拝啓、名も知らぬ君へ。結婚してください
1
太陽のまるで慈悲のない光線が身を焼き、体の原型を保つのがやっとの今日この頃。
もう何度言ったかわからないフレーズを、名前も知らない女の子に告げる。
「好きです。付き合ってください」
この言葉に気持ちを乗せることを辞めたのはいつからだろうか。
覚えている限り少なくとも七十回は無感情でこのセリフを吐いている。
「ごめんなさい。もう二度と話しかけてこないで」
そう言った「誰か」は、ゴミでも見るような視線をこちらに向けた後、颯爽とどこかへ駆けて行った。
キーンコーンカーンコーン――
タイミングを見計らったように隣にある巨大な木造建築物から下校時刻を記すチャイムが鳴る。
「はぁ……全校生徒に告白したけど、やっぱり無理やったか」
兵庫県安治市葱叉中学校に入学してから一年と三か月。学年問わずすべての女の子に告白し、全員にフラれた男。翁草瑞希はこの学校で女の敵だと蔑まれている。
勉強・運動・容姿・スクールカーストの何をとっても最底辺の俺。
ナイチンゲールも度肝を抜く母性本能の持ち主がこの学校にいることに賭けてみたが、結果は予想通りというか当然というかそんな人間はいなかった。
「はぁ……」
俯いても見えるのは、出っ張った自分のお腹だけ。
目にかかるほど長くなった前髪をかきわけて辺りを見渡す。当たり前だが周りには何もない。
俺に残ったのはスクールカースト・ワーストワンの座と、安治島の海沿いなら永遠と吹く潮風だけ。
「そういや明日から夏休みか。お前とはしばらくの別れやな」
同性の友達も少ない俺。何度も告白をしては、悲しみから解放されるために見つめていた学校の壁に張り付いた枯れたツタとは、一方的なマブダチの仲だ。
「さぁて、帰って宿題でもするか。なんか俺のだけワークが他の子の倍以上あったし」
同じワークを何冊も背負い、これは先生なりの気遣いなんだと自分を騙し、自分がイジメにあっていることに目をそらしながら家に帰った。
都会では信じられないくらいに高さがなく横幅が大きく設けられた、親の顔と同じくらいに見た木造建築が俺を迎える。
入り口までのちょっとした広場にある井戸のポンプは俺にとって兄さんみたいなものだ。
未来の自分の負担を消すために、心の湧き出て来る様々な感情をハエのように払う。
そして座敷の円卓にワークを積み重ね序盤は宿題を、中盤からは人力コピーという名の作業を進める。
「うん。高校生なったら内職のアルバイトにつくわ」
そこから一週間。自分は機械なんだと自己暗示をかけながら夏休みの宿題を、睡眠と食事やある程度の家事を除き黙々と続けた。
「んっ。うーん! 終わったぁ!」
尻が座布団と一体化する目前。夏休みの宿題をすべて終えた俺は、一週間分の溜まりに溜まった疲労を解消すべく、畳に背中を預け大きく息を吸い、瞳をそっと閉じる。
そしてそのままカラスの鳴き声を子守歌に、グリーンカーテンの隙間から入って来る海風を掛け布団に眠りにつく。
途中で誰かに体を揺すられた気がするがまぶたが開くことは、太陽が再び上り詰めるまでなかった。
突拍子もなく鳴くセミに驚かされ、ようやく目を見開いた俺は、グリーンカーテンの隙間から白い日が差し込んでいることに困惑し、急いで体を起こし時計を見つめる。
時計は昼の一時を自信満々に刺していた。
「えっ? 俺二十一時間も寝たん? 世界記録ちゃうん、これ」
「ほんま、よー寝とったよ。ミズ。あとあんた、読書感想文書いてなかったで?」
母さんが麦茶を円卓に乗せるついでに、原稿用紙を俺に手渡す。
「どうせあんた『どこにあるかわからへん』とか言いそうやったから見つけといたで」
俺は意味もなく原稿用紙をぺらぺらと捲りながら、容易に予測できる未来を打開してくれた母さんに感謝を告げる。
「ありがとう。ほな、早速図書館行って本借りに行ってくるわ」
その言葉とともに、麦茶を一気に呑み込む。そして頭にくる痛みにのたうち回った。
しばらくして、頭痛から解放された俺は颯爽と母さんの学生時代から使い倒しているママチャリに乗り込む。
そして錆びついたチェーンとカバーが擦れる、人を選ぶ音をBGMに図書館へと漕いでいく。
図書館に辿り着くと、税金を犠牲に快適な環境が保たれていた。
無意識のうちに漫画コーナーへと足を運ぶ自分の頬を叩き、文庫本コーナーへと向かう。
しかしどの本が自分に適しているのかわからなかったため、近くを通った図書館のお姉さんに「馬鹿でも読める本はないですか」と問う。
お姉さんは突然来た頭を抱えなくてはいけない質問にあたふたとし、左右をきょろきょろ見渡す。
その後、なんともいえぬ表情でこちらの顔を見返すお姉さんに、社交辞令じみた「すみません」を告げた後、覚悟を胸に児童文庫が並んだコーナーへと立ち寄る。
「たぶん俺はあんな本は読めん。基礎ができてへんから、読んだところでさっぱりわからん気がする」
そう考えた俺は早めに宿題を終わらせたことにより余った膨大な時間を、読書へ向けることを決心した。
勉強面がマシになればモテ期が来るのではないか。なんて邪な感情を浮かべながら。
とは言っても、小学生以下の知能を持つ中二が読んでためになる本なんて都合のいいものはそう転んでいなかった。
伝奇を読むのも悪くないと思ったが、他人の成功した人生を知ったところで自分が惨めに思えてくるだけだと思い読むことを止めた。
「うーん。まぁ、最初はこんなあたりが無難かなぁ」
ここで無駄な意地を張って難しそうな本を手に取ったところで、読書の習慣は身に付かないだろうと思い、まだ比較的興味がそそられるものを手に取った。
「『知って得もしないが、知らなくて損するかもしれないシリーズ 無人島遭難編』こういう絶妙に興味をそそられるタイトル好きなんよな」
そんなことを呟きながら、貸出申請の紙を必死に笑いをこらえている図書館のお兄さんに半ば投げつけるように渡す。
そしてその場を駆けるように立ち去り、自転車のペダルを再び踏みしめる。
「まぁ、小学生向けの本をノリノリで借りようとする中二が目の前におったら、笑いたくもなるよな。はは」
代わりにこぼした笑いは海風から運ばれる湿度と反して、砂漠に転がっているような乾いたものだった。
「はぁ……はぁ……ただいまぁ」
家に辿り着いた俺は無邪気な子どものように畳に転がりたかったが、それをする体力を太陽と坂道によりきれいさっぱり奪われていた。
そのため俺は玄関の段差に腰を落とし、息を整える作業に入る。
「おかえりぃミズ。はい。タオル」
台所からすらりと現れた母さんは自分の首にかけている手拭いを俺に軽くたたんでから手渡す。
「はぁ……んっ。ありがと」
俺はさっそく体に纏わりつく汗を払うため貰った手拭い片手に庭にふらふらと歩み、井戸水で手拭いを濡らし全身を拭く。
そして謎の達成感から大きなため息を、肩をストンと下す動作を付属させ行う。
いくら体を拭いてもじりじりと照らす太陽の光線には抗えないため、急いで日陰のある玄関へと駆けていく。
「うちに井戸水があってほんま助かったわ。なかったらたぶんどっかで溶けて海に流れてんで!」
「先祖に感謝しときや。それよりもあんた……そろそろ痩せたら? せっかくの夏休みやし、運動もしいや?」
母さんからの心配に満ちた目に耐えられず、手拭いで頬を拭うついでに目線を遮る。
「あぁ。うん。まぁ、そのうちな」
去年の夏。一か月間、母さんに心配されないように毎日食事制限や早朝三キロのランニングをしたことがあった。
でも、俺の体は軽くなるどころか重くなるばかりだった。
筋肉が脂肪よりも多い。そんなことは知っている。でも、外見のどこも変わっていなかったし、身体能力面もなんの変化もなかった。
たぶん俺の体がこうなっているのは他の何かが原因なんだろう。
でも、何が問題なのかわからない俺にはどうすることもできない。
結果が出ない苦行を続けられるほど俺は強くない。俺を突き動かすなにかが見つからない限り、俺は再び苦行に立ち向かうことはないだろう。
「まぁ、今からは図書館で借りてきた本読むわ」
そう言った俺はその場から逃げるように移動し、自室に敷きっぱなしの布団に飛び込み、少年が漫画を読むかのようにゴロゴロ転がりながら読書に励んだ。
しかし集中力は俺の決心を刈り取るようにあっという間に欠け、内容が頭に入ってこない。
ほとんど常識に近いものを小難しく書いているだけのせいで、読めば読むほどモチベーションを削がれていく。
それでもある程度の我慢は成長に必須だと信じて、雑誌感覚で捲りながらも目を通す。
