草原春子という女
「草原冬子さんですよね?」
「は?」
コンビニの外に設置されている灰皿の横に立って煙草を吸っていると、知らない男に声を掛けられた。
真夜中のコンビニで若者が数人集まっている所にやって来るには、その男の恰好はあまりにも”上等”であった。
思い切り怪訝な顔をしてその男の顔を見つめてみるが、あたしには、目の前の男との関係に心当たりはない。親指と人差し指に挟んだままにしていたタバコの先端から灰が落ちる。あたしは、その灰を靴の底でぐりぐりと踏みつけた。
「”ふゆこ”じゃなくて”とうこ”だけど」
「とうこ? ううん、草原春子という女性を知りませんか」
どんなに男が首を傾げようが、あたしはその女を知らない。
「……同じ名字ってだけでしょ。そんな人は知らないけど」
「多分、貴女は草原春子を知っていると思います。だから、一緒に探してくれませんか」
知らない、と言っているのに尚も食い下がる男。話にもならない男に、先に業を煮やしたのは友達未満の”ヤニ仲間”であった。あたしの横でしゃがんで煙草を吸っていた女は、男を訝しげに見つめたあと、可笑しそうに「ハッ」と鼻を鳴らして笑った。
「はー、きしょ。なに? 最近のナンパってこーゆー感じなの?」
「冬子~、本当は知り合いなんじゃないの~?」
「知らないって。あたしにこんな”上品”な知り合いがいると思う?」
「何それ~、私たちだって上品っしょ」
分かりやすく嫌味を言えば、他のヤニ仲間もケラケラと笑った。
その面々の目はあたしに対して面白半分、男に対して侮蔑が半分といった所か。あからさまだった。
季節は春。
雪なんぞ解けて、コンクリートの道路がしっかりと見えるというのに、夜の寒さは冬を名残惜しむように置いてきぼりをくらっていた。
春の寒さは冬よりも優しいのだろう。肺を傷みつけるような寒さはとっくに失せていた。
桜は新緑の葉に姿を変え、台風は去った。
あっという間に、夏が訪れることだろう。
連日、着続けていることですっかり柔らかくなったパーカーを着ているあたしと違い、男は今から素敵な女性とディナーにでも行くかのような上質な春のコートを着ていた。
今が明るい時間であったなら、特別に警戒する事もなかったかもしれない。
突然、夜に声を掛ける姿には、些か辛気臭さを感じた。
「貴女は草原春子を知っている筈です」
「しつこいなあ」
「……また明日も此処にいますよね?」
あまりにもしつこい男に対して、いよいよ嫌気がさす。
あたしは、手に持っている煙草を深く吸ったあと、僅かに肺に留めた煙をゆっくり吐き出して「……さあね」と素っ気なく答える。
すると、男は困ったように笑い、「また来ます」と言った。そして、これまた上等な車に乗って帰って行った。
コンビニに寄らないところを見ると、あたしだけに用事があって此処に立ち寄ったことが分かった。
じゃあ、ナンパじゃないってのは本当のことだったのかな。
「本当に知り合いじゃないの?」
「しらない」
「え~、こっわ」
「冬子ちゃん気を付けなよ~」
あたしを含めた男女五人くらいの若者が夜中のコンビニに集まっていたなら、”気を付けろ”と言われるのは向こうの方だろう。しかし、この素晴らしき物騒な世の中には、人の良さそうな顔をした危険人物がいるらしい。
あの男は明日も来ると言っていた。
帰り道は用心しておくことに、越したことはないのかもしれない。
有言実行というべきか。
昨日、声を掛けて来た男は本当に再びあたしの元にやって来た。
「こんばんは」
「また来た。お兄さんきしょいね〜」
「くさっぱら、はる……? なんだっけ……まあなんでもいいけど。その女とは同じ名字ってだけで、あたしは知り合いでもなんでもないんだって」
「いいえ。きっと貴女は知っている筈です」
はっきりと言い切る男の言葉に、あたしはムッとして吸い掛けの煙草を灰皿に捨てると、不機嫌そうな顔を作って腕を組む。
見上げる様にして背の高い男を睨んでみるが、あたしの抗議の顔なんて露知らず、男は穏やかな顔をしてあたしを見下ろしていた。
「アンタ、自分が妙なことを言っているって自覚はある? あたしはその人を知らないって言っているんだけど。それも、何度も!」
いい加減、苛々してきた。
あたしが声を荒げると、あたし達の様子を見ていたヤニ仲間は煙草の火を消して、しゃがんでいた奴は立ち上がり男を見据える。
誰かが重々しく白い溜息を吐くと、男は少し驚いたように体を引いた。
「別に、俺たちはお兄さんをどうこうできる様な悪い若者じゃないけどね。女の子に言い寄る手段としてはな~。ちょっと無理な感じ?」
「知らないって言ってるんだから、どうしようもないじゃん」
「これ以上しつこいなら、警察に通報するけど」
友達未満である彼女らが、まさかこうして加勢して来るとは思いもしなかった。
一際小柄で、いつもあたしの隣を定位置にしゃがんで煙草を吸っていた女は、あたしの肩に腕を回して体を引き寄せる。まるで、庇われているようだった。
「うざいって言ってるの。あっち行ってよ」
ぐっと私の肩を掴む手に力が入るのを感じて彼女の顔を見ると、心の底から鬱陶しそうに男を睨んでいた。
彼女からはメンタソーレたばこのローズの香りがした。
ヤニ仲間が男を追い払った次の日、その日は少しだけ早くに目が覚めた。
体を起こし、妙に”女”の良い香りがする部屋を見渡す。
時刻は午後五時。この時間の気温が一番過ごしやすい。
昨日、庇ってくれた彼女らのことがどうしてか気まずく思えた。
この時間にはいないだろう。
あたしはコンビニ出掛けるため、ラフな格好に着替え、キャップ帽を被ると家を出た。
「一緒に草原春子を探してくれませんか」
箱から煙草を一本取り出そうとしたまま固まるあたしの表情は『げ』の一文字で言い表せるだろう。
まるであたしの行動を読んでいるかのように、男はコンビニにやってきた。
すっかり覚えてしまった、見知らぬ女の名前。
草原春子。
この男は、あたしがその女を知っていると決めつけている。
一度、摘まんだ煙草を箱に押し戻そうか迷ったが、男の行動に影響を受けるのは嫌だったから取り敢えずそのまま取り出す。
「は〜、しつこいな〜」
あたしの口から、思わず深い溜息が漏れる。
「春子が歩いていた場所に、一緒に行ってくれるだけで良いので」
「ラブホとか〜?」
「そうじゃなくて」
食い気味に下品な冗談を遮った男を見つめると、穏やかな顔でもなく、困ったような顔でもなくて、気まずげに顔を顰めていた。
その反応が意外で、今になってあたしはこいつが本当に下心もなく人を探しているのだと納得した。
「まあ、暇だし」
結局、取り出した煙草を箱にしまい、あたしは仕方なしに小さい声でポツリと呟いてみる。根負けしたみたいで、少しだけ悔しい。
会話中、煙草の箱の中身を覗いて目を合わせないようにしていたが、男がこちらを見つめていることはなんとなく分かった。
「ぜーんぶ奢ってくれんならいーよ。ただし、少しでも変なことしたり、変なこと言ったら、ぶん殴る」
これは気の迷いだ。
草原春子が本当に存在する人で、うまいこと見つけられたら、あたしは人助けをしたことにもなるんだろうし。慈善活動に興味がある訳ではないけど、やってもいいかな。
「ああ、勿論。約束するよ」
嬉しそうな声を辿る様に、顔を声がした方に向けると、男がはにかんでいた。
男の顔を見て改めて思うことは、あたしと出会わなさそうな人種の人間だってことだ。
「そうだ、これ。あげる」
「……飴?」
「おいしいよ」
男は思い出したように自身のポケットから棒付きキャンディーを取り出し、あたしに手渡した。
流されるままに受取ってみたはいいが、見知らない奴から貰うものほど怪しい物はない。しかも、なんだか餌付けされているみたいで複雑だ。
あたしは、その場で飴の封を開ける気にもなれずに、クルクルと指先で棒を回した後、パーカーのポケットにしまった。
あたしは所謂夜型人間だった。
普段は、真夜中にコンビニで煙草を吸っているか、家でつまらないテレビを見ながらお酒を飲んでいるか。毎日はそのどちら。
だから、見知らない男に会おうなんて、ほんの出来心だったとしか思えなかった。
「いや~、あの花すごいね」
男は、日中は仕事があるらしく、土曜日に会おうと約束をして、あの日の夜は別れた。
では何故、あんな深夜に男がコンビニに来ていたかというと、どうやら仕事終わりにあのコンビニであたしが来るのを張っていたらしい。
流石にそれを聞いた時は、手助けしてやってもいいかって思ったのを少しだけ後悔した。
そして、今日がその約束の土曜日。
明るい場所で見た男は、夜に見た顔よりも人の良さそうな顔をしていた。
さぞかしご自慢だろうあの立派な車に乗せてくれる訳もなく、あたしは二歩ほど前を歩く男について歩いていた。
場所は何の変哲もない住宅街。
ただただ閑静な住宅街をゆっくりとした足取りで歩いていた。
男の雰囲気を言葉で表現するなら『のほほん』だろうか。緩み切った顔で、大きく柔らかそうに咲いているピンク色の花の木を見ていた。
「あれはハナカイドウっていうんだよ。桜よりボリュームあんだろ」
「へえ! 詳しいんだね」
「……別に」
詳しいんだね、と言われて、ハタと自分の言動に疑問が浮かぶ。
どうしてあの花の名前なんか覚えていたんだっただろうか。花なんて特に好きでもないのに。
テレビかなんかで見たのかもしれないな。
くるりと踵を軸してこちらを回って振り向く男は嬉しそうに笑っていた。
春みたいに陽気な男だな。人探しをしているんじゃないのかよ。
どうも、この男は切羽詰まっているように見えない。
草原春子って女は、本当に存在するのだろうか。
あたしは、自身の行動の軽率さに呆れて溜息を吐いてみたが、男は然程気にした様子はなかった。
住宅を歩き回り、次に向かったのは所謂純喫茶と呼ばれる場所だった。
「これ、冬子さん好きだと思うよ」
席にはガラスの灰皿が置いてあり、一服するかとポケットに手を入れた辺りで男が開いたメニューを指さして勝手に注文を決めていた。
店内は程よく人の出入りがあったが、店員は直ぐにやって来た。
男は、あたしが好きそうだと思うものを勝手に注文していた。
一体何を頼んだんだと煙草を取り出すのを止めてメニュー表を覗き込むと、チョコレートが掛かったシフォンケーキの写真が載っていた。「え」と声を漏らすと、店員があたしの様子を伺うように首を僅かに傾げる。
ああ、もう。
「いや、えっと。……それとホットコーヒーもお願いします。ミルクも甘みもいりません」
「かしこまりました。以上で宜しいですか?」
「はい」
注文を聞き終えた店員が去ったのを見届け、あたしは男を睨む。
「勝手に頼みやがって……」
「絶対、気に入ると思うよ」
あたしの何を知っているというのか。そう言ってやりたかったが、あまりにも自信あり気に笑っている男を見ていると、突っかかる意欲が萎んでいった。
なんていうかな、まともに会話をしようとすると疲れる。
すっかり一服する気も失せてしまい、あたしは行儀悪くテーブルに頬杖を付く。
「それで、この店も春子と来たの?」
「うん」
「で?」
「うん?」
首を傾げる男を見て疲労がどっと押し寄せる。おいおい、私たちがこうして会っているのは、その草原春子を探しているからだろう?
