①封印
小鳥のさえずりに、コトコトと鍋の音が響いている。窓の向こうからは昼よりも柔らかい、優しい日差しが無言で家の中に侵入していた。
木で出来た小さなテーブルには二人分のパンと野菜が用意されており、同じく木で出来たカップに注がれたスープがコトンと音を立てて置かれる。
「よし」
それに満足げな笑みを浮かべたのはウェネ・クラディットだ。ブロンドの髪を一本の三つ編みにし、茶色い瞳を優しく細める。
作りたてのそれらは柔らかな湯気が上がり、見た目だけではなく香りでも食欲をそそる。
だがウェネは一度目を閉じて大きく深呼吸を。それから窓の向こうを見た。その先にあるのは小さな畑とよく晴れた青空があるだけだが、彼女は唇を噛み、力強い眼差しでひとつ頷いた。
「おはよう、母さん」
音を立てて開いたドアに、ウェネは振り返り笑顔を取り戻す。
「おはよう、マコト」
マコトは腹を掻きながら開いたドアを肘で軽く押して適当に閉めた。
くあ、と欠伸をすれば「あらまぁ寝不足?」とウェネが聞く。
「いつものだよ。≪おしゃべり≫」
「妖精が来たの?」
「うん」
ガシガシと掻く髪の毛は瞳よりも少しくすんだ赤茶色で、後頭部には少し寝癖がついている。
今度は両腕を高く伸ばし、また大きく欠伸をした。
「なんか今日はやけに楽しそうだったから、すんごく寝不足感ある」
「勘弁してほしいよほんと」と文句を言えば、ウェネが顔を歪めて「こら」とマコトを叱った。
「妖精にはいつも感謝と敬意を払いなさいって言っているでしょう」
「わかってるけどさあ」
「わかってないわよ、まったく」
唇を尖らせながらマコトがテーブルのイスに座ると、ウェネもその向かいのイスに座る。
用意された朝食の香りが鼻腔をくすぐり、腹の虫がキュウと鳴いた。だが母はまだ説教を続ける。
「≪おしゃべり≫に来るなんて、妖精に誰よりも愛されてる証拠。あんたは当たり前のことだと思うだろうけど、奇跡なんだからねそれは」
「それに」とウェネは腕を持ち上げ、鍋を温めている火に向けて手のひらを上にして差し出すようにする。
するとその手のひらに小さな水の雫が集まり、フーっと息を吹きかければ、それは泡が飛ぶように火の元へ行き、パシャンと音を立てて割れて火を消した。
「私たち魔法使いが、こうやって魔法を使えるのは妖精のおかげでしょうが」
「だから分かってるってば」
このままだと説教だけではなく、魔法についての講義が始まってしまいそうだ。
マコトは「ちゃんと感謝してるよ」とウェネを落ち着かせるように言った。
「妖精が魔力を貸してくれないと魔法は成り立たない。しかも母さんと僕は妖精にすごく愛されてるから、簡単な魔法なら呪文無しでも手伝ってくれる」
妖精は魔法使いの自分たちにとって必要な魔力そのものと言える。彼らがいなくては魔法は成り立たない。その力(魔力)を貸してくれるから、魔法が使えるのだ。
否、魔法使いだから魔力を使うのではなく、妖精が魔力を貸してくれる人間のことを魔法使いと呼ぶという方が正しいのだと母親かつ先生として彼女に教わった。
「僕たちにとって妖精は僕らの命と同じくらい大切にしなくちゃいけない」
「そうよ。ちゃんと分かってるじゃない」
「だから分かってるって言ったじゃんか」
「でもあともう一つ」
首を傾げて微笑む。やはりもう講義になってしまっている。妖精も困りものだが、この母親も参ったものだと内心で溜息をついた。
「大切にしなきゃいけない理由は手伝ってくれるからってわけじゃない。妖精は手放しで僕らを守ってくれているわけでもなくて、単なる気まぐれだったりもする」
何度も教えられた言葉を辿るようにマコトは続ける。ウェネはそれを真剣な表情で聞いていた。
「機嫌を損ねればこちらの命を奪う可能性もあるし、人の道を間違えさせるよう誘惑することもある。妖精と付き合うのなら、強く己を保つ必要がある」
「そう、その通り。ちゃんと覚えて偉いわね」
「ちょ、やめろってば」
頭を撫でて褒めようとした母親に息子は手でそれを阻止する。それを喜ぶ歳は過ぎている。
「それじゃあ、冷める前に食べちゃいましょうか。時間もあるしね」
「……うん」
講義もどきを始めたのは誰だよと呆れながらも、このあとのことを思い出し、心臓が跳ねた。
先ほどまでは≪おしゃべり≫で忘れていたが、今日はとても大切な日なのだ。ついにこの日が来たという方が正しいだろうか。
マコトはそんな自分を誤魔化すように小さな咳払いをしてからウェネと一緒に、いつもと同じように己の手のひらを合わせる。
生きるために摘んだ命への感謝。
「「いただきます」」
今日も今日とて尊い犠牲のもと、自分たちは生きていく。
「それじゃあ、準備はいい?」
「ん」
ウェネが先日樹の皮で染めたマントのフードを深く被り、振り返る。それに倣ってマコトも被り頷いた。
朝食を食べていた先ほどまでの賑やかさは消えて、家の中は静寂をまとっている。どこかもの寂しい感じがするのは、これからのことに緊張しているからだろうか。
今日は中央、都市ソル・アルビオンに向かうのだ。毎年、いつも母が一人で行っていたそれに、初めて同行する。
『16歳になったら一緒に連れて行くからね』
数年前に言われた言葉。本当かどうか信用のないそれだったが、母は宣言通り、16歳になったマコトを連れて行く。どうして16歳なのかは教えてもらっていないが、そこまで気にしなくていいだろう。
今まで近くの村しか行ったことのないマコトにとって、都市に行けるのは楽しみで胸躍るもの。しかしただ観光しに行くわけではないため、手放しで喜べるものではない。
「行ってきます」
もう癖になっている挨拶を口にして、ウェネが開いたドアから先に出た。
まだ太陽の光はそこまで高くないけれど、日差しは柔らかい温かさを地上へ注いでいる。遠出するには気持ちが良い天気だ。雨じゃなくて良かった。
「母さん?」
続いて出てこないウェネを振り返る。母は家の中を見つめたまま動かない。一体どうしたのだろうと、マコトはもう一度「母さん」と呼んだ。
「どうしたんだよ、早めに出るんだろ?」
「うん。そうね」
ウェネはいつもより少し低い声で返事をし、それから何か呟いたかと思えばマコトの方へ振り返る。そして大きな声で叫ぶように言った。
