94、オワリノヒ
マリアンヌは、紛れもなく聖女だった。
「そろそろ行こうと思う」
それは個人的なものではなく、この彼女なら、誰に対しても慈悲深く接すると思ったから。それが寂しいとも思わなかった。彼女に好意を抱いた理由が“その性格“なのだから。
「一応、日が変わるまで大丈夫ですよ?」
「いや、もう十分だ。あんたに死体の世話はさせられない」
あれから、互いに手を重ねたまま話をした。
彼女の所にいるライラという“少女“が、実は、俺の年上であること。医者は怒るかもしれないが、リリィを“よろしく頼む“と伝えたこと。リズ達のことから俺の両親のことまで、本当は彼女は全部知っていたことなど――そんな話を。
『彼女は子供じゃないですよ? なんと、私の一つ下です』
『ふふっ、子供扱いするとすごく怒りますからね。また会うことがあったら、大人の女性として扱ってあげてください』
また会うことなど決して無いのに、何を言ってるんだろうと思った。
『マルクは不機嫌になるでしょうね。でも、そうなりながらも、きっと、あなたのお墓にはちゃんとお参りするんですよ。“何やってんだ、俺は“とか呟いて。そしたら、化けて出てあげてください。彼は出不精で反応が薄い人ですから、驚くぐらいのことがあると丁度いいんです』
誰かのために睡眠を代償にして出不精だろうに、そう言われる彼に少しだけ笑うように同情した。それと共に、結局謝らずじまいだったな、とも。
『不謹慎な部分もありますが、噂は、この狭い世界の、私の唯一の楽しみですから』
『ちょっとした自慢ですが、私は一度見た人の顔と名前は忘れません。だから、リズさんとノーヴィスさんから同じ名前が出た時は点と点が繋がった感じでした。実は、初めて会った時“この人かー“って思ってたんですよ?』
人のことが好きな彼女にはぴったりの才能だと思った。ただ、少しだけ怖さも覚えたが。下手な悪さは出来ないな、と。
あっという間の時間だった。
彼女の左右に置かれた蝋燭は、いよいよその灯火を終わらせようとしていた。懺悔の後に「そういえば」と、彼女から返された――机の上に置いて開いたままの懐中時計を見ると、針は日が変わるまで残り三十分を切っていた。
ちょうどいい時間だろう······。
そっと、名残惜しい手を離して、右側に置かれた懐中時計をローブの内にしまった。それをしまい終えた頃、
「イルフェースさん」
そう呼ぶ彼女の手は、まだ木台の上だった。
「これから、どちらへ行かれるおつもりで?」
「特には······考えてない」
本当は決めている。家でひっそり死のうと。
しかしそれを尋ねられた時、もしかしたら彼女は傍に来るつもりなんじゃないか、と思い、嘘をついた。やや自意識過剰なのかもしれないが、それでもやはり、彼女ならあり得なくもないと思った。先も述べたが、そんな彼女に俺の死体を触れさせるのは酷。そしてまた俺は、そんな神聖な者に“果てしなく穢れた己“を、ここでの接触以上に触れさせることをしたくなかった。だから嘘をついた。
「じゃあ······世話になった。ありがとう」
彼女は、伏し目がちに黙ったままだった。
しかし、俺が立ち上がった時、
「イルフェースさん」
と、彼女は俺を呼び止めた。
その真剣な目に、もう一度だけ彼女に身体を向けた。
「なんだ?」
「やはり、明日を生きるつもりはありませんか?」
「······幾つもの“明日“を奪った俺が人の命を奪って“明日“を繋ぐのは利己でしかないだろう。だから、考え直すつもりもない」
「そう······ですか······」
彼女は、それ以上引き止める事はしなかった。ただその代わり、何かを思い出したような顔をしては、
「少しお待ちを」
と、台に置いた手を自分のポケットに移す。そして、
「······これを」
祭服のポケットから取り出した物を手のひらに乗せ、衝立の穴からこちらへ差し出した。
「これは?」
「昨夜、子供達と一緒に作ったんです。私のはもう一つ作ってありますから、これをあなたに。私の代わりと思って持っていて下さい。これから旅立つのに、独りじゃ寂しいでしょうから」
衝立に空いた僅かな隙間を通るその手のひらには、複数の丸い石が付いた装飾。その一部には十字架が付いていた。
「······どうして、そこまでしてくれる?」
「リリィさんに夢を与えてくださったあなたに、独りはあんまりですから。それに、私も両親を亡くしてますので、独りの寂しさは知ってるんです」
もう話も終わりだというのに、彼女は身の上をサラリと話した。
「さぁ」
だが、話も終わりだから、話したのかもしれないと思った。自分のことで俺の時間を奪わないために。
「大事にする」
言葉通りにも心で思いながら、手のひらから装飾品を拾った。嬉しさもあったが、心からそう思った。
「送ってかなくて大丈夫か?」
「はい。後の仕事がありますから。お気持ちだけで」
「······そうか」
「残念ですか?」
「······そんなことない。············いや、少し」
「ふふっ。私もです」
「······」
目を細める彼女の真意は分からなかった。
「マリアンヌ」
「はい」
「あんた、行きたい所とかないのか?」
「行きたい所、ですか······」
「そこで、命を終わらせようと思う」
「そうですか······」
「どこかあるか?」
「んー、そうですねぇ············なら、私は海が見たいです」
「······それは、わざと言ってるのか?」
「何がでしょう?」
「俺の力じゃ、今から海までどう頑張っても間に合わない。馬車でも半日だ」
「······ふふっ、慧眼です」
「······」
「でも、海に行きたいのは本当ですよ? まだ一度も行ったことありませんから」
「······そうか。なら残念だ」
「ですね」
「······」
「······」
「ありがとう、マリアンヌ。逢えて良かった」
「いいえ、こちらこそ。イルフェースさん」
最後だけは、余計な一言はなかった。
身体を翻した。
彼女が消したのだろうか、芯が燃えやすかったのだろうか、ドアを開けた際に消えたのだろうか、彼女の右に置かれた蝋燭だけが先に消えていたのを、部屋を出る直前、振り返って最後の微笑を見た時に――ふと気付いた。
月のない夜だった。
満天の星が、これからの死を嘆いているようだった。
俺に、そんな器があるわけじゃないが······。
黒いローブのまま、片膝を立ててベッドにもたれながら見上げていた。家の窓から覗く夜は、本当は明日があるのではないかと思わせるほどに透明だった。しかし、一度だけ赤い流星が見えるも願い事は浮かばず、やはり、明日を生きたいという意志がもうないのだと知った。
だが、それで良かった。
正しい贖罪をするには時間が無さすぎた。
だから、誰かを殺して明日を繋ぐよりも、得られるであろうそれを繋げず、恐怖に耐え、その怖さに震え、本能と理性による苦悩と葛藤を繰り返しながら死ぬのが、今の俺に出来る最大の罰と贖罪だろうと思った。
それさえ、甘えと言われたら仕方ないが······。
部屋の柱時計は、残り十分を切っていた。
立てた膝を両方にして、顔を埋めた。
············怖い。
久々に思い出した感覚だった。
得体の知れない何かが、側を泳いでるような感覚。
······どうして、今さら怖がる?
そう自問した俺に“誰か“が答える。
それが、お前の与えてきたものだろう?
それが、お前の感じなきゃいけない恐怖だろう?
分かってる······。
さっきまで紛れていたのが嘘のように、恐怖は胸の内で渦巻いた。
怖い······。
震える自分を強く抱き締めた。
すると、コトリ、とローブから何かが落ちた。
聖女に貰った装飾品だった。
『私の代わりと思って持っていて下さい。これから旅立つのに、独りじゃ寂しいでしょうから』
それを思い出しては拾い、そのまま胸に強く押し当てた。ほんの少しだけ収まった震えを感じながら、もう一度、深く顔を埋めた。
············怖い。
数十年のように――とても長く感じる夜だった。
目が覚めたのは、必死にドアを叩く音だった。
頭はボンヤリとして、先に晴れた青空を見ていた。
朝、か······。
徐々に覚醒する脳は、そのドアの音を脳に届ける。
······誰だ?
ゆっくりと立ち上がり、玄関の方へ向かった。
何も考えずドアを開けていた。
「······?」
ドアを開けきった瞬間、自分の腰に何かがぶつかる衝撃があった。眩しい朝日が広がる視界の正面には何もなかったが、その視線を下ろすと、そこには黒いワンピースを着る、フワリとした白に近い金色の髪があった。
「······っぐ······えっぐ······」
彼女は泣いていた。
「リ······リィ······?」
どうして泣いているのか分からなかった。
あれ······?
そして、これがリリィだと脳が認識した所で、ボンヤリした頭が急激に醒め、自分のことを思い出した。
俺は、たしか······死んだはずじゃ······。
これは、夢ではないかと思った。
変な夢を見てるのではないかと思った。
あの世ではないかとも、“死“は同じ時間を繰り返す“始め“なのではないかとも思った。しかし、俺に抱き付く少女の感触が、これは『昨日の続き』だと俺に知らせる。
どういう······ことだ······。
俺が生きていること。
彼女がここにいること。彼女が泣いていること。
全てを疑問に思った。
どうして、俺は生きてる······?
結局、制約に踊らされていただけなのか? とも思った。
すると、
「その様子だと······違うな。お前じゃなくて良かった」
右側から声がした。
玄関横の壁にもたれるようにして、彼は居た。
「あんたまで、どうしてここに? それに、その格好······」
彼――医者のマルクは黒い礼服に身を包んで、赤い腫れを目の周りに携えながら煙草を吸っていた。無精髭は綺麗に剃られていた。そして身体を起こすと、吸っていた煙草を捨ててそれを踏みにじり、こちらを向いた。
「口にするのも辛ぇ。だから、端的に言うが許せ」
一方的なその言葉を聞いた瞬間、どうしてか、心臓が鈍い音を鳴らした。森でガルバスの『真実』を聞かされた時よりも激しく。
聞かないほうがいい――そう直感が働いた。
だが、直感は彼の言葉まで止めるに至らなかった。
だから彼は、その“現実“を口にした。
関わりのある誰もが受け入れがたい――その“現実“を。
「嬢ちゃんが······マリアンヌが············昨夜、死んだ」
············は?
右手から何かがこぼれ落ちた。
握っているのも忘れていた、彼女からの“贈り物“だった。
「なん······で······」
複数の丸石と十字架を繋いだ“贈り物“の紐は、たったそれだけで解け、地面で弾けるように珠を散らした。
なんで、彼女が······?
自分の命など、本当にどうでも良くなった。
頭が真っ白で、何も考えられなかった。
どう······して······。
静かな町の外れで、堪えられなくなったリリィの泣き声だけが、しばらく大きく響いていた。
次回から最終章です。




