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冬の日 .2

 あと少しだと思ってしまえば、残された一時間半の刑期は意外にもあっさりと過ぎていった。ガイドの声で目を覚ました人たちが、続々とバスを降りていく。ついに目的地に到着だ。僕たちもそれに続いて車内の狭い通路を歩いた。外に出るとき運転手に軽く会釈すると、彼は人のよさそうな笑みを浮かべてそれに返してくれた。

 もはや恒例となった寒いアピールを終え、ぐっと背筋を伸ばす。骨が小気味よい音を立てるとともに、全身に血が巡るのを感じた。

 時刻は五時。天気は晴れ。気温は氷点下二度らしい。といってもまだ太陽は出ておらず、あたりはぼんやりとした山のシルエットだけを残して、闇に包まれている。

「あそこで待つらしいよ」

 井波が指をさした先には、それなりに大きな二階建ての建物があった。どうやらほかの人たちもそちらに向かっているようだ。

 雪かきがなされたアスファルトの上を通って、建物の中に入る。もわっとした暖気が、まるで歓迎しているかのように僕たちを包んだ。適当に空いている席を見つけて腰を下ろす。スキー場が開くまではあと三時間ほど。着替えやボードレンタルの時間を考えても、二時間以上はここで時間をつぶす必要があった。

「どうしよっか」

 荷物を床に置いた坂本が腕時計を見つめる。この前の彼女の誕生日に、僕がプレゼントしたものだ。白のバンドと文字盤を、控えめなピンクゴールドが優しく縁取っている。

 飢えたライオンの方がまだ奥ゆかしく思えるような性格の彼女でも、その腕時計だけはよく似合っていた。これは僕がプレゼントした時に初めて知ったことなのだけど、どうやら彼女はもともと、腕時計が好きじゃなかったらしい。どうも腕を締め付けられる感覚が嫌いとのことで、以前の彼女は腕時計をしていなかった。僕はそれを知らなかったから、だからこそプレゼントしたんだけどさ。無理につけなくていいよと言ったのに、なんだかんだいいつつ、バンドを緩めながら使ってくれていた。彼女自身、デザインも結構気に入っているようで、クリスマス直後の悲しき装飾品たちのように質屋やフリマアプリ行き、なんてこともなく、今なおそれは彼女の左手首を美しく飾っていた。

「僕はもう少し寝るよ」

 机に突っ伏した井波は、溢れ出るあくびを必死に噛み殺していた。確かに、バスで寝たとはいえ疲れは全く取れていなかった。むしろ乗る前よりはるかに疲れているくらいだ。これから一日が始まろうというのに、こんな体調で大丈夫なのか。僕も不安だった。

 結局僕らは、そのまま一時間以上の仮眠をとって、朝食をとることにした。こういう施設の食堂は、言葉では言い表せない独特の雰囲気がある。人の数自体はまだそこまで多くないものの、人々のワクワクした気持ちが目に見える物体となって空間を漂っているみたいだ。もちろん、僕たちもその例外ではない。あと数時間後には白銀の斜面を滑り降りている。そんな自分たちの姿を想像しては期待に胸を膨らませていた。

 僕と井波はカレーを。坂本はサンドイッチを買って、席でそれを食べた。特に意味のある会話をしていたというわけではない。味の感想をちょっとだけ言って、それ以外は無心に食べ続けた。こういう時、沈黙に耐えられない集団というのが世の中には多くある。無言の時間が怖いんだ。それは別に理解できないことではなかった。黙っていると相手が何を考えているのかわからないし、自分がつまらない人間だと思われているのではないかと不安になる。だから会話の空白を埋めるように、慌てて鳴き声を入れる。近所のファミレスにでも行けば、動物園の動物のように、間近でその生態を観察できるだろう。

 とはいえ僕だって、別に誰相手でも無言でいられるわけじゃなかった。ずっと無言でいる人間は、それはそれでつまらないし、そんな人間よりはベッドに置かれたぬいぐるみの方がいい話し相手になるだろう。ただ、それが許されるこの二人の存在を僕はありがたく思っているし、二人には絶対に言わないけれど、大切にしたいと思っていた。

 食事を終え、食器を返却口に返しに行くと、従業員の人が「ありがとうございます」と言ってきた。別にこちらが何か特別感謝されるようなことをしたわけじゃないのにね。もちろん相手の人も特別何かを思ってその言葉を発したわけではないと思うよ。でもそれって、なんというか、とてもいいことなんじゃないかって、僕は思った。

「ごちそうさまでした」

 僕が言う前に、井波と坂本も同じ言葉を発した。こういうところが、この二人のいいところなんだ。普段はほとんど気にしないそんな些細なやり取りが、この日はとても印象的だった。旅行などで環境が変われば、自分の周りを見る角度が少し変わる。そう明確に感じたのは、この時が初めてだったかもしれない。