「店内に春子らしき人はいそうなのかって聞いてんの」
「うーん」
きょろきょろと辺りを見渡し、男は困ったように笑って「いなさそう」と言った。
「ちゃんと探せって」
小声、されど語気を強めに言ってみるが、結局、男が店内を隅々と見渡す様子はなかった。
この後も、こんな感じのやり取りが続く。
あたしが春子の話をさせようとしても、男はふわふわとしたことしか言わないものだから、あたしはとうとうこの男がやりたいことが分からなくなってしまった。
人探しというのは、こんなにも緊張感がないものなのだろうか? いや、そもそもこいつは本当に春子なんて女を探しているのだろうか。
浮かんだ疑心を言葉にしようとしたところで「お待たせしました」とお盆を持った店員があたしたちのテーブルまでやって来た。タイミングの悪さを感じたが、店員は仕事をしているのだからムッとしても仕方ない。
目の前に並べられたのは、先程、男が勝手に頼んだチョコレートが掛かったシフォンケーキ。それと、あたしが頼んだホットコーヒー。
あたしのなんたるかを知りもしない男が選んだデザートは、如何ほどまでに美味しいものだろうか。
これで少しでも気にくわなかったら文句を言うか、馬鹿にでもしてやろう。
そんな意地の悪いことを考えながら、あたしはデザートフォークで柔らかなシフォンケーキを一口サイズに切って口に入れる。
「うまい」
口に物が入ったまま、ポロっとあたしが呟くと、男は柔らかく微笑んだ。
「そうでしょ?」
「あまり甘くないんだ」
「うん」
数回ほど口の中の物を咀嚼したのち、飲み込む。
あたしは不思議な気持ちでシフォンケーキの皿を見つめる。
確かにこのシフォンケーキはうまい。チョコレートもビターで、甘さといったらシフォンケーキの生地だけ。それが、どうもあたしの好みであった。
「春子はストロベリージャムの方をいつも食べるんだけど、冬子さんは喫煙者みたいだし、こっちかなって」
奥の方で、来客の合図を知らせる扉のベルがカランカランと音を立てていた。
こんなに明るい時間に出掛けるのは、いつぶりになるのだろうか。
「……あたしの名前は”とうこ”だってーの」
自分が此処にいることが不思議で、野暮ったい口調で名前の修正をするも格好がつかず、お洒落を演出するように皿に撒かれているチョコレートソースをデザインフォークの先で掬って咥える。
ちらりと男の様子を窺うと、男は物静かな佇まいでコーヒーを飲んでいた。
あたしが調子に乗ってシフォンケーキの生地で皿の上のチョコレートソースを拭くようにつけてみるも、やはり男は何も言わない。
……この男は育ちがよさそうなのに、行儀が悪いって言わないんだな。
結局その日は、春子はストロベリージャムが乗っているシフォンケーキが好きってことしか知ることが出できなかった。
喫茶店を出ると、男とその辺りの公園を歩いたり、天気の話をしたり、花の話をした。どの話も春子と関連があるようなものではなさそうだった。
しかし、男はゆっくりと、しかし絶やさずに話し続けた。
「それじゃあ明日も宜しくお願いします」
日が暮れ始めた頃、ただただ歩き回り、喫茶店に寄っただけのあたしたちは解散することにした。
明日も宜しくって。あたしが「折角の休みを二日も使っても良いのかよ」と聞いても男は「楽しいから」と言うだけだった。
人探しをしているはずなのに、楽しいと言ってしまうのはどうなのだろうか。
男は、断るあたしのいう事なんて聞かずにあたしを家まで送り、自分の家に帰って行った。
家に帰宅して、部屋の電気をつけると、電気をつけたことによって部屋の中が丸見えになっていることに気が付いて、急いでカーテンを閉めて部屋を隠す。
こんなガサツなあたしだけど、女の一人暮らしに違いはない。
手洗いうがいを済ませると、あたしは台所に向かう。
寝る前に味噌汁を作って、起きたら飲む。これがあたしのルーティーンだった。
簡単に作った味噌汁を飲んで、一日の疲労を現わす様に小さく溜息を吐く。
最近、味噌汁の味がなんか足りないんだよな。なんでだろう。
「気のせいかな」
今日はコンビニ行く気にもなれず、お酒を飲む気分でもない。
あーあ、明日もまあまあ早いんだっけ? 水でも飲んでさっさと寝るか。
日曜日。昨日に続きあたし達は春子の形跡を探していた。
今日は商店街から見て回ることになった。
そして早速やって来たのはペットショップだった。この店ももまた、購入意欲がないのに恋人たちが訪れそうな場所だな。
「うさぎって、怒ると後ろ足で地団太踏むんだって」
「ふーん、可愛い顔をして我儘だな」
「意思表示の一つなんだよ」
うさぎが展示されているショーケースに顔を近づけて、白い毛むくじゃらをまじまじと見つめているのは例の男。
「何か飼ってんの?」
「ううん。いつか犬をって思っているけど、今はいないよ」
「犬か。アンタ犬っぽいもんな」
「犬派っぽいってこと?」
「いや、犬。人に懐きやすい犬っぽい」
あたしは、うさぎから目を離して「ええ?」と不満げな声を出す男を置いて、小動物、鳥と横目に進んで魚コーナーに入ると、思わず足が止めた。
「可愛い子いた?」
「可愛いっていうか。これ、流行ったよね」
「うん?」
うさぎコーナーにへばり付いていると思いきや、案外ついて来ていた男が後ろから話しかけて来た。
あたしが目の前にいるやつを指さすと、男は横に並んでそれを見た。
「グッピーかあ。懐かしいな」
「寒い時期になるとあんましご飯食べなくなるから、飼育が楽だって言われてたよね」
「うんうん。学校の先輩も母親が飼ってるって言っていたなあ」
グッピーは他の水槽と比べるのも馬鹿馬鹿しく思えるほど小さな瓶に入れられて、お土産屋さんに置かれている商品のように並べられていた。
瓶の蓋は申し訳程度にカラーバリエーションが豊富であった。
結局、広い水槽を用意してやらなきゃいけないんだろうけど、流行っていた当時は、買ったままの瓶で育てている人もいたらしい。
「飼育が簡単って、少し怖い言葉」
大流行した時、小瓶に入れられているグッピーの中で大きな水槽で美味しいご飯をたらふく食べさせて貰えた子はどれくらいいたのだろうか。
お金や時間を充分に掛けられない人さえも、流行に乗って生き物を飼うことがある。
あたしは、狭い世界しか知らない小魚が酷く不憫に思えた。
折角なら特大の愛情を与えて欲しいもんだよね。
「……いや、広い場所で暮らせば幸せって考えは、浅はかなのかもね」
お前たちは、いつからそこにいるの?
立派な水槽の横に置かれている、小瓶に入ったグッピー。
お前たちは、誰かに連れて行かれるのを待ち望んでいるの?
もし、広い水槽を用意された時は嬉しい?
小魚が問いに答えてくれたなら、どれだけこの心は救われただろうか。
後方で藻の飼育をしている水槽からは、軽やかなポンプの音が聞こえた。
それはまるで、水の中に潜っているような音だった。その音がねっとりと、あたしの鼓膜にこびり付いた。
「俺は、ちゃんと考えてくれる人の方が多いって思いたいよ」
「そんな言葉は甘えだな」
「どうして?」
否定されたというのに、男は首を捻るだけで、大してイラついた様子を見せなかった。
「良い人ばかりがいると考えているのなら、アンタはコイツらにとって特大の無責任者だよ」
グッピーから視線を外して男を見ると、まるで意外だと言いたげに目をまんまるに丸めて驚いた顔をしていた。
「此処はもういい? どうせ買わないんだから、ひやかしは終わり」
「ひやかしだなんて」
「初っ端から買う気がない客をそう呼ぶんだよ」
外に出ても獣や湿った臭いが直ぐには拭えなかった。
日曜日の午後。
ペットショップを出ると人通りは賑やかだった。
屋根付きの商店街だ。雨からも、陽の照りからも守ってくれるこの場所は、いつだって活気が良い。
しかも、今日は休日ということもあって、色々な年齢層の人が歩いていた。
「冬子さんは愛情深い人なんだね」
「なんで?」
隣を歩く男の意図が分からず、思わず眉間に力を入れて奴を見上げる。なんか、アンタは商店街が似合わないね。
「生き物を飼うってことをちゃんと考えられる人だから」
「……生き物のことを考えてるっていうか」
あたしは、さっきまでの気落ちしたような気分をふやかし、ペットを肯定した上で小魚の気持ちを考えてみる。
こぽり、こぽりと泡が浮かんで水面で弾ける音を思い出す。
水気の含んだ空気が、あたしには酷く懐かしかった。
「毎日、話しかけて欲しいだろうなって思うだけだよ。魚は犬や猫よりも意思疎通が取れないかもしれないけどさ、それでも”おはよう”とか”おやすみ”くらいはさ、言ってよ。……寂しいじゃん」
センチメンタルな気持ちになったあたしは、僅かに凍える指先をポケットに突っ込む。すると、ポケットの中で何かが指の先に触れた。
あぁ、この男に貰った棒付きキャンディーが入ったままだったか。すっかり忘れていた。
「ねえ、冬子さん」
「とうこ」
「もしも大切な人がいなくなっていまいそうだったら、冬子さんはどうする?」
とうこって言ってるのに。それは無視か。
まあ、いいや。この男は自分の調子を崩さないし、あたしはコイツの調子を崩すことができない。言い返した所で不毛。
それに、どうせその大切な人っていうのは、草原春子のことなんだろう?
あたしが何かを言おうが、その女が戻って来るとは限らない。その質問に答えて、アンタは何を得られるっていうのやら。
……しかしまあ、それを答えることで、あたしに損得がある訳でもないか。
「いなくなりたくなった理由を考えるかな」
「探さないの?」
「アンタみたいに悠長に思いつくところばかりは探さないかな」
男は手厳しいなあと笑う。
だからさ、あたしはアンタがなんで笑っていられるのかが分からないんだって。
「……たまにない? 誰も自分のことを知らない人しかいない所に行きたいって思うこと」
「ううーん。今のところはないかな」
「そりゃあ、幸せなこった」
この男の雰囲気というか、物腰や行動からしてそうだろうなと思っていた。
こういう人間は程よく色々な人に好かれるだろう。自分がこの世から疎外されているような気持ちになったりは、あまりないんだろうね。
「誰もいないところじゃなくて、自分が知らない人しかいない所ってのがミソなんだよ」
「どういう意味?」
「人が嫌いになって、人を拒絶して、人に疲れて逃げ出しても、結局は人がいる所にはいたいってこと」
誰もいない所に行くのは、少しだけ寂しそうだ。
人をリセットしたいのか、環境をリセットしたいのかは知らないけど、寂しいのは嫌だ。
「ねえ、教えて。草原春子は本当に存在する人なの?」
「うん。春子はいるよ」
たまにぶつかりそうになる人を避けながら、あたしは男と並んで歩き続ける。
男は草原春子について聞かれることに抵抗はない様子だった。
「春子は優しい、というよりも人に嫌われたくなくて強く出られないって感じの人」
「人の顔を窺って鬱憤をためるタイプか」
「そうだね。……でも、自分がない訳じゃないんだよ」
少し離れた所で、高校生くらいの女の子たちがお腹を押さえて笑っていた。
もしかすると、春子はああいったタイプの人間は苦手なのかもしれない。
……それならあたしのことだって得意そうには思えないのだけど。自分で言うのもなんだけど、あたしは素行が良い人間ではないだろうから。
「ただ、上手に過ごしたいだけなんだと思う」
「……波風立てずにって?」
「うん。そう」
「ま、それができない人間もいるし、集団の中で生きていくには大切なことだよね」
なんだ、大したやつじゃないかと思っていたが、そうでもないのか。
あたしが「ふぅん」と言うと、男は笑った。
「なに?」
「冬子さんなら、受け入れるんだろうなって思っていたからさ」
「……だから、とうこだって」
この男があたしの何を知っているのかは分からないが、あたしに対してのイメージをしっかりと持っている様であった。
ただ、それが何故なのかをこの男は話さないまま。
隅々と辺りを見渡して春子を探さない時の態度といい、この男を完全に信用する事ができない理由には、これだけでも十分だ。
しかし何故か、あたしの体や口がこの男を拒絶しようとしない。
あたしは、この理由が自分のことなのに分からなかった。
「春子さん?」
突然、あたしたち以外の声が間近で聞こえて、足を止める。
声のする方に顔を向けると、エコバックをいっぱいにしたオバさんが私たちを見ていた。
「は?」
突然のことで、あまり行儀が良いとは言えないような声が漏れる。
オバさんは顔を顰めるあたしを見つめる。そして、目をパチクリとさせたあと、ヒラリと空を叩いた。
「あら、やだ。人違いみたいだわ」
静かにしている男をチラリと見やれば、男は僅かに口角を上げているだけであった。
このオバさんが言う春子が探している女かもしれないというのに、何を黙っているんだ。
誰に対しても簡単に話しかけることができる人懐こい犬の様な奴だと思っていたが、いい年をして人見知りでもしているのだろうか。
男が口を開く気がないようだから、あたしは仕方ない気持ちで男からオバさんに再び視線を戻す。
「……草原春子は姉ですけど」
「あら! 妹さんがいたのね。いやね、心配していたのよお」
「心配?」
名字を付けることで人違いの可能性を探ってみたが、オバさんは大した反応を見せなかった。それなら、話している内容はあたしたちが探している草原春子のことについて間違いがなさそうだ。しかもこの人、草原春子について詳しく知って良そうな予感がする。同じ職場の人なんだろうか?
「家族の人に言うのもなんだけどね、人を殺すんだって言っていたから。そのぉ、心配をしていたよぉ」
「は?」
「何もなさそうなら良いのよ。ごめんなさいね。結婚式、楽しみにしてるって伝えてちょうだい」
結婚式。
人を殺す。
どちらの情報も聞いたことがない。
他にもオバさんは早口で喋っていたが、そんなことは耳に入らなかった。
大した反応を見せなくなったあたしに、オバさんは「ごめんなさいねぇ」なんて謝ってさっさと去って行った。
あたしは隣に立っている男を睨む。
「どういうこと?」
「結婚についてはなんとなく分かるんじゃない?」
「……まあ、相手はアンタだろうね」
「うん」
何が「うん」だ。
春子とこの男は恋人だとは思っていたが、コイツは意図してあたしにそのことを話していないように感じた。
遠くで抽選会でもやっているのか、カランカランとベルの音が鳴っていた。平和的な音が今は神経を逆なでてくれた。
あたしの怒りは正直者だ。
「じゃあ殺すってことは?」
「それについては何とも……」
「どういうこと? ……あのさ、春子は、誰かを殺す為に失踪したんじゃないの?」
「それは違う」
こっちが質問しても、煮え切らない言葉しか返って来ない。それがもどかしくて、あたしは苛々を隠しもせずに舌を弾く。
「殺したくて殺すわけじゃないんだよ」
男が付け加えた言葉を聞いて、信じられないものを見るようにあたしの目はみるみると大きく開いた。
どういうことだ。
この男は、春子が誰かを殺そうとしているのを知っていた?
いいや、そもそも春子が誰かを殺すことを受け入れているっていうのか?
