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第73話  ~死刑囚 イリス=エルジニス~



「……お待ちしておりました、聖騎士シリカ様。

 どうぞこちらへ」

「はい」


 ある日、ナナリーの見舞いへと何気なくセプトリア城を訪れたシリカだが、既に門番に挨拶した時点でおかしな空気を感じ取ってはいた。

 連日城を訪れていたシリカは、既に顔だけで城内に入れて貰える立場であったのに、少々お待ち下さいと、要するにまだ城に入らないで下さいと止められたのだ。

 疑問符を浮かべながら待っていると、結局はダウィラスに許可を貰ってきた兵士のおかげで門をくぐれたのだが、行き先はダウィラスの書斎へと指定されてしまう始末。


 単に見舞いに来ただけなのに、何やらこうしてダウィラスと個室で対面し、椅子にお座り下さいと促されたのが、今のシリカの状況だ。

 現時点では何も知らないシリカとて、何かよほどの事があったのだろうと、ダウィラスのやや重い表情から既に察している。


「……今からお話しすることを、決して庶民に口外しないと約束して頂けますか?

 必要なければ、身内の騎士様や傭兵方にも秘密裏にして頂きたいところですが」

「………………誓いましょう」


 第一声から非常に重い内容が予想され、シリカも返答までに少しの間が開いた。

 それでも、はっきりそう言ってうなずいて見せたシリカの態度を見て、一息挟んだダウィラスが真実を語り始める。


「昨日の出来事です。

 何者かがナナリー様に、毒を盛りました」


 衝撃的な一言は、シリカの息を一瞬詰まらせ、その心臓をもばくんと打ち鳴らす。

 絶句して目を見開いたシリカだが、驚愕の声を発さずに呑み込んでいるのも事実で、彼女はぎりぎり冷静さを構える騎士様の姿を貫いている。


「っ……な、ナナリー様は……?」

「衰弱されておりますが、峠は既に越えられた後のようです。

 今では、命に別状なき状況だと言っていいでしょう」

「そ、そうですか……」


 毒を盛る。まして女王様に。そこには殺意しか感じない。

 ナナリーの死すら想像して問うたシリカだったが、その最悪の事実はなかったことに、心からほっとする。

 急に噴いた冷や汗と悪寒に震えながら、そうですかの一言を極力冷静ぶって発したシリカだが、細い声にはそうした感情が隠し切れずによく乗っている。


「改めて願います。

 何者かが女王様に毒を盛ったという事実、加えて現在女王様が毒に蝕まれた体で弱っている事実。

 これらを民衆に知らせては、いたずらに不安がらせることに繋がります。

 どうかこの事は内密に。よろしくお願い致します」

「わ、わかりまし……あ、いえ、存じております……」


 返しを一度間違えるぐらいには、やはりシリカも相当に驚いたということだろう。

 異国の女王様が毒を盛られたという日に直面しただけでなく、何度も話して親しくさせて頂いた、あんなに気さくで可愛らしい女王様なのだ。

 毒を盛られたと聞いてぞっとするのも、ご存命であると知って胸を撫で下ろすのも、個人的な感情によるものだからこそ、シリカも反応が素直になる。


「ナナリー様に盛られた毒は、ヴィール液と推察されております。

 ご存知でしょうか?」

「……はい、一度聞いたことはあります。

 魔導士の杖に親和性を持たせる加工過程で、用いることのある生物液で……血でしたっけ?」

「はい。よくご存知で」


 騎士業とは全く縁のない物質名だが、それでも知っているのだからシリカは博識な方だ。

 ざっくばらんにそのヴィール液とやらのことを説明すると、とある海洋生物の透明な血液がヴィール液と呼ばれており、それが武器を加工する際にしばしば便利で使われる、というもの。特に、魔導士が使う杖などの加工に用いられることが専ら。

 要するに工業資源だ。少なくとも、人が口にするようなものではない。


「どうやらそれが、ナナリー様の水差しに混入されていたようなのです。

 顧問魔導士らの調査による結論でありまして、それはほぼ間違いないとされています」

「……ナナリー様が、それを口にされたということなんですね。

 致死量に至らず幸い助かられた、ということでしょうか?」

「そう見ていいのでしょう。

 ヴィール液は銀のようといいますか、金属的な味を発するものですから、ナナリー様が一口含まれた時点で違和感を覚えて、あまり喉を通されなかったことが幸いであったと見られます」


 その毒物は、多量に服用すれば確かに人を死に至らしめるものだが、少量であれば喉の奥を激しく焼くだけに留まって、まだ死には至らない。

 量が過ぎれば内蔵を深く傷つけ、生きていけない体にしてしまうのだ。

 それを口にしたナナリーが生きているのは、ダウィラスが言うような幸運に恵まれて、成立している事実である。


「……まあ、良からぬことなど考えぬであろうシリカ様ですからこうした話も出来ますが、ヴィール液を毒物として扱うには、本来は水などに入れるのではなく、度の強い酒などに入れるものなんですよ。

