62、缶と蓋、聖女と死神
真昼を過ぎた頃だった。
玄関の戸を、トントン、と叩く音がした。
「こんにちは、イルフェースさん」
女性の声だった。
「こんにちは、いらっしゃいますか?」
とても安らぐ声だった。
少しだけ、リズに似たような声。
「これ、ここに置いておきますね」
それから、戸を叩く音はしなくなった。
しばらくして身体を起こした。身体は鉄枷のように重かった。俺はその鉄枷をぶら下げたまま、置かれたであろう物を取りにゆっくり玄関へと向かった。
もう······来客も······帰っただろう······。
ボロい玄関の引き戸を、心に任せて静かに開けた。ギリリ、と壊れそうな軋む音がした。
その時――、
「あっ、居留守ですね。皆、この手には引っ掛かるんですよ?」
その【聖女】は祭服に身を包み、パンの入った紙袋と小さなバスケットを持ち、ドアの横でやんわり首を傾げていた。“あの彼女“とは違う、実際は数日前でも遠い昔に見たような気がする、穢れのない微笑だった。
果物の入った小さな籠と紙袋を持っていた彼女は「もう昼ですよ?」と言いながら家に押し入ってきた。聖女らしかぬ行動だったが、それを引き止めるのも追い返すも、何か言うのでさえも、今の俺には出来なかった。
すると、
「確かに、元気無さそうですね」
テーブルに籠を置いた彼女は振り向いてそう言った。そして家の中を歩き、キッチン回りを物色しながら世間話でもするようにここへ来た理由を話す。
「昨日、仕事が終わった後マルクに頼まれたんです。俺は診察があるから、ちょっと様子見て来てくれないかって。マルクも嘘が下手ですね。自分が苦手なだけなのに。――わぁ、何もない。あっ、でも紅茶はいけそうかな······」
紅茶缶を持って鼻をスンスンとする彼女は「それは好きに食べてください。昨日、カリーナさんに多すぎる程おまけしてもらったんです」と付け加えた。また「あっ、カリーナさんは協会に来てる“露店商の奥さん“ですよ」とも。
しかし、そんな理由は聞いたものの、それより【聖女】の彼女がここにいる違和感のほうが尋常ではなかった。薄暗いボロ家に浮いた、埃一つなさそうな綺麗な祭服。
砂漠に魚が居るような、海にコウモリがいるような、そんな無縁と言えそうな組み合わせ。それと、やはり、まるで古くからの友人や家族のように、あちらこちらを平気で触る図々しい聖女の姿そのものには、理由を聞いても茫然とせざるを得なかった。
なんで、ここにいる······?
彼女は窯に火を付け、お湯を沸かそうとしていた。
しかし、彼女がそんなだからだろう――。
「······あんた、協会は?」
身体の重みは感じるものの、言葉さえ交わすつもりはなかったものの、考えるのさえ面倒に思うものの、苛立ちを乗せたような言葉は自然とこぼれ出ていた。
昨日の悲観を、少しだけ置き去りにして――。
無愛想で、突き放すような、来訪を決して喜ばない言葉。
だがそれでも、彼女は微笑んでいた。
ティーポットに、茶葉を手際よく落とし込みながら。
「今はお昼休憩です。私だって御飯は食べるんですよ?」
テーブルには二つ分のティーカップが、茶漉しやスプーンと共にいつの間にか置かれていた。
促されるまま食事についていた。だが、出されたパンと紅茶には手が伸びなかった。
「んー、美味しい紅茶ですね。まさか、こんなしっかりしたものだと思いませんでしたよ? パッと見た感じ、最低限のものがあれば、という感じでしたから」
当然のように、彼女は向かいに居た。
そして彼女――【聖女】マリアンヌはパンをちぎりながら「イルフェースさんの不摂生はここから来るんでしょうねぇ」と、笑顔で呟いていた。独り言だが、明らかに聞こえるように。
それを機に席を立とうかとしたが――出来なかった。
家はこのキッチンと、隣に、ベッドのある寝室があるだけ。二つを区切る扉はなく、そちらへ行っても彼女は来る気がした。また、そちらの机には“あの手紙“が置いたままだった。出来るなら、あれは触れられたくない。······今、リズのことには。
少しだけ忘れた憂いが、また戻りつつあった。
······これを食べたら、帰ってくれるだろう。
それまでの辛抱だろうと割り切った。昨日やここ数日の事に比べればなんてことはない。また、「今日は悪いが帰ってくれ」と追い出すことも考えはしたが、曲がりなりにも相手は【聖女】。無愛想な返事以上のぞんざいな扱いが、どこか躊躇われた。
そうして俺は、心に蓋をして待った。
だが――、
「それにしても、本当に美味しい紅茶ですね。紅茶、お好きなんですか?」
「いや、この紅茶は······」
適当に相槌をしていたつもりだったが、そこまで言って言葉を止めてしまった。
不意にも、あることを思い出してしまった。
『ちょっと早いけど、誕生日にこれあげる。依頼で沢山報酬もらったからねー、プレゼント。彼女でも出来たら淹れてあげなよ。きっと喜ぶよ』
この紅茶は――リズがくれた物だった。
しかし、普段紅茶と無縁の俺は、仕方なく紅茶セットまで買ったものの、ひとり家で缶を開けた時どう淹れればいいか分からず、その後リズに聞くのも忘れ、ずっと放置したままだった。
「――? どうかしましたか?」
聖女は、変わらぬ調子で尋ねていた。
「いや、なんでもない······。············確かに、美味しいな」
初めて飲んだ紅茶の味は、少しだけしょっぱかった。向かいに居た彼女はそっと微笑んでから、
「そうですか。それは良かった」
静かにそう言った。
『念のため言っとくけど、イルは全然タイプじゃないからね』
『一生側に居るのはやだなーって感じ?』
『あー、ちょっと傷付いてるー』
『へへっ、いいじゃん――』
············くそっ。
『イルは、皆と同じ、大事な友達なんだから』




