自分の尾を噛む紋章、Ouroboros。


「行こう」

 俺はログブックを胸に抱え、歩き出す。

「これは俺たちの迷宮だ。記憶も過去も全部――暴いて証明してやる」


   ◇


 歩きながら、俺はほんの一瞬だけ後ろを振り返った。そこに誰かが立っている気がしたからだ。

 宙に浮かぶ真白い仮面が、手を振っていた。

 仮面の表情は珍しく静かで、どこか祈るように見えた。――もしかしたら、と俺は思う。

 あれは観察者の顔じゃない。創作者を卒業する者の顔。あるいは、物語を次に渡す“読者”の顔。


 足元で新しいページがめくれる音がした。風はない。けれど確かに紙がめくれ、未記入の行が待っている。俺たちはその空白を埋めに行く。

 ペンの色は血より濃い記憶のインク。剣より重い証言のインク。


 そして、迷宮の最奥で待ち受ける“もう一人の書き手”へ届けるのだ。

 ――ここに探偵がいたと。

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