黒猫ナイト、ながの旅立ち
※「黒猫ナイトが拾われた日」の続きです。時系列的には、前作から更に五年ほど未来の話です。
なぜ僕は、またまた人間になってしまったのだろうか。
墨染めの着流し姿の老人は、寺の本堂にある石段に腰掛け、両手を重ねた杖の持ち手に顎を乗せ、茜色の虚空を見つめていた。
ここは、野良猫だった時分に塒にしていた寺だから、それほど家からは遠くない。けれど、家に帰ってもユキは居ない。ユキは、遠方にある全寮制のお嬢様校に進学したから、夏と冬の長期休暇にしか会えない。それに、もうすぐ僕は、ユキとお別れしなきゃならないんだ。
老人は杖を支えに立ち上がり、本堂の扉に手を掛け、横に引く。
開いてるということは、住職は買い物か何かに出掛けてるだけで、すぐに戻ってくるつもりのようだな。これは都合が良い。少しだけ、お邪魔させてもらおう。
老人は本堂の中へ入り、よろよろと本尊の前の座布団に腰を下ろす。
おや。今日はお供え物がある日だったか。こういう日は、留守のあいだに泥棒が入らないよう、鍵が掛けてたものだったのに。忘れたのかな。住職も歳なんだな。僕も、他人のことを言えないけど。ともかく、ここは有難く頂いておこう。
老人は目の前の餡子餅に手を伸ばし、おもむろに食べ始める。
粒餡は、薄皮が歯に挟まるから食べ難いな。最近、歯が抜け始めたからなぁ。自慢の黒毛も艶が悪くなってきたし、白い毛が交じるようになってきたし。やれやれ。歳を取ると良いこと無いと言ってた執事の気持ちが、身に沁みて理解できるようになってしまったものだ。ジャンプで着地に失敗したり、何もないところで躓いて転倒したり、目測を誤って頭や脚をぶつけたり、以前なら当たり前に出来たことが出来なくなったり、昔ならあり得なかったことが多発するようになってきたんだもの。嫌になってしまう。
老人は指の腹に残った餡を舐め取ると、そのまま座布団を枕にして横になった。
最近、疲れやすくて、すぐに眠くなってしまう。しかも、じっと大人しく寝たからといって、体力が回復するわけでもないのだから困る。こんなこと、いままで無かったのに。
老人は膝を抱えて丸くなると、そのまま目を閉じた。
*
誰かの足音がする。住職が帰ってきたのだろうか。
「おや。うっかり鍵を掛け忘れていたようだな。無用心なことをしてしまったものだ。何も盗まれて無ければよいがな」
この懐かしい声は、間違いなく住職だ。
作務衣を来た住職は、独りごちながら本堂に入ると、座布団の上で丸まっている黒猫の姿に気が付いた。
「うむ。赤い首輪をしているところから察するに、どこぞの飼い猫であるらしいな。さすれば、飼い主に返さねばなるまい。どれ。君が誰の猫か、儂に教えてくれんかね」
返してくれなくて結構だよ。なぜなら、僕は、もう……。
住職は黒猫に近付き、首輪を外そうと手を伸ばすが、黒猫に触れた途端に手を引っ込める。
「やや。これは、いかん。すっかり冷たくなっておる」
そうさ。少し前まで、鼻血が止らなくてさ。おまけに、全身がだるかったんだ。でも、もう楽になったよ。
住職は片手で剃り上げた頭を撫で回しつつ、思案に暮れる。
「死骸は、首輪を外して新聞紙にでも包むとして、何とか飼い主に連絡せねばならんな。……よし。そうするとしよう。恨まんでくれよ、黒猫殿」
恨むどころか、感謝してる。これから僕は、さいごの旅に出るから、あとは任せた。
住職は再び黒猫に近付き、腕を伸ばして首輪を外すと、首輪に書かれた文字を確認した。
*
書き物机や丸椅子など、必要最低限の家具が置かれた簡素な造りの部屋の中、一人の少女が、ベッドの上で毛布に包まって横になっていた。
「ナイト、元気にしてるかしら」
ユキだ。おーい、ユキ。僕だよ。ナイトだよ。
少女は両手で毛布をギュッと握り、キョロキョロとあたりを見回す。
「誰なの。どこにいるのよ」
悪いけど、いまの僕には声を届けることしか出来ないんだ。だけど、僕は紛れも無く君の黒猫、ナイトだよ。
少女は毛布を頭から被り、小刻みに震える。
「変な冗談は止してちょうだい」
ジョークなものか。飼わせてくれなきゃ、レッスンをサボタージュし続けるって言ったのはユキじゃないか。忘れたのかい。
少女は勢い良く顔を上げ、ハッと目を見開く。
「……本当に、ナイトなのね」
だから、さっきからそう言ってるだろう。時間が無いんだ。手間取らせないでくれよ。
「疑って、ごめんなさいね、ナイト。気分を悪くしたかしら」
いいや。僕のほうこそ、ビックリさせて悪かった。それじゃあ、本題に入るね。一度しか言わないから、よーく聞いてね。いいかい。
「良いわ。何でも言って」
僕は、ユキに拾われて幸せだった。いつまでも一緒に居たいくらい、ユキのことが好きだと思った。いままで、ありがとう。
「待って、ナイト。それじゃあ、まるで一生の別れみたいじゃない」
みたいじゃなくて、本当にお別れなんだよ。
「そんなの嫌よ。まだまだナイトと遊んでいたいわ」
少女は、目に涙を浮かべながら訴えた。
僕も辛くなるから、そんな悲しい眼をしないで。僕は、ユキの笑顔が一番好きだよ。ほら、ニコってしてごらん。
少女は毛布の端で涙を拭うと、不器用に笑って見せた。
ありがとう、ユキ。これで、心残りなく旅立つことができる。
「さようなら、ナイト」
さようなら、ユキ。お幸せに。
*
それから更に五年の月日が流れ、満開の桜の樹の下に、女性と執事が佇んでいた。
「それじゃあナイトは、誰にも見守られることなく旅立ったのね」
「はい、さようでございます」
「それは、さいごは一人になりたかったと、ナイトが望んでのことなのかしら」
「さぁ、ナイトさまの心中までは察しかねます。ですが、住職の証言によりますと、安らかな表情で眠りに就いていたとのことでございます」
「それなら、ナイトは満足してたのね、きっと」
「えぇ、おそらくは」
「……離れたくないなぁ」
「お気持ちは重々理解できますが、旦那さまがお待ちでございますよ、奥さま」
「そうね。もう、お嬢さまではないものね」
「それでは、参りましょう」
執事は、車に向かって歩き出し、後部座席のドアを開けて控える。
女性は踵を返して歩き出し、一度振り向いて桜の樹を見たあと、足早に後部座席に座る。
執事は女性の乗車を確認してドアを閉め、素早く運転席に回り、車を発車させる。