78、黒の手帳
話の腰を折られる、戦意を欠かれるというのはこういうことを言うのだろう。
「大丈夫ですか? 医者をいま呼んで――」
「いや、必要ない······」
グレーの帽子にグレーのロングコートの男は蹲って咳き込んでいた。まるで、肺に入った異物でも吐き出すかのように。血はなかった。
何をやってる······俺は······。
かつて自分が救われた時の笑みを見た時、割った花瓶を咄嗟に隠してしまう子供のような、情けなくもそんな気持ちになり、再び、解除した指の一部を【透過】して腕を下ろしてしまっていた。男の傍らにいる【聖女】と同じように屈まぬ限り、死を齎す俺の手は二度と奴に届きそうもなかった。
「ゴホッ、ゴホッ······ちょっと、変な塵でも吸ったんだろう······。ゴホッ······もう、大丈夫だ······」
背中に触れようとしていた【聖女】の手を、掌で静止する男はゆっくりと立ち上がる。直前の異常な咳は止まっていたものの、小さな咳は、まだ収まっていなかった。
「コホッ······コホッ、コホッ······。今回は予定が狂った。不本意だが、今は引こう。コホッ······。だが、今日中には必ず決着を付ける」
そして男は、紙袋を持った戸惑う女性店主に「迷惑掛けた」と言って紙袋を受け取ると、すれ違いざま、小声で俺に言葉を残して去っていった。度々(たびたび)、自分の口元へ手を当てて、咳き込みながら。
紙袋を受け取った俺は、パンを買う【聖女】に呼び止められていた。
「初めて見る方ですが、お知り合いですか?」
「いや······」
男店主とやり取りしながらも話す彼女はスムーズにそれ等を終えると、列を離脱し、側に寄ってきた。
「そうですか、変わった御方ですね。ともあれ、お互いただならぬ雰囲気でしたから少し見守ってましたけど、あまり多くの人に迷惑掛けては駄目ですよ?」
ラプスロッドの事を思い出した俺は敵意を剥き出しの目を向けていたが、【聖女】は以前話した時と変わらずの微笑で、優しい口調だった。そうやって叱るのは無神経なのか、それとも俺など取るに足らない存在なのか、どちらとも判別がつかなかった。
「見てた感じだと、イルフェースさんは悪くなさそうだったんですけどね。そのクマが気に食わなかったんでしょうか?」
キョトンとした顔で的外れなことを言うが、恐らくそれはわざとで、場を和ませようとするものに思えた。
「ちゃんと寝なくちゃ駄目ですよ? そんなので因縁つけられては街も歩けませんから。マルクに治してもらってはどうです?」
「······あぁ、そうだな」
「ふふっ、今日はちょっと不機嫌ですね」
人さらいのあんたが、そうやって笑ってられる神経が俺には理解出来ないからな······。
「しかし、もう一つお聞きしてもいいですか?」
「なんだ? 手短にしてくれ」
「そちらの可愛いらしい御方は?」
その視線の先には少女――俺のローブの影に隠れるリリィが居た。僅かに顔を覗かせて【聖女】を見ている。
「こいつは――」
あぁ、くそっ······。
俺はこの女よりも、あの男を早い内に片付けねばならないと思っていた。それで奴が向かった方向、今日の依頼受託の断念、娘をまた病院に預けに行くべきかなど悩んでいた。ほんの少し前に病院を出たばかりで預けに行くのは不自然。医者の機嫌取りなんてものは全くなく、出来るなら、今ここで起きた話題があるために不自然を作りたくなかった。目立ちたくなかった。
そんな事を頭に過らせていると――この女の質問。ラプスロッドにこの【聖女】が居たことを知っている俺は、この言葉がリリィを拐う前の下拵えにしか聞こえなかった。
「この娘は親戚の娘だ。あと少ししたら引き取りにくるんだが、パンが珍しかったらしくて寄ったんだ」
ひどい嘘で固められてるが構わないだろう。パンなんて街なら何処にでもある。だがこれで、人見知りのリリィが間違っても「違う」と言わない限りは、拐うなんて無茶な考えには及ばないはずだ。この【聖女】がここに居る理由を、かつて俺の所へ来た際『昼休憩』と言っていたのを思い出しての苦肉の策だった。
「へぇー、そうでしたか」
それが通じたのかは分からない。
彼女は、変わらぬ柔らかい微笑で、自然に膝を曲げてリリィと目線を合わせていたから。
「初めまして。私はマリアンヌです。あなたのお名前はなんて言うんですか?」
「············リリィ」
「リリィさん、素敵なお名前ですね。その明るい髪もフワリとして可愛いです」
その瞬間、たったそれだけで、リリィの警戒が少しだけ解けたのを感じた。目が丸くなっていた。母親に呼ばれた名前、母親譲りの――切ってもらったであろう髪を褒めてもらえたのを“嬉しい“というのが、ハッキリと俺にまで伝わった。
まずい······。
これ以上は【聖女】の甘い言葉にリリィがついていく危機を覚えた。その可能性が生まれそうだと思った。
「もういいか? 俺もあんたもパンが冷めるぞ?」
「ん? ふふっ、そうでした」
そして【聖女】は「またお話しましょう?」と娘に言って立ち上がる。
これで、ひとまずはいいはずだ······。
後は、適当に受け答えをして理由をつけて【聖女】が去るのを待つだけ。そうすれば、家にリリィを置いてあの男を探して殺しに行くだけだった。
そう――。
それだけだったのだが、俺のローブをグイ、グイ、と引っ張る手がそれを邪魔した。
「なんだ?」
「これ······あの人が落としてった」
彼女の小さい手には、一つの黒い手帳が乗っていた。俺は彼女の手より少し大きいその手帳を取って開く。
············っ!? あの男······!
そのメモの最初は、ちょっとした遺書になっていた。『もし、自分が死んだ時は俺が最後に話していた奴を調べて欲しい。俺はそいつに殺された』と。
もし、あの時殺していれば面識は無くとも、間違いなく俺は殺人の容疑を掛けられていた。そしてそうなれば、衛兵等に聴取されるのは間違いない。聴取されれば【職業】の武器を検ためられる。また、あのブルーの身分証で【職業】の確認も。
くそっ、あの違和感の正体はこれか······。
奴は、確信に近いほど俺が“死神“だと踏んでいるにもかかわらず、相討ち覚悟で近寄ってきた。あいつの目の前に居たのが“命を刈り取る存在“だというのに、まるで命を差し出す行為をしていたから違和感を覚えたのだ。それをいま知った。
俺は、危うく奴の罠に嵌まる所だったのか······。
あの時【聖女】を誰よりも憎く思えたが、奇しくもこの女に命を救われていたことを知り、複雑な気持ちになった。だが、自分の悪運の強さだろうと思った。かつて拾われた命ではあるが、今回のはどう考えても偶然だろう、と。
「どうかしました?」
「い、いや······」
また、俺の掌ほどのその手帳には『死神』『死刑囚』『透明』から『ガルバス』『ラプスロッド』まで、俺に繋がることが幾つも単語でメモのように書いてあった。
本当に······俺は、悪運が強いかもしれない。
これを少し身長差のある聖女より先に見たこと。
そして、その極め付きはページを捲った先。
『失敗すれば“G“を殺した森へ行った後、証拠を見つけ“死神“を告発。間違いなくそこに“アレ“は残ってる』
と、書かれていたことだった。“G“はガルバスに違いなかった。そして、そのページより先は真っ白。つまり、これは最新のメモと言える。
ふっ、ふふっ······。
奴は間違いなく『初心者の森』へ向かっていた。その一つ前のページには『隙があれば直接接触。あんな存在は、早く終わらせないといけない』と書かれていた。それはここ――協会前のことだろう。奴はどこかでずっと俺を見張り、接触してきたに違いなかった。
『また会おう、死神』
男と、すれ違った際の言葉を思い出した。
クックックッ······。
どうやら、再会するのは“お前の想像“とは違う場所になりそうだ。
「あの、宜しければ協会で預けることも出来ますので、それでも――」
「いや、俺がこいつの居る宿に届けてこよう。泊まっている宿がちょうど書いてある。だから――」
そこまで言って、俺はハッと言葉を止めた。『届ける』と虚言を述べ、あの森で奴を殺そうと考えていた――のだが、
足元にはまだ、ローブを掴んでいる娘が居た。
あぁ、くそっ······。こいつをどうする?
あの森はそう遠くない。急げば往復で20分足らず。また【聖女】に待たされたせいで、奴が歩き始めてから10分は優に経っていた。時間はそうない。
また、あの森は法治下にはないが、ルグニスへ奴が戻ってしまえば話は別。殺し方によってラプスロッドの女のよう跡形もなく殺すことは出来るが、あの森で死んでも『誰も調べるも疑われるもしない』。その点を生かさないわけにはいかなかった。
とりあえず、この娘を家に置いてくるか? あの医者? ······いや、どちらも駄目だ。家までのロスも医者へのロスも避けたい。ならどうする、考えろ·············待て、さっき自分で言い掛けた事があるじゃないか。それはどうだ? それなら俺は間違いなく森へ行ける。だが、いいのか······? いや、この娘が居なければ何の戸惑いも生まれない。それにさっきだってそう決めたはずだ。迷ってる時間もない、構うものか······!
「あんた、昼休憩はどのくらいなんだ?」
「えっ? んー、40分ほどでしょうか。時計を持ってないので正確には分かりませんが」
「なら、ちょっと一つ頼まれてくれないか?」
「――? なにをですか?」
「この娘をウチに届けてほしい。一緒にパンを食べてくれてたら助かる」
「別に構いませんが、宿に向かうだけならイルフェースさんと御一緒でも宜しいのでは?」
「そしたら昼が遅くなる。この娘はパンが食べたいそうだが、どうせなら早い内の方がいいだろう?」
「まぁ、それは確かに」
「そういうわけだ、頼む。紅茶も好きに飲んでくれていい」
「······仕方ありませんね。分かりました」
そして【聖女】は「お姉さんとお昼一緒でもいいですか?」とリリィに尋ねる。彼女は、俺のローブを掴みながら小さく頷いていた。
よし······。
心でそっと笑っていた。
ここに居る二人とは、別の意味で。
これで、奴を殺しに行ける······。




