「大丈夫、大丈夫」
僕は今、電車にのっている。電車の中で本を読んでいる。何度も読んでいる物語だけど、主人公が友達のように感じられ、読むたびに入り込んでしまう。
隣の県にある大学に通うため、1時間ぐらいかけて電車に乗る。たしか、今日は昼の1時から授業があったので、11時半には電車にのっていた。
1番端のシートに座っているので、車両の中は見渡せた。外から差し込む光で明るく、平日の昼間なので乗客も数人しか乗っていなかった。
本に没頭していると、何か音がしたので顔をあげた。車両の中を奥の方まで見やると、誰も乗っていなかった。いつの間にか他の乗客はいなくなって僕一人になっていた。
音のした方を見ると、奥の扉が開いて何者か入ってきた。老婆だった。
老婆は、中に入ってくると右に左にふられながら進んできた。席はいくらでも空いているのになかなか座ろうとしなかった。ガタンと大きく揺れたとき、ついに落ちるように座りこんだ。
僕はまた、本に目を落として物語に夢中になった。
何か気配がしたので、顔を上げると、ギョッとした。すぐ斜め前に老婆が座っていて、こちらを見ていた。
僕はあわてて顔を伏せて、開いたページに目を落とした。何だろうと思っていたら視界に老婆の足が入ってきた。
「見つけた」と言うと、老婆はすぐ僕の横に座った。すると、あろうことか僕の手をつかんできた。僕は、頭から血の気がひいた。
すると老婆は言った、「お父さん、もう大丈夫ですよ」と。その声は優しかった。
その時突然、車両の中が暗くなった。トンネルに入ったのだった。僕は、正面の窓ガラスをみて、息をのんだ。そこには老婆と白髪頭の男が並んで座っている姿が写っていた。
そうだった、今日、妻に連れられて
病院にいったのだった。認知症だった。最近の事はすぐ忘れるのに、昔の事はありありと覚えている。
今もフト、妻のもとを離れると、どこにいるのか分からなくなり、ウロウロとさ迷っているうちに、座り込んで本を読んでいた。そして、学生時代の事を思いだしていたのだった。
そんな私を、妻は電車の中を探しまわっていてくれていたのだった。
私は、正気に戻るとともに強い不安感におそわれた。
そんな私の気持ちを察してくれて、妻は私の手をさすってくれ、優しく言ってくれた。「大丈夫、大丈夫」と。