「……島に遭難したとき近くに瓶があれば中にメッセージを入れて、海に向かって投げましょう。生存率が上昇します」
こんなことも書いてあるのかと少し呆れ、とうとう我慢に限界が来たため本を閉じ、腕を枕に天井を眺める。
「そもそもそんな場所に瓶があったとしても、紙もペンも無いし、今の時代大体瓶はアルミとかで栓するんやから沈むやろ。あほらしい」
自分を正当化するかのように、本のあげ足を拙い頭で精一杯上げる。
「奇跡的に道具がその場にあったとして、人の手に届くことはあるんやろか。もし届いたとして、居場所も差出人もわからんのに、来てくれる人はいるんやろか」
その瞬間、俺の脳裏には馬鹿なりの神の一手が降り注ぐ。
「その紙がSOSやなくてラブレターなら……」
確率とか科学とかの考えで言うならあまりにも無謀なことだろう。
でも、やらないなら何がどうあったとしてもゼロだ。
俺はゼロが何個並んだ先にゼロ以外の数字が並ぶ可能性があるなら、それに賭けてみたい。
早速俺は爺ちゃんが海外からのお土産で持って帰ってきたスペイン産のお酒の空き瓶を、俺のコレクションルームから引っ張り出す。
そして、被った埃に向かい勢いよく息を吹きかける。
何年もの時間をかけて集った埃が俺の気管に向かってくる。
「けっほ。ほんま、俺が馬鹿なところって、こういうところなんやろうな」
いまさらながらの自己分析をした後、父さんの勤めている近所のガラス細工工場に駆け込む。
「父さん。ちょっと工場の機械とか借りんで!」
そう一声かけた後、お酒の瓶と似た色の粉々になったガラスをかき集めて、底に書かれた意味の分からない英語のFに一画付け足してEに細工をする。
「よっし。これでオリジナル瓶の完成や! 我ながらなかなかの出来栄えやで」
小さなころから、金魚鉢やらビー玉、コップなどガラス関係のものが手に入ればとりあえず父さんと一緒に加工して遊んでいた経験がここで生きた。
俺はさっそく瓶の中に入れるラブレターを書く作業に差し掛かろうとしたが、救難信号を送るにはこれで十分だが、ラブレターとしては味気ないと思った。
そこで近くの花やですぐには枯れないドライフラワーのバラを、今月分の小遣いの残りをすべて叩いて買った。
その後。普段より軽い足取りで家に帰り、爺ちゃんの部屋から便箋を拝借して自室の滅多に使わない勉強机にかじり付く。
「さすがにラブレターは恥ずかしいて、座敷では書けんからなぁ」
そう言って俺は、ボールペンを耳にかけたり唇の上で踊らせたりしながら内容を考えた。
しかし宛先のないラブレターは思った以上に書きづらく、眉間にしわが寄るばかりだった。
「うーん。まずはその瓶を見つけてくれた感謝からやな。で、その次に長々と書いたら相手も疲れるやろうから手短に。自分が男であることを書いて、ロマンチックな言葉を……」
俺は海外ドラマなどで見たロマンチックなプロポーズを思い浮かべ、若干臭いなと思いながらも書いていく。
『私を見つけてくれてありがとう。』
『僕らは一緒になる運命なんだ。』
「まぁ、一人称で好印象を持てるのはこの二つやし、一行目のほうに瓶と手紙からの気持ちが掛かって見えて賢そうに見えるし、これでいいんちゃうん?」
臭いセリフをラブレターに書き記したはずなのに、羞恥を感じないという新鮮な気持ちを味わいつつ軽くラブレターを乾かした後、瓶の中にラブレターを丸め込み入れる。
そしてバラのドライフラワーが崩れないようにピンセットなどの道具を駆使してどうにか入れる。
「見た目に似合わずほんまに細かい作業得意なんやな、俺って。将来はなんかの職人目指そうかな。頭悪くてもなんとかやってけそうやし」
そんなことをボヤキながらきつくコルクの栓を瓶にして、近くの海へと駆けていく。
そして駆けていく勢いを利用して、ありったけの力を込めて海へと投げ込む。
しかしなるべく遠くに飛んで行って欲しいという俺の意思を反し、投げた場所から十メートル先くらいで空き瓶は水しぶきを立てて落下した。
一方俺は、咄嗟に野球選手の真似をして投げ込んだ反動により、重心を大きく崩し、砂浜に顔をうずめる結果となった。
真似したとはいえ、頭に思い浮かべた選手が右利きなのに対し、俺自身は左利きのため、脳内での処理が追い付かず、第三者からすれば見るも無残なフォームだっただろう。
そのまま天に顔を向けて両手を大きく開き、弱音を零す。
「ほんま。俺は何をやってもあかんな」
自分の無能さを痛感しながら耳元にいたヤドカリに、海よりは少し塩分濃度の少ない水をくれてやった。
2
一部の人間には非常に長く、大半の人間には一瞬と思える夏休みがようやく終わり、俺はため息を無限に吐きながら学校に向かった。
そして学校に着くと同時に、名前も知らないガタイのいい同級生にカバンを奪われ、ワークを俺の分を含め抜き取られる。
どうやら俺の一週間の苦労への報酬は教師からの怒鳴り声だそうだ。
しかし反撃できる力もないので、せめて悲しむ顔を相手に見せぬように、自分の席の机に顔を突っ伏す。
求めていなくても鼻を伝る海の香りと、久々の再会ではしゃぐ生徒の騒音に耐えながら夢へと旅立つ。
「――というわけで、今日から二学期だ。いつまでも夏休みの気でいたら地獄見るぞ? ましてやお前らはあと半年で受験生だ。その自覚をもって、残り少ない義務教育期間を過ごすように」
再び目を開け、体を起こすとホームルームが始まっていた。
数時間後に鬼の形相へと変化を遂げる我が担任の角刈り野郎を見て嫌気がさす。
教卓で名簿に目を通しながら全員が出席しているか確認する角刈り野郎は、なにか重大なことを忘れていたらしく大げさに驚く。
そして、再び騒ぎ出しかけている生徒たちを喉で黙らせる。
「ん、んぅ。突然なことだが、今日からこの学び舎で日々を共にする新たな仲間を紹介する。ほら、入ってこい」
研修生か。運が悪かったな、この学校で研修なんて地獄だぞ。まぁ、精々がんばれや。
どこ目線からかわからない慰めに反し、成人しているにしては随分と背の低い少女が凛とした表情で教卓のそばまで足を運ぶ。
歩くたびに右に流しているバターブロンドのパーマのあてられた髪が揺れる。
そして教卓の隣に着くと、軍隊顔負けの左ならえ左をし、空色の目で辺りを見渡し爽やかに真っ白い歯を見せる。
役職モデルと言われればすんなりと信じてしまうその少女は、恐らくこの世で一番笑顔が似合う女の子だった。
生徒たちも同じ意見だったらしく、少しざわつき始める。
「じゃあ、軽く自己紹介をしてくれ」
「はい。わかりました」
見た目に似合わず日本語をスムーズに話した彼女は、慣れた手つきでチョークを持ち、自分の名前を黒板に書き記す。
そして書き終えると再びキレのある動きで前を向き、再びにこりと笑った後、悠長に自己紹介を始めた。
「オーストラリアから来ました。シャルロッテと申します。本当は、もっと名前長いんだけれど、気軽にシャルと呼んでください」
声の強弱の付け方から、彼女が人前で話しなれている俗に言う陽キャに位置する人間だということはすぐにわかった。
俺には無縁の天使だと思い、再び机に顔を突っ伏そうとした瞬間。衝撃の一言を彼女は告げた。
「この学校には差出人のわからない情熱的なラブレターの返事をしにやってきました。よろしくお願いします」
恥じらいの素振りを一切見せずそう言い放った彼女に、思春期真っ盛りの学生からの歓声が贈られる。
そんな中、俺一人は彼女の発言に頭を抱え、前の席の椅子を眺め深く考え事をしていた。
こっちの気も知らない角刈り野郎は自己紹介の締めに差し掛かる。
「じゃあ、シャルになにか質問したい奴はいるか? あ、セクハラに近い質問しようものなら鉄拳制裁だから覚悟しろよ。頭ドピンクども」
「そんな質問、ミズカスしかしねぇよ」
どこからか聞こえた罵倒。
それに便乗し、ピエロが人を欺いたときの笑い声と似た声が複数の場所から聞こえるが、そんなことに神経を裂くほど今の俺は暇じゃなかった。
すると、このスクールカーストの頭である俺をいじめている主犯が、筋肉の塊のような右手を天へと掲げる。
「その差出人にはどう返事する予定なんじゃ?」
彼女は間髪入れずに動揺の「ど」の字もなく答えた。
「差出人がわからないからなんとも言えませんが、手紙から推察するにユーモアのある方です。きっと紳士そのものでしょう。ですから、基本的には結婚を前提にお付き合いしてほしいと答える予定です」
望む情報のピースが彼女自身から零れはじめる。
人生であの筋肉に感謝の気持ちが湧いたのはこれが初めてだ。
「へぇ。じゃあ、シャルさんは誰かもわからない相手を探しにわざわざここまで来たんじゃ? 相手がもしミズカスみたいなやつだったらどうするんじゃ?」
彼女は若干首をかしげながらも少しずつ質問について答える。
「そのミズカス? さんがどなたか存じませんが、差出人が安治島のここ付近に在住なのはわかりました」
はて。俺はなにか安治にしかない特産品でもラブレターに入れただろうか。
もしかしたら人違いかもしれないな。
そう思い、彼女が俺のラブレターを拾った相手なのかを詮索するために、今ある情報を社会のノートの最後のページに書きまとめていく。
「ん? あぁ、ミズカスが誰か転校初日じゃわかんないよな。ほら、そこで馬鹿なくせにノートに文字書いてるデブじゃ」
失礼なんて言葉を知らない筋肉は、どうどうと俺を指さす。
「あぁ。その方がミズカスさんなんですね」
そう言った彼女は顎に右手を持ってきて、その肘を左手で支えてからマジマジと見る。
はいはい。そんなマジマジと見てもトリックアートみたいに劇的にイケメンに変わることなんてありませんよぉだ。
「流石にミズカスさんが差出人ならお断りするかもしれませんね」
うん。こいつは俺の運命の相手じゃねえや。
周囲に笑いものにされた怒りで何本かの細胞を破裂させながらテスト地獄の二学期初日を過ごした。
放課後。事情を一切聞かず宿題未定出について散々角刈り野郎に説教を食らった。
内容は俺の人生よりも薄っぺらく、反省をする気なんて全く込み上げてこなかった。イジメを見て見ぬフリする角刈り野郎のほうが絶対に悪だから。
誰も殺人鬼の有難い言葉なんてものに耳を傾けたいとは思わないだろ。それと全く同じだ。
説教後平謝りをし、一年以上皆勤の帰宅部としての実力を大いに発揮し、自宅に駆けていく。
そして、ゴールテープの代わりに敷き布団に飛び込み、いつものように天井を眺める。
そこで大きく息を吸い、シャルロッテという少女について振り返る。
自分に素直になるならば、正直彼女は俺の好みを具現化した存在そのものだった。
こんな俺でも一年以上無差別に同年代の女の子を見てきたからわかる。
あんな達筆で黒板にすらすらと書き、自己紹介で何一つ浮いた発言をしなかった彼女はきっと頭が切れる人種。
軍隊顔負けのキレのある動きにはそれなりの身体能力が必要とされる。そして胸を張って堂々と歩く姿には無駄が一つもなかった。運動神経も抜群なのだろう。
そして驚くべきは順応速度。彼女は転校してから三時間でスクールカーストの上位を確立していた。
正しく世界が求めている非の打ちどころのない存在とは、彼女のことだろう。
そんな女の子が、もしかしたら自分のためにはるばるオーストラリアからなんにもない島に自分から足を運んで、告白の返事をしに来てくれたんだ。
この状況に心躍らないほど俺は頑固者じゃなかった。
あの爆弾発言にはさすがに腹が立ったが、彼女にはそれを言う権利が備わっていた。
「とりあえず明日からは、彼女の差出人が俺なんかの確認やな……あとは……」
自分のお腹をさすりながら、一か月ぶりに勉強机に視線を送る。
「もしもの時のために備えていて損はないやろ」
そんなことを言っている俺の口角は上を向いていて、鉛筆は羽が生えたように軽やかにノートの上を舞っていた。
たぶん母さんがこんな姿を見たのなら息子がなにか危ない薬に手を染めたのだと、警察か病院に電話をかけていただろう。
九月二日の早朝。俺は下に体操ズボン、上は下着一枚の都会なら一発で通報されるだろう姿で、近所の砂浜をひたすらにまっすぐ走っていた。
走れば走るほどに靴に砂が溜まって走りづらくなるが、戦闘民族がこぞってつけるウェイトベルトと同じ効果を期待し、そのまま走り続けた。
「はぁ……はぁ……。俺に……もうちょっと体力があったら……いい景色やのにな」
朝日が海を照らし、その反射で海や砂がキラキラと光る景色はセレブのコレクションルームに匹敵するものだった。
自然の確保できないその宝石は、あちらこちらと無数に光り輝く。
しかし性格があまりにもひねくれた俺には汚い自分を見下し煽っていると感じ取れた。
そのせいで次第に走ることが嫌になり、ふらつきながらも家に戻った。
そして勢いよくシャワーで育児放棄寸前の父親のように自分の体を洗い、着替えた後に時計を確認する。
時計の針は六時半を指していた。
「やっべ。もう時間ないやん」
本来の葱又中学校の生徒ならあと一時間ほどの猶予がある時間だが、俺にはそんな猶予は許されていない。
毎日日直当番の俺は毎日七時に登校して、謎に教室で飼育されている亀の管理をしなくちゃいけない。もちろん全クラス分。
学校側は動物をいたわる心を生徒に芽生えさせることを目的とし、この制度を採用したらしいが、生徒が実際に学んだことは弱肉強食のこの世の摂理。
まったくもって笑えるくらいに皮肉な話だ。
意味のないことを中二交じりな思考で考えながら、もう一年以上続けているこの恒例行事をこなしていく。
この一連で何が一番むかつくかって、亀どももスクールカーストを熟知しているせいで、俺に懐くどころかそれに漬け込んで挑発的な態度をとるところだ。
「ほんま。飼うならもうちょっと愛想のええ亀飼えよ。この学校も」
そう言いながら亀の世話を終えた翁草職人はハンカチで手を拭いながら自分の教室に入り、自分の席に着く。
そして意味もなく辺りを見渡し、昨日までなかった花瓶があることに気が付く。
「もうちょいセンスある瓶使いや。花が可哀そうやで」
そう言いながら花瓶の水の量を確認するため近づく。
「これって……俺が投げた……」
恐る恐る花瓶を手に取り、あらゆる視点から眺める。
この花瓶は俺の投げた瓶と瓜二つどころか瓶の底の加工を含め、完全にまったく同じものだった。
強いて異なる点があるとすれば、一度瓶を切断した形跡があるくらい。
これはバラを取る時に切断したものなのだろう。
昨日考えた、俺以外にこの島から差出人不明のラブレターを送った人間がいるって線は完全に消え去った。
もしそんな人間が居たとしても、その相手は彼女じゃない。彼女のラブレターの差出人は間違いなく俺だ。
棚からぼた餅超えて、ダイヤモンドの状況に心が躍る。
「やっぱり……」
にやけながら俺がそう言い放った途端、教室の入り口が大きな音を立てる。
背後にきゅうりを置かれた猫のように飛び跳ねた俺は、慌てて入口の方へ向くがそこには何もない。
「これだけ古い学校やし、幽霊の一匹や二匹おるんやろか。あぁ、おそろしおそろい」
そう言い自分の席に着き、もう書きまとめる意味がなくなった社会の最後のページを消しゴムで力強く消す。
そして完全に消しきった瞬間。それを見計らったかのように、華奢な足音が教室の中へとやって来る。
顔を見上げると辺りをキョロキョロと見ながら自分の席に荷物を置くシャルの姿がそこにはあった。
登校のタイミングが把握できず、三十分近く早く来てしまったのだろう。
そしてその足音の持ち主は、俺と目が合ったと同時にこちらへと髪を揺らしながらやって来て、自然な流れで俺の隣の席に座り、体をこちらに向ける。
その動作でふんわりと柔軟剤の香りとシャル自身の爽やかな香りが鼻腔を伝る。
「俺になんか用?」
腐っても昨日失礼な発言をされた身。若干大げさではあるかもしれないが、自分はマゾではないことを証明するため、不機嫌な素振りをする。
そんな俺に対し、ロックバンドを嗜んでいたのかと言うくらいの速度で頭を下げるシャル。
「ごめんなさい。私、昨日ミズくんに無礼なことをしてしまいました。あれはジョークの一種だと勘違いしてしまって……」
すんなりと頭を下げられ若干困惑をしつつも、自分が怒っていないことを示すために、柔らかい口調で会話を続ける。
「ええよ。ええよ。実際俺の扱いとしては百点の答えやったし」
「ごめんなさい。あなたがその……イジメられているって知らなくて。もう二度とあんなことはしません」
真っ直ぐな目でこちらを見つめるシャル。
いくら美しい女性でも至近距離では多少残念な気持ちになると聞いたことがあるが、シャルに対してはその真逆の気持ちが込み上げてきた。
白くハリのある肌。この世に存在する宝石よりも遥かに綺麗な瞳。触れても犯罪にならないのなら無限に触りたいぷるんとした淡いピンク色の唇。
(こんな綺麗な子が俺のために……)
思わず気色の悪い生唾を飲み込む。
