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残念な戯言的散文

隠者は省みるが、その場で立ち尽くす

作者: 残念な戯言遣い

 何とも言えない気分、というのはこういう気分を指し示すのでしょうか。

 最近、世間というのものの雰囲気があまりにもだったので筆をとりました。久方ぶりに観たマスメディアで、閉塞感という言葉を使っている方がいましたが、閉塞感というには、あまりに息が詰まる気がします。密閉感と言った方がいいかもしれません。何処に行こうにも行き止まりが解っているために、小さな小部屋に自ら入ってその中から外を見回しても、やっぱり結局箱の中。小さな箱の中に逃げ込むゲームをしてるような、そんな感覚です。


 どうも、残念な戯言遣いアルファタウと申します。


 ボクにとって、ゲームというのは、TVゲーム、ビデオゲームでした。そしてゲームセンターに鎮座在す筐体でなく、熱狂したMSXではなく、任天堂が発売した朱色と白のあの機体がゲーム機でした。

 テレビにつなげ、コントローラーが二つ。八時間以上、休みなしでプレイしたのは、バルーンファイトだった記憶があります。きっと他にもあったのでしょうが、今や昔、記憶が薄れて、残念ながら曖昧模糊としています。

 友人をうまく作れないボクにとっては、ゲームというのは逃げ場所でした。コミュニケーションが困難だったわけでもなく、友人がいなかったわけではないのですが、唐突に空想や想像の世界に浸って無言になったり、会話が突飛に始まってしまうボクと友人になるのは、もしくは友人を続けるのはさぞ難しかっただろうと思います。あとそんな奇行を誤魔化すためにアニメやマンガの台詞を多用してました。所謂、中二ですね。

 そんな訳で、ゲームというのは、ボクにとって一種のシェルターでした。

 それをやっていれば“誰とも=他者”繋がらないですむという、ある種の逃げ場所だった様な気がします。それに頭の中で起こっている事象をリセットできました。そのシェルターの中で見つけた“自分だけが知っている”攻略法が優越感を満たしてくれていました。

 読書もまた一種のシェルターでした。

 読んでいるときは、その物語の中や、思想思考、実験的で、壮大で、莫迦馬鹿しくて、暖かくて、時に冷たくて、厳しく、優しくて、色んな感情を呼び覚ましてくれるシェルターでした。

 そして、それらのシェルターは不思議なことに、誰かと繋がっているということを実感を想像させてくれました。未来の、過去の、決して会うことはないだろう誰かとの繋がりを想像して楽しむことが出来ました。

 それにゲームは、学校生活の中で会話の糸口になったり、尊敬されたり尊敬したり、読書はその場にはいないはずの作家を感じることが確かに出来ました。

 もしかしたらアニメや映画、ドラマもそうかもしれません。見ているとき複数人と見ていても、作品と“私”との関係性しかないでしょうから。

 しかし今や、そのシェルターだったものには、“他者”がつきまといます。

 ゲームはネットにつながり、他人とのランキングが掲載され、小説もネットにつながり“誰か”の評価がのっています。そういう時代です。致し方ありませんし、それが悪いと言いたい訳でもありません。そして、そこには確かに面白さが存在しています。其れもまた事実です。

 最近のゲームや小説には、物語という筋道が用意されていて、そこを通るもしくは体感するという経験をするときに、他者が手の届きそうな範囲に見え隠れしているという感覚があるように感じます。独りになりたいからシェルターにいるのに見られているという感覚、そして、シェルターにいる誰かを見ている感覚。

 自身の想像上、その延長線上にそれを見て感じるのと、実際にその線上に誰かが確かにいて、それを実感として解るというのは根本的、肉体的に負荷がかかります。他人と繋がるということは何故か、どっと疲れてしまいます。そして、それらは個々に感じ方が違うものであり、数値化することが難しいという厄介な問題があります。もしかしたらゲームのステータスのように数値化できれば簡単な話……、なのかもしれません。

 あの頃、ゲームや小説というシェルターに逃げ込んでも決して閉塞感などは感じませんでした。世間に流れる何とも言えない閉塞感から逃げ出したいと、ゲームや小説に逃げ込んだことはありませんでした。「いや、子供の頃って大人との関わりは殆どねぇじゃん」「あまりにも子供で感じてなかったのでは?」と言われれば否定は出来ないのですけれど。ただ、子供ながらに不景気や大人や親がお金がないということを嘆いていたのを聞いていたけれど、最近の生き苦し(息苦し)そうな大人はいなかったように思えます。SNSなどでそれを吐き出しているから見えやすくなっているというのも、確かにそうかもしれません。けれど、自分の親の世代は、そんなものがなかった時代、近所のローカルな付き合いだけで、それを消化しきっていたのでしょうか?

 そんな疑問が残りました。

 あの頃とは、やはり今の世情というのは何処か違うように感じてしまいます。

 いやいや人間の中身が変わったからだ、ということも考えました。昔の人間は、今の人間よりも賢くて朗らかで我慢強く、逞しいのだと。そして同時に反論めいたものにも至りました。

 もし退化と言ってもいい変化をしたのならば、社会構造的にもっと産業的な生産性は格段に落ちてもいいはずです。そして楽して儲けるという短絡的な思考がもっと流行って、詐欺事件が増えているのではないでしょうか。コンニチワ、近未来デストピアという世界になっていいはずです。ボクの目には、この世界は何とかまだまともな世界で留まっているように思えてなりません。

 これはそうあって欲しいというものが混じった思いこみの類かもしれません。断定的過ぎるかもしれません。もしかしたら、昔ながらのまともな人間が、少数まだ残っていてこの世界をまともに押しとどめているのかもしれません。

 でも、そんなことは不可能だとも解る年齢です、正確にはそんな奇跡は起こるとしても起こそうとし続けないと不可能と判断してしまう年齢になったのです。少数精鋭が活躍できるのは創られた物語の中だけなのです。

 そして人間の本質が昔と大差ないと達観めいた諦めた感覚に至っているというのも本当です。

 ボクがシェルターと思っていたものが、シェルターとして機能できなくなった理由は、いくつもの要因があると思います。やはりボク自身も加齢して変わった部分があるでしょう。

 ただ、これらは感覚的、主観的な感想なことなので、断言はできません。

 足りない脳味噌の電気信号を何度も巡らせて最終的に至った結論は、「“孤独”が減ったからなのでは?」でした。

 昨今、孤独である時間が極端に減ったように感じます。

 そう言っても孤独になるような他者からや自主的なものでなく、ただ孤独になってしまうような、孤独である時間が減ったように思うのです。

 一人の時間と言ってもいいかもしれません。

 誰とも繋がっていない、誰にも干渉されない時間です。もちろん、携帯端末はなしです。

 この閉塞感は、自分は一人だと認識できない状況が断続的に続いている現在の日常生活がネットが原因なのではないかという偏見に至りました。

 もっと言うならば、携帯端末が諸悪の根元でしょうか。

 外にいようが家にいようが、誰かから連絡がある状態というのは、心身ともに負担になっているのではないかと思えるのです。


 静寂だけが私を愛してくれる、なんてなことを言ったゲームキャラクターがいましたが、今にして思えばこれほど贅沢だなと思える台詞はないと思えてなりません。

 戯言。

I can't convey what I want to say.

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