 見た目は無色透明でも、明らかに舌に違和感を覚えさせる味を生み出すものですからね。

 元より舌が痺れるような度の強い酒に混入し、しかもそれを既に何度か飲んで酔っている人間にしか通用しない、そういう毒物です」

「そうですね。だからヴィール液は、毒物としての警戒度は人々にとって薄いものです。

 警戒するまでもなく、口に含めばわかるものとして認知されていますから」


 毒を盛る対象を確実に殺そうと思えば、そこそこの量を一気に盛らねばならない。

 しかし、盛れば盛るほど味がきつくなり、飲めたものではなくなってしまう。それがヴィール液。


 本来これは、現実的には人を死に至らしめることを成功させやすいような毒物ではないというのが通説だ。

 現にナナリーは生き延びているし、ヴィール液というのは人を殺そうとして用いるには、そこまで優秀な毒と言えるような物質ではないのである。


「しかし、ナナリー様にヴィール液を盛った何者かがいるのは事実です。

 致死性は確かにある、そんな毒物をです。殺意を疑う余地はありません」

「……その何者かというのが誰なのか、目星はついているのですか?

 断じて許されることではないはずですが」


 少し前の驚愕に心音を大きくしたままだったシリカも、冷めてきた驚愕から憤りに感情を移し、ナナリーに毒を盛ったという何者かへの熱い怒りを瞳に宿している。

 一国の女王様を謀殺せんとした悪意もそうだが、何より個人的に好意と敬意を寄せていたナナリーに、毒を盛ったという誰かのことを、シリカは絶対に許せそうにない。


 だが、その怒りも短く、次のダウィラスの言葉で一気に冷め切らされることになる。


「申し上げにくいことですが、最も疑わしいとされているのはイリスです」

「は?」


 あまりにも想像だにしなかった名に、シリカも思わず間を挟まずにそんな声が出た。

 はっとして、拳の甲で口元を隠すシリカだが、ダウィラスはシリカの反応を無礼視していない。

 こんな反応も想定内である。


「っ……ご、ご無礼をお許し下さい……

 その……聞き間違いではありませんよね……?

 イリス様、と、仰いましたか……?」

「はい。申し上げました。

 ニトロの妹の、イリス嬢です」


 めまいすら覚えるようなダウィラスの発言に、シリカは口元を隠していた拳を開いて、その掌で額を押さえる。

 座っているからよかったものの、立ち話で聞かされていたらふらついていたかもしれない。

 それぐらい、イリスがナナリーに毒を盛った第一容疑者というのは、シリカにとって悪夢のような響きである。


「……詳しくお聞かせ頂けますか。

 無論、口外は致しませんので……」

「ナナリー様の看病をされていたのはイリスです。

 そして、ナナリー様の水差しに、水を汲んできたのもイリスなのです。

 これらすべて、他ならぬナナリー様の証言です」


「…………」


 シリカは一度うつむいて、冷静になるための時間を作った。

 あくまで異国の騎士、どこまで口を挟んでいいかの線引きが難しい立場だ。

 そうして数秒、顔を伏せたのち、額の手を離して顔を上げたシリカは、冷静な騎士の面を改めて備えている。


「……あまりにもわかりやすいほど、イリス様は第一容疑者なんですね」

「確かに、それは私もそう思います。

 あるいは、ナナリー様とイリスの親しさをよく知っており、イリスがそんなことをするはずがないと思いたい者達はとりわけそうでしょう。個人的に言えば、私もその一人です。

 実際のところ、イリスがそのようにしてナナリー様に毒を盛ったのだとしたら、あまりにも自分が犯人だと状況証拠を残しすぎている」


 ナナリーの水差しに毒が混入されていることが発覚すれば、それに水を注いで持っていったイリスが一番怪しいとされるのは当然だ。その水差しを持って城内を歩くイリスのことを、目撃していた者もいるだろう。

