87、夜盲
鬱蒼とした真っ暗な森の隙間から霞んだ三日月が覗いた時、それに魅かれる蛾のように、空を飛んで家へ帰った。日付は越えていた。歩き続けた疲労だろうか、嫌でも訪れた睡眠が、何を考えさせるでもなく俺をベッドに誘った。ローブのまま眠った。
目覚めたのは、まだ暗い朝だった。
とても長く眠った気はするが、心身の疲労は微塵も取れていなかった。夢の中で、屍の姿で歩く友人の四人を見た。全身から血を流していた。山賊の頭もいた。王も双子もいた。生き死にに関わらず、出会った人間のほとんどがゆらゆらと黙って歩き、屍となって俺に詰め寄った。だが、顔が触れそうなほど近くまでそれが来て、ガルバス、グレイナ、ノーヴィス――そしてリズの目が同時にギョロリとこちらを捉え「人殺し」と言われた所で目が覚めた。
嫌な夢だったと思う。
だが、動悸も寝汗もなかった。静かな目覚めだった。
肉体が腐敗して、骨だけとなって枯れてる気がした。
ただ――そのおかげもあったかもしれない。
筒抜けの頭が、預けたままの“彼女“を思い出した。
そういえば、居ないな······。
死者が絡みつくような重い身体を動かし、なんとかベッドから足を出した。昨夜のぬめりが右手に戻った。しかし、いま以上の感情は浮かばなかった。徐に持ち上げた右手を下ろし、顔を上げた時、ある物が無いことに気付いた。
一緒に持っていかれたか······。
シーツを掛けておいた“娘の母親“が居なかった。“あやかしの市“で、あの女を見かけた事を思い出した。
あいつも、片付けなくちゃならないな······。
探偵の件で救われたこともあったが『あんなのは単なる偶然に過ぎない』そう思って、重い腰を上げた。外は雨模様だった。
そこに付いた頃から、雨は降り始めていた。
叩き付けるような雨だった。
「誰だ、こんな時間にやつれた顔の奴って、急患か?」
看護師に呼ばれて木の玄関から出てきた彼は疲れた顔で、相変わらずの無精髭、ストライプが入った水色のパジャマだった。そして俺を見るなり「んだよ、お前か」と言って、つまらなそうに空を一瞥。「通り雨か」と小さく呟いた。
「どうした?」
「あの女――マリアンヌの家を教えて欲しい」
「嬢ちゃん家?」
彼は左眉をピクリとさせる。
「どうしてまた?」
「用事があって協会へ行ったが閉まってた。時間も時間だし当然かもしれないが······。ともあれ、どうしたものかと考えている内にここへ来た。あんたなら場所を知ってるんじゃないかと思って」
実際、協会には先に訪れている上、そこに人が居ないことも確認していた。付け加えるとしたら【透過】を使って、念入りに中を検めた程度。あの女もリリィも居なければ、不審な物影も一切なかった。
「ふーん」
医者は、怪訝にこちらを睨んでいた。――が、「はっ」と軽く笑うと、
「お前、非常識も甚だしいぜ? 女の家に明るくならないうちから行こうだなんて」
呆れたようにそう言って雨が濡れない程度の玄関内へ俺を招いた。
「そんな関係じゃない」
「分あってるよ。ただ、ちょっとぐらい常識弁えろって話だ。モテるモテない以前の問題だぞ?」
「心に留めておく」
「響かねぇなぁ······。まぁいいや、――で、嬢ちゃんに用事ってのは何だ? 急ぎか? 渡す物とか伝言程度なら引き受けてやるが」
説教を聞きに来たつもりではないこと。こんな時間に訪れたのだから“それなりのことだろう“と、彼は理解しているようだった。そして俺は、
「ちょっと、リリィを探してるんだ」
何気なく言った。本当にその程度に。
「――あ?」
「あの女に預けたままだったのを忘れていた。だから、引き取りに行きたいんだ」
「こんな時間まで忘れてたってのか?」
「疲れて眠ってた」
「“眠ってた“だ?」
「あぁ。それで、さっきようやく思い出して――」
どうしてそうなったのかは、全て、後で理解した。
淡々とした俺の言い方も含め、それが、
「お前、ふざけてんのか?」
彼の逆鱗に触れたことは。




