92、告白
協会の広間は、昼に金を下ろした時とは違って静かで寂しく、流行らぬ酒屋のようだと思った。その奥へ続く道は燭台の薄明かりのみで、魂が作る通路にも思えた。最奥にある格子の付いた鉄扉は、開けてはいけない扉のように思えた。扉の中――その部屋はほとんどが暗く、透明な仕切りの向こう側に左右一つずつの燭台があるだけだった。そして、
「お待ちしてました、イルフェースさん」
彼女は、その仕切りの向こうに微笑で座っていた。
◇
『出来れば時間に囚われず、誰にも聞かれない場所だと嬉しい』
『でしたら、協会の受付が終わる夜10時。その時間で宜しければ』
◇
ベールを被る――祭服の彼女が用意してくれた時間と場所は、営業が終わった協会の中。奇しくも、あの“懺悔室“のような部屋だった。
“懺悔室“に入って最初に抱いた印象は、奉られるような触れてはいけない“神聖な何か“の前に自分は居るんじゃないか、だった。しかし、その“神聖な何か“は「10分遅刻ですよ? 男性が女性を待たせるのはタブーなんですから」と、俯き加減で冗談を、安心したような微笑で、自失気味の俺に言った。まるで、暗闇に浮かぶ道標のようだった。
「どうぞ、お掛けになって」
初めてここへ訪れた時と同じように、彼女はそう言った。少しだけ寂しさを覚えた。以前その前と訪れた時は、俺の背後に白い光が差していたが、今しがた抱いた寂しさが“その光が無いからではない“のは、堰が切れそうな罪悪感と、夕刻を迎えてから誰に向けたでもない殺意の衝動の中で、この時間が来るのを耐えている内に知った。だから――、
『彼女でも出来たら淹れてあげなよ。きっと喜ぶよ』
この部屋に入った時、改めてそれを自覚し、一方的でやや形も違うが、紅茶をくれたリズの願いは叶っていたのかもしれない。と、彼女を見てそう思った。
「どうかしましたか?」
「······いや、何でもない」
そうして、死者がぶら下がるような鈍間な身体をなんとか動かし、椅子に腰を下ろした。元より、透明な衝立が乗る大きな木台で、腰より下が見えなかった彼女の身体がより一層見えなくなった。しかし、衝立の向こうに居る、小首を傾げる彼女の微笑は変わらない。窮屈な身体が、少しだけ安らぐのを感じた。
······今さら、色恋か。
すぐに言葉は出なかった。椅子に座ってから、より喉が強く絞まり、彼女に“罪“を告白するのが、孤児院で約束を取り付けるより怖く感じた。
ここまで来たのに、言わないでどうする······。
ほんの少し、口を開くだけだろう······?
ここに来るまで、逃げようと思えば何度だって逃げる機会はあった。寿命のために人を殺そうと思えば、死刑囚だっていつものように殺しに行けた。
しかし、今日はまだ“それ“をしていない。だから――、
何をやってる······。
竦んだように言葉が出ない、情けない自分を強く心で叱った。
手が······震えた。
すると、
「大丈夫ですよ」
マリアンヌが、台に置いた俺の両手を、衝立に空いた僅かな穴から自分のほうへそっと引っ張った。知らず知らず握っていた拳の力が自然と開くように緩んだ。彼女は、その緩んだ手を優しく包むよう自身の両手を重ねると、
「時間は、まだ沢山ありますから」
笑顔でそう言った。
今朝にも感じた優しい温もりだった。
そうだ······俺は······。
この温もりに負けて、この優しさに触れたくて、救われたくて、ここまで来たことを思い出した。だから、あの孤児院で約束をしたのだと。この彼女なら――本当の聖女のように純朴なこの彼女なら、俺がずっと抱えてきたこの苦悩の根源を理解してくれるんじゃないか、分かってくれるんじゃないか、救ってくれるんじゃないか――そう思っていたことを思い出した。
「······」
嫌われても仕方ない。俺はそれだけの罪を犯した。だから、今さらそれ以上を求めるなんてどうかしている。俺にはその権利なんてあるわけが無い。だからせめて、僅かな理解を······いや、いっそ罵られてもいい。軽蔑されてもいい。ただ『誰より清らかに思えるこの存在』に、俺の、自分の、【死神】の、この――決して癒えぬ、俺の苦しみの全てを、聞いて、覚えていて欲しかった。
······そうしたら、決心がつく気がしたから。
命に、終わりを迎える決心が――。
「······」
「······」
「··················マリアンヌ」
「······はい」
「俺に······ガルバスって友人が居たこと、知ってるか?」
「······はい。ノーヴィスさんから、伺ってます」
「······その、友人が殺されたことは?」
「それも······一緒に」
「······そうか」
怖い······。
「··················マリアンヌ」
「······はい」
「······その友人······俺の友人······ガルバスを······俺等の仲間の一人を············ガルバスを·············あいつを······殺したのは························俺なんだ······」
「······」
「俺が······この手で······あいつを············ガルバスを··················斬り殺した············」
「······」
「あんたも知ってる“死神“だってそうだ············全部············全部俺だ······。全部······俺の仕業······。あんたがいま握る······この手で············いくつもの死刑囚の心臓を······何度だって············止めてきた······。周辺国の、奴等のだって············そうだ······。全部······俺が············俺が··················自分のために··················その命を奪ってきたんだ············」
「······」
「全部······俺が殺した······。全部······俺が············。全部······全部······山賊······国王······女王、まで······全部············俺が······」
「······」
「みんな殺してきた······。きっと············消すべきでない命まで······きっと··················。全部······その命を終わらせたのは············殺したのは······全部························俺なんだ············」
罪を告白して、目を伏せた。
一度収まったはずの手が、再び震えた。
そして、
「そう、でしたか······」
涙ではない、罪の告白から生まれる――視界の黒のローブをぼやけさせる虚脱感の中で、弱々しくなる彼女の声を聞いた。
これで······いいんだ······。
手を放されるかもしれない。穢れたものを落とすよう手を払うかもしれない。退くよう椅子を倒して立ち上がるかもしれない。それとも······俺を、殺しに来るかもしれない。
様々なビジョンが浮かんだ。
けれど、もう、それでどうなって命が終わろうと構わなかった。死への恐怖は消え切らず残ったものの、全ての重荷が、心の底から――全身から抜け落ちたように力が入らなかった。身体の感覚が無いかのように麻痺した。しかしそれを差し置いても、やはり彼女のほうには目を向けられなかった。
怖がっているのか、軽蔑しているのか、怒っているのか、どんな顔なのかも想像が付かなかった。ただ、想像するのが怖かった。見るのが怖かった。この脱け殻のような、虚無の具象をした身体が仮に動いたとしても、今、自分から顔を上げることだけは決して出来なかった。
流石に······怖がるか······。
逃げることも目を合わせるのも叶わなければ、どうすることも出来ない暗黒の虚無の中で、物音一つ聞こえぬ部屋の中で、己の消えそうな声を聞いた。
でも······これでいい······。
瞼が重く感じた。頭も重く感じた。しかし妙にも、眠るような安心感があった。僅かに空いた飾りのような目が映す景色は、より視界をぼやかせていた。
このまま······。
目を閉じて、終わりを迎えようと思った。
心を無にして、終わりを迎えようと思った。
だが、
「イルフェースさん」
彼女に名前を呼ばれ、閉じかけた瞼が――意識が、僅かに戻った。ぼやけた視界が形を取り戻していく中で、俺は無意識にも、その柔らかい声音の方へ、ゆっくりと顔を上げていた。そして、
――目を見張った。
「今まで」
彼女は哀しそうな眼だったが、
「ずっと、我慢していたんですね」
怯える様子はなく、
「本当に、辛かったでしょう」
柔らかい微笑をしていた。そして、そっと目を瞑ると、
「よく、頑張りました」
両手を優しく握ってくれた。
とても······とても温かい、小さな両手だった。