「あたしは春子の知り合いなんかじゃない」
「知っているよ」
昨日今日と見慣れた気になっていた、男の穏やかに口角を上げている顔が気持ち悪い。
あたしは男を睨んだあと、商店街の外を目指して早足に元の道を戻った。
どうせアイツより背が低いあたしの急ぎ足なんて簡単に追いつかれてしまうだろう。
後ろからはあたしの名前を呼ぶ男の声。
あたしは、どんなに名前を呼ばれても足を止めない。
こんなこと、やってられるかよ。
「何か勘違いしてない? 別に春子は君を狙ってるとかじゃないよ」
真っすぐ前方だけを見据えて歩き続けるも、ドンと誰かと肩がぶつかった。
ぶつかった相手が何か文句を言っていた気がしたが、あたしは止まることができない。
必死に男がついて来ていても、待ってやることはできなかった。
「隠していたんじゃないんだ。ただ、言うタイミングがなくて、その、だから」
あたしは商店街を出た所で足を止める。
「……だったら!」
急に大きな声を出したからか、信号待ちをしていた人たちが訝しげな顔をしてあたしたちをチラチラと見ていた。
息が上がっているあたしと比べて、男はやっぱりというか、全く息が上がっていない。
それを含めて、男と春子の全てがムカムカして仕方なかった。
「ちゃんと話せよ。……草原春子を探しているのはアンタだ。あたしじゃない。アンタだろ」
「……うん」
信号が青に変わり、カッコウの音があたしたちの間を通り抜ける。
男はまるで叱られた子供のように、悲しそうに眉をハの字にして頷いた。
「ごめん」
ああもう。
手を貸して欲しいなら、もう少しうまくことを運んでくれ。
結局、男はあたしとの気まずさよりも、一緒に春子を探すことを選んだ。
そして、あたしも情けない顔をして謝る男を見捨てることを選ばずに、一緒に探すことを選んだ。
凄く気まずいだろうに、この男はヘラヘラしている様に見えて、やはり一日でも早く草原春子を見つけることを諦めてはいないのだろう。
「春子は洋画のドキュメンタリー風の映画が好きなんだ」
あたしが春子についてはちゃんと話せと言ったからか、男は自分から春子の話を始めた。
そうだ。それでいい。アンタが春子を語らずして、あたしは春子の何を知ることができるって言うんだ。
「ふーん、そーゆーのはあんま観ないな」
「でもきっと”冬子さん”も好きだよ」
「どーだか」
男はあたしのことを冬子と呼ぶのを止めた。
意図してそう呼んでいたようにも思っていたが、こいつにとってあたしは草原春子を探すのに必要な人物とでも思っているようで、あたしが嫌がることを止めた。
「うちでみる? 近くにレンタルショップがあったよね」
「え? いいのかい?」
男は酷く驚いた様子で、あたしの顔を覗き込んだ。きっと、あたしがまだ怒っていると思っていたのだろう。
それとも時間帯か。ペットショップを出て、レンタルショップに来るまでもちんたらと歩いていたせいか、太陽は暮れようとしていた。
「変なことはしないんだろ?」
そもそも婚約者がいる男を家に招くこともどうなのかと思ったが、この男のことだ。まあ大丈夫だろう、と納得した。
「勿論」
こいつに付き合うと決めた時と同じことを言えば、男は安堵したように笑った。
映画は思っていたよりも面白かった。
序盤はダラダラと進んで行くのかと思っていたが、主人公や物語に登場する人々の葛藤や苦労、そして幸福が、そのどれもが生々しくて、あまりにも現実的だった。
……あたしって、こういう作風も意外といけたんだな。
「はーぁ、あんま面白くなさそうって思ったけど、まあまあだったな」
「泣いてたのに」
「……良い話だったろ」
「うん。良い話だった」
夕方から見始めたからか、外の太陽はすっかり沈んでしまっていた。
男女二人が夜に一人暮らしの部屋にいるというのに、何かが起きる様子はない。この考え方は一種の甘えなのかもしれないけど、男があたしに何かするようにはどうしても思えなかった。
根拠は何かって? そんなもの、あたしが知りたいよ。
「飲み物、貰ってもいい?」
「あー、勝手にしていいよ」
別に、見られたり触られて困る物なんてない。冷蔵庫でもポットでもなんでも触ってくれ。
あたしは床に転がっている箱ティッシュから一枚を引き抜くと、豪快に鼻をかんだ。
「冬子さんは?」
「じゃあコーヒー淹れて。粉あるから」
「分かった」
ん。どのコップを使っていいかくらいは言えば良かったかな。
ポイっと投げた鼻かみティッシュはゴミ箱の縁に当たってフローリングに落ちた。あたしは、それに嫌気がさして天井を仰ぐ。
「どうしたの?」
見上げた視界には、不思議そうな顔をした男の顔が。少し驚いたが、あたしは特に反応もせずに体制を直す。
テーブルの上には湯気を上げているコーヒーカップが二つ。しかも、あたしの前の置かれたコップは普段使いしているものだった。
「よく分かったね」
「台所の作りなんて、大体みんな同じでしょう?」
そっちじゃなくて。
ああ、もう。まあいいか。
「どーもね」
「うん」
「うっすい」
「あはは」
薄い珈琲を飲みながら、あたしと男は草原春子について話した。
なんでも、男と春子が出会ったのは社会人になってからなのだと。
平凡な馴れ初めを聞いて、普段二人がしていることを聞いて……結婚のこと、春子が妊娠していること、そして二人が思い描いている将来のこと。
どの話も平凡で、大して面白い話ではなかった。
それでも、春子のことを努めて話そうとする男の話を聞いていれば、時間はあっという間に過ぎていた。
あたしの腹が鳴ると、男は時間を気にし始めて帰ろうとした。
「ご飯くらい食べて行けば
「いいの?」
「別にいいよ」
大層なもんは作れないから、パックの納豆と鯖缶と焼鳥の缶を開ける。
ビールを勧めたけどそれは断られた。
断られるだけならいい。何故か、男はあたしが飲む分のビールもしまってしまった。なんで?
「お味噌汁ないんだ」
「作る暇なかったじゃん」
「飲んでみたかったなー」
あたしの貴重な貯蓄である鯖缶を食べながら、男は残念そうにボヤく。
「図々しい」
「え、ごめん」
まあ、いいけどさ。
くだらないテレビを見ながら、あたしと男はたらたらとご飯を食べ進める。
思えば、この家で誰かと一緒に食べるはいつぶりだろう? いや、そもそもこの家に誰かを招き入れたことはあったっけ。
「お米、固めなんだね」
「うん? 柔い方が好きだった?」
「いや、そうだったなと思ってさ」
男はもぐもぐと口の中の物を噛みながら、嬉しそうにお椀の中を見つめていた。
「……何言ってんの?」
結局、草原春子が何処に行ったかも、何がしたいのかも分からないまま探索は終わった。
夜も会えるなら、明日も会いたい。そう言って男は帰って行った。
男と会うってことは夜も草原春子を探しに行くのだろうか。じゃあ、暫くはコンビニに行く暇はないってことか……。
日中から煙草を吸いに行くのも店員に悪いし。
……なんか、今日はもう眠たいや。
その日の夜、あたしは不思議な夢を見た。
水の中に沈んでいるような夢だ。
この夢は見覚えがある。
たまに、ごくたまに見るのだ。
景色は広大な海の中でも、清涼な川の流れの中でもない。
視界は透明だが、ぼやける向こうに見えるのは人間の暮らしであった。
あたしの視界は悪くて、はっきりと物の姿を見ることはできない。
硝子の向こうで生活する人間は決まった時間に動いているようだった。
たまにこちらを覗き込んで来ることはあったが、大して興味を持っている様子もない。
この人、きっと優しい顔しているんだろうけど、淡白なんだろうな。
翌日。
男は言っていた通り、夜に部屋を訪れた。
連日、部屋に上がるのは気が引けるらしく、男が乗って来た車で話をすることになった。とうとう男はあたしをご立派な車に乗せてくれたのだ。
人の目を気にして言っているのかは分からないが、部屋に入るのを見られようが、車の中で話をしているのを見られようが、どちらも同じだと思うのだが……。
「夢?」
「そう。抽象的な夢をよく見るんだよね」
あたしは助手席に座って、男が買ってくれたココア缶のプルタブを開ける。
「どんな内容なの?」
「聞いても面白くないよ。自分でもよく分からないし。ただ、アンタはそういう夢を見るかなって思ってさ」
「きっとつまらなくないよ。それに、内容を聞かないと答えようがないでしょ。教えて?」
思いの外食い下がる男が珍しくて、あたしの片眉が上がった。
まあいい。うっかり夢の話をしたのはあたし自身だし、本当は話を聞いて欲しかったのかもしれない。
「水の中に沈んで、まるで誰かの生活をのぞき見しているような……そんな変な夢だよ」
「その人の顔は見えるの?」
「少し水が濁っているから見えない。夢の中のあたしの目も悪いし……ただ、その人は同じ時間に動き回って、どっか出掛けて、帰ってきたら暫く動かなくなったかと思うとノロノロと動いて、寝転んだが最後、全く動かなくなるんだよね」
少しはこっちを向けよって思うんだけど、夢の中のその人はいつも大変そうに見えた。
だからまあ、仕方ないかなって。
「夢はいつも同じように始まって、唐突に終わる。何か意味があるのかとも思ったけど、夢占いなんてものを調べる程のことでもない気がするし」
「……それはどうだろうね」
変な間があって男を見れば開いた口を一度閉じた後、喋りずらそうに口を開いた。
その様子が変だったから、あたしは露骨に首を傾げてみる。しかし、男は頑なにフロントガラスの向こうを見つめていた。
「貴女が酷い夢を見ていたら、春子はきっと気に病むんだよ」
「あたしが? なんで?」
「ううん……」
手に持っていたココアを車の備え付けのドリンクホルダーに突っ込むと、プルタブを開けていた缶からココアが少し零れてホルダー周りを汚した。
気になる言い方をしておきながら肝心なことは言わないなんて、そりゃないでしょ。
あたしの夢の話を聞いて、どうして春子の名前が出てくるんだ。
「ちゃんと話せって言ったじゃん」
男が車を停めた場所は、あたしが住んでいるアパートの前の道路。所謂、路中ってやつだ。
夜、帰って来たアパートの住人が上等な車を訝しげに、こちらの様子を伺いながらアパートに入って行った。
「……春子にとって貴女は必要な人だから」
「それだけじゃ意味わからない」
「分からないだろうね。……もう一つ言えば、春子は冬子さんに嫌われてしまっても仕方ないと思ってる。それが贖罪になると思っているんだ」
「何それ、やっぱり意味分かんない。だって、会ったことないんだよ? それなのに、なんであたしを気に掛けるんだ。ほんと、意味わかんない」
「そうだろうね……そうだと思うよ」
男は、初めてあたしの前で深い溜息を吐いた。
ヤニ仲間に凄まれようが、あたしに軽口を叩かれようが、いつも困ったように笑っていた男が、だ。
男の顔を見つめてみると、目の下に暗がりを見つけた。
男は疲れている様子だった。
「ただただ、春子は貴女が散々な目に合うことには、耐えられないんだと思う。例え、それが夢の中の話であっても」
何故、アンタは春子があたしに関係すると思うんだ。
どうして春子はあたしを気に病む。
ねぇ。
草原春子とは一体……誰なの?
