77、対立
こいつを······殺すか······?
首に『見えない刃』を当てられている俺は、かつてない焦りを覚えていた。一人ならこんなに苦悩はしなかった。
いや、こんな人の多い場所で殺すのはまずい。【ピンポイント】で······。いや、スキルは駄目だ。リリィは俺がやったとすぐに分かる。口止めをする前だ。周囲が彼女に何気なく尋ねた際、何を話し出すか分からない。危険だ。そうなったら協会の出入りがしづらいどころか、俺が【死神】だと暴露するようなもの。投獄かこの国を出るしかなくなる。だが、そしたらこの娘はどうなる? ······いや、何を考えてるんだ俺は。会ったばかりのこの娘なんてどうなろうと構わないだろう? 放っておけ。······だがしかし、
「どうした? そんなことを聞くのも駄目か? ちょっとした世間話だろう?」
くそっ! とりあえず、今は【幻覚】で······。いや、それも駄目だ! 口封じには到底及ばない! 【幻覚】の最中でも言葉は周囲に伝わる。こいつが“アレ“で正常で居られるとも、信じる者がいるとも限らないが、ただ、こいつの考えを口にされるのは恐らく不味い······。だが、ならどうやってこいつを······? いや、待て。そもそもこいつは“普通の人間“じゃないのか? 少なくとも俺にはそう見える。“お前“はそれを殺していいのか? その境界線を越えていいのか? そこだけは分別してきただろう? 何のために、これまでそうしてきた?
「聞いているのか? 顔色が悪いぞ? クックックッ······」
いや、構うものか。どうせ捕まれば明日には死だ。生きてなければ意味がない。生きてなければ、何も······。······························そうだ。今更、たった一度の殺人を増やしたところで何も変わらない。そして幸い、ローブは指が僅かに見える程度。目の前で直接消せばいい、こいつの命を。軽く動いた拍子にでも腕を消せば【透過】もバレないだろう。【部分透過】が使われてるなど、誰も微塵も思わないだろう。それだけゆったりしたローブだ。そして心臓じゃなく肺。肺を狙えば、病気か何かだと思わせられるはずだ。これで口封じも同時に出来る······俺の疑いも遠くなるはずだ!
「いや、あんたの言った『七歳――』ってのがどこの国のことだったか考えていてな」
「聞いたことあるはずがない。ダグニスでもラプスロッドでもない、文化を伝える術も心も未熟な、もっと遠い、遠い小さな島国の事だ」
「俺がそこに行ったことない証拠でも?」
「あぁ。あんたには教養が無さそうだし、そんなものより別の言葉にひどく反応した。まるで、罪を犯した豚箱連中のように」
「なに?」
今だ。
侮辱を織り混ぜたこの言葉なら、奴に近付いても不自然ではない。
「あんた、さっきから喧嘩を売ってるのか?」
「クックックッ、そう見えるか? そんなことはないんだがな」
よし······。
誰も――こいつさえも気付いていない······。後はゆっくり······ゆっくりだ······。ゆっくり腕を持ち上げろ。指先の皮一枚よりも薄く神経を集中させろ。全てをそこに······。余計な血を付けぬ為に······。
「あんた、知らないうちに敵を増やすタイプだろ」
だが······、
「俺もその一人だ」
なんだ? さっきから漂う違和感は?
俺は、この男の右肺があるであろう所に手を翳し、後は瞬時に一部の【透過】を解いて、掻き潰すようにその肺を抉るだけだった。まだ触れてないはずなのに、そこに入ってくる男の呼吸が――気味の悪い生温い何かが、手に纏わりついているような気がした。
「じゃあ、夜道は気を付けなくちゃな。一度背後から刺されたこともあるんだ。クックックックックッ。······それより話を戻そう。あんたの“連れ子“に尋ねていいものかどうか」
かといって、これ以上迷っている時間はない。
······構うものか。
どちらにしろこれは、今ここで辿り着いてしまう末路。決着を付けなければならない案件。今ここで無視をすれば、奴を見逃せば、どこで吹聴されるか分からない。逃げた山賊の奴と違い、こいつのはいずれ、もっと危険な、俺の命まで届きそうな噂をバラ蒔く――そんな気がしていた。
だから······こいつは殺さなくちゃならない。
「好きにしろ。どうせ全てお前の妄言だ」
「妄言かどうかは尋ねないと分からない。真実ってのは、いつも奇妙な形をしているものだ」
「へぇ。なら、その真実とやらを知りたいものだ」
ただ、それさえも言えるのならな······。
「いいだろう、真実はすぐ明らかになる。ただ、本当に妄言だった際には謝ろう」
「あぁ、そうしてくれ」
直後、俺は集中した――指先の皮よりも薄い一部の【透過】を解いた。そして引き裂くために腕に力を込める。
戯れ言は終わりだ······。
腕を力の限り、振り下ろそうとする。
――が、それをしようとした刹那。
「あのー、すみません」
不意に、優しく耳に残る声が響いた。
思わず、その聞き覚えがある声に手を止めてしまった。
なんで、お前がここに居る······。
「後ろが控えてますので、どうか別の場所でやってもらえませんか?」
俺等の横には、あの【聖女】――マリアンヌが立っていた。
列後方に広がる全ての不満を背負うように立っていた彼女は、あやかしの夜とは違う、この国で何度も見てきた、おっとりとした、あの変わらぬ微笑をしていた。
「私も、お腹が空きました」