「行ってきます!」
大股で一歩。二歩、三歩。
「行くよ、マコト」
「え、あぁ、うん」
先ほどとは打って変わって早足で進んでいくウェネにマコトは慌てて続いた。
中央、都市ソル・アルビオン。
ここ、人間の世界であるアウローラの真ん中に存在する都市だ。どこよりも栄えており、機械などの技術も一番発展しているという。
この人間界で一番偉いとされているレクス王の城に、貴族の家々。騎士や魔法使いなどの学校があり、人口も多い。
マコトとウェネが住む南は田舎で、中央は我らが田舎者にとっては憧れの地である。
その国にある都市に、年に一度、ウェネは必ずひとりで出向いていた。
マコトの物心ついた時からそれは決まっていた行事で、何も知らない幼かった頃は僕も連れて行けと泣いて困らせたこともあったけれど、その国に赴く理由を理解してからは何も言わなくなった。
「あれ?」
しばらく道なりに歩いた先。そこには馬一頭の小さな馬車と人が待っていた。
「お待ちしておりました、ウェネ・クラディット様」
「ちょっとやめてよ村長。誰かに聞かれたらどうするの」
恭しく頭を下げた村長に、ウェネは「しー」と唇に人差し指を当てて周囲を見渡す。
木々を抜けた見晴らしの良い原っぱだ。そこに人の影など一つもなく、隠れる場所もない。村長は笑って返す。
「はっはっは、誰もおらんよ」
「母さん、今日は馬車?」
いつもは家に一番近い村、ここから少し先にあるトランクイルス村で馬を借りて都市まで行き、帰って来るのが常だ。持って行く荷物なんて一つもないため、己の身ひとつで早馬に乗る。しかしどうやら今日は違うらしい。
「えぇ。村長に送ってもらうの」
「僕がいるから?」
自分だって馬に乗れるのにと目で訴える。しかしウェネは「違うわよ」と返した。
「じゃあ何で」
「大切な日だから」
「確かにそうなんだけどさ」
母の言葉通り、今日は大切な日だ。だが別に馬車に乗らずとも二人で早馬を借りればいいだけの話。それなのに何故馬車なのか。しかしそれ以上彼女は何も言わず、馬車へと乗り込んでしまう。
「よろしくね、村長」
「ちょっと母さん」
「まぁまぁ馬車でもいいじゃないか。その方が早馬よりも疲れないだろうしな」
村長はマコトの肩を叩いた。
「やあマコト。顔を見るのは久しぶりだな。元気にしてるか?」
「……まぁ、それなりに」
視線を逸らしたまま村長に返す。正直マコトはこの村長、否、この先にある村トランクイルスが嫌いだった。
家から少し離れたその村へ、マコトは学校に通っていたときがある。そのとき、この赤い瞳が怖いといじめられていたのだ。悪魔の瞳だ、近寄るなと。
トランクイルス村に住まず、そこから少し離れた木々が生い茂っているところにポツンと一軒。母もあまり村の人と交流をしていなかったことも含め、怪しく不気味な存在にも思えたのだろう。マコトはいつも一人ぼっちで、友達が誰もいなかった。
学校を卒業してから時折仕事をしに来るけれど、今も仲の良い友人はひとりもいない。そしてそれを助けてくれる大人も。
ただ、どうしてウェネとマコトが村に住んでいないのか。なぜ交流を避けるのかを知っている村長だけは、出来る限りの優しさを与えてくれた。しかし村の人たちとの上手く仲を取り持ってくれるわけではないのだから、この人だって連中らと変わらないとマコトは思ってしまう。
「今日はしっかりやっておいで」
「はい」
素っ気なく返し、馬車へ乗る。
ちゃんと挨拶しなさいよと母に小突かれたが気にしない。無視せずそれなりの会話はこなすのだ。多少なりとも罪悪感はあれど、それだけで十分だと褒めて欲しい。
村長も気にした様子はなく、「それじゃあ」と馬の綱を取った。そして高らかに言う。まるで村祭りの乾杯の音頭のように。
「大魔道士様と、そのご子息様の出発です!」
どうか。
「この世界の平和をお守りください!」
「だから村長、静かに!」
ヒヒィーンと馬が鳴き、歩き出す。蹄と車輪の音がこの穏やかな地に似合っていた。
ウェネ・クラディット。
彼女はマコトの母であり、この人間界で一番強いと言われている魔法使い。
戦乱の世で魔王を封印した大魔道士である。
ここには二つの世界。
人間の世界アウローラ。そしてもうひとつ、魔族の世界ノックスがある。
この二つの世界は天の橋で繋がっており自由に行き来することが出来るのだが、種族の違う生物。人間と魔族は互いを相容れない害悪とみなし、相手を滅ぼさんと長いこと戦争を続けていた。が、しかし。15年前についに人間が勝利の旗を掲げた。
勇者レイヴ・ファレス。僧侶テラ・パクス。そして母、魔法使いウェネ・グラディット。
中央で鍛え上げられた三人が北の戦地へ赴き、魔族の王である魔王を仕留めることは出来なかったものの、封印することに成功したのだ。
全ての魔族を滅ぼしたわけではないが、それでも終わりの見えなかった戦争。特に天の橋がある最前線、戦地モルスには束の間の休息が与えられている。
封印した魔王は常に監視出来るよう、都市ソル・アルビオンの地下へと運ばれ、一年に一度、ウェネが封印魔法をかけ直すことになっているのだ。
その魔王の封印の儀を行うため、南から中央へ。
大魔道士とその息子を乗せた馬車はカンプス街道をのんびりと進んでいく。
ほどよい馬車の揺れは心地よく、田園が広がるここは風が気持ちがいい。ともすれば眠気を誘うものだが、マコトは始終落ち着かない。
一体、都市ソル・アルビオンはどんな所なのだろうか。
封印されている魔王はどんな姿なのか。動きを封じているとは聞いているけれど、どのような魔法で封印を施しているのかは教えてくれない為、どのように封じられているのかも分からない。そしてどのような儀式を執り行うのかも。
魔王も、封印も、マコトは全く知らないのだ。
しかし今日は後ろから見学するだけで、特にやることはないらしい。それでも長いこと戦争していた相手の魔王の元に行くのだ。やはり少し怖い。でもついに連れて行ってもらえるのは嬉しい。都市に行けるのもかなり楽しみだ。不安なのにワクワクするなんて、どうにも複雑な心境である。
「そろそろ見えてくるよ」
周りに畑が少なくなり、街道の道が整えられ始めた頃。村長の声にマコトは顔を上げ、進行方向の向こうを見る。