「もう怒ってへんから気にせんでええよ。えーっと、俺も自己紹介した方がええな。俺の名前は翁草瑞希。この学校にいる女の子全員に呆気なくフラれた、低身長、低学歴、ありとあらゆる部門で最底辺に君臨する男や。適当にパシリにでも使ってくれ」
自虐が水蒸気か何かなら飽和してしまいそうな、皮肉のあまりにも聞いた自己紹介をした。
けれども、自分がラブレターの差出人であることは言えなかった。
昨日のシャルの失言が遮ったわけじゃない。あまりにも俺と彼女ではあまりにも釣り合わない事実が、その真実を告げさせなかった。
俺の自己紹介の最初から最後までをきちんと聞いたシャルロッテは表情一つ変えずにいた。
発言をしても蔑まない異性の学生を見るのは半年ぶりくらいだ。
そんな感動を知る由もないシャルは、どうやら考えるごとをするときのルーティーンらしいポーズを取り、どこか虚空を見つめる。
「本当にパシリをしてもいいんですか? ミズキくんはその……辛くないんですか?」
「辛いか辛くないかって言うなら辛いよ。やけど、それ相応の行動をしたんやからしゃあないよな……はは」
わがままな俺自身は納得のいっていない正論の羅列を並べる。
「それじゃあ、少なくとも私はミズキくんをそんな扱いはしません……と言いつつも、一つ私のお願いを聞いてくれませんか?」
涼しく笑う彼女の優しさに涙腺を刺激されながら、俺は快く内容も聞かずに了承する。
「君のためなら命に関わらん限り聞くよ? なんや?」
その発言に若干引け目を覚えながら、シャルは少し口をすぼめながらお願いとやらを話し始める。
「その……実は昨日の早朝に引っ越しをしてきたもので、葱叉市の地理が全く分からなくて……」
彼女から見れば外国のこんな小さな島のましてや田舎の地理なんて知らなくて当然だ。
きっと彼女は下調べをする間に、差出人が他の場所に行ってしまうことに怯えて飛んできたのだろう。
それほどに彼女は本気でこの差出人を探しているんだ。
そう再認識しても、俺の口は真実を告げることを拒む。本当に我ながら情けないことだ。
彼女には申し訳ないが、しばらく辛抱してもらおう。
せめて俺のどの要素かが最底辺から脱却できるまで。
「ほな今日の放課後から島案内するってことでええか?」
「はい。よろしくお願いします! やっぱりあなたは紳士ですね。ミズキさん」
シャルは再びペコリと頭を下げる一方、「やっぱり」という言葉が引っかかった俺は首をかしげていた。
(あっちの国の先生とかが日本語を教えたときに誤った教え方でもしたんやろ)
俺はそう自己解釈をし、今日の授業に取り組んだ。
「シャルロッテに見合う男になるため」という目標があったからか。はたまた、今日の授業が運よく馬鹿でもわかる単元だったのか。授業の内容がいつもよりもすんなりと頭に入ってきた気がした。
その日の放課後。
帰宅部としての活動にいつも以上力を注ぎ家に帰り、制服が宙から地面に落ちるよりも早く私服に着替える。
そこから残像を置き去りにする勢いで、昼休みにシャルと決めた集合場所。葱叉市唯一の船着き場に行こうとする。
シャルはその近くのマンションで一人暮らしをしているらしい。
足音の大きさのベクトルが違う息子に驚いた母さんが泡立ったスポンジ片手にのれんから顔を見せる。
「ミズー。あんたどっか行くんか?」
「友達と出掛けて来るわぁ」
その言葉を聞いた母さんは顎を外す。
実際に口にしたわけではないが、俺に友達がいないことを薄々察していたらしく、本来あり得ない状況に言葉を失ったらしい。
そしてどうにか平静を取り戻した母さんが涙目になりながら言った。
「いってらっしゃいミズ。楽しんできて」
「いってきます」
母さんの声はいつもよりずっと温かかった。
船着き場に辿り着き、肩で息をしながら辺りを見渡す。船着き場にシャルの姿はなく、俺はなんとかシャルより先に目的地に辿り着けたらしい。
「こういうのは男が先におるもんなんやろ? 知らんけど」
漁師の気に障る声を抑えた笑い声を必死に無視しながら、俺は身だしなみを整えるべく、風で変わってしまった髪型をいつも通りのものへと戻す。
そしてようやく息が整う頃。白いワンピースを身に纏った天使が海風と自分が走ることで発生する風に帽子が飛ばされぬように、麦わら帽子を抑えてこちらに走って来る。
「おまたせ。もしかして待たせちゃいました?」
「イヤゼンゼンマッテナイヨ」
目の前の天使の美しさにカタコトでしか返事が出来なかった。
そして「シャルの白ワンピ最高」「肩が見えてるのえっど」「歩く度にチラリズム発生してる鎖骨ええやん」など、小学生じみた語彙力の様々な雑念が動画投稿サイトの弾幕コメントのように俺の脳内をぐるぐると回り続ける。
十秒ほど沈黙の間が開いたが、正気に戻った俺は何もなかったかのように道案内を始める。
最初は生活には必須なスーパー。引っ越し仕立てならお世話になることが多い家電量販店。なかなか欲しいものが見つからないときの最終手段の大型ショッピングモールを無駄のないルート取りで教える。
観光地を教えるよりも、こういう日常でお世話になることの多い場所を重点的に巡ってる方が彼女のためになると思ってそうしているが、彼女は退屈じゃないだろうかと心配になる。
しかし、そんな心配とは裏腹にころころと変わる表情をする彼女。
一通り葱叉市について実際に足を運び終わり、帰路に着く途中。
俺は自分のカバンから手帳を取り出し手渡す。
「はい、シャル」
「これは何ですか?」
俺は自慢気に胸を張って答える。
「葱叉市の隠れ名店まとめや。住所と店名、それとおすすめの食べ物がまとめてある。ほら、一人暮らしやとこういうとこ知ってて損はないやろ?」
シャルはその手帳をペラペラと捲る。
「あぁ、味に関しては心配せんでええで。ほら、この腹の持ち主が言うんやったら説得力あるやろ?」
俺は力一杯腹を叩く。
うん。我ながらハリのあるいい音だ。
「…………ありがとうございます。でも日本の住所の読み方を覚えるまではお預けですかね。日本の料理は本当においしいものばかりです。ですから、楽しみにしてますね」
シャルはいかにもありがた迷惑に対して社交辞令を述べる社会人のような声をしていた。
俺はあまりにもすらすらと日本語を話すシャルのことだから、きっと昔から日本のどこかに住んでいるのだと勘違いしていた。
無意識とはいえ、失礼なことをしてしまったと冷や汗をかく。
「い、いや。ごめん。そうよな。日本とオーストラリアやったら住所とか制度とか違うのは当り前よな」
なんとかこの気まずい空気を抜け出そうと、脳の整理が追い付かないまま脊髄で声を出す。
そして俺の脳内にこの場を打開する言葉が思い浮かぶ。
しかしその言葉を俺が言っても迷惑じゃないだろうか。女の敵とも称された俺が言っても下心があるように聞こえはしないだろうか。
様々な思考が脳を巡る中、彼女の淡い青色の瞳が彼女と俺の短い過去をフラッシュバックさせる。
その内容は時間で言うならばとても少ないもののはずだが、今までの苦痛よりもはるかに色濃く、信憑性のあるものだった。
覚悟が出来た俺は震える唇を強く噛み、声が掠れないように意識しながらその言葉を告げる。
「シャルが良かったらやけど。また今度、一緒に行かへん?」
その言葉を待っていたと言わんばかりに明るく、この夏のべたつく暑さを吹っ飛ばす笑顔でシャルはこう言った。
「うん!」
青春を謳歌する中学生なら、こんなこと造作もなくこなし、人生のちょっとした一ページで終わるものだろう。
しかし、普段学生の女の子に散々な扱いを受けている俺にとっては、このワンシーンは全米を泣かせる大作レベルで、彼女の笑顔は自分の命に代えても守り抜きたいものだった。
なにが言いたいのかと言うと、俺はどうしようもないくらいにシャルロッテが好きになってしまったのだ。
単純な男だな。これだから恋愛経験の少ない人間は。本当に滑稽という文字を絵にかいたような存在だなと笑いたければ笑えばいい。
少なくともその程度ではこの気持ちは揺るがない。その自信が今の俺にはある。
その内心を見透かされたように、どこの誰かもわからない高校生が俺を指さし大げさに笑う。
笑われるのにはなれたはずなのにタイミングのせいか、それとも赤の他人に笑われたからだろうか。
どうしてここまで大げさにあの高校生が笑うのかをどうしても知りたくなった俺は、今の状況を把握できるものはないかと辺りを探す。
「あっ……」
その望みを叶えるものはすぐそばにあった。
そしてこの島でおそらく一番馬鹿な俺にでも、高校生が笑った理由が即座にわかった。
理解したその上でも、服屋のショーケースが反射して痛々しく今の俺とシャルを映す。