あたしの問いかけは、言葉となって口から出て行くことはなかった。
きっと男は聞いても答えてくれないだろうし、答えてくれたとしても、あたしはそれを理解できるのか分からない。聞くことが怖い。
「もう良い時間だね。……あたたかくして寝るんだよ」
今日はこれでお開き。
男は、これ以上は話せることがないとでも言いたげに、あたしが帰るのを急かした。
「おやすみ、冬子さん」
消化不良もいいところ。
漸く春子の話に進展があると思ったのだが、男はあたしが車内に滞在し続けることを拒絶した。
仕方ない。男が初めてあたしを拒否したのだ。
あたしは引き下がるしかないだろう。
プルタブを開けたまま口をつけていなかったココアを片手に取ると、あたしはすごすごと部屋に戻る。
手に持っていたココアを一気に飲んで、寝る支度をする。
なんだか、歩き回っていた時よりも疲れた。
ベッドに寝転ぶと、眠気は直ぐにやって来た。
おかしいな、あたし、夜型人間だったと思うんだけ、ど……な。
ポコリ、ポコリと水面に浮かんでは消えゆく泡の音。
嗚呼、気が重くなる。
あたしは、また同じ夢を見ているのか。
水の中は、昨日見た景色よりも随分と濁ってしまっていた。なんだか息もしずらい。
ううん、この体の持ち主は随分と疲れているのだろうか……。
一体どうしたというのか。動かすことさえ怠く、鈍い体を翻してみると、視界の端に映ったのはヒラリと透ける青色が美しげなレースであった。マーメイドフレアスカートのように、それは優雅な筈なのに、濁った水の中ではそれも良く見えない。嗚呼、勿体ない。
ヒラヒラしているそれを追うように、何度か体を揺らしてみたが、元々気怠かった体は直ぐに疲れてしまった。
体を動かすのを止めて硝子の向こうに視線を向けると、今日も誰かが忙しなく動き回っていた。
もっと余裕を持って動けばいいのに。
それよりさ、ねえ。此処は随分と暑いよ。
そっちは暑くないの?
それで、アンタ。
今日も「おはよう」も「いってきます」も言ってくれないんだね。
硝子の向こうの人が部屋を出て行くと、静かな部屋にはモーター音ととろみを増した水がポコリ、ポコリと立てる音だけが響いていた。
嗚呼、息苦しい。
時期は夏だろうか。空気と水の温度が同じになってしまってはいないか。
これで水温さえ低ければ、少しは過ごしやすいのに。
浮かんでいきそうになる体を留めていることにも、そろそろ疲れてきた。
……このまま眠ってしまった方が楽になるのだろうか。
ううん。夜までなら寝ても良いだろうか。
そんなことよりも、気を抜けば何もかもを失ってしまいそうだ。
水の中では気を張っているが、本当はそんなこともしなくて良いのかもしれない。
だって、硝子の向こうにいる人は、あたしを気に掛けなくなってしまったんだもん。
「……はぁ」
目が覚めると、あたしは寝転んだまま天井を見つめた。
汗が顔の上を滑るように流れる。酷く汗を掻いていたらしい。
思い返すと、あまりにも残酷な夢だった。
あたしは我儘なんて言ってない。
ただ、体を煮るような熱い水のせいで、呼吸をするのが苦しいと言いたかっただけなのに。
夢の中のあたしは、言葉ってものを持っていなかった。
「なんだよ、もう」
顎を伝う汗を拭いもせずに、上半身を起こしてベランダに視線を向ける。
昨日はカーテンもせずに寝てしまった。だから、ベランダの外が良く見えた。
ベランダの隅には空の植木鉢が置かれていた。花か野菜でも育てようかと考えていたのに、何もせずに置きっぱなしにしていたのだったろうか。
ああ、いいや。忙しさにかまけて、花が咲くよりも前に、野菜が実るよりも前に枯れた何かをそのままに、放置していたのだったか。
「……水槽」
土色の植木鉢の横には、土埃を被って汚れている水槽が置いていた。
あたしは水槽から視線を逸らすと、室内を見渡す。
そして、もう一度その水槽を見ると、ドッと汗が噴き出した。
目覚めた朝は、まだ少し肌寒い。
この汗は、暑さから出ているものではないのだろう。
翌日も男は部屋にやって来た。
「今日も家には上がって行かないの」
「うん」
昨日と同じように、男はマンションの前の道路に車を停めた。
あたしは男の車の助手席に乗り込んだ。
座って直ぐに手渡されたのは、温かい麦茶だった。
温かいペットボトルの温度が、今は酷く気持ち悪かった。
「春子は、私が傷つくことが嫌なんだってね」
夢の話をするとでも思っていたのか、男は少し間をおいて「うん」とだけ相槌を打つ。
外は、ポツポツと雨が降り始めていた。小さな雨粒がフロントガラスを何度もノックした。
春も中盤。雨が降り始めると、少し蒸し暑さを感じた。
「変な女だよね。あたしたちは本当に会ったことがないって言うのに」
「変な話だとは思うだろうけど……本当なんだよ」
「うん」
握っていたペットボトルの蓋を開けて、喉を三回ほど鳴らして温くなった液体を飲み込む。
お茶の温度が気持ち悪くてあたしはえずく。すると、男は慌てた様にあたしの肩を触ろうとした。
あたしはそれを弾く様に払いのける。咄嗟のことだった。
驚いた顔をしている男を睨みながら、あたしは口の端を手の甲で拭う。
乱暴にペットボトルの蓋を閉めて、車のドリンクホルダーに放り投げる。今回は中身が零れることはなかった。
「最近、自分で作る味噌汁がどうも味気ないんだけどさ」
「う、うん」
「煮干しでだしを取っていなかったからなんだよね。それと、単純に味が薄かったから」
急に味噌汁の話をするあたしに、男は戸惑いながらも払われた手をお行儀よく自分の膝の上に乗せた。
「あたしが作る味噌汁は普通の味なんだけど、春子が作る味噌汁は濃いんだ」
「え?」
小粒だった雨は大粒に変わり、車内で話すあたしたちの声を掻き消そうとしていた。
どうして。
男の口が、そう動いたように見えた。
あたしは男が言葉にして尋ねる前に、ドアハンドルを掴む。
「明日、近所の公園で待ち合わせね」
「冬子さん、あの」
「じゃあ、おやすみ」
あたしの名前を呼んで引き留めようとする癖に、腕を掴もうとしない男は察しがついたのだろう。
あたしが何を考えているのかを。
何故、公園に行くのか。
そう聞きたかったのだろうが、今、それに答えるには早急すぎる。
これ以上、温い麦茶を飲む気にならず、ペットボトルをドリンクホルダーに入れたまま、外に出る。
小走りで部屋に戻ると、雨に濡れたのに対して体が冷えていないことに気が付く。
どうして、春はこんなにも短いんだろうね。
あたしは、タオルで体を拭かないまま、小さな棚を開けてみる。今まで、開けた記憶なんかない、自分の家の棚だ。
引き出しの中には重要そうな封筒が幾つも入っていた。
その束を手に取り、宛名を確認する。
幾つか確認し終えると、あたしはその書類の束を乱暴に棚に戻した。
次、手に取ったのはコンビニ行く時に唯一持っていく可愛らしい財布。
財布に入れているカードを一通り取り出して、裏面に掛かれた名前を確認して、それも机に放り投げる。
嗚呼、全く。
なんだっていうんだ。
くらり、と酷い眠気に襲われ、よろける様にベッドに座り込み、体を倒して横になる。
縋る気持ちで枕元に置かれた充電したままの携帯を手に取り、指先を何度か往復するように操作をする。
カメラフォルダを見て、乱暴に枕元に放り投げる。
思わず深いため息が漏れた。
開けっ放しのカーテンから、外を走る車のライトが天井を通り過ぎて行った。
また、急激な眠気に襲われる。
あたしは毛布を手繰り寄せて体にかけ、お腹の上に手を置く。
「ごめんな……」
酷く申し訳ない気持ちになって呟いた言葉。それは、一人暮らしの部屋では大きく聞こえた。
目を閉じれば、意識はすんなりと暗転する。
暑い。暑い。
熱い。
苦しくって……その場に留まっていることも難しい。
硝子の向こうを見たくても、もう、体が浮かんでしまう。
あたしは見たい物さえ、自由に見ることができなくなってしまっていた。
閉じる瞼は無かったが、このまま寝てしまおうか。
諦めにも似た感情に支配され、意識を手放そうとした時、暗かった視界が明るくなった。
どうやら、家主が帰って来たらしい。いつも眺めていた忙しない人が、帰って来た。
それで、アンタは今日もあたしに「ただいま」って言わずに、ロクなご飯も食べないまま動き回った後、眠るんだろう?
――冬子。
どうやら、今日は少し違ったらしい。
酷く悲しそうな声が、あたしの名前を呼んだ。
手放しそうになっていた意識が、彼女の声によってクリアになった。
夢の中で泳いでいるのが自分だと気が付くと、苦しさが嘘みたいに拭われた。
しかs、体は自由に動かない。
「そりゃあ興味もない花の名前がわかる訳だ」
いつもの調子で呟いてみるが、口からは空気すら出ない。
誰に言う訳でもなく、あたしは唇を動かす。
あたしは、真実に近づいた。
「別に好きでもないのに甘いもんも悪くないって思ったし、面白くなさそうな映画を観ていたら涙が出てきたりしてさ……あの男もあたしの家の勝手が分かる筈だ」
酷くガッカリしたような気分になった。
あーあ、なんて手を頭の後ろで組もうとして気が付く。
あれ、今なら”手”を動かせそうだな。
いつの間にか人の体を得たあたしは、ノロノロと体を起こして顎を伝う汗を手の甲で拭う。
夢の中でも汗かいてるのかよ。
夏は、どの時間帯も暑いったら仕方ない。
近所の公園のベンチに座ってペットボトルの水を飲んでいると、男がやって来た。
あたしは、ペットボトルの水を横に置く。
「よお」
「公園で待ち合わせてって始めてかもね」
「うん」
結露が木のベンチを色濃く濡らしていたから、あたしは少しだけお尻が冷える気がした。
公園の街灯の周りには、マイマイガがひらひらと舞っていた。
「昔さ、修学旅行で寄ったお土産屋に綺麗なコンパクトミラーが売っていてさ」
「うん」
男に「横に座れよ」と促すこともせずにあたしは話はじめる。男
もベンチに座ろうとはせずに、そのままあたしの傍に立っていた。
夢の正体を知ったあの日の夜、電気の筋が互いに引き寄せ合うようにして繋がってしまった。
するとどうだろう。弾けた電気の一瞬にあたしの記憶が流れ込んできたのだ。
これから話すことは、男が知らない話になるだろうね。
これは、あたしたちしか知り得ないことなのだから。
「水色の方が欲しかったのに、どうしてか、その時はピンク色の方を買ったんだ」
「どうして?」
「さあ。あたしは分からない。……それは、春子にしか分からない」
ぼんやりと、公園の柵の向こうを走る車を眺めていた視線を上げると、男は辛そうな顔をしていた。
「この公園にはグッピーが埋まってるんだ。丁度、あの辺りかな」
「……どうして分かるの?」
男は、あたしが答えを導き出していることに気が付いているというのに、この後に及んでまだ白を切るつもりらしい。
気づいて欲しいのか、気づいて欲しくないのか。分からない奴だ。
往生際の悪い男にあたしはムッとしたが、公園の木陰を指して見せれば、男は訝しげな顔をした。
アンタはもう、知らない振りも誤魔化すこともできなくなる。
そもそも、あたしにそれをして何の意味があるというのか。
「証明してやるよ」
あたしは立ち上がると、指した木陰に向かう。男は、あたしの後ろを黙ってついて来た。
そういやぁ、蓋の色は何色だったかな。
ある場所に辿り着くと、あたしはしゃがん土を掘り始める。
しゃがんだ時にポキポキと膝が鳴ったのを聞いて、そういえば運動らしい運動もしてなかったな、と悠長に考えられるほどには、心に余裕があるらしい。
「グッピーは育てられないから、いらないって言ったのにさ。それなのに。あのオバさんが無理やり渡してきたんだ。ちゃんとポンプも買ったし、水槽も広いのを用意した」
これはグッピーという小さな魚が大流行していた時期の話だ。
他の社員はオバさんからグッピーを貰ったり、断ったり……。
どちらにせよ、オバさんは断られても嫌な顔はしていなかった。
ただ、グッピーが思いの外、繁殖能力が強くて困ったのか。流行り物だし、良ければ貰ってやって、なんて言って配っていただけなのだろう。
「でも、グッピーは死んだ」
アンタは知っているだろう? あの部屋のベランダには、暫く使われた形跡もない汚れた水槽が放置されていることを。
だって、男はあの部屋に”良く出入りをしていた”んだろうから。
「仕方ないとは思うよ。忙しい時期だった。ただ、働き詰めの一人暮らしだから、育てるのは無理だって分かっていた筈だった。それなのに、春子が断らなかったから、だからグッピーは死んだ」
爪に土が入ることも気にせずに、あたしは両手を使って地面を掘る。
男は隣にしゃがむでもなく、呆然とした様子で近くに立っていた。
「草原春子はそれが申し訳なかったし、心の底から悲しかった。……あたしみたいに、忙しかったんだから仕方ない、そうやって片付けられなかった。こういう日常の小さなことが蓄積されていくと、草原春子は滅入っていった。ただ、これが難しい話で、うまくグッピーはいらないと断れても、後から断る時の言い方がキツかっただろうかと悩む。……そういう女だったから、人に迷惑を掛けない発散方法を探したんだろうね。それで作られたのが、あたし。グッピーが死んで、それがきっかけとなって春子の中に草原冬子という人格が生まれてしまった」
少し前までは、薄いコートを着ていないと寒かったはずなのに、夏は駆け足でやって来た。
これから、じりじりと一日ずつ気温が増していくのだろう。
夜の公園。
しかし、パーカーを着ているには暑い。
あたしは、思い切り腕を捲る。
「あの小さな魚が死んだ日が、春子の限界だったんだよ」
振り向きながら後ろに立つ人を見上げると、男は悲しそうな顔をしていた。
その表情が、全てを物語っていた。
あまりにも、男がしょげたような顔をするから、あたしは少しだけ居た堪れなさを感じる。だからあたしは「別にアンタを責めるつもりはない」と小さく鼻で笑ってやった。
この男があたしの元を訪ねて来た理由も、この男があたしんちの使い勝手を知っていた理由も、これで全て合点がいくとは思わないか?
あたしが見ていたのは夢であって、夢じゃなかったのだ。
「ああいうオバさんは、無自覚に迷惑な善意を人に押し付けてくるんだよな。人の声色や顔色を見て相手の都合を察することが絶望的なまでにできない。でも、それくらいの方が生きやすい。ああいうお節介をされるのが好きな奴もいるし、救われる奴もいる。草原春子にとっては苦手な人間だけど、嫌な人間ではなかった。あの人は普通のオバさんだった。そもそも一般的に、面倒なのは草原春子の方なんだ。……でも、それを口に出さないから、周囲には面倒くさがられずに済んできた。ただ、それだけ」
男から視線を地面に戻して、掘ることを止めていた手を再び動かす。
此処には埋まっていた筈なんだ。
いや、埋めたはずだ。春子が埋めた筈なんだ。
死んだグッピーと、いらない物を。
「グッピーが死んだ後なのに、草原春子は相変わらず味噌汁のだしを取るのに煮干しを使っててさ。どんなメンタルしてんだか」
男は、何も言わずに黙って私の話を聞いていた。
漸く分かったよ。
それが、アンタの役割なんだな。
「果たらなくても金は尽きない。家には好みじゃない家具や服ばかり。ガキの頃の記憶は朧げで、家族と連絡を取ったこともない。記憶があるのは、大抵、夜だけだった」
「どうして……」
どうして?
それはどうやって春子の存在に気付けたかって問いかけか?
「昨日、漸く部屋中を探る気になってね。色々調べてみりゃ、あたしの家なのに草原春子宛の手紙ばかりがあるじゃないか。……挙句の果てに、あたしと同じ顔をした女がアンタと顔をくっつけて笑ってる写真が携帯に入っていた。アンタのことは嫌いじゃないが、あたしのタイプじゃない。正直、勘弁してって思ったよ」
「……はっきり言うなあ」
男は困り顔を浮かべながら、乾いたように笑った。
あたしに言われるのは、少し傷つくのかもしれないね。しかし、これはお前たち二人への細やかな仕返しとでも思ってくれればいい。それなら、今の言葉だって可愛いもんだろ?
「それで、一つの疑問が湧いた」
地面を掘り続けていた指先に、固い物が当たる。
ああ、やっぱりあったか。
土の中からは、長方形のキラリとしたコンパクトミラーが出てきた。
「あたしって、誰なんだろうって。……死んだグッピー? まさか、そんな」
掘り起こしたそれにへばりついている少し湿った土をぐりぐりと指先に力を入れて取りのぞき、開いてみる。
当たり前のことだが、ミラーにはあたしの顔が映っていた。
「あたしはさ、会ったこともない奴を思い出してはイライラして、それを発散するようにビールやタバコをのんだ。いつもそうだ。いつもイライラしてたんだよ」
小さな鏡はピンク色。
あたしが欲しかった色じゃない方の色だ。
「優しい草原春子は、あたしに感謝でもしていたのか。もう一人の自分が消えそうなことを察知して、この世との別れの猶予を与えた。どうやってしたのかは知らないけどさ、それが可能だったから、あたしは日中も動けるようになった。朝を見ることが出来たんだ。……でも、小さいものは脆くて弱いのに、どうやら春子は学べないらしい」
公園の向こうの道を通り過ぎた車が出す排気ガスの臭いに、あたしは顔を顰める。
「……なんで、あたしが消えるって分かると思う? そんなこと、アンタは知っている筈だ。春子から聞いたから、あたしの所に来たんだろう? アンタが言わないなら、あたしが言ってやるよ。あの女は、アンタが現れてからあたしを使わなくても良くなった」
この先、あたしが続けようとしている言葉は、きっとこの男を深く傷つくだろう。
でも、この男と春子だけは事実から目を反らしてはいけない筈だ。
春子だけじゃない。コイツだって……。
「アンタが草原春子と出会ったから、あたしは消えるんだよ」
予想通り傷ついた顔をした男に、あたしは腹立たしくも、腑に落ちない気持ちになった。
あたしは。
あたしは……。
まあ、そんなに苦しいことはなかったかも。
だって、あたしは夏に茹って死んだグッピーじゃないから。
ともすれば、別にアンタらが苦しむ必要はないのかもしれない。
……あーあ、なんだそれ。どうやって心の整理をつければ良いっていうんだよ。
「赤ん坊を授かれば酒とタバコは毒。あたしは、それらを断ち切れない質だ。草原春子にとって、あたし自身が毒になるよ」
「そういう訳では、ないよ」
やっと口を開いたかと思えば、呆れた。
これから父親になるという奴が、そんなことを言っては駄目だろう。
この期に及んであたしの言葉を否定しない男に、あたしの顔には思わず苦笑いが浮かんだ。
「アンタはお人好しだな。優しいのとお人好しは違う。それは、草原春子が一番理解してる」
まあ、アンタのそのマイペースで献身的な付き合い方は、あの女に合っていたのだろう。
あたしが不必要になるほど、男の存在は救いになったんだ。
「草原春子は名前を体現しているような、平凡な女だった。……なあ、この鏡は嫌味か? それとも別れの演出? 貴女は私なのよって? 馬鹿らしい」
なあ、春子。
グッピーをさ、死なせて後悔する位なら、水くらい変えてやれば良かったのにな。
でも、精一杯生きているあの頃の春子に、それは酷だった。あたしは分かっているよ。
グッピーだって精一杯生きていたが、春子は毎日ヘトヘトで、疲れ切り、常に限界だったんだ。
育てていた小魚が夏に死んだ。
たった、それだけのこと。
仕方ない。
仕方ないよ。
仕方ないね。
そう思える性格なら、春子の日々はもう少し気楽だったのかもしれない。
「てかさ、ほら、見ろよ。タバコ買うために毎回免許証見せてたのに、あたしってば草原春子って名前になっていることに気づかなかったんだ。ほら、クレカや保険証、財布に入っているカード全てに草原春子、草原春子。アンタが探している女の名前が書いている」
汚れた手を気にもせずに、ズボンの後ろポケットから可愛らしい財布を取り出し、中からカードを取り出して男に見せる。
男は何とも言えないような顔で、そのカードを見ていた。
「どうせ、なんで気が付かないんだって思ってたんだろ? 性悪め」
唾を吐き捨てるように言い捨てれば、案の定、男は傷ついた顔をしていた。
どうして、アンタがそんな顔をするんだよ。
あたしが悪いって?
