88、医者と解離
次の瞬間には、水溜まりの中へ投げ出されていた。
頬が痛み、口の中が少しだけ苦い味がした。
「さっきから聞いてりゃ拾った命に責任も感じねぇで、何様だ? お前。まるで、あの娘を何とも思ってねぇような口振りじゃねぇか」
右手を軽く振る医者は雨の中を歩いて、そしてロープの襟を掴んだ。普段の気だるげな面影はなく、その目には疑いとは全く違う、静かな怒りの色が込み上げていた。
「昨日のお前にはまだ誠意があった。あれは演技か?」
何も思わなかった。だが――、
「······違う」
“それ“に嘘がない事は覚えていた。
「じゃあなんだ? その仕方なく迎えに行くみたいな態度は」
「······」
「······ちっ」
突き飛ばすように襟を放され、俺は再び泥水の中へ。医者は身体を翻すと、玄関で心配そうにこちらを見ている看護師のほうを歩いた。そして背を向けたまま、
「あの娘等がどこに居るかは検討付いてる。だが、今のお前にそれを教えてやるつもりはねぇ。そのどうしようもない頭が冷えたらもう一度呼べ」
「待て······」
――あの女は、人間を売り買いしている。
そんな言葉が、心の暗い奥底から、何も知らない医者への苛立ちと共に浮かんだ。――だから、玄関へ足を踏み入れようとする医者に、
「誘拐されたんだ、あの女に」
人が良い医者がショックを受けるだろうと、敢えて言わなかったその事を口にした。次第に強くなる雨に届かないかと思ったが、その声はかろうじて、玄関に入ろうとする彼の足を止めた。
「······なに?」
雨が染み込んで重くなったローブを身体に感じながらゆっくり立ち上がる俺のほうへ、医者は少しだけ首を動かした。
「あの女は、ラプスロッドで人を売買していた。遠目だったが間違いない。あの女だ」
ラプスロッドでリリィを拾ったと思われても構わなかった。あの女がそこにいて“人間を売買した“という事実が伝われば。
医者は、首をそのままに静止していた。
表情は見えなかった。だが、しばらくして――、
「······それが、お前が嬢ちゃんを、恨みでもあるよう“あの女“って言う理由か?」
怒りが消えぬその言葉は、あの日の恩さえ忘れたか。と言っているようにも聞こえた。確かにリズの件で恩はある。しかし、それはそれ、これはこれとしか思わなかった。
「あぁ。そういった人間が俺は嫌いだ。俺はあの女に“リリィを家に届けて欲しい“と頼んだ。いま家に居ないなら拐われたと考えられなくもないだろ」
「······お前、自分が滅茶苦茶なこと言ってんの分かってんのか?」
「滅茶苦茶?」
「なんで、そう思った相手にあの娘を預けてんだって言ってんだ。普通、それなら他の奴に頼むだろ」
「それは······」
俺は、人を殺しにいくためにリリィを預けた。
そして、それはすぐに済むと思っていた。
「あの小っちゃい娘を蔑ろにしてるかと思えば、心配らしい理由を付けて連れ戻そうとしたり、訳がわかんねぇ」
しかしともあれ、医者に言われるまで、どうしてとも思わなかった。何故、あの時、この医者へはともかく、もっと別の他人に預ける――その考えに至らなかったのか。急いでたのは分かるが、そんな手間も取らないことを。
何故、俺は、あの女にリリィを預けた······?
あの時から“死神“に飲まれていたのか。
そんな余裕も無かったのか。
そんな事が頭を巡ると、
「何も分かってねぇ、お前は」
医者はそう呟いて、傍の心配顔の看護師に何かを言った。一言、二言会話すると、渋りながら首肯した看護師は走って奥へ消えていった。
「ただ、それを置いても、あの娘を置いて寝てたなんてのは俺個人として許せねぇ。誘拐するような人間が嫌いだとお前は言ったが、俺はお前みたいな人間が嫌いだ。そうやって、引き受けた命を無責任に扱う人間がな」
それを言い終えた頃、奥に消えた看護師が畳まれた白衣を持って帰ってくる。医者はそれを着ると、
「ついてこい。その腐った頭治してやる」
まだ闇が明けぬ小雨となった雨の中を、傘も差さずに歩き出した。