「うわぁ!」
木々の隙間から見えたのは高い灰色の城壁。そしてその向こうには太陽に輝く白く美しい城が建っていた。
絵や話でそれらがあることは知っていたが、実際こうやって目にすると、思っていたよりも大きく、そして立派だった。
複雑な心境だと緊張していたのも忘れて、興奮のまま指さして叫んだ。
「母さんっ、あれが城だよな!」
「しー。もう少し声を抑えて」
ウェネは苦笑しながら馬車から乗り出すマコトの身体を引っ張る。そしてフードを被せ直した。
「いきなり大魔道士が街にやって来たのがバレたら、何かあったのかって大騒ぎになるわ」
「あ……そっか。そうだった。ごめん」
封印をかけ直すのは年に一度。しかしそれは一般の民には周知されていない。どのように魔王が封印されているのか、いやそれのみならず、まずどこに魔王が封印されているのかすら知られていない。
15年前にウェネ・クラディットによって魔王が封印された、ということしかアウローラの民には教えてないのだ。
いくら監視しやすいからと言っても、封印されているからといえ自分の生活圏内の足下に魔王がいるなんて、住民は断固拒否するに決まっているし、危険を感じて皆が中央から出て行くだろう。しかしだからといって、田舎の南に置けば、監視の兵力をそちらに割かなければならなくなる。
結果、極秘でソル・アルビオンの地下に魔王置き、それらは知られてはいけないことなのだ。
あくまでひっそりと。誰にも気付かれないように平和を守る。
ウェネがトランクイルス村に住まないのも、交流を出来るだけ避けているのも、自分が大魔道士ウェネだとバレないためである。
南にウェネがいることを知るのは村長のみ。しかしそれ以上詳しいことは村長にも話していないのだと母から聞いている。そして誰かにそのような類いの質問をされてもいけないと子供の頃からの約束だ。
たとえ歴史の授業でウェネの名前が出ても、知らないフリをしなさい、と。
口酸っぱく言われた理由を理解した年齢になったのに、それら全てを忘れて子供のようにはしゃいでしまったことに恥ずかしさと反省を覚えながら馬車に座り直せば、ウェネがマコトの頭をフードの上から軽く撫でて指さした。
「ほら、あそこを見てマコト」
「なに?」
「城の一番上」
指さされた方にあるのは大きな城、その一番上の塔のようなところだ。そこには綺麗なステンドグラスがはめられている。それにハッとしてウェネを見た。
「母さんと仲間の名前が彫られているやつ⁉」
「そうよ。綺麗でしょう」
ウェネは笑顔で言う。
「名前うんぬんより、私はあのステンドグラスが綺麗で好きだったの。マコトに見せることが出来て嬉しい」
「僕は名前も見たいな。あそこには今日行ける?」
「……難しいわね」
「行けないのか」
でもさ、とマコトは続けた。
「将来、母さんの仕事を僕が受け継ぐんだろ? その間に一度くらいは見に行けるよな?」
母のような大魔道士にはまだまだ到底及ばないが、いつかは自分が担うものだ。
世界の平和を守っているのだから、塔のひとつやふたつ、登らせてもらってもいい働きだろう。
「…………」
しかしマコトの言葉にウェネは何も言わず、「村長」と彼に声を掛けた。
「ここら辺でもう大丈夫です」
「中央まででいいのかい?」
「都市の入り口までくらいは乗ってけばいいのに」と、中央に魔王がいることを知らない彼はそう言ったが、ウェネは首を横に振った。
「目立ちすぎても良くないので」
「そうか、そうだよな」
「もう聞くのはよすよ」と言いながら馬の脚を止める。地面を蹴っていた音が消え、身体の揺れも収まった。ここから歩きのようだ。
二人は馬車から降り、村長に礼を言った。
「帰りはあてがあるから。ここまで送ってくれてありがとう」
「いや、大魔道士様の脚になれて光栄だったよ」
「まったく。そういう扱いはいらないってば。でも、色々お世話になったわ」
ウェネは手を差し出し、村長の手を両手で包み込んだ。
ふわりと風が吹き、木々が揺れてざわめいた。深めに被ったウェネのフードが持ち上がり、頭から落ちる。
ブロンドの髪が日差しで輝き、まるでオパールのように白くきらめいた。
「ありがとう」
その響きはどこか寂しげなものに聞こえたけれど、ウェネはいつもの表情で振り返った。
「行くわよ、マコト」
「あ、うん」
再びフードを被り、歩き出す。マコトも村長に小さく頭を下げ、振り返らずにウェネに続いた。
馬車が通っていた道から外れれば、整えられていない森の中だ。サクサクと草を踏む音がする。その音が重なるごとに近くなる城壁にやはり興奮する。
どんな街並みなのだろうか。機械が発展していると聞くが、一体どんな物があるのか。
16歳になれば封印の儀、ソル・アルビオンに一緒に連れて行くと言われた日も封印うんぬんの不安を通り越して嬉しくて眠れなかった。今もその状態だ。我ながら子供みたいだと思うが止められない。
ここら辺は街道から離れているし、人もいない。それなりに話しても問題ないだろう。
「なぁ母さん」
マコトは前を歩くウェネに小声で話し掛ける。
「城には入れなくても、街中は見れるよな? 儀式のあととか……ほら、フードを被ってればきっとバレないし」
しかし母は何も答えずに進んで行ってしまう。草の音で聞こえないのだろうか。
「母さ――」
「マコト」
もう一度声を掛けようとすると、突然ウェネは振り返り、マコトを強く抱きしめた。
「え、ちょ、なに? 母さん?」
突然のそれに動揺する暇も無く、ただ抱きしめる己の母に首を傾げる。
彼女はマコトの背中を軽く叩いてからこちらの肩に手を置いて、マントの中にある顔を覗き込んだ。
「マコト、よく聞いて」
大魔道士は言う。
「これから封印した魔王がいる城の地下に行く。そこで何を見ても、何を聞いても、あなたは口を開いちゃダメ」
「……話すなってこと?」
「そう。でもそれだけじゃない」
低く、囁くような、言い含めるような声音。
「私がどう言われても、怒らないで。あなたは冷静でいなさい」
まるで魔法を教える時のような表情だが、それよりもどこか緊迫感があった。
ソル・アルビオンと母の因縁はそれなりに聞いている。そして息子である自分の出生理由も。
