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86、叶えられた願い

 どれほど歩き回ったか分からない。


『初心者の森』をさらに奥へ進んだ、心のように出口が見えない鬱々とした、日の射さないほどの森の中をどこまで彷徨さまよった。度々魔物が現れ、その都度、身体に傷を作ったり手足を噛み千切られたりした。痛みを久々に思い出した。しかし――どれもすぐに治った。今や染み付いた動作が、自然と身体を修復した。そしてまた歩き続ける様は、操り人形のようだった。


 途中、顔も知らぬ一人の男に出会った。彼は死にかけだった。足が折れ、背中に三本の深い傷を作り、左腕のない彼は、傍らに血の付いた斧を落としていた。なんらかの理由でここにいたが、魔物の襲撃を受け敗れたのだと思った。


 それを横目に見るも、通り過ぎようとした。


 だが、焦点の怪しいその虚ろな目が「た、の······む······」と、しゃがれた声で俺を呼び止めた。「助けてくれ」と言われると思った。だが、自身は直せても人を直す力は俺には無い。だから、どうせ連れて帰っても間に合わないと思った俺は、


「諦めろ」


 それだけ言って去ろうとした。しかし、


「た······のむ······ころ······て······くれ······」


 それには少しだけ眉が動いた。

 絶え絶えの言葉だったが、確かに聞き取れた。


 男が言ったのは、


「助けてくれ」ではなく「殺してくれ」だった。


 踵を返し、男の前に立った。


「それなら叶えてやる」

「い、た······い······。くる······い······はや············ころ······て······」


 自分でももう、助からないと感じているようだった。ただそれ以上に、刺すような、火傷したような、鋭く、そして鈍い痛みが全身を襲っているのだろうと思った。放っておけば間違いなく、数分後には死んでいるだろう――とも。


 右を向く、男の傍らへ座った。


 俺より若く見える――血の池に浮かぶ男の顔は端正なものだ、目と鼻から零れた水のせいで、それはお世辞にも綺麗とは言えなかった。眼球を動かすのさえ、もうままならないよう。しかし、何か言おうと息が、ヒュー、ヒュー、と空気を漏らす。


「もういい、黙ってろ」


 男の心臓に、そっと手を伸ばした。


 あの夜見つけたのが、こんな男だったなら違っていたのだろうか――それが頭を過った。


「我慢しろ、最後の苦しみだ」


 男の心臓が脈打っているのが分かった。弱々しかった。それでも俺には、その拍動する生温かさは、本当は生きたいと言っているように聞こえた。だから、


「許せ」


 そう言って潰れぬ程度に、ギリリ、と拳を握った。

 声にならない声を男は上げた。


 数秒後、痙攣したその鼓動は鳴りを潜めた。


 新しく、胸に苦痛が残った。

 どんな命よりも重く感じた。


 “あの夜“――本当はこれを望んでいたはずなのに。


 殺しても感情は動かなかったが、吐きもしなかったが、それでもそう感じた。


 そして、立ち上がった時に気付いた。


「······なんで、お前は笑ってる」


 俺が殺した男は安堵したように、醜い涙も、鼻水を流しながらも、それを待ち望んでいたかのように、虚ろな目を開けたまま薄っすらと笑っていた。

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