あまりにも対照的な存在が、当たり前のように横に並んでいるその姿。
ファッションに気を使い、整ったスタイルで誰も不快にさせない表情を浮かべるシャルロッテ。
小学生が着ていそうな、着ている本人すらわからない英語の羅列が並んだ服を脂が混じった汗で濡らし、「デブ」という単語で思い浮かべる典型的な腹の張り方。
そして、一歩間違えば通報されそうな表情とぼっさぼさ長髪で隣に何も考えず並ぶ俺。
目に見えるところ以外にも彼女と俺には雲泥がある。そんなことは百も承知だ。
百も承知だからこそ、彼女の隣に俺が今並ぶ権利はあるのだろうか。否、ない。
その答えが明確に自分の頭に浮かび上がった刹那。俺の目は虚ろなものから、覚悟に満ちたものへと変化した。
「シャル。ちょっと今から用事があったんやった。急で悪いんやけど、ここでお開きってことで、また明日な」
突然の提案にはっとした表情のシャル。
「私もなにか手伝いましょうか?」
「いや、これは誰でもない俺にしかできんことや。困ったときはシャルにも頼むわ。ほなな」
そう言った俺は、ここから一番近い山の山頂目指し駆けて行った。
その背をシャルは睨むことはなく、優しくそっと押してくれた。
時の流れは驚くほどに早く、気が付けば十二月になっていた。
今もなお俺は自分磨きをチリも積もれば山となる理論を信じ、続けている。
シャルが転校しなきゃ絶対に入ることのなかったコンビニの雑誌コーナーでファッションの勉強。
体を動かすことでの脂肪燃焼に加え、図書館で借りてきた栄養士のダイエットレシピで、栄養やカロリー面も自分で管理。
どうしても自分で作れそうにない料理は母さんにも手伝ってもらってはいたが、無駄に器用な俺が三か月も毎日炊事を担当したからか、料理スキルを習得した。
正直食事制限や毎日の山登りは楽ではないが、彼女の隣で堂々と並んで歩けるその日のためなら乗り越えられた。
勉強面も中間テスト国語以外九十五点以上の天才天使に教えてもらっているおかげか、最近は授業の内容がさっぱりわからないという場面がほんの少しだけだけれど減ってきている気がする。
そして羞恥心や負の感情を押し殺しながら積極的にシャルと接したことで、男女としての関係は一向に進展しないけれど、友達と堂々と呼べるような中になりつつあった。
相変わらずイジメは続いているけれど、それが微塵も気にならずストレスと感じないくらいに、彼女と過ごせる日々が楽しかった。
今日からは期末テスト。
今までは苦痛でしかなかったけれど、今の俺はほんのわずかだけれど様々な面で成長している。きっと勉強の面でもなにか成長の見える結果を残せるだろう。
そう教室の隅っこの席で安堵していると、突然学ランを引っ張られ、振り向いた先に液晶画面を突きつけられる。
「ん? なんや? 蒲公英」
昔からの幼馴染で俺の唯一のシャルを除く友人。しかし素顔はいつもフードで隠されていて見たことがないため、こいつが男なのか女の子なのかわからない。
骨格で判断しようにも、普段からぶかぶかのパーカーを羽織っているせいで一向に尻尾を掴めない謎の生き物だ。
もしかしたら人間ですらないかもしれないが、機械やインターネット関係にはめっぽう強くいつもガラパゴス携帯のメモ帳越しに会話を図る。
なんだかんだ十年以上の付き合いだが、こいつが今何をしたいのかとかは未だに読めず、急に来る液晶画面に驚かされるばかりだ。
『自分磨きとやら。もっと本気でやらないと後悔する』
主張があまりにも強すぎる顔文字とともにそう携帯には記されていた。
普段から俺の自分磨きに協力的なこいつだ。この文字には嫌味などは一切なく、単純なアドバイスなのだろう。
しかし、どうして急かすのかを問わずにはいられない幼い俺がそこにはいた。
「なんで急がなあかんのや? カタツムリの歩行なみやけど確実に成果は出とるやん」
その問いに対し親指の残像が無数に表れた後、コンマ数秒で返答が帰ってくる。
『他でもないオマエの首を絞める』
相変わらず、こいつのことはまったくわからない。
でも言われなくても元よりそのつもりだった俺はあしらうようにわかったと言い、その場を切り抜けて期末テストに挑んだ。
そして以前よりも明らかにペンの速度が遅くなっていることに、とうとう俺は問題に対して考えることが出来るまで成長したんだと感動を覚えテスト地獄を切り抜けた。
テスト個票返却日。
自分の個票をまったく隠しもせず堂々と机に置き去りにし、俺のところへ一目散に飛んでくる学年主席。
ついた途端、子どものように見せて見せてと懇願されたのに負け、あっさりと個票をシャルに見せる。
「あっ……」
点数を見ると同時にかける言葉を失うシャル。
その一方で、学年主席の付きっきりの個別指導があったことを考慮するなら悲惨な点数に、ほんのわずかではあるけれど。いや、本音をさらけ出すなら俺はかなり喜んでいた。
人生で初めてとった二桁の数々。五教科の点数を全部足しても一教科満点分もない合計点だが、俺にとっては太陽が真っ青になって天を照らすレベルの奇跡の光景だった。
しかし先ほども言った通り、主席が付きっきりでこの点数だ。
決して褒められたものではないし、一般的に見れば劇的な変化ではない。
だが、去年のダイエットのようにあっさりと膝をつく気は一切ない。
だから俺は真っ直ぐな目でこう答えた。
「まだまだこれからや」
その発言を盗み聞きしていたイジメ集団が一斉に笑い出す。
そして人を罵倒するときだけ達者になる口で、散々な言葉を振りかけられるが微塵も気にならなかった。
その点で、精神面も成長。いや、もしかしたらある意味退化しているのかもしれないが変化していることを体感する。
でも、俺は彼女のためにならほんの少し。それこそ雀の涙よりもわずかなものなのかもしれないけれど変われる。
それが証明できただけで大きな収穫だ。
俺はその日から、更に自分の体や精神に鞭を打ち自分磨きに拍車をかけた。
この時の俺は自分が思っているよりもずっと無知だった。
それこそ毎日自分磨きの催促してくれる蒲公英の隠されたメッセージを汲みとれず、のんきにそして滑稽に一年を過ごすほどに。
3
彼女のためなら俺は変われる。そう確信してからちょうど一年たった今。
俺はあの日の俺なら二度見どころか五度見するような体を手に入れていた。
服越しにすらわかるようなくっきりとしたくびれ。引かれず、なおかつだらしないと思われないくらいにうっすらと浮かぶシックスパックの腹筋などの筋肉。その容姿ならば納得と言われる、元運動部エースに引けを取らない運動神経。
そして「成長期」なんて言葉だけじゃ証明できないほどの百七十後半の身長。
自分自身でも理解できないのが、これでもなお身長は伸び続けている。
実にありがたいことで、服の選択肢も広がり、今ではおしゃれ男子を名乗れるくらいの容姿を手に入れた。
最近は告白の場に呼ばれることもチラホラとあるため、「モテる男は辛いよ」と言う言葉が少しわかるような日々を過ごしている。
もちろんこの一年で変わったのは見た目だけじゃない。
最大の課題であろう勉強面も赤白カプセルに入るモンスター以上に成長している。
それこそテストで平均点を全教科上回り、主席独占の天使もご満悦なくらいの点数は叩き出せるようになれた。
そのおかげで様々な場所にゆとりが出来たのか多少のことは許せる心と、心理学を学ぶ時間が確保でき、イジメと隣合わせの日々は完全に消失し友達も多くなった。
結果。自分に自信が持てるようになり、以前よりもマイナスの感情が浮かばなくなった。
その流れも相まってシャルとの関係もより身近なものになり、親友と呼べるくらいには変われた。
それでも恋愛には発展していないのがむず痒いが、その悩みも今日のテスト返却次第でおさらばだ。
いよいよ本格的に、ラブレターの差出人は自分だと告白できる日が近づいてきたことに心躍る。
一つ気がかりなこととすれば、今もなお、しつこく自分磨き催促委員会から口酸っぱく急かされている点だ。
あいつなりの気遣いだと適当に解釈しているが、果たしてこれでいいのだろうか。
まぁ、いいか。
俺は今日。この期末の順位が半分より上なら、彼女に俺があの時ラブレターを書いた本人だと告白する。
あの頃の俺と今の俺はもう違う。
美しく天才で、人脈もあり、そして誰よりも笑顔が似合うシャルロッテ。彼女と対等な存在になれた。そんな慢心じみたことは言わない。
それでも、彼女の隣で歩いていて少なくとも笑われない存在になれたと自信を持って言える。
今までの自分を振り返っていると、クラスメイト全員分の個票を持った担任が個票を出席番号順に配り始める。
そして名前を呼ばれた俺は教卓に向かい足を進めていく間、自分の気持ちと対話する。
「俺は今でもシャルロッテが好きなのか」
「当然だ」
「今後もシャルロッテを好きでい続けられるのか」
「むしろ好きじゃなくなることの方がずっと難しい。それほどに俺は彼女の虜になっている」
「自分が差出人だと打ち明けてシャルロッテに嫌われたらどうするんだ」
「やるべき努力はした。これでも無理なら素直に諦めるさ」
「俺は彼女を隣に置き続けたいんじゃない。彼女を愛し続けたいんだ。それが実際に彼女の元へ届くか届かないのか。たったそれだけの違いに過ぎない」
「例え彼女がどこにいたとしたって、他の誰の隣で歩いていたとしても、俺は彼女が幸せで、いつものように眩しいくらいの笑顔をしていてくれたらそれでいい」
「それほどに俺は、翁草瑞希はシャルロッテが好きだ」
「そこだけは今後なにが起こったとしても変わらない」
自分の足音と鼓動がシンクロし、一歩一歩と教卓への道を踏みしめ、担任から個票を受け取る。
いつもの角刈り野郎は、強張った表情から少し柔らかい表情を浮かべる。
「頑張ったな。翁草」
今まで見たことのない表情に困惑しながらも震える手で個票を受け取り、総合順位を確認する。
そこには大きく「一」の数字が記されていた。
本能的に拳を天に突き上げる。
その瞬間。各々言い訳をしていた生徒たちが一斉に静まり返り、俺の背中へと目線を送る。
俺のいつもと違う背中を見たシャルロッテはその視線の合間を潜り抜けるかのように、軽やかな足取りで俺の元へやってくる。
背伸びをして俺の両肩を持ち、隣へひょっこりと顔を出してから順位を確認する。
「あら。負けてしまいましたね。おめでとうございます。ミズキ君」
振り返ると、そこには情に満ちた表情で笑うシャルロッテの姿。
思わず抱きしめようと伸びた手を彼女の肩に運ぶ。
大きく息を吸い、乾いた喉から言葉を絞り出し、彼女へ告げる。
「冬休みの次の日。俺とどこか出かけませんか」
その日をクリスマスイブと言えず、あまりの真剣さに敬語で言ってしまった自分に情けなさを感じながらも、顔を赤く染め、彼女の答えを待つ。
彼女もまた顔を若干赤く染め答える。
「ふふっ。初めて会った頃とはずいぶん変わりましたねミズキ君。『クリスマスとイブ』どちらも空けておきますね」
その言葉を待っていた傍観者は指笛を高らかと鳴らし、角刈り野郎は小さく拍手をする。
「私のために……」
シャルが何かを俺に向けて言った気がするが、当の本人である俺はと言うと、彼女に敵うときはいつか来るのだろうか。そんな疑問が浮かびながらも、今にも崩れそうな全身を鞭打っていた。
そんな状況で大きく息を吸い辺りを見渡し、唯一見えたのはなぜか親指をシャルに向けて立てていた蒲公英だった。
俺が想像も出来ないことが起こっているということは、これは現実なのだろう。
その事実に更に喜びが込み上げてきた。この日は表情筋の制御ができない一日だった。
冬休みまでの日々は彼女とクリスマスどうやって過ごすかを考えていたら、あっという間に過ぎ去っていった。
個票返却日から全く接してこなくなった蒲公英に若干の不安を過らせながら迎えた冬休み。
単純作業職人の上、葱又中学校二年主席の頭脳を持つ俺は冬休みが始まる前から宿題を終わらせていた。そのうえ、自分磨きのいつもの日課を済ませていたため、天井のシミを数えることに勤しんでいる。
クリスマスイブまであと一日。
いざその日を目の前にしてみると、体の内側から誰かにくすぐられるような感覚が止まらない。
もう二十四時間を切っていると知ると、緊張感が鼓動を早まらせ、様々な感情が頭をめぐる。
「そんだけ俺は、シャルに本気なんやな」
そして意味もなく、シャルと出会ってから今日までを振り返る。
夏休み明け。突然やってきたシャルは爆弾発言をして俺を混乱の渦へとのみ込んだ。
次の日。葱又市を二人で一緒に歩き回った。ころころと変わる彼女の表情は俺のひねくれた心を浄化し、彼女と隣で歩いたことが俺の導火線に火をつけ、今の自分へと進化させた。
彼女と共に二回過ごした、文化祭と体育祭はまさに天国と地獄そのものだったな。
全種目ビリの俺を必死に励ますシャルは、クラスのエースとして山ほど活躍した去年。
シャルと隣で同じくエースとして起用され、お互いがお互いに声を掛け合って勝ち取った体育祭優勝。
文化祭はその逆だったけ。意外にも料理のできないシャルに目が離せず、一時的にあだ名がミズカスからママになった去年の文化祭。
そういや当日は巨大ボウルに入った具材に調味料をかけるとき。シャルが片栗粉と小麦粉を間違って、ニラ入りのクッキーっぽい何かを売ることになったっけ。
結局先生たちがシャルの涙に負けて自腹で全部買って、大食い大会を開催したなぁ。
こんなこと今の一年に言っても絶対に誰も信じないだろう。
文化祭終わった後、定期的にシャルの家に通って料理学校を開催したのも昨日のことのように覚えてる。
俺がボトルに入れて送ったドライフラワーは、クリスタルフラワーってものに加工されて大切に保存されてて涙が出そうになった。
それを俺が見つめてた時「誰かはわかりませんが、運命の相手から貰ったものですから。せめて差出人に出会うまでは枯れないように」って、隣にやってきたシャルが言って、思わず打ち明けてしまいそうになったな。
あとでクリスタルフラワーについて調べたら、中学生がぱっと出せる金額じゃない値が加工のために必要と知って驚愕したっけ。
ほぼ日課となっていた放課後二人、図書室での勉強会。
彼女と隣にいるという罪に身を焼かれながらも、自分を変えるためには致し方ないことだと勝手に解釈して、馬鹿な頭を必死にフル回転させた毎日。
あの日々が、今の成績を作り上げた。
彼女には感謝してもしつくせない。
一生をかけて恩返しをしよう。
そんな数々の思い出を振り返ると、今の自分のままでいいのだろうか。今の自分にできることは他にはないだろうかと不安が過る。
何か悩みがあれば神社よりも遥かに多く通っていた図書館に気が付けば俺の足は向かっていた。
そして勉強に役立ちそうな本がずらりと並べられている場所で地理の本に目線が吸い込まれる。
(オーストラリアについて勉強しておくのも悪くないかもな)
そう思った俺は、オーストラリアについて重点的にまとめられている本を図書館中探し回り、最終的に観光雑誌に行き着いた。
一国を知りたいならまずは、観光地から知ったほうが取っかかりやすいだろうと思ったからである。
そしてその雑誌の一ページをめくると、目次の中に写真付きで書かれた付録に目線が行く。
ただの付録なら、大した興味もわかずこのページを読み進めていただろう。
しかし俺はこのページでぴたりと止まってしまった。その写真の中心に、何百回も見た人物の笑顔があったからである。
途端、平静を取り戻すため息をのむ。
そしてオオカミが人の腸をえぐるような勢いで付録のページまで捲る。
そのページに行き着くと「独占インタビュー オーストラリアが生んだ奇跡」なんて大々的なタイトルとともに、真剣な眼差しをしたとあるオーストラリア人がお出迎えしてくれた。
驚くほどに捲りやすくなったその手でおそるおそるページを捲る。
中にはとてつもなく長い前置きが書かれていた。
彼女のフルネームが「フクシア・シャルロッテ」であると言うこと。
彼女はオーストラリアどころか、世界中で注目を浴びている有名な学者であるということ。
日本と医学的に深い交友関係を持っているということ。
わずか九歳で、人間の寿命を無条件に五年延ばす薬を開発したこと。
その他にも腐るほどの偉業が描かれており、独占インタビューは同い年の人間が語ったとは信じられないほどの言葉の羅列。
数世代先の教科書に載っていても違和感のないロジックにはまった内容が書かれていた。
「ほんま、無知って罪やな」
今思い返してみれば、彼女が「フクシア・シャルロッテ」であると気づく手段は沢山ちりばめられていた。
なぜか外国から転校してきた生徒のはずなのに、日本語があまりにも自然なイントネーションで、なおかつ敬語であること。
これはお偉いさんと対談するために身に付けた日本語だったからだろう。
次に彼女が手紙の差出人の居場所を一か月足らずで見つけたこと。
それができるほどの環境に彼女は身を置いているからだ。
自分のテストそっちのけで俺に教えていたのにも関わらず、国語以外で常に満点だったこと。
当然だ、彼女は天才学者なのだから。
一人暮らしをしているのに自炊が絶望的にできず、頻繁に外食をしていること。
安治でかなり高級にあたるマンションに一人で住んでいること。
差出人のわからない花をクリスタルフラワーに変えたこと。
相手が誰なのかわからないのに、大金を叩いてここにやってきたこと。
そんなことが出来るのは、彼女が国一つを動かせるレベルの大金を稼いでいるから。
彼女と言う存在。「フクシア・シャルロッテ」を知れば知るほど俺がいかにちっぽけな存在かが見えてしまう。
彼女と俺は真逆の人生を歩んでいる。
皆に蔑まれた人生を歩んできた俺。
世界中に夢や希望を与え続ける彼女。
もはや生まれた星が一緒と言うだけで罪だと感じてしまう。
それほどに彼女は遠い存在なのだ。
俺は天狗になっていた。こんな小さな島の、小さな学校で多少頭がいいと評価されただけなのに。彼女の隣にいる権利を得たと勘違いしていた。自分が恥ずかしくて仕方がない。
刹那。俺の脳に蒲公英の面影が浮かぶ。
「そっか。あいつは、知ってたんや」
すべてを理解したとき、俺は涙を流し始める。
蒲公英はすでに知っていたのだ。
彼女が「フクシア・シャルロッテ」であるということを。
だから俺を毎日焦らせていたのだ。彼女の正体をもっと早く知れる世界線があれば、また違う俺が存在していたかもしれないから。
個票返却の時、シャルに向かって親指を立てていたのは蒲公英が裏で手を回していた動かぬ証拠。
友の。
俺以外の人と話すことが出来ない友の勇気ある行動を無下にしてしまったと自覚すると、更に涙が流れる。
「ごめん……」
掠れた声で俺はそう言った。
そこからは記憶にない。
気が付けばコートに身をまとうシャルが隣に居て、初対面の人間ですらわかりそうな作り笑顔で横を歩く俺がいた。
見える景色は、すべてフィルターがかかったみたいにぼやけて、今まで貯めたお小遣いをほとんど叩いて予約した店の料理は何の味もしなかった。
目に見えて調子の悪い俺を介護するシャル。
その行動一つ一つが的確で、その行動一つ一つが俺の中のこの名前の分からない感情を膨らませていった。
気が付けば辺りは真っ暗で、僅かな街頭と小さく降り注ぐ雪がクリスマスイブの海辺を照らしていた。
真冬にもかかわらず海辺でしゃがみ、海水をすくい眺めるシャル。
儚く水を眺める彼女はただひたすらに美しかった。
十四歳の彼女は可愛いという印象だったが、十五歳になった彼女は大人から漂う美しさを帯び始めていた。
この二年間。ほぼ毎日見た横顔が今日はいつもの何十倍も遠い存在に見える。
「ミズキ君。何か私に言うことがあって、今日私と一緒に過ごしたんじゃありませんか?」
天才の彼女だ。薄々、いやもしかしたら転校してきたあの日から、差出人が誰なのか知っていたんじゃないだろうか。
真っ直ぐな目で俺の目を見つめる彼女。
二日前までなら、この目と目を合わせられただろうに、今はどうしてもできない。
それでも彼女の問いには答えたいと思い、今にも吐きそうな声で返す。
「た、確かに。言いたいことがあって……シャルと一緒に過ごした……でも、ごめんな。言えそうにないんや」
張り付いた笑顔で俺はそう返した。
途端、彼女は何も言わず涙を零す。その顔を隠しもせず、ずっとどこか遠くを見つめて。
数十秒後の沈黙ののち、彼女は口をようやく開く。
「なら私からのメッセージ、受け取ってください」
大きく息を吸い、涙を振り払ったシャルは、真っ直ぐにこちらを見つめる。
「葱叉学校に転校してきたあの日から、いや、あのラブレターを貰ったあの日から、ずっと……ずっと、あなたのことが。ミズキ君のことが大好きでした。
独創的な発想をするキミが。
愛に情熱的なキミが。
努力家のキミが。
自分よりも他人を大切にするキミが。
押し付けられているとはいえ、自分の責務をきちんと果たすキミが。
見えないところの努力を結果が出るまで決して打ち明けないキミが。
勉強を真剣にするキミの横顔が。
私と楽しく話すキミが。
他にもたくさんのキミが。
そしてなにより、私のために変わっていくキミが大好きでした」
突然の告白に大きく見開く俺。初めてまともに見る彼女の目。
俺よりもずっと小さな女の子が、ここまで俺を好きだと言ってくれているのに、俺の口は縫われたかのように開かない。
「本当は筆跡鑑定とか、利き手とかでミズキ君が差出人ってわかっていました。でも、本人の口から自分が差出人だと言ってほしかった私はずっと待ってました。それも今日で終わり。大好きだったよ、ミズキ君」
それも今日で終わり?
言葉の意味が分からない俺は、賢くなったはずの頭でいろいろ考える。しかし答えは出てこない。
「最後まで名乗り出てくれないんだね、ミズキ君。じゃあせめて親友として聞いてください。私、卒業式当日にオーストラリアに帰らなくちゃいけないんです」
「えっ……」
「ようやく口を開いてくれましたね」
彼女はどうにか振り絞らせた言葉がそれだったのが悔しかったのか涙を更に流しはじめる。
そんなことに動じることなく彼女は話を続ける。
「今までは無理を言って帰国日を引き延ばししていたのですが、今回ばかりは国の問題になりかねないとのことで致し方なく帰ることになりました」
「待って……」
ほとんど音にすらなってない俺の望みは叶わず、彼女は早口で話を続ける。
「今のキミなら、誰かと幸せな人生を歩んでいけます。どうか……お幸せに」
そう言った彼女は、素早く振り向き駆け足でその場を去っていった。
手を伸ばすが、彼女は止まらない。
俺は海を仰ぎ泣き叫ぶ。近所迷惑なんてものに配慮が出来ない今の俺。
肺が悲鳴を上げ、もう二度と喋れなくなるくらいに喉を酷使して泣き叫んだ。
フラれたのはもちろん悲しい。しかしそれ以上に、誰でもない俺が彼女の笑顔を守れず泣かせてしまったことが許せなかった。
ひたすらに自分を責める。
彼女の隣に居られるように積み上げた努力は、結果的に彼女の涙につながった。その事実を無罪の神に、そして万死に値する自分を恨みながら。太陽が昇る寸前まで泣き叫んだ。
4
生きる活力を奪われた俺。
毎日の食事は満足にのどを通らず、酷く痩せこけ迎えた三学期。
いつも教室で一番右前の席でバターブロンドの髪を揺らす彼女の姿はない。
もしかしたら俺にだけ彼女が見えないのだろうか。そんなことは無い。
彼女は正真正銘、学校が始まってから二か月一日たりとも出席していないのだ。
まぁ彼女の成績であれば、三学期まるごと休んだとしても卒業証書は容易に獲得できるし、何なら中学を卒業したという証明が無くても問題なく生きていけるだろう。
放課後のチャイムが鳴り、一斉に教室を去っていくクラスメイト。
受験まで一週間を切っている今。はしゃぐ余裕もないのだろう。ましてや今日は金曜日。今日から徹夜で休日を過ごすのが大半なのだろう。
何かを察したらしく、俺に話しかけるものはいない。
その優しさが逆に痛い。
彼女が来る前と大して変わらない日々のはずなのに、こんなにも虚しいのはなぜだろう。
答えの分かった疑問で彼女への思いから目をそらそうとするが、何度やっても上手くいかない。
すると、久しぶりに見るガラパゴス携帯が目の前に現れる。
『ごめんね』
相変わらずの憎たらしい絵文字にもはや清々しさを感じる。
「お前のせいじゃないよ。俺があまりにも馬鹿なだけや」
『うん。確かに馬鹿かもしれないね』
久々の切られるような言葉に謎の安らぎを感じる。
「俺って、マゾなんかもな」
『そんな馬鹿でマゾでどうしようもないオマエに一個喉から手が出るような情報をあげよう』
いつもより軽やかに踊る親指。そして携帯に表示されたのはバス停の時刻表と、誰かの予定だった。
『三月九日。花園橋前。十時三分にとある人間はバスを待っている。どうするかはオマエ次第だよ』
「確か、花園橋って花が無限に咲いとるから通りやすくするために建てられた橋のとこやんな? あっこのバスしょっちゅう乗るから覚えとるけど、バスくるん二分やで。ほら、時刻表にもそうやって……」
馬鹿な俺でもわかる。これが本当に最後のチャンス。
蒲公英が手を回してくれたものなのか、シャルの本音なのか。
そんなのどっちだってかまわない。
念押しで蒲公英が問いかける。
『フクシア・シャルロッテのことがオマエは好きか?』
「やっぱりお前知ってたんやな。シャルが転校してきたあの日から、その気持ちだけは変わらん。もう釣り合ってない、釣り合ってるとか知ったこっちゃない。俺はわがままでどうしようもないくらいの馬鹿なんや」