 そんなこんなでグダグダしていたら、そろそろボードやなんかをレンタルする時間になっていた。三人ともスキーをそれなりにやっていたから、当然の流れのようにスキー板を借りられる列に並ぶ。でもどういうわけか、この時の僕はいつもと違うことをしたい気分だった。いや、だったというより、そういう気分になったといった方がいいかもしれない。多分スノボのポスターでも目に入ったのだ。井波と坂本も別にいいんじゃない、という反応だったので、僕は二人から離れてスノボの列に並んだ。時代はスキーよりスノボだ。ネットやなんかでも、そんなことが書かれていた気がする。とにかく、これは僕の明確に悪いところかもしれないけど、そういう節が僕にはあった。気分屋というか、その時やりたいことをやりたいという性分だ。そして大概、旅先での唐突なプラン変更は、思わぬ収穫を生んでくれる。

 井波と坂本に湿った視線を送られつつ、意気揚々とスノボを持った僕は、早速片足をボードにつけてみた。スキーができるならスノボもできるだろ、という僕の考えが甘ったれたものだったということは、このとき直感的にわかった。そもそも履いた瞬間から違うのだ。体は斜面に向かって横向き。リフトまで行くのに片足をクロスして地面を蹴るように進まなければならず、まるで部活や体育の授業でやらされるカリオカみたいに思えて間抜けだった。

「すごく似合ってるね」

 一メートル進むのに五時間くらいかかっているカタツムリみたいな僕を見て、坂本は呆れた顔をした。

「ありがとう」

 それだけ返すのがやっとだった。実際、ちょっと彼らに申し訳ない気持ちがあった。少なくとも僕だったら、一緒に遊びに来て急に滑れもしないスノボに挑戦する奴がいたら、そっと距離を置く自信がある。

「午後には滑れるようになっといてよ」

 井波と坂本は、そんな非情な言葉を残して上級者コースへと行ってしまった。こうなるともう逃げることはできない。午前中のうちにある程度滑れるようにならなかったらスキーに戻そう。そう決意して僕は初心者用コースを見よう見まねで滑ってみることにした。動画サイトで調べてみた感じだと、最初は体の前後を入れ替えずにただ滑るのがいいらしい。体を正面に向けて斜面に背中から倒れるように体重を後ろに預ける。これは案外簡単にできた。ゆっくりと踵にかける力を変えれば、スピード調節も容易だった。

 自慢じゃないけど、僕はそれなりに運動ができた。こういうのって感覚によるところが大きいから、結局はどれだけ早くコツを掴めるかの運みたいなところがある。そうこうしているうちに、ものの三十分ほどで前向きで滑るのはマスターできた。

 今度は後ろ向きだけで滑ってみる。進行方向へ背中を向け、前に倒れるようにつま先に体重をかける。これもさほど難しくなかった。前が見えないので振り返りながら滑らないといけなかったが、それを除けばできないことはなかった。結局一時間ちょっとで、僕は前も後ろもマスターした。これなら午後には二人と一緒に滑れるかもしれない。そう思った。

 でも問題はここからだった。スピードや進路を調整しながら滑るためには、前と後ろで交互に体の向きを入れ替える必要がある。こういうのは思い切りが大事だということはスキーで学んでいたので、僕は滑りながら腰をひねって、勢いよく体の前後を入れ替えた。

 ――その瞬間だった。あっと思った時には、僕の体は宙に浮いていた。体育の先生に柔道の技をかけられた時でさえ、あんなにきれいに吹っ飛びはしなかった気がするね。まるで地球に大外刈でもくらったみたいに、世界の上下がわからなくなった。直後に尻と手首にものすごい衝撃と痛みを感じる。一瞬骨折したんじゃないかと思ったが、かろうじて無事なようだった。

 斜面に膝をついて、服についた雪を落とす。

 怖い、と思った。体の向きを入れ替えるには踵からつま先へ、つま先から踵へと体重を移動させる必要がある。言葉でいうのは簡単だが、実際にやるとなると話が別だった。体の向きを変えるとき、少しの間だが板が斜面とまっすぐになる。そうなると必然、スピードが上がり、体がこわばってしまうのだ。一度植え付けられた恐怖はその後の挑戦を妨げた。

 何度も転ぶうちに、次第に僕は泣きそうになっていった。このときにはもう、完全にスノボにしたことを後悔し始めていた。心が折れるのが先か、骨が折れるのが先か。そんなことを考えながら斜面に寝そべる僕の横を、熟練者たちが華麗に滑り降りていった。

 必死になって膝と手首と尻を犠牲にしているうちに、いつの間にか時刻は午後一時を過ぎていた。井波と坂本と約束していた昼食の時間だ。午前中の成果として、僕はそこそこ体重移動ができるようになった。初心者にしては上出来だろうと思う。しかしそれでもまだ数回に一度頭から雪に突っ込むもんだから、二人と一緒に上級者コースに行くのはやめておいた方がよさそうだった。死体となって雪に埋もれる自分が目に浮かぶ。翌日には発見してほしいけれど、それを群がったやじ馬に見られると思うと、それはすごく憂鬱なことだった。

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