全く、酷い奴らだよ。
消えるのはあたしなんだよ?
アンタらのせいで消えるんだ。
「最後に、どうして春子の思い出をあたしが知ってるか教えてやるよ。よくよく思い出そうとしたら見えてきたんだ。草原春子ってバカな女の日常が。決められた場所に収まるのことは、当たり前だと言いたげに記憶が”戻って来た”んだ」
掘り起こした場所にグッピーの姿はなかった。
溶けて何もかも失くなってしまったか、猫か鳥にでも掘り起こされてしまったのだろう。
「今更、どうして自覚できるかって? んなもんな、草原春子があたしを意図して作れたなら、その逆だって可能だってことだろ。……都合が良い作りはバカな女が考えやすいことだよ」
靴が汚れるのも気にせずに、掘り起こした場所に土を戻す。
立ち上がると、ポキポキと膝が鳴った。
手についた土の汚れを叩いて、あたしがベンチに戻ると、男も大人しくあたしの後ろを着いて来た。
ベンチに座って見上げた男は、酷く落ち込んでいる様子だった。
「あたしみたいなのを作るくらいなら、このミラーだって友達の何にも考えていないアドバイスなんて聞かないで、水色の方を買えば良かったんだ。自分の好みを押し付ける奴なら、突っぱねた時に付き合いがなくなってラッキーくらいの気持ちでいれば良いのに。あの女は人に嫌われることを怖がってさ。……そもそも、そんなことで人は離れていきやしないのに、相手の心を勘繰り、探りまくって顔色を伺っている方があたしからしたら酷い奴だって思うけどね。でも草原春子はそうしてしまうから疲れやすいんだろうなあ」
「その、冬子さんはいつ……」
「さあね。でも、直ぐじゃないのかな。春子の記憶が流れ込んできたせいで、今やどれがあたしの記憶なのか分からないんだよ」
私は、もう必要ないってことを知ってしまった。私自身が、理解してしまったんだ。
今日か、明日にでも、消えるかもしれない。
でも、不思議と恐怖はなかった。
怖いっていうなら、グッピーとシンクロした夢の方がよっぽど怖かったよ。
ただ、哀れな小魚の言い分を代わりに言ってやるなら、あの夢はグッピーの夢なんかじゃない。
あたしは、グッピーの苦しさも、悲しさも分からない。
あの夢は、草原春子が、グッピーは苦しんで死んだ、そう思っているから見せた夢なんだ。
「……コンビニのお友達には挨拶はしなくて良いの?」
「いらんでしょ。悪い奴らじゃないけど、草原春子の知り合いにああいう連中いらない。それなら余計なことをする必要はないでしょ。アンタ、少しは考えろよ」
「でも、あの人たちは君の友人なんだから」
何を言いだすのかと思えば、友達未満の夜の知り合いの心配か。
春子も、この男も、心配事が多くて大変だな。
「あの外の備え付けの灰皿さ。来月撤去されるらしいんだよ。そうしたら、アイツらに会う機会なんて、そもそもないんだよ」
「……本当に、それでいいの?」
「くどい……どうせ、この世にあたしのなんたるかも残らないなら、未練も、名残りも、跡形もなく消えた方が良い」
しかしそうだな。
勝手に生んで、必要がなくなったらポイだなんて酷いよな。
自分勝手な奴らに振り回された鬱憤が、今になって追いついた。
あたしは、手に持っていたコンパクトミラーが街灯の光を反射していたのを見て、良いことを思い付く。
「草原春子に伝えてよ。……アンタの顔なんて2度と見たくないってな。アンタはあたしが一番嫌いなタイプの女だって」
座っていたベンチの足元にしゃがみ込むと、あたしは土の地面にコンパクトミラーを置いた。
お土産屋で見つけた時と遜色なく、鏡は煌めいていた。
男は、あたしの行動を黙って見守っていた。
「春子は、どうして冬子さんを作ったんだと思う?」
「それ、あたしに聞く?」
「あ、ごめん」
どうして、ねえ。
随分と無神経な質問なこった。
あたしは鼻を鳴らすように笑って見せる。
「冬子になりたかったんじゃない?」
自分で言っておいて、それがなんだか可笑しくて「ふは」と吹き出す。
こんな雑に作って置いて、憧れる、か。春子はセンスもない。
「隣同士の季節だけど、景色が違うんだよ。春の草原には花が咲いて綺麗なんだろうけど? 冬の一面真っ白な景色だって捨てたもんじゃないってーの」
この鏡も可哀そうに。
春子がちゃんと意思表示をしなかったせいで、愛着を持ってくれない持ち主の所に来てしまった。
この色が欲しかったんじゃないんだけどって、そう思いながら誰かに譲ることもせずに仕舞い込まれた鏡。
挙句の果てには、土に埋められてしまうなんて、あまりにも可哀そうだとは思わないだろうか。
安心しろ。
お前が無駄にした時間は、あたしが晴らしてやるよ。
元より、死んだグッピーと一緒に埋められたアンタは、あたしと似た様なもの。
あたしは地面に置いた鏡を指の先で撫でてやる。
夜のしじま。
あたしが生きていた時間。
誰もが寝静まる夜に閉じ込められてさ。
きっと、土の中の暗さだって、さほど変わらないんだろう?
いらないものとして春子に埋められていたもの同士なんだ。
結託して仕返しでもしてやろうぜ。
「あたしは冬子じゃない」
キラリと光る鏡を見下ろしながら、あたしは拳を頭上よりも高く振り上げる。
あたしが何をしようとしてるか気づいている筈なのに、男はあたしを止めない。
もしかすると、あたしが何をしても止めないでとか春子に言われているのかもしれない。
だからアンタ、春子の腹に子供がいるのに煙草も酒も止めなかったんだな。
「あたしは、トウコ、だっつーの!」
無抵抗の鏡に向かって、思い切り拳を振り下ろすとピシリと音を立てて細かなヒビが入った。
「バカ春子」
小さく弾けた小さな、小さな欠片がキラキラと輝いた。
やっぱり、あたしはアンタらが嫌いだ。
特に春子。
草原春子。
アンタがこの世で一番大嫌いだよ。
火花に手を焼くように、僅かな痛みが手に走った。
♢
「手の傷なんて、案外、綺麗に治るもんよ。それにしても災難ね。よりにもよって結婚式って時に左手を怪我するなんて」
「いえ、いいんです」
「いいって?」
「今まで頼りっぱなしにしていた人からの餞別ですから」
「え? あ、そういえば妹さんは? この前あったのよ」
「……ああ、彼女は死んだので来ません」
「え!?」
同じ職場の女性は、私の言葉に驚いた様子だった。
私は、彼女をその場に置いて式場の控室に戻る。
控室の椅子に座って、白い手袋の下に巻かれている包帯を無傷の手の親指の腹で撫でると、ピリっとした痛みがあった。
冬子は、わざわざ左手で鏡を割ってくれた。左手って言うのは指輪をはめる方の手だと言うのに。
「絶対、ワザとだ」
会場には着々と招待客が訪れ、控室の外はガヤガヤと賑やかな声が聞こえ始めた。
私は、その沢山の声を聞きながら瞼を閉じる。
冬子。
遂に言ってやったよ。
私は草原春子。
人に望まれるような、春のような柔らかな子に育って欲しい。
生まれたばかりの私に、両親は願った。
柔らかいとは優しい人のこともいうのだろう。しかし、優しい人とは、都合の効く相手を指す言葉でもあった。
そして、他人に望まれるような人というのも、これまた同じく都合が良い人間を言うもので、私は正しくその通りに育ち、大人になった。
他人に強く言い返すこともできずに、愛想笑いだけが上手になった私。
場の空気を悪くしない私は、時に他人のストレスの吐け口に立たされた。
もしも思いやりに欠けるような人に目を付けられたら終わり。
そういう人はね、ゲロを吐くように嫌味を言い、隙があればマウントを取るの。
まるで、これっぽっちの言葉で傷つく人はいないと思っているような態度で、徹底的に私を見下すんだ。
頼ってもいないのにお節介を焼いてくる人もまた、自分を満たす為に、他人をマスターベーションをする道具のように扱った。
……もしかして、そんな道具の方が丁寧に扱われていたかもなんて。
考えるだけで酷く虚しいね。
うるさい。
うるさい。
うるさい。
幾ら心の中で悪態を呟いても、実際に口から反抗的な言葉が出ていくことはなかった。
反抗心を燃やすには、勇気が足りなかったのだ。
私は誰にも気づかれることもないなまま、怒りに心を燃やし、そして燃えカスのようになっていった。
風が吹けば飛ばされて、残骸を追いかけることさえできない。
空気を汚すだけの白い灰。
結局、私を燃やし尽くしたのは誰だったのか。
己に限界が近づいていたことは良く分かっていた。
自分のことだもの。
ちゃんと気づけていたよ。
私は酷く疲れていた。
疲れ切ってしまっていたの。
それを言い訳に、小さな命すら自分のエゴの所為で死なせてしまった。そんな自分が心の底から嫌いになった。
だから、春と反対の冬に任せることにしたの。
私は、消化しきれない日々のストレスを解消させる為に、草原春子の中に真反対の人格を作ったのだ。
それが冬子だった。
私にとって、彼女の存在は大きかった。
不安や怒りで押し潰されそうな夜。
冬子が眠れない夜を越えてくれた。
どうせストレスを溜めすぎた夜は眠れないのだから、冬子が徹夜して起きていようが結局は寝不足。だから、彼女の不健康なストレス発散は大して気にもならなかった。
ああ、でも、空のビールの缶を片付けている時は、たまーに腹立たしく思うことはあったかな?
だけど、私の溜めたストレスを同じように”むかつく”と感じているのは、冬子しかいないのだと思うと、なんだか許せた。
一生、会うことのない同居人との生活は、私にとっては順調のことであった。
彼と出会い、悩みを聞いて貰ったり、色々な場所に行くようになると、私の生活は潤っていった。
これが、普通なのか、とさえ思った。
しかしある日、長いこと冬子が現れていないことに気がついた。
だから考えたのだ。
もしかすると、今の私を支えているのは冬子ではなくて、彼になっているのではないかと。冬子は、いずれ消えてしまうんじゃないか……と。
もし、本当に冬子が消えるのなら、何もないけど何かしたくなるような日を過ごして欲しいと思った。嫌な日の夜ばかり、彼女に任せてしまっていたのだ。そのお礼をどうしてもしたかった。
きっと彼となら充実した日を過ごせると思うから。だから、私が長い眠りにつけるようにした。
職場の繁忙期となる時期に、彼との連絡を絶ち、心身ともにボロボロになるのを感じつつも、自分をなんとか保った。
そして、この作戦を試みたのだ。
自分の体のことだもの、案外、安直な計画はうまいこと行動に移すことができた。
これは幸いであった。
もちろん、彼には私と冬子のことも、この作戦も説明済み。
元より、付き合う時に私の中には、もう一人の人格があると告白していたから、彼は「話に聞いていた冬子さんに会えるなら楽しみだよ」と、そう笑って受け入れてくれたのだ。
……私の話を適度に受け入れてくれる彼だったから、私は優しいままの人でいられたのかもしれない。
私の夢物語、ううん、私の体質について彼は問題視することもなく冬子の元に向かってくれた。
冬をイメージして、クールで大人な女性が生まれると思っていたが、冬子は違った。
不摂生ばかりする口が悪いらしいもう一人の私。
しかし、彼女は私の願いによって生まれ、そして私に都合よく使われ、突然殺される事になった。
自分でも思うのよ。なんて酷い事をしているのだろうかって。
嫌なことがあった日の夜にばかり呼び出して、私が膨らませた風船を裁縫針で刺して割るような作業を随分と長いことさせてしまった。
どうか冬子だけは、身勝手な私を許さないで欲しい。
嫌われるなら貴女が良い。
私は、貴女だけには嫌われたい。
憎悪も、嫌悪の全ても、冬子から向けられるものだけを受け入れたい。
私は、気づけば他の人なんてさほど気にならなくなっていた。
ねえ、冬子。
貴女には、グッピーをくれたオバさんの顔は見えただろうか?
気味悪そうな顔をして私を見ていたんだよ。でも、それももう、あまり気にならない。
だって仕事はやめるし、これからは会うこともない、苦手な人だったんだもの。
あの人は私の性格と合わなかったのよ。ただ、それだけだったの。我慢なんてしなきゃ良かったね。
コンコン、とノックが聞こえ、私は「どうぞ」と扉に向かって入室の許可をする。
控室に入って来たのは、私の婚約者。
「そろそろだね」
「うん」
彼は眩しそうな顔をしながら窓に歩み寄った。
その姿を目で追うと、空の光が眩しくて、私は目を細める。
今日、私たちは家族になる。
私は自身の胸に手を当ててみる。
冬子が体を使っている時、私は何も夢を見ていなかった。
ただ、突然目を覚ますことになり、冬子が死んだことは直ぐに分かった。
心が酷く重たい。
それは、欠けていた心のパーツが元の場所に帰って来たような感覚でもあった。
私の心は、本来の重さを取り戻したようだった。
何度、寝て起きてを繰り返しても、朝に普段は飲まないビール缶のゴミが部屋に転がっていることはなくなった。
部屋はタバコの臭いがしなくなり、まるで着るものがないと言いたげに、可愛い洋服が散乱していることもなくなった。
それらはまだいい。まだ耐えられた。
ただ、作り置きしていた私と冬子の分のお味噌汁が減っていないことだけが悲しかった。
彼女が私の存在を知り、そして自分の存在に気が付いた日から、冬子は表の世界に現れることはなかった。
「冬の一面真っ白な景色だって捨てたもんじゃないって、彼女、そう言っていたよ」
僅かに視線を下げると、ふんわりと広がるウェディングドレスのスカートが目に入った。
私は、綺麗に化粧をされた顔が歪んでしまわないように、目に力を入れる。
「味噌汁も、春子が作ったの美味しかったって」
「……そう」
そんなの、罪滅ぼしのような気持ちでお酒に入り浸る貴女の為にしていただけのこと。
朝、少なくなっている鍋の中身を見て、自己満足をしているだけだったのに。
美味しいなんてさ。
そんなの、私が作ったんだから……味覚が合うに決まってるじゃない。
「それと、自分は”ふゆこ”じゃなくて”とうこ”なんだって。怒ってたよ」
何、それ。
ギュッと拳を握り締めても、手の傷は痛まなかった。
そんなのは駄目。貴女がくれた痛みはこの先も熱を帯びて傷んで欲しいの。
冬子、私が生み出した人格なのに、貴女は立派に一人の人間として生活をしていたのね。
ねえ、今、私は泣かないよ。
貴女は私だったけど、貴女を想って泣くなんて、この世界で私が一番してはいけないことだと思うから。
貴女の人生がどんなものだったのか。同じ器にいる人同じ間なのに、私は貴女のことが他人以上に分からない。
心の重たさが思っていたよりも残酷で、堪えた。
……なんて、冬子の存在を消した張本人が綺麗ごとを並べてポエムを書き綴っても、貴女には悲劇のヒロイン気取りか、と言われるかもしれないね。
”冬子”。
貴女の名前は、そう呼ぶのね。
知らなかった。
勝手にトウコって名乗っていたなんて、知らなかったよ。
だから、私が思い描いた性格にならなかったのかな。
冬のようにクールで、大人びた女性、なんてさ。
「あとこれ、君に」
こちらに近づいて来た彼を見上げるも、眉間に入れた力が抜けてくれることはなくて、これから誓いの言葉を交わす花嫁の表情には見えないだろう。
彼から、学生の頃によくしていたような手紙の折り方をした小さな紙を受け取る。
受け取った紙を開くと、まずはその雑さに思わず口角が上がった。
紙はコンパクトなサイズにする為か、ギザギザに千切られていた。
部屋にハサミだってあるのに、大雑把なんだから。
冬子。
春は色の暴力が凄まじく、冬は真っ白な紙みたいで……私は、その純白が羨ましかった。
私が着ている白いウェディングドレスでさえ、貴女の白さには勝ることはないだろう。
貴女は、私が思い描いた女性にはならなかった。
でも、冬を生きる人々のように、強い女性だったみたいね。
冬の白は、汚れ知らず。
だから一等、美しい。
くらり、と貧血に似た気持ち悪さを感じつつも、彼女がくれた小さな手紙を開く。
書いていた言葉は期待していたような別れの言葉なんかじゃなかった。
私は、思わず口角を上げる。
――せいぜいグッピーみたいに引きずりやがれ。
私が気に病むような人間だと知っていて、貴女は酷いことを言い残して逝くのね。
恨みったらしく書かれたメモ紙を胸に抱く。
もっと文句くらい言えば良いのに。
もっと、罵ってくれれば良かったのに。
もっと、長いこと言えない傷をつけてくれて良かったのに。
冬子。
貴女は、私と違って心から優しい人だった。
私がなりたかった、真っ直ぐで美しい人だった。
彼の口からしか貴女のことを知ることができないのは、本当に、本当に……心の底から悔しいよ。
冬子。
今日、私は結婚するよ。
私たちが過ごしたあの部屋とは、お別れをしなくてはいけない。
貴女を置き去りにするように、私はあの部屋を出るのよ。
部屋の鍵を手放す時を思うと、胸が張り裂けそう。
冬子。
嗚呼、冬子。
「……さようなら」
私の、大切だった人。
式の時間が迫り、私たちを呼びにやって来た式場のスタッフが扉の外からノックをした。
彼は私に手を差しだし、私は彼の手を取った。
彼とは「また後で」と言って別れると、式が始まるその瞬間まで、私は冬子のことを考えた。
貴女がチャペルの席にいるんじゃないか、なんて考えたりもするのよ、私ったら。
ねえ、冬子。さっきの話は聞いていた?
手の傷は消えやすいのだって。
優しい慰めとお節介は、私にとってはいらない情報だった。
だって、私は左手の傷だけはずっと残って欲しいんだもの。
彼女が確かに側にいた証なのだから、綺麗に消えるなんて聞きたくなかったのよ。
だから、ああ言ってやったの。
私の人には言えない、変わった話を少しだけしてやったの。
ねえ、冬子。
私、貴女を失って、少しは変われたのかな。
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2023.4/6 文章の見直しと、漢数字に直しました。