彼女が過去を語るとき、決して楽しそうでも嬉しそうではない。むしろ憎しみが籠もった言葉が多い。だが、先ほどのステンドグラスのように、煌びやかな都市を話す時だけは優しい笑みを浮かべることもある。
しかし今のこれはどういうことなのだろう。封印の儀式に関する注意しなければいけないことなのかもしれないけれど、いまいちピンとこない。
「何を言っているか分からないでしょう」
しかしそれを知った上で母は言っている。
「でも覚えていて。何があっても口を開かず、何が起きても常に冷静に」
「…………母さん」
「大丈夫。あなたならきっと大丈夫」
ウェネは息子の頬に手のひらを当てて、微笑んだ。
「私はこの世界の誰よりも、妖精たちよりも、あなたを愛してるわ」
「…………」
正直どういうことなのか分からない。分からないけれど、ここまで言われて何かが起きないわけがない。それくらい僕でも気付く。
「封印ってそんなに、危ないこと?」
16歳に連れて行くと言った。それは僕が成長するのを待っていたのではないか? でもそこまで危険ならば、きっと母は連れて行かない。
一体どういうことなのか、全然分からない。
こんな、まるで別れの挨拶みたいなことを言われて、『はい分かりました』と頷けるわけがない。
「ちゃんと説明してよ」
「行ったら分かる」
「行く前に教えろってば」
「心構えとかあるじゃん」と苛立ちを隠さずに言うが、ウェネは首を横に振る。そしてまた。
「行けば分かるから」
「いやあの、だからさぁ」
溜息を長く吐き出してまた理由を聞き出そうとしたが。
≪愛しい愛しい我らの仔≫
≪すでに上がる幕は燃え尽きた!≫
瞬間、妖精の≪おしゃべり≫が聞こえた気がした。いつもよりも楽しそうな、パチパチ弾けた声。これは今日の見た夢のそれだ。
彼らの≪おしゃべり≫は全てがただ遊びに来ただけではなく、そして無意味なものというわけではない。
妖精の≪おしゃべり≫はある種の助言、ある種の誘惑、そしてある種の――――予言。
妖精の夢を見るのは奇跡なのだ。その奇跡が単なる夢なわけがない。
(あぁ、なるほど)
マコトは天を仰ぎたくなるのをグッと堪え、拳を握りながら唇を噛みしめた。
始まりは幕を上げるもの。終わりは幕を下ろすもの。
しかしもう終わりを告げるための下ろす幕は燃え尽きて無くなってしまったらしい。
下ろす幕が無ければ、もう終われない。
どう足掻いたって、
「分かった。分かったよ」
もうこの物語は始まっているのだ。
「もう聞かない。母さんの言う通りにする」
拳を開き、腕を伸ばす。そして母を抱きしめた。何が起こるか分からないから、同じ言葉を返しておく。
「僕も、母さんを愛してるよ」
別れのような、挨拶を。
「大好きで、自慢の母親だ」
何が起きても、後悔しないように。
「――――ありがとう」
母は一瞬だけ泣きそうな顔をして、でもすぐに綺麗に微笑んだ。
コツンと額を合わせ、二人で目を閉じる。子供の頃、ケンカをしての仲直りだとか、魔法の勉強で怒られた後とかにしていた。
二人がお互いに大切な存在であること。
「じゃあ、行くよ」
「うん」
額が離れる。そして再び歩き出した。ウェネが先を行き、マコトがあとをついていく。
興奮した気持ちはもうない。胸をときめかせた都市では無くなった。それが少し寂しくて、悲しくて、でも元々遊びに来たわけじゃないのだ。
魔王の封印を改めて施すこと。それが目的だ。
(何も起きませんように)
まぁ、何も起きないわけがないんだけどと、自分で言って気を紛らわせる。そうでもしないと、不安で押し潰されそうだから。
それでも覚悟を決めなければ。
(よし)
踏み出す足は少し重いけれど、俯かずに母の背中を真っ直ぐ見つめた。
進んだ先にあったのは大きな門ではなく、外壁の穴のような扉がひとつ、ポツンとあるところだった。
そこには一人だけ門番が立っていて、大きな剣を地面に刺し、その柄に両手を乗せていた。
こちらに気付いた門番は顔を向ける。しかし兜を被っているため表情は窺えない。穏やかな風が吹くけれど、マコトはいつの間にか溜まっていた口の中の唾を飲み込んだ。
「大魔道士、ウェネ・グラディットだ」
ウェネは門番にそう言いながら近づき、そして右手を横に薙いだ。
するとその宙に文字が並び、ぼんやりと光を帯びる。それはウェネの名前だ。だが一つだけスペルが違う。
それを見た門番はしばらくこちらを眺め、そして無言のままその場から少し離れた。どうやら通ってもよいらしい。
ウェネは扉に手を伸ばす。しかしそこには何もついていない。近づいて見てみると、それはただの板なのだ。
だが彼女は困った様子もなく、何か呪文を唱える仕草もせずに見えない何かを掴んで回す。すると扉はまるで普通の家のドアのように開いた。端から見れば、見えないドアノブがあったのだろうと勘違いするに違いない。
この扉が開いたのは妖精の力が使われたからだと分かるのは、ウェネと同じ、妖精が魔力を貸してくれる魔法使いであるマコトだからだろう。だがきっと他の人間、否、普通の魔法使いでもきっとこの扉は開けないに違いない。
ウェネは難なく扉を開いたが、この扉は開くために使われる妖精の魔力は凄まじいものだ。妖精に愛されているからその魔力が使えるのであって、並大抵の魔法使いの使える魔力量では足りない。
ここは妖精に愛される大魔道士ウェネだから通れるのだ。
高く広い城壁の、道から逸れた場所。見せたわざとスペルの違う名前を見せただけではなく、魔法が施された扉。ウェネ以外に進めない、すなわちそれは魔王が封印されている地下に繋がっているからだろう。
扉をくぐりぬけるとそこは城壁の前と同じように木々が茂っており、街よりも少し離れたところであることが窺えた。
そのままウェネは振り返ることなく歩いたかと思えば、とある木の幹に触れた。そしてまた歩き、別の木の幹に触れる。
それを数回繰り返したかと思えば、また城壁の扉の前に戻ってしまった。
木に触れた時、魔法を使ったような気配はしない。いや、もしかしたら木自体に何か魔法が掛かっているのだろうか。でもまたこの扉に戻って来た理由はなんだろう。
何も分からないまま彼女について行くと、再びドアノブのない扉を開く。しかしその先は門番がいた場所ではなく、地下へ続く階段があった。
(は?)
声が出そうになり、マコトは片手で口を押さえる。
幼い頃から魔法は学んでいた。普通の学校に通いながら、大魔道士直々に知識を叩き込まれた。だがまだまだ知らない魔法や知識があるようだ。
今まで他の魔法使いを見たことがないが、自分は妖精に愛されているし、それなりにすごいだろうと思っていたのが恥ずかしい。
それらが魔法ではなく機械で作られた仕掛けも混ざっていることを知らないマコトは口を塞いだまま溜息を吐いて階段を下りていく。が、結果的に口を塞いだままで良かったと思う。きっと口を塞いでいなければ、何か言っていただろう。それが興奮からなのか、それともただの悲鳴なのか、分からないけれど。
地下への階段はそれほど長くなく、壁に掛けられた炎の灯りでぼんやりと見える、白い踊り場へと続いていた。その先にまた一つの扉。今度は門番が二人いたが、ウェネは何も言わずに扉に手をかざす。また妖精の力を使うのかと思えば、そのまま扉が消えたのだ。
それにもマコトは驚いたのだが、その進んだ先から見下ろした部屋の広さにも驚いた。もしかしたら南、村のトランクイルスよりも広いかもしれない。だが一番驚いたのは。
(なんだよ、これ)
緑色の液体が入った、機械が繋がった大きな瓶のようなものがあり、その中に片腕が入っていたからだ。
液体が満ちた瓶は至る所にあり、片腕だけではなく、足や耳、それに翼のようなものまである。そしてその部屋の中央には一際大きい器が――――その中にいるのが魔王だと見た瞬間分かった。
コポコポと水音が響く中で、魔王は緑色の液体に浸かっている。
人間よりも一回り大きい身体。紫色の筋肉。黒くて長い髪の毛。尖った耳。爪も長くて鋭い。頭からは細長く反りが入った二本の角。背中から生えているのだろう翼は身体を覆えるくらい大きくて、鳥の羽と同じ質感のように見えた。
首にはぼんやりと光る輪が付けられており、心臓のある場所は赤い魔方陣がクルクルと回っている。きっとあれが大魔道士ウェネが施した封印だろう。
――――これから封印した魔王がいる城の地下に行く。そこで何を見ても、何を聞いても、あなたは口を開いちゃダメ――――
「やぁ大魔道士、ウェネ・クラディット」
突然後ろから声を掛けられ、ビクリとマコトの肩が上がる。振り返れば、そこには白衣を身に纏った、老人が立っていた。
頭に髪の毛は一本も生えておらず、火傷の痕だろうか顔の右側半分が赤くただれている。その片目の視力を補う為か、そちらだけ掛けている眼鏡のレンズ越しに見える目が大きかった。
その手にはノートとペンが握られている。
「そろそろ来ると思っていたよ」
ウェネも振り返り、ニコリと口角を持ち上げた。
「お元気そうで残念です、フロル・ドクトル様」
「へへぁ、相変わらずで安心だ」
少し癖のある笑い方をし、フロルはマコトに視線を移す。
「それが息子かな? 大きくなったもんだ。へぁへぁ、魔力の方はどうだ? 妖精にはまだ愛されているのかな?」
ペン先でこちらをつつくように動かすのを守るようにウェネが手のひらを出した。
「フロル様、息子はモルモットにしない約束です」
「ただ少し質問をしただけだろう。まったく、母性だけを壊す技術はないものか」
「心を壊せばいいってものじゃありませんよ」
「まぁ大事にしてくれ。お前の性質を引き継いでくれた大切な成功体なんだ。使い道は沢山ある」
「へぁっ、へぁっ」とただれた方の片目を弄りながら気持ち悪く笑うフロルに、マコトは後ずさりしてしまう。口を塞ぐ手は離せそうもないが、彼はそれを気にした様子もなく、「それで?」とウェネに視線を戻した。
「これを連れてきた理由は?」
「息子もそれなりに力がついてきましたので、封印の儀を見学させようかと」
「魔王の封印の術は使えるのか?」
「いいえ。まだ」
「まだか……使えんな」
手に持っていたノートにペンを走らせる。
「なら何故連れてきた。まさか我らに差し出しに来てくれたのか、へへぁ、へぁ」
「だから見学と言ったでしょう」
ウェネは溜息をついた。
「何も分からないものを急にやれと言われても出来ません。封印とはどのようなものか、妖精とどう呼吸を合わせるのか、魔力の制御、課題は山積みです。肌で体験して、イメージを描けなければ失敗します」
「それが無くてもお前は成功させた」
「それは私が天才だからです」
「へへぁ! 言ってくれる! さすが私が作り上げたモルモットだ!」
――――私がどう言われても、怒らないで。あなたは冷静でいなさい――――
「まぁ、頭の中までグチャグチャにされましたしね。天才にもなります」
「では」とウェネはマントのフードを取った。
「さっさと始めましょう、魔王の封印を」
階段を下りて、広い地下室を歩いて行く。
フロルと同じように白衣を着た人は沢山いて、緑色の液体の中身を眺めてはノートに何かを書き、また見上げる。
別のところでは液体から取り出したのであろう片足の爪を剥いでいる。どう見てもそれは魔王の足と爪だ。でも中央に置いてある魔王の身体はどこも欠損がない。
「――――を確認」
「では――――を開始」
「結果は――――」
「――――という結果に」
「再確認を――――」
白衣の人たちは忙しそうに魔王の一部を弄っている。それを気にした様子もなくウェネはフロルに聞いた。
「魔王の回復力は?」
「特に変わらんよ」
怖々とついて行くマコトとは正反対に、堂々と二人は歩いて行く。こちらに気付いた人たちは頭を下げ、だがすぐに再び作業に戻っていた。
「手足をもいでも時間は掛かるが回復する。へぁへぁ、恐れ入ったよ」
「意識はまだあるのですか?」
「ある。反応は薄いが、目玉をくりぬいた時はそれなりに痛がっていた。まぁそれも再生したがね」
フロルが返した言葉にマコトは絶望に近い感覚を味わった。
意識がある上に反応が薄くとも痛がっていたということは、痛覚があるということだ。それは眼球だけではない筈だ。
ここには四肢が沢山ある。その数だけ魔王は身体を切り裂かれているということなのか。
(残酷すぎる)
なんだここは。どういうことだ。
なんとなく、でしかないけれど。
母である大魔道士の封印は、地下室で石とか絵とか、そういう類いのものになっていて改めて封印を施すのだと思っていた。
『どうやって魔王を封印しているのか』という幼い子供の頃の質問に、母はいつだって『もう少し魔法の技術が上がれば分かるようになる』と答え、今から思えばそれはただ、はぐらかしていただけだ。
(少し考えれば分かることだったろ)
大人になったら分かること。そう言って秘密にすることは大抵良いことはない。蓋を開けてみればそこにはただの現実があって、夢見ていたことは、本当にただの夢だったことに気付かされる。
でも母の言葉を疑うことは一つもなかった。勿論『僕でも出来る』と思っていたこともあるし、先ほど叩き折られたが、比べたことの無い世間一般の魔法使いよりは優秀だと思っていた節はある。
しかし相手は大魔道士だ。彼女に比べたら自分なんかまだまだ力不足である。だから魔法の技術が足りないのだと言われれば、『そうなのか』と納得する。
でもまさか、こんな風になっているなんて、誰が想像するだろうか。
――――行ったら分かる――――
その通りだった。
緑色の液体。
器に繋がる機械。
足下にも天井にもはびこる太い血管のようなチューブ。
白衣とノート。走るペン。
水音が響いて、肉が裂かれる。
滴り落ちた水たまり。
赤か、緑か。
議論して、結果。
試して、結果。
その結果。
結果の結果
結果、結果、結果!