 何より連日、ナナリーを看病していたのがイリスなんだから、ナナリーの飲む水に毒を混入するのが一番簡単だと思われるのもイリスである。


「ですがそれは、客観的に彼女を犯人でないと否定する要素としては足りません。

 仮にナナリー様の毒殺に成功していれば、そしてその第一発見者となっていれば、水差しの中身を先に捨てての隠滅も不可能ではなかったでしょう。

 今、イリスが第一容疑者とされているのは、ナナリー様がご存命で、そこからの証言によるものが最も大きい。

 ゆえに毒殺が成功していた仮定なら、今シリカ様が仰った反論はそもそもが概ね成立しないのです」

「それは、そうですが……」


「何にせよ、現状イリスが最も疑わしい対象と見られていることに、揺らぎはありません。

 イリスが汲んできた水をナナリー様が飲み、その水にはヴィール液が混入されており、ナナリー様は毒を含んで再び病床に伏せておられる。

 これが、我が国の女王様が証言なされたことに基づいた、脚色なく疑いようのない現状です」


 シリカが完全に返す言葉を失ってしまう。

 イリスがそんなことをするなんて信じられない、ただその一念しか胸中にはない。


 だが、それを唱えるにはあまりにも現実が真逆だ。

 ダウィラスの語るとおり、今の現状というやつは、イリスが犯人だとしか言っていない。

 つぅ、と汗が頬を伝うのを拭うことすら忘れ、シリカはダウィラスの目の前で動けずにいる。


「……イリス様は、今どうされているのですか?」

「地下牢です。現在のところ、致し方なきことです」

「っ……」


「意識を取り戻されたナナリー様は、イリスが犯人だと信じ、疑っておりません。極刑すら口にされています。

 もはや現在イリスを投獄していることすら、事実がはっきりするまで極刑だけはどうかと懇願した結果、辛うじて成り立っていることなのです。

 はっきり言って、時間稼ぎのようなものですよ」


 いかに切迫した状況であるのかが、いよいよシリカにも伝わってきた。

 ナナリーに毒を盛ったのがイリスだと状況が物語っている。

 そして犯人が本当にイリスなら、死を以って償う以外の刑など存在しない。一国の女王の謀殺など弁明の余地もあるまい。

 ナナリーがイリス犯人説を信じている以上、このままではイリスの極刑はほぼ間違いなく免れない。


 本来庶民に知らせぬようにしているようなことを、ダウィラスがシリカを信用して話すわけだ。

 真実の究明に、有事あらば手を貸して欲しいとさえ含んでいる。

 それほどまでにこの案件は重いのだ。女王様の婚約者の妹が、女王様に毒を盛ったとされるこの信じ難い案件、間違いだけは絶対に起こしたくないと、ダウィラスの本心はきっと語っている。


「現在の状況を簡潔に説明します。

 イリスに毒を盛られたと信じているナナリー様ですが、今は療養中で身動きが取れません。

 しかし、快方に向かわれ自分で動けるようになれば、イリスへの刑の執行命令を躊躇われぬことが予想されます。

 もしもイリスが無実であるなら、それを証明するための期間は、ナナリー様が動けるようになるまでの短い期間であるということになります」

「……はい」


「現在、ニトロが主導して、ナナリー様に毒を盛ったという真犯人を探しています。

 彼も、イリスがナナリー様に毒を盛ったなどとは当然信じておりません。

 私はシリカ様に、ニトロから頼まれるようなことあらば、力を貸してやって欲しいと申し上げたいのです」


 きっとダウィラスも、イリスがそのようなことをする少女だとは、にわかには信じられないのだろう。

 だが、真相がその否定したい方だったとすれば、然るべき執行が求められる。

 ナナリーが完調し、刑の決行に踏み出すその前に、真実を求めたいというのがダウィラスの正確な本音とも言えそうだ。


 少なくとも彼は、状況やナナリーの証言を鵜呑みにして、イリスを犯人だとは決め付けていない。

 仮にイリスが犯人でないなら、数少なく有力な味方の一人である。だが、真実は果たして。


「……忘れて頂くという選択肢もございます。

 いずれにせよ、この案件だけは、庶民には決して漏らさぬことを願います」


 終始据わりの利いた声を貫いて語り通したダウィラスだが、話し終える頃には顔にやつれすら感じられた。

 厳しい立場にある彼だ。ナナリーのこともイリスのことも、幼い頃から見続けてきた大人であり、その双方がはっきり対立するこの現状は、それだけで胃が痛いはず。

 誤解であるなら解かねば致命的な過ちに繋がるし、誤解でなければ身内同士の殺し合いという、もっと残酷な現実なのだ。

 真実がどちらであろうとも、今のダウィラスが心労を抱える立場なのはシリカにも想像がつく。


 平穏な日々から一転、昨日まで談笑することも可能だった相手が、死の淵に立っている。

 片や毒を盛られ、片や極刑を目の前。

 幸いなのは、二人ともまだ生きていることだ。首の皮はまだ繋がっている。


 まだ間に合うはず。何かが間違っていて、正すことが出来るはず。そうであって欲しい。

 故郷を違えるシリカとダウィラスは、それを口にすることなく、ともに胸中で同じことを思っている。











 争点はたった一つに絞られる。

 イリスがナナリーに毒を盛った犯人か、そうでないか。ただシンプルにそれのみだ。


 現状、ナナリーはイリスが犯人だと疑っていない。

 それが、女王という名の、すべての最終決定権を持つ者の判断だ。誰も逆らえない。

 完調したナナリーがイリスを極刑にかけにいくことは、現時点の決定事項のようなものであり、何もなければ数日後、イリスは女王暗殺を企てた反逆者として死罪にかけられるだろう。

 このまま何も起こらなければ、数日後のそれは確定した未来である。


 そうでない数日後の未来があるとすれば、誰かが何らかの根拠を以ってして、イリスが犯人ではないとナナリーに訴えた場合のみ。それで、ナナリーが心変わりをすればだ。

 特にイリスの死罪に反対なのが、イリスの実兄であるニトロである。

 ニトロはイリスを救いたければ、彼女が犯人ではないとナナリーを説得しなければならない。


 手段はある。

 ナナリーが犯人ではないという確たる根拠を提出するか。

 あるいは、イリスではない真犯人を見つけてきて、ナナリーの前に突き出すか。

 イリスを死刑にかけたくないと主張するならば、ナナリーが復調すると見込まれている日までに、それを達成しなければ話が動かないということ。

 あまりