第四話 決着
「ぐあっ⁉」
その呻き声は、三体の【ファング・ハント】を相手取っていた沙希の背後から聞こえた。
——何?
沙希が振り向けば、空也が木の近くで必死に立ち上がろうとしていた。その右手は腹に添えられ、指の間からは血が絶え間なく流れ出している。
「空也っ」
沙希の脳内で前回の光景がフラッシュバックした。心臓の鼓動が速くなる。
「彼はもう満身創痍だよ。まあ、僕相手にこれだけやってまだ死んでいないんだから、大したものだとは思うけどね」
ローブ男の舌はこれまでにないほど滑らかだった。顔には余裕がありありと浮かんでいる。空也に重傷を負わせた今、自分の勝ちを確信しているのだろう。
その余裕は、彼のファング・ハントに対する指示にも表れていた。
「下がっていて良いよ。後は僕がやるから」
唸り声をあげていた魔物たちはそれに素直に従い、沙希の前に立つのは男だけになった。
先に仕掛けたのは男だった。
男が魔法発動に入るのと同時に、沙希は跳躍した。
沙希の足が地面を離れた直後に、それまで彼女がいた場所に火の球が着弾する。火属性魔法【火球】だ。地面に生えていた草が一瞬で燃えた。
「君は、彼に遠く及ばないね」
男が続けざまに【火球】を放ってくる。
沙希は避けるか【魔の結界】で防ぐが、それで手一杯だった。
「よく耐えてるけど、それじゃもたないよ」
「くっ……」
「ああ、どう殺そうかなぁ。嬲り殺すのも良いし、僕の可愛いペットたちに食わせても良い。いっそのことボコボコにしてから犯すのもありだなぁ」
沙希の殺し方を、ローブ男は指を折りながら実に楽しそうに列挙した。
「気持ち悪い……」
沙希は眉を顰めた。
ローブ男の言葉は決して脅しではない。彼女の中では、過去最高級の嫌悪感と恐怖心が渦巻いていた。
しかし、沙希は劣勢なこの状況を決して悲観していなかった。彼女の視界の端で、空也が目を閉じる。
その瞬間、沙希はこれまでセーブしていた魔力を解放した。
「おっと」
【魔の結界】は発動させたまま、同時にローブ男の足元目がけて無属性魔法【魔弾】を放つ。
それまで防戦一方だった沙希の不意の反撃だったが、男は軽々しく魔力の銃弾を避けた。
その避けた先に、無数の光の槍が飛来する。
光属性魔法【光の咆哮】。【魔弾】はブラフで、沙希の本命はこちらだった。
しかし、男はそれを【魔の結界】で防いだ。その口元が弧を描く。
「なかなかの威力だったし、異なる魔法の同時発動とは大したものだ。けど、残念だったねぇ」
「……うるさい」
沙希は続けざまに【光の咆哮】を放った。しかし、それでもローブ男の結界は崩れない。
男の顔に、あからさまな落胆の表情が浮かぶ。
——それは、紛れもない油断だった。
「無意味なことをするねぇ。もう諦めなよ。その程度の【光の咆哮】じゃ僕の【魔の結界】は——」
ローブ男の言葉が途切れる。
彼は、険しい表情で周囲を見回し始めた。
「……なっ⁉︎」
ある一点を見て、その目は大きく見開かれた。
彼が感じたのは巨大な魔力の気配。優れた魔法師なら誰でも感じ取れるほどのその気配は、本来感じられるはずのない方向に存在していた。
沙希もその気配のする方向へ目を向けた。
その視線の先では、空也が右手を突き出しながら、無表情で男を見ていた。
◇ ◇ ◇
「なぜ……!」
死にかけているはずの者から巨大な魔力の気配が発せられている。起こり得ないはずのその現象に、ロープ男の身体は瞬間的に硬直した。
「遅い」
「――っ!」
無感情に呟かれたその言葉と自身に向けられた空也の右手で、男はようやく自分が危機的状況にあることを理解した。理解してすぐ、彼は空也から離れられるように地面を蹴った。
しかし、その判断はあまりにも遅かった。
彼の足が地面から離れるときにはすでに、空也の魔法はその身体に届いていた。
「なっ……!」
つま先から膝までが、瞬時に氷漬けになる。
男は【火球】を自分の脚に放つが、氷が溶ける気配はない。
「……くそっ!」
「貴方は僕たちを舐めすぎていた」
空也の声に、男のような嘲りの色はない。ただ淡々と事実を告げている。そんな雰囲気だった。
「貴様、なぜ……⁉︎」
「あれ、さっきまで僕たちのことは『君』って呼んでいなかった?」
「っ……ふざけるな!」
空也の安い挑発に、男の顔が真っ赤に染まった。羞恥と怒りの割合はわからないが、これまでの冷静さを装っていた彼とはまるで別人のように、男は激情に流されていた。
「死ねっ! 死ねっ!」
男が次々に魔法を放つが、空也が片手で作った【魔の結界】は揺らぎもしなかった。
「なっ……あり得ない! 貴様ごときにっ」
「自分と相手の実力差を認識することと、相手を見下すことは全然違うよ」
「黙れ!」
「見下せば、相手を見誤ることになるからね」
「黙れと言っているだろうっ! 貴様ごときに僕がやられるはずがない!」
男は必死だった。
そこには理屈も何も存在しない。ただ空也を否定することだけが、男に残された最後の抵抗だったのだろう。
しかし、そんなイタチの最後っ屁と呼べる行為すらも、男は続けることができなかった。
「まあでも、貴方のそういうところには感謝しているよ——殺したときの罪悪感が、小さくて済むから」
「っ——!」
空也の何の感情も宿していないような瞳は、向けられた男のみならず、味方であるはずの沙希の背筋さえも凍らせた。
「さようなら」
「まっ——」
男は、断末魔すらもあげられなかった。
太もも、胴体、首、最後に顔。
刹那のうちに、その全身は氷の塊となった。
「――はっ」
呆然としていた沙希は、慌てて周囲を見回した。ファング・ハントがどこかに潜んでいることを思い出したからだ。
ぐるりと周囲を見回し——沙希は口をぽかんと開けたまま固まった。
「——はっ?」
口から漏れ出たのは先程と同じ一文字だったが、ニュアンスは程遠かった。
沙希の視線の先には、ローブ男と同じように氷漬けにされた三体の魔物の姿があった。空中を飛んでいる最中に凍らされたのか、その姿はひょうきんな姿形をしていたが、それは沙希を襲った衝撃を和らげるものではなかった。
「【氷結世界】っ……奥義をこんな広範囲で、正確に……⁉︎」
空也が使った技は、間違いなく氷属性魔法奥義【氷結世界】だった。
あり得ない、という呟きが沙希の口から漏れる。
しかし、その衝撃はまもなくして霧散した。糸の切れた人形のように、空也の体が傾いたからだ。
「っ空也……!」
沙希は節々から不調を訴えてくる体に鞭を打ちながら、空也の元へ移動した。
そのとき、馬車の駆けてくる音が沙希の耳に届いた。
◇ ◇ ◇
時は少し遡り、沙希と空也が敵と交戦している最中のこと。
馬車の一行が、かなりのスピードでキース森を駆けていた。
「あっ——このまま直進してください! 場所は皐月さまの言った通りです!」
福島ヒナは進行方向を指差した。
「了解!」
御者がそれに答え、馬車の速度が一段と上がる。ヒナも沙希の魔力が感じられる方向を中心に、【索敵】を全開にした。
「右斜前方に魔物です!」
「俺がやろう」
九条家護衛隊隊長の野中優作が【魔弾】を放つ。
「それでヒナ。二人の位置が掴めたのかっ?」
「はい! ただ……状況は思った以上に深刻かもしれません」
ヒナと優作を含めた護衛隊は、九条家の一人娘である皐月の命を受けて、彼女たちを逃すために魔物と対峙する道を選んだ護衛隊副隊長の早坂沙希と、助太刀してくれたという少年の応援に向かっていた。
ヒナのの胸中では不安が渦巻いていた。
沙希が苦戦しているのも、一人の魔法師——おそらくは助太刀してくれた少年——の魔力がほとんど切れているのも、彼女は正確に把握していた。そして、二人とやり合っているであろう三人目の魔法師の存在も。
「沙希以外に二人の人間の魔力が感じられるのですが——はっ?」
ヒナは素っ頓狂な声を上げた。
「どうした?」
優作に問いかけられても、ヒナは即座に答えられなかった。
信じられないことに、死にかけていたはずの魔法師の魔力がいきなり膨大に膨れ上がったのだ。
そしてヒナは、その膨大な魔力が発射され、二人と交戦していたであろう魔法師と三体の魔物が命を落としたことを、【索敵】を通して理解した。
「おい、ヒナ? ……まさかっ」
「いえ。多分大丈夫です」
悲壮な表情を浮かべた優作に、ヒナはなんとか自分を取り戻して首を振って見せる。
「何が起こったのかわかりませんが……とりあえず、魔物はすべて倒されました」
周囲から「おおー!」という歓声が上がる。ヒナは厳しい表情のまま続けた。
「ただ、沙希もすぐに治療が必要なほどの状態ですし、もう一人……おそらくは助太刀をしてくれた方ですが、かなり危険な状態です」
「……そうか」
優作が眉を顰める。歓声も止み、ムードは一転、その場は重苦しい雰囲気に包まれた。
ほどなくして、一行は現場に到着した。
「沙希っ」
馬車が止まらないうちに飛び降り、ヒナは地面に座っていた沙希に駆け寄った。
「ヒナ……」
「良かったっ……」
とりあえずは無事な様子に安堵する。
しかし、そう油断できないのも事実だ。死に至るほどではないが、治療が遅れれば、その分だけ後遺症や一生ものの傷跡が残る可能性も高くなる。
そのためには——、
「沙希、無事で良かった」
「隊長」
沙希が優作に対してお疲れ様です、と頭を下げた。
「沙希こそご苦労様。簡単な手当てだけはここで済ませてしまおう。まずは——」
「いえ……」
沙希は短い言葉とともに首を振った。その目が彼女の近くで目を閉じている少年に向けられる。
「この人の治療が最優先……まずは彼を本家へ送ってください」
「しかし、それでは——」
「お願いします。私は……この人を助けたい」
ペンダントを握りしめた沙希に、優作は目を見開いて固まった。
驚いているのは、隣でやり取りを聞いていたヒナも一緒だった。
感情がなくて不気味。まるで人形みたいで気持ち悪い——。
そんな陰口を叩かれることも少なくないこの少女が、実は感情の起伏やその表現が極端に小さいだけであることはヒナも知っているし、最近では彼女の細かい感情の変化も読み取れるようになってきた。
それでも、ここまで自分の感情を素直に表現した沙希は、記憶にあるうちでは初めてだった。
だから、ヒナは優作に声をかけた。
「隊長。沙希の言う通りにしましょう。彼は皐月さまの恩人でもあるはずですし」
「そうだな」
優作はふっと笑って頷いた。
「皆、急いで戻るぞ」
「はい!」
優作の一声で、護衛隊が一斉に動き出す。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
小さく頭を下げる沙希に、ヒナはウインクをしてみせた。
最後まで読んでいただきありがとうございます!
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