第1章 Re:迷宮、事件発生
放課後の廊下を吹き抜ける、湿気を孕んだ四月の風が制服の裾を微かに揺らす。
教室の扉は開け放たれているが、誰も俺に視線を投げない。黒板前で野球部の田嶋が「春季大会の初戦さ――」と叫んでいるのを横目に、俺はスマホを握り直す。
待ち受けに固定された一枚の写真――ピースサインを浮かべる兄の笑顔が、液晶にほの白く滲んでいる。
「今日も《インフェルノ》?」
同じ委員会の綾香が肩越しに囁く。
「まあね。依頼が立て込んでる」
俺はおどけた調子で返し、ロッカーから鞄を引き抜く。
綾香の興味は一瞬でスマホのニュースへ逸れ、俺は壁際の人影に戻る――モブの立ち位置は気楽だ。
駅前のゲートを抜け、細い路地のネットカフェへ滑り込む。半地下の個室ブースには甘いポップコーンの匂いがこもり、ヘッドセットとフルダイブ端末が卓上に鎮座していた。
「行ってきます」
誰にともなく呟き、端末へジャックインする。視界がブラックアウトし、鼓動と同期して赤い円環が幾重にも広がる――《INFERNO MAZE ONLINE》ログインプロセス。
◆◇◆
意識が浮上すると同時に、焼けた石畳の匂いが鼻腔を刺す。頭上に重く垂れ込めた雲は深紅を帯び、遠くでゴウッと炎柱が噴く。俺――探偵アカウント《Re:》は黒いロングコートを翻し、迷宮都市の広場に降り立つ。
「遅いぞ、レン!」
軽やかな声が背後から降ってくる。振り返れば赤毛を跳ね上げたアサシン、明日香――《アス》。腰の双短剣をカチンと合わせ、口角を吊り上げている。
「依頼人待ちぼうけだよ? マジでケジメつけようか?」
「それ、後で請求書を見た時だけにしてくれ」
俺は苦笑しながらHUDを開き、《スキャン・ログ》の準備を始める。
間もなく、実況配信アイコンを点滅させながら三条――《N-Note》が現れる。メガネを指で押し上げる癖をVRでも忘れず、「はいはい、今日も視聴三万いったんで広告クリックよろしくー」と毒を吐く。
続いて、黒いドレスコートの小柄な少女――レナ、《RED QUEEN》。真っ赤なルージュを塗り直しながら、俺の耳元で囁く。
「ねえ聞いた? この深層、無音になる瞬間があるって」
「バグだろ」
「だったらいいけど」
レナの唇が不敵に歪む。血の匂いがした気がして、思わず視線を外す。
四人揃い、深度ゲートが開く。錆びた格子戸の先、階段が地の底へ延びている。
◆◇◆
――第一層は灼熱の回廊。石壁の間をマグマが脈打ち、潮騒のような轟音が足下を揺らす。ブーツの底が焼ける感覚までリアルに再現されるが、システム温度は安全域。
「盗品回収クエ、対象はこの奥の黒曜嚢ね」
明日香がマップを指差す。
「今日はいける? レン」
「依頼料が弾むなら、何でもいける」
軽口を返すものの、胸の奥に小さな棘が刺さる。兄も、最初はこんなふうに笑っていた。
第二層に入った瞬間、潮騒がふっと掻き消えた。
無音。
俺たち四人の呼吸音すらない。
感覚が一瞬、真空に放り出される。
額に鈍い痛み――頭痛の発火点だ。視界の端、赤い警告が瞬く。『感覚遮断フィールド』。初めて見るシステムメッセージ。
「おい、音が飛んだぞ!」
俺の声は出た。しかし振動が鼓膜を叩かない。口だけが動くパントマイム。三条が慌ててHUDを操作、ログを走査する。
すると、何かがカツン、と石を蹴る小さな音――戻った音は、それだけ。耳鳴りの底に滴り落ちる水滴のように輪郭のない反響が続き、空気がざらりと震えた。
通路の先、目当てのNPC――盗品商のドワーフが佇む。だが様子が変だ。肩を引きつらせ、空を掴むように手を震わせている。
「ログアウト……できない……」
NPCの筈の唇から、潰れた日本語が漏れる。
俺は背筋を氷水で撫でられたようになる。
明日香が短剣を抜き、駆け寄ろうとした瞬間、床がガシャリと開き、鋼鉄の格子が降りた。
パーティは二手に裂かれる。俺と明日香は行き止まりの小部屋へ、三条とレナは反対側の通路へ押し込められた。
壁面に血のような文字が浮かぶ。『選択の刻』。
「悪趣味すぎ」
明日香が舌打ちし、扉に蹴りを入れるがびくともしない。
俺はディテクタを構え、《スキャン・ログ》を走らせる。周囲十秒間の残留データがホログラムになって立ち上がり、過去映像が淡い青で再生される。
無音の回廊を、誰かが通り過ぎる。帽子、黒いコート、顔面に真白い仮面。
仮面が向ける視線の先で、ドワーフNPCが震え、膝を突く。
「……いまの、GMか?」
映像の輪郭が崩れ、消える。同時に通信パネルが灰色に変わった。ログアウトボタンが無効化。
「レン?」
明日香の声がかすれる。俺の頭痛が強まり、兄の影がフラッシュバックする――
――黒い迷宮、赤い光、ログアウトできず、ベッドで目を覚まさなかった兄――