なんだこれ。
なんだこれ、なんだこれ、なんだこれ!
戦争に勝利を導いた英雄。
魔王を封印し、安息の時間をもたらしたのだと。
その平和を今も守っている、大魔道士。
自慢だった。誇らしかった。そしてその息子なのが嬉しかった。
疑う余地もない。そんなことひとつも考えなかった。思いつきもしなかった。
ただ、この世界を守って、英雄で、平和で。
でも蓋を開けたら、魔王がこんなことになっていて。
いやでも、相手は魔王で。
でもだからって。
こんな、こんなの。
(平和って、なんだ?)
こんなの、ただの実験場じゃないか。
「ついに顔にまで手を出しましたか」
「頭部はまだだがね」
「それももう時間の問題ですね」
仕方が無い人だというようにウェネは溜息をつく。だがそれは当たり前に享受しているということだ。
魔王の封印をかけ直す度にこれを見て、何か思うことはないのだろうか。
(いや、違う)
思うことがあるから、これから大魔道士は何かをやらかすのではないか? だからあんな、別れの挨拶のようなことを。
「心臓はやめてくださいね。封印が解ける可能性がありますから」
「それはつまらん」
大いにつまらん、と繰り返すもフロルは笑っていた。
「でも実験は順調順調。面白いことこの上ないよ、へぁへぁ」
「そうですか」
ハッキリとフロルは実験だと言った。マコトは無意識に唇を噛みしめた。
だんだん魔王へと近づいている。先ほど見下ろしていた時よりも、間近で見ると思った以上に大きかった。だが恐怖というより、同情の方が心を占めている。
「さて、と」
大きな器の元へ到着すると、白衣の人たちが邪魔をしないようにか距離を取った。
見上げる魔王は目を閉じたままで、正直生きているのかマコトには分からない。これだけ四肢をもぎ取られ、解体され、実験を繰り返されているのだ。生きている方が辛いだろう。
ウェネはそっと手を伸ばし、器に触れる。見上げるその瞳は一瞬弱々しく揺れたが、すぐに強い意志を帯びた色に染まった。
「フロル様、離れていてください」
「へぁへぁ、あい分かった」
「マコトは私のすぐ後ろに」
ウェネの指示に無言で頷く。
先ほどまで騒がしかった地下室が少しずつ静かになる。気泡が浮かぶ音だけが静寂の中を舞っていて、残酷さが浮き彫りになったように感じた。
マコトは母を見て、それから魔王を見上げる。
すると。
「あ……」
ずっと閉じていた口が勝手に開いた。魔王の瞼がゆっくり持ち上がったからだ。
己を封印した大魔道士ウェネが来たことに気付いたのだろうか。再び封印を施されることに抗おうとするのか。ともすれば暴れ出す可能性もある。けれど、マコトはそんなこと一つも考えなかった。
ただ、魔王の瞼の先にあった瞳に目を奪われた。
怖いといじめられた自分の瞳が嫌いで仕方が無かった、その赤色。
緑色の液体に浸かっていても、ハッキリと分かる。
「僕と、同じ色」
彼の瞳も、同じ赤色なのだと。
魔王がこちらを見る。視線が交わった瞬間、何かが身体と頭の中を駆け巡った感覚がし、少しだけ足下がふらついた。
これは恐怖じゃない。でもなんだろう。これは――――?
「始めるわよ」
ウェネは言い、両手を広げる。ハッとしてマコトは母の背を見つめた。
「<おいでませ、我らが神母の片割れ様よ>」
「<集いませ、我ら愛仔の身の元へ>」
呪文が紡がれ始める。目の前にいる大魔道士の身体がふわりと光りを帯びた。
普段姿が見えない妖精の気配が強くなる。それだけ強い魔法を使っているということで、今まで習ってきた魔法とは桁違いだ。
<揺れるゆりかご、消えた産声、死した静寂>
<其の肢の腐敗は余の夢か>
<血脈の腐蝕は他の現か>
手、足、頭、に魔方陣が現れ、心臓にあった赤い魔方陣と同じようにクルクル回る。
どこからともなく風が吹き、ウェネのマントと髪の毛が遊ぶように舞い上がった。その周りを光の玉が何かを喜ぶように飛んでいる。
周囲から「おぉ⋯⋯!」と感嘆のような声が上がったけれど、マコトは魔王を見つめながら唾を飲み込んだ。
呪文は妖精へのお願いであり、魔力を乗せた言霊だ。同じ魔法を使うとしても、その時の術者の気持ちや、妖精との息の合わせ方で呪文は変化する。
きっと年に一度の儀式でも、同じ呪文が使われたことはきっとないだろう。
マコトは封印の呪文なんて聞いたことがないし、見るのも初めてだ。しかし肌で分かる。
唱える魔法が何を求めているのか。そしてその言霊に妖精が嬉々として呼応していることが。
だから困惑した。けれどこれはどう考えても。
(まさか母さんは────)
「<常世に繋がれし魔の者よ>」
ウェネはまるで祈るように指と指を絡め、手を合わせる。
<腐なる病を鎖に移せ>
<心の臓に焔を灯せ>
身体に散らばっていた魔法陣が、首の輪の元に集結し一つになる。すると魔王の首を絞めていた輪が大きくなって肌から浮いた。
「ウェネ?」
雰囲気から察したのか、フロルが怪訝な声で名前を呼ぶ。しかしもう間に合わない。
「<名も無き覇者よ――――>」
ウェネは合わせた手のひらを、何かを剥がすように力強く腕を広げた。
「<魂のままに叫び征け!>」
瞬間パリン!と輪が音を立てて割れ、光が弾けた。地下室が真っ白になる。
眩しさで目を閉じる中で低く、地鳴りのような咆哮。ビリビリと肌が粟立つ中で、あの緑の液体の波が押し寄せて来る。
「――――っ!」
流される! と咄嗟に腕を顔の前に出すと、魔法で身体を守ったのだろうウェネに腕を掴まれ、流れることなくその場に留まることが出来た。
液体が散らばり顔が出る。マコトはゴホゴホと咳き込み、濡れた顔を拭って目を開けた。その先にいる相手にヒュッと息が止まった。
長い長い戦争の相手。その頂点に君臨する魔族。封印が解かれた魔王が黒い翼を広げて浮いていた。
「グァァアアアアっ!」
再び天にも届きそうな叫び声に表情を歪める。
「ひぃい!」と周りから悲鳴が上がるも、恐怖で皆が動けずにいる。その中でフロルだけが「ウェネ、貴様ァァ!」と魔王にも負けない怒気が孕んだ声で叫んだ。
「どういうことだ! なぜ封印を解いた! 何をしでかしたか分かっているか⁉」
「えぇ、分かっていますとも」
いつもと変わらぬ声音。パニックに陥っている地下室の中で普段と変わらない様子の彼女が一番異質だった。
「私、ずっとずっと思っていたんです」
ウェネが振り返る。
妖精に愛される彼女は綺麗に笑っていた。
「意思があり感情がある人間を研究し、実験を繰り返して戦争の道具にする。それどころか魔王までモルモットにしてしまう、こんな最低最悪な世界なんて」
うっとりと。
「滅んでしまえばいいって」
「ウェ~~ネェ~~ッ!」
名前を呻き、フロルは振り返る。まだ腰を抜かしている白衣たちにも怒鳴った。
「兵は何をしている! 今すぐ魔王を殺すのだ!」
「わ、我々では敵いません!」
「役立たずのゴミ屑がぁっ!」
すると彼はマコトに視線を向け、「お前が何とかしろモルモット!」と指をさす。
「なんの為の成功体だ! 魔王と一緒に自爆でもしてしまえ!」
「なっ!」
突然自分に向いた矢印に、マコトは魔王を再び見上げた。大魔道士が敵わず、封印するしかなかった相手だ。自分に、否、この世界で敵う人間がいるわけがない。
このままではソル・アルビオンが、いやここだけではない。人間界アウローラ、人類は滅ぼされてしまうだろう。しかしそれを母は選んだのだ。
(どうしたらいいんだっ)
確かにこのまま魔王が実験体になっているのは酷いことだと思った。でも世界と天秤に掛けたら魔王には傾かない。傾かないけれど。
(こんな、こんなの許されるわけない。封印を解いたことも、この実験も)
どちらも許していい事柄ではないけれど、マコトは唇を噛みしめた。
(それでも母さんの言う通りだ)
いくら平和の為とはいえ、意思があり痛覚もある存在を実験の道具にするなんて、そんな残酷なことは許したくない。
(僕も選ぶ! 魔王をここから逃がすことを!)
それでもし魔王がアウローラを滅ぼそうとし始めたら、そのときはそのとき。それはそれでまたどうするか考えればいい。
(まあその前に重罪で死刑だろうなぁ、僕たち)
世界が滅びるなら、先に死ぬか後に死ぬかなので、問題ないかとマコトは溜息をつく。
あとはこのまま勝手に魔王が逃げてくれれば、と魔王に視線を向け、不意に違和感を覚えた。
魔王は暴れることなく真っ直ぐにマコトを見下ろしているだけだ。その瞳には同じ赤色のマコトの瞳が映っている。
(あれ?)
勿論魔王に対して多少なりとも恐怖はある。救いだそうとしていてもだ。だが違う。そうじゃない。そうではなくて。
(なんで、どうなってるんだ?)
――――今この魔王には、ほんの少しの魔力しか感じられないのだ。
この世界を滅ぼすどころか、簡単な魔法しか使えないだろう。これなら今の自分でもトドメを刺せる。母に任せれば確実に。
「なにをボサっとしてるんだ! 足止めくらいにはなってみせろ!」
フロルが唾を吐き出しながら怒鳴る。その言葉から彼が魔王には魔力がないことに気付いていないのが分かった。
今まで魔族と対面したことなかったマコトにとって、魔族の魔力を感じ取るのは初めてだけれど、妖精の気配を感じるのと同じこと。これもきっと普通の人間には魔力の気配は感じ取れないのだ。
――――でも覚えていて。何があっても口を開かず、何が起きても常に冷静に――――
マコトはウェネを見る。ウェネもマコトを見ていて首を横に振った。『言うんじゃない』と視線が言う。
母も魔王に魔力が無いことに気付いている。だがそれを周りに悟らせずに手を広げて魔王に言った。
「さぁ魔王! 行って! マコトと一緒に!」
「なっ! 僕と一緒に⁉」
ついに声を出してしまった。魔王を逃がそうとはしたけれど、まさか魔王と自分が一緒に逃げるなんて、そんなの予想外だ。だがウェネはどこか強気に笑う。
「あのねぇ、あんたほどではないけど、私も妖精に愛されているのよ?」
妖精に愛されている。すなわちそれは。
「私の方が≪おしゃべり≫歴は長いんだから!」
そうだ。妖精の夢を見るのは自分だけではない。妖精に愛されている母も夢を見る。だが今まで彼女から≪おしゃべり≫を聞いたという話をしたことがない。
「早く魔王! あんたがマコトを連れて行くことは知ってんのよ!」
「ちょ、母さんどういうことだよ! 魔王がこの世界を滅ぼすんじゃないのかよ⁉」
「いいから行って!」
ウェネはマコトの背を押した。たたらを踏んで魔王のすぐ足下へ。すると魔王はバサリと黒い翼を数回動かし、手を伸ばす。
「わぁっ⁉」
その手でマコトを抱える。どうやら母の言葉どおり、マコトも連れて地下室から逃げ出すらしい。
「母さん!」
だがこのまま飛んで逃げるならば、母も一緒に逃げればいい。
「母さんも行かないと!」
マコトは腕を伸ばす。
解放された魔王がこのあと世界をどうするかは分からないが、このまま残れば母は重罪で死刑。いや、もしかしたら殺されるよりも酷いことをされるかもしれない。
「いいのよ、マコト」
ウェネは片腕を持ち上げ、「<偉大な雷神よ、天から貫け!>」と振り下ろす。
ズガン! と大きな音。地下室に雷を落とし、地上へと続く大きな穴が開けたのだ。
「もう別れの挨拶は済ませたでしょう?」
「あんなのただの挨拶だろ!」
「魔王、足止めは私がするから! 頼んだわよ!」
魔王が再び翼を動かして少しだけ宙に浮く。そこでようやく黒く長いローブ姿の魔法使いが現れ呪文を唱え始めたけれど、ウェネがそれを手を薙ぎ、氷の氷柱で相手を貫いた。
痛みで呻く彼らに少しの隙が出来る。マコトは魔王に抱えられたまま「<火よ!>」と妖精に祈った。
「<生命の呼吸を焼き、業火の海で覆い尽くせ!>」
すると、ゴウと音を立てて魔法使いたちと母の間に火が燃え上がる。大魔道士の手ほどきを受けているのだ。戦闘の経験はほぼ無いけれど、これくらいなら出来る。
「行くよ、母さん!」
マコトは暴れるように手を伸ばし、ウェネを掴む。
「…………あんたはほんと、しょうがない子だよ!」
勝気にニッと笑ってマコトの腕を掴み返す。そして「魔王!」と叫んだ。
「私も連れて行って!」
瞬間、ためらいのない大きな腕がウェネを掴んで飛び立った。
振り返ってもまだ追ってはない。封印を解かれるなんて予想外だったのだろう。混乱はまだ整わず、右往左往そている彼らがいた。このままなら三人で逃げられそうだ。
それでも追っ手が来ないようにだろう、ウェネは宙で何かをこねるように腕を動かし、竜巻を起こす。
実験として使われていた大きな瓶が次々に割れ、魔王にではなくウェネに対して悲鳴を上げていた。
(やっぱりすごい)
模擬戦と称して何度も魔法を使って手合わせをしているけれど、あくまで模擬だ。本当に相手を殺そうとするわけではない。
今ここでマコトが足止めをするとしても、先ほど炎をまき散らすぐらいしか考えつかない。どれだけ強い魔法が使えようが、実践経験がなければ弱いものなのだと五感全てで実感する。そして彼女は戦を超え、魔王を封印した偉大な大魔道士なのだと、改めて尊敬した。
すると突然、パアン! と高い音が響いた。
振り返れば強風に身体を揺らしながらもフロルが何かを持っている。マコトが目を細めれば、それは教科書で見たことのある、対魔族用の大きい拳銃だ。その重さで彼は飛ばされることなく地面に立っていられるのだろう。
どのような仕組みの機械なのかマコトには理解出来なかったけれど、魔法使いが作った魔力の玉を装填し、魔族の身体に撃って、内側から破裂させるだとか。
それがどのくらいの効果があるのかは知らないが、いま魔王はほとんど魔力が無いため、あれに撃たれたらどうなるのか分からない。
四肢を切断されても戻るとはいえ、あれで死ぬ可能性だって無きにしも非ずだ。
「魔王、無事か⁉ 撃たれてないか⁉」
ざっと魔王の身体を見る。飛ぶ力も弱まっていないところを見るに、どうやら玉は当たらなかったのだろう。
無事なことにホッと息を吐き出すが、視界の端でポタリと雫が落ちたのが見えた。何だろうと思う暇もなく、ズルリとウェネの身体が傾く。
「母さん?」
様子がおかしいと彼女を見ると、腹から血が出ていた。
魔法で貫かれたようではないそれは、どう考えても先ほどの拳銃だ。
「は? なんで! あれは対魔族用なんだろ⁉」
「はは、人間にも使えるってわけね」
「さすがはフロル様」と掠れた声でウェネは笑う。痛みで目を細め、撃たれた腹を押さえるけれど次から次へと血が流れていく。
妖精から与えられる魔力で魔法は使えるが、身体の癒やし類いのものはやり方が分からない。それが出来るのは僧侶の分野だ。
「魔王、私を落として」
「何言ってんだよ母さん!」
「二人抱いたこのスピードじゃ、あの機械に狙い撃ちされる。そしたら魔王もマコトも死んじゃう」
「母さんを置いてくくらいなら僕だって死んでいい!」
「バカなこと言わないで」
ウェネは言う。
「どちらにしても、私はもう助からない」
「そんなことない! 諦めんなよ!」
「ふふ、いい言葉ね」
ウェネは血のついた腕を伸ばし、マコトに触れようとして――――下ろした。
「大丈夫。大丈夫よ、マコト」
微笑んで、伸ばした手で魔王の身体を押す。背中を反らせ、頭から宙へ。最後にもう一度「大丈夫」と笑って。
「母さん!」
そのままウェネは魔王の腕から抜け、地下室へと落ちて行く。
その姿はスローモーションのようなのに、落ちる母を捕まえられなかった。
「魔王! 母さんが! 母さんを!」
この高さから落ちても大丈夫なのか、死んでしまうのかも分からない。いや、死なない。死なせない。落ちる前に早く飛んで、キャッチして、それから、それから!
「「それは、」』
低い声が、伸ばしたマコトの手を止めた。
魔王が聞く。
「「あの母親の望みか?」」
「――――――――」
何も言えなかった。
マコトは目を見開いて、口を開けて、肩で呼吸を繰り返して、母が地面に叩きつけられるのを見た。
それから黒いローブ姿がやって来て、囲んで、フロルが。
高い銃声が響いた。
――――もう別れの挨拶は済ませたでしょう?――――
――――私はこの世界の誰よりも、妖精たちよりも、あなたを愛してるわ――――
魔王のスピードが上がり、ウェネの開けた穴へ。勢いよく飛ぶそれにグンと身体に重力が掛かり、そのまま地上へ上がればフワリと身体が浮いた感覚がした。
輝く都市の姿が視界に映る。
初めて見る景色はずっと見てみたかったもので、村とは比べものにならないほどの家が並び、人が沢山いた。
賑やかな街は地下の出来事など知らず、楽しそうな声が響いているのがなんだかすごく残酷で、息が苦しい。
不意にキラリと輝くものが視界に入り、視線を向ける。それは城の頂上、つい先ほど遠くから見たステンドグラスの輝きだった。陽の光りを浴びて、キラキラと色鮮やかにきらめいている。
「かあ、さん」
刻まれた名前を見ることは叶わない。きっともう二度と見ることも出来ないだろう。名前だけじゃない。もう母さんには二度と会えない。
マコト。
名前を呼ぶ声が聞こえる。
笑顔。怒る顔。優しげな表情。
思い出が次々浮かんで、泡のように弾けて消える。
走馬灯もこういうものなのだろうか。
いや、これが走馬灯であれば良かった。
「かあさん」
かあさん。
かあさん!
「あああああ――――っ!」
大粒の涙がこぼれ落ちていく。
これからどうなるのかとか、このまま魔王はどこに飛んでいくのかとか、そんなことどうでもよかった。もういっそ、このまま世界を滅亡させて欲しい。
そう思うのに。
――――大丈夫。あなたならきっと大丈夫――――
魔王の身体を押して、母さんと同じように落ちることが出来なかった。
~ * ~
(あーあ)
叩きつけられる身体の痛み。でももう腹の痛みと同じような感じがして、痛覚が麻痺している。
元々ここで死ぬつもりだった、否、≪おしゃべり≫で自分が死ぬことを知っていた。そして魔王がマコトを連れて逃げ、二人で世界を何とかしてくれることも。
マコトに腕を掴まれ、一緒に逃げられるかもしれないなんて淡い希望なんか抱いてしまったけれど、やはり未来は変わらない。
叩き割られた希望。それでも未来が変わらないということは、彼ら二人が世界を何とかしてくれることも変わらないということだ。希望を失って、安堵した。
何をするのかは分からない。妖精はそこまで教えてくれなかった。それでも私は託すことを決めた。
でも。でもね。本当はね。
「一緒に、ただいまって、言いたかったなぁ」
あの小さな家。二人で暮らした、大切な時間。
もっと、もっと、マコトを愛したかったなぁ。
「マコトぉ」
涙が零れる。でももう何も見えない。それでもその暗闇の先に愛する息子の笑顔が見えた気がした。
私は先に帰ってるから。
「がんばってね」
――――高い音が響いた。