64、インディゴの痛み
怒りは覚えていたものの、彼女を責めきれるものではなかった。それは、俺には途中から、その匂いの“正体“が“分かりつつあったから。
どうしてガルバスが“それ“を纏っていたのか。どうしてグレイナは“その匂い“を彼女に感じたのか。どうして、俺にまで“濡れるような匂い“を感じたのか。あの、仲違いした日から変わった事と、俺等三人の共通点は一つしかなかった。
······人殺しの匂い、か。
どうやって彼女がそれを感じるかは分からない。彼女言う通り本能的なものだろう。はたまた、スキルの残滓の可能性もあるが······。
けれど、グレイナがリズにその匂いを感じたのは、彼女自身の吐息に違いないと思えた。人は、自分自身の匂いには鈍感だが、何かを通して遅れて来たなら別だ。その類いではないかと。例えば、肺に入った空気が少しだけ遅れて戻ってきたとしたら······。
また、どうして彼女が、ここへ入った俺に振り向きもせず気付くことが出来たのか。それも、俺が囚人を殺してきたばかりだと考えれば理由がついた。匂いが濃く現れていたに違いない。そのため、昨日はすぐに気付かなかった。
つまりは、本当に――、
死神だな······俺は······。
これは“あの日“から連れてきた災厄だった。
あの夜、ガルバスを殺さなければこんなことにはならなかったはずだった。あの時、俺一人の命さえ差し出せば“こんな悲劇“は生まなかったはずだった。
「······」
どうして昨日、彼女が“リズの事を好きなのか“と尋ねた理由も分かった気がした。
「······お前、後悔してるだろ」
髪をいじる、彼女の指がピタリと止まった。
「仲間が欲しいだけじゃなく、その苦しみから、救われたいんだろ?」
俺自身が過去に後悔した時、ようやく、今までの彼女の言葉は、後悔と自責の念によるものだと気付いた。昨日、ここで会ったばかりの冷淡な口調も、平然とした態度も、全てが裏返しの言葉だと分かった。
これは、彼女が俺に教えた――“得意な嘘“だと。
『嘘の鉄則は事実を半分入れること』
ダクニスの検問で思い出した事だった。
嘘には事実を混ぜると真実味が増す。
真実は“絞殺から匂いの部分“だろう。
しかし――、
ならどうして“そこ“を真実にしたか。都合の悪い部分を、普通の人間なら隠すはずだ。
その答えも、もう――見えていた。
全ては“自戒の念“を出さないため。悟られないため。そして、そうすることで、俺に、
“自分自身“を殺させるため――。
それ以外になかった。
手を下ろした彼女は何も言わなかった。しかし、その顔は諦めのようなものが見えた。悟ったのだろう。俺の言わんとすること読み取ったのだろう。
「人を殺した奴が、並の苦しみを持たず死ねると思うな」
こいつの胸中全ての苦しみは分からないが、死にたいほどの感情なら昨日味わった。殺したほどの憂いならここ数日で、嫌というほど味わった。それだけは、俺も理解してやれる。
······感情が落ち着いてなければ気付かなかった。でなければ、揺るがずに在ったこの“本音“を見抜けなかった。あの昼のことがなければ、きっと、俺は怒りと制約に身を任せ、今頃、こいつの心臓を握り潰してたことだろう。
しかし俺にも、こいつには言えない秘密がある。こいつが、心の底から憎しみを覚えるであろう秘密が。
本心では、それを復讐のように打ち明けてしまいたい。リズと同じようにこいつを殺してしまいたい。いや、それ以上にひどく、こいつを······。
だが、そんな穢れに塗れた私怨よりも、今は、それよりも今は、そんなものより今は――、
「お前の願いに応えてやるなんてのは、裸で懇願されても絶対に御免だ。ふざけんな」
それ以上に優先しなければならない事があった。
『イルは、皆と同じ、大事な友達なんだから』
あいつの、この言葉だけは守ってやりたかった。
「お前、手に、痣とか無いんだろう?」
「············えぇ、そうね。引っ掻いた痕さえ無い」
やはり、あんなことをされても、彼女にとってグレイナは、俺と同じ“大事な友達“なんだろう。首を絞められ、殺されると思っても、何一つ抵抗しなかったのだから。大事な友達を“傷付けたくなかった“のだろう。
······彼女は、最期の最後まで“綺麗“だった。
なら、その声だけは――聞いてやりたい。
「なら、それが保たれてることを忘れんな」
グレイナは、自分の重ねた両手に目を落としていた。
命が唇からこぼれそうな、女の顔だった。
「もし、苦しみを感じなくなった時は俺が殺してやる。苦しみに耐えられず自殺しようものなら、その手足を俺が全部削ぎ落としてやる。誰かに殺してもらおうなんて言うなら、そいつを地獄の底より苦しめて殺してやる。その全部が嫌だって言うんなら、惨めなシワシワのババアになるまで一生その苦しみに悩まされて死ね」
「······あの人みたいに、随分、汚い言葉で罵ってくれるのね」
「俺は本当は、今すぐお前をここで殺してしまいたいくらいに憎いんだ。首を締めて、身体を切り開いても足りないくらいだ。だから簡単に死なせるのだけは許せない。苦しんで、苦しんで、苦しんで死んでもらわなきゃ、俺はあいつに――」
「安心して」
するとグレイナは、この狭い箱から外をゆっくりと見た。
そして、あの楕円の白い月を眺めたまま、
「しばらく治りそうにないもの。これはやっぱり······とても············痛いから············」
月照で煌めく藍色の髪と一筋の透明が、傷のない頬から手に――しばらく流れていた。