◆◇◆
重い扉が轟音と共に跳ね上がる。通路の先に現れたのは、一人のプレイヤー。白い軍服に飾緒を垂らし、銀の指揮棒をくるくる回す男――神谷誠司、《Executor》。
「やあ観客諸君、インターミッションを楽しんでくれたかな?」
仰々しく礼をして歩み寄る。
「お前、監視してたのか」
「とんでもない。僕も巻き込まれた被害者さ。もっとも……演出には口を出したけどね」
指揮棒が扉を示すと、隔壁が霧のように溶けた。
三条とレナが駆け込む。レナの頬は蒼白、唇からルージュが剝がれ落ちている。
「いたの、仮面男」
「仮面?」
「顔が毎フレーム、違うのよ。カメラ向けるとノイズだらけ」
レナの瞳が細かく振動する。俺は背後の壁を撫でる――冷たい石肌のはずが、ぬるりと有機物の脈動を返した。
◆◇◆
突然、迷宮が震える。警告音が遠くで重なり、天井から燃える鉄塊が落下。システムが強制イベントを起動したのだ。
「ボス戦だってよ!」
三条が叫び、配信カメラを構える。
現れたのは黒曜石の巨人――いや、巨人ではない。人の形を模した鋼の鏡像。背中から炎が噴き、足首に鎖。顔の部分だけが真白い仮面。
仮面がこちらを向き、声が響く。
『選ぶのは君』
「……あれ、NPCか?」
明日香が刃を構える。その声音が震え、刃がぴたりと止まる。
『選ぶのは、君』
仮面は繰り返し、鎖を引きずって一歩踏み込む。床が割れ、赤いマグマが溢れる。
戦うより、これは――問いかけだ。
俺は喉を湿らせ、しかし声が出ない。代わりに頭痛が弾け、視界が赤黒く滲む。耳の奥で兄の声。
『レン、お前のせいじゃない』
過去のログ? 誰かが再生している?
俺は膝をつき、床へ手を付く。
「レン!」
明日香が肩を抱く。彼女の体温が伝わる――だが瞳の奥が一瞬、NPCの無機質な光を帯びた。
「……ログイン二重? ありえない……」
三条が前方HUDを凝視し、汗を浮かべる。
巨人の鎖が唸り、俺たちを絡め取る寸前、通路の天井が裂けて暗闇が流れ込んだ。
中からするりと現れる影。真白い仮面。黒いステージ衣装のようなガウン。
影は無重力のように降下し、足先が床に触れる前に笑う。
「開幕おめでとう、《Re:》君。観察の座席は整った?」
多重音声――男とも女ともつかない声が、まるで耳元で囁くように響く。
「お前がNO-FACEか」
仮面の裏は暗い。だが間近で見ると、仮面自体が細かな文字列で構成され、刻一刻と別の表情に書き換わっている。
「君たち、選択肢を探すのが好きだろう? では提示しよう」
指先が軽く弧を描くと、空中に二つのアイコンが出現した。
一つは赤。『ログアウト不能のまま前進』
一つは青。『事件を忘れてログアウト』
「どちらが面白いか、僕は見ている」
仮面が細かく揺れ、笑った気配を漂わせる。
明日香が短剣を振り上げ、叫ぶ。
「ふざけんな! ゲームで命令されてたまるか!」
刃は仮面へ届く寸前で止まる。まるで時間が針の先で凍ったように。
明日香の顔が無表情になり、低く呟く。
「――ログ、上書き完了」
彼女の瞳に無数のコードが走る。
レナが悲鳴を上げ、三条が配信を中断し走り寄る。
俺は咄嗟に明日香の肩を掴み、叫んだ。
「明日香! 戻れ!」
指先に温度が戻る。その瞬間、仮面がパリンと亀裂を走らせ、影が後退した。
「ほう、抵抗するか。いいねえ――このログ、保存だ」
背後に炎が爆ぜ、影は溶けるように暗闇へ消えた。
残された巨人は鎖を垂らし、膝を折る。無音の回廊に再び潮騒が戻り、火柱が音を伴って噴いた。
◆◇◆
迷宮の入り口へ戻る頃には、ドワーフNPCの姿も、異常ログも見当たらない。
ただ一点。ログアウトパネルは依然として灰色のまま。
俺たちは円陣を組むように立ち尽くす。鉄と硫黄の匂いが混ざり、舌に苦味が残る。
「これは、ただのバグじゃないわ」
レナが唇を噛み、血が滲む。
三条が配信端末を握り締め、震える声で吐き出す。
「今の放送……映像が全部ノイズに置き換わってた。俺の原本まで編集された」
俺は拳を握る。爪が掌に刺さる痛みで、頭痛の残響を押し退ける。
――選ばされた赤でも青でもなく、俺にはまだ手札がある。
視界の端で、暗い空間に刻印のようなマークが揺らめく。それは蛇が自らの尾を噛む輪――Ouroboros。
明日香がかすかな声で問う。
「レン……これ、もうゲームじゃないの?」
俺は答える。
「そうだ。だから――解いてやる。全部、暴く」
火口のような迷宮の入口を振り返り、俺は一歩踏み出す。
胸の奥で小さなクリック音。どこかでログが新規に作成された気配がした。
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《Re:迷宮の探偵帳、ログ開始》