その言葉に鼻で笑う蒲公英は流れるようにフードを外す。
「よっし。この学校で唯一翁草瑞希に告白されない女になるって目標は達成できそうだね」
「えっ」
蒲公英という名が相応しい、目の大きな、日本人らしい茶髪のショートボブ。自然から恩恵を受けてるんじゃないかと思える緑色の瞳は相手の心を和ませる。少し尖った小さな唇はどこか幼さを印象付ける。
数十年の付き合いで初めて見る彼女の素顔は人前に見せるには万全とはいえず、目元が赤くなっていた。
ただですら渋滞している情報に加え謎に包まれていた存在、蒲公英の正体が俺の脳を溶かす。
「もう、感謝してよ。けっこう僕裏で頑張ったんだから」
蒲公英は手で自分の頭を撫でろというジェスチャーを送る。
特段断る理由もなかったため頭に手を運び、蒲公英の首が揺れるくらいに撫でてやる。
「あぁ。ありがとうな、蒲公英」
目線を下げる蒲公英は床をポロポロと濡らす。
俺は蒲公英が泣き止むまで優しく撫で続けた。
「まったく。一人の乙女が失恋してまで協力してあげたんだから。僕が悲しくなる報告持ってこないとぶっ飛ばすよ?」
「ぶっ飛ばされるのは嫌やから、頑張ってみるわ。結果がどうなるかどうかは知らん――」
続きを言おうとした瞬間。唇を人差し指で抑えられる。
「いいかい? 恋は貪欲に。結果はどうなるか。じゃなく、自分が望む結末を迎えるまであの手この手を使うの。じゃないと、僕みたいになっちゃうよ?」
「あのさ、聞きたかったんだけど――」
今度は物理的なものではなく、音で遮られた。
「失恋した乙女の恋愛事情を掘り下げるなんて。本当に乙女心がわかっていないなぁ、オマエは」
「ごめん……」
「無差別に誰彼構わず女の子に告白する男。これだけ聞いたら獣以外何者でもないけど、僕はお前を子供の頃からずっと見てきた。だから、そのデメリットをかき消すような魅力を山ほど知っている。それこそ、シャルロッテよりもずっと多くね」
久しぶりにかけられた誉め言葉に心が潤う。
「で、三月九日って三日後だけど、いつまでオマエはここでボケーと座ってるんだい?」
蒲公英は俺を立ち上がらせ、背中をありったけの力で押す。
「蒲公英。卒業おめでと」
「あぁ、卒業おめでとう。ミズキ。またどこかで」
志望校の違う俺たちは、最後の別れを告げた。
次会うのは、成人式になるだろう。その時は、シャルロッテも一緒に笑える一日にする。
本人の居ない場所で勝手に決定事項にし、葱叉中学校を去った。
三月九日。
朝の九時。俺は今持っている全財産を持って、自分の思う最大限の紳士な格好で花屋の前に待っていた。
こちらの事情を知らないエプロン姿のお姉さんは「CLOSED」の札を捲り、こちらの顔を除く。
「どんな花をお探しですか?」
俺はその質問に間髪入れることなく、事前に決めていた花の名前を言う。
「赤いバラを十一本ください。今持っているお金全部出すんで。お代が足りないなら借金するんでください!」
今からプロポーズに行くのに、手ぶらで行くのは誠意が足りないと考えた俺。
しかし指輪なんて高価なもの、クリスマスでほとんどの有り金を叩いた俺に買えるはずがない。
てことで行き着いたのが、ラブレターにも添えた花だった。
俺の早口の注文を聞いたお姉さんは、少しにやけながら野暮なことを聞く。
「バラを十一本ってことは、好きな子に告白でもするのかな?」
「いいえ。プロポーズです」
花屋さんは不思議そうな顔で俺を見つめる。
「お兄さん。プロポーズならバラの本数は十二本のほうがいいんじゃないですか?」
赤いバラは本数によって意味が異なる。
十一本で「あなたは私の宝物」
十二本で「私の妻になってください」
ちなみに一本で「あなたしかいない」になる。
あの頃は何も知らず入れたバラだったけど、間違っていなかったのがせめてもの救いである。
この情報を花屋さんは当然知っている。だから本数について聞いたのだろう。
「いいえ。十一本であっています。なぜなら、一本目を二年前に渡しとるからです」
そして十二本で「私の妻になってください」になるのはバラ一本一本に「愛情」「情熱」「感謝」「希望」「幸福」「永遠」「尊敬」「努力」「栄光」「誠実」「信頼」「真実」という思いが込められているから。
ここでシャルのおかげで育った頭脳にビビッと電撃が走った。
俺は一本目のバラを瓶に詰め、海を越えて渡した。
昔の偉人たちが何度も失敗した国と国との横断を、俺の投げた瓶は掻い潜り彼女の元へと届けた。
ご都合じみた解釈だけど、それは試練を乗り越えたバラだ。
そしてそのバラをシャルは生涯枯れないようにクリスタルフラワーにして今も大事に持っている。
これを「愛情」愛情の花とするならば、「今後二人の間に如何なる試練が来ようとも、愛だけは決して朽ちることはない」にならないだろうか。いや、なる。
ならないのならば、俺が起源となってやる。
そう拳を手の前で握ると、ちょうど花束を作り終えたお姉さんが店の台越しに花束を俺に手渡す。
「またのご利用お待ちしております」
「え? 俺まだ金払ってないですよ?」
お姉さんは頬を染めながら少しくさいことを言う。
「愛に値段を付けるなんて野暮なこと私にはできません。さ、行っておいで」
俺は浅く会釈をし花屋を後にしようとする。
「ちょっ、なにか言ってよ。関西人に無視は犯罪だよ?」
俺はどうにか耐えていたが、その言葉に吹き笑い出した。
「はっは。お姉さんの優しさに感謝。緊張もちょっと解けました。おおきに」
そして花束が崩れない程度に駆け足で花園橋に向かった。
目的地に着き、腕時計で今の時刻を確認する。
時計の針は九時五十五分を指していた。
彼女が来るまで残り八分。いや、彼女のことだ。もっと早くに来るかもしれない。
いざ自分が今から十分以内にプロポーズをするのだと考えると、全身から汗が滲み出てくる。
緊張をほぐすために、肺いっぱいに息を吸う。
海からかなり離れているはずなのに若干香る磯の香り。そして開花を今か今かと待つ花々たちの甘い香りや、柑橘系の香り。
「しっかし、ここに春来たら綺麗やろうな……今度シャルと一緒に来よう。流石にバラは……咲いてへんな。でも結構な本数あるな。何本くらいあるんやろ? 千本くらいあるんちゃう?」
「九百八十八本」
「へぇ。ならここに十二本のバラ持ってたら一万年の愛を誓いますにもなるんか」
自然な流れで会話をしていた自分に驚き隣にいるシャルと咄嗟に距離をとる。
数か月ぶりに見る彼女の美しさに息が詰まる。
「最後の見送りですか? 卒業式まであと一時間です。今から走っていけばギリギリ間に合いますよ?」
この季節にはかなり肌寒いだろう九月二日に着ていた白いワンピース姿で、クリスタルフラワーを両手にシャルが俺の目を見る。
そこでシャルが待っているのがバスではないことを確信する。
今だけは、絶対に目はそらさない。
鼓動が徐々に早くなるのがうるさいくらいにわかる。
「いや、卒業式に行く気はない。俺はここに宝物を取り戻しに来たんや」
彼女は目を少し潤わせながらも会話を続ける。
「へぇ。それで宝物は取り戻せそうですか?」
春風でシャルの髪はふわりと揺れる。
緊張で乾く口に潤いを蓄え、大きく胸を張り真っ直ぐな目でシャルを見つめる。
そして彼女が教えてくれた英語で、前もって決めていた言葉を伝える。
『 Thank you for having discovered me. 』
『 We are meant to be together. 』
その言葉とともに、十一本のバラをシャルに贈る。
クリスタルフラワーを小さなポーチに一度入れ、花束を受け取ったシャルはとうとう耐えきれなくなり、頬に雫を垂らす。
「ここに来たあの日から、ずっと君の口からその言葉が聞きたかった」
その言葉とともに咄嗟に手で涙を拭うシャルロッテ。
「天才じゃなくていい。カッコよくなくたっていい。お金持ちじゃなくていい。特別じゃなくていい。見合う見合わないとかそんな心配、私はいらない。私はただひたすらにあなたが欲しかった」
子どものように手を大きく広げるシャルを俺は優しく包み込む。
初めて抱きしめる女の子。力加減がわからず彼女のまわりに輪を作っているだけになった。
「ふふ。キミの愛情表現で骨が折れるなら、本望ですよ」
「流石に未来の妻の骨を折りはせんよ」
そう言って俺とシャルは力強く抱きしめあった。
「大好きだ。フクシア・シャルロッテ」
[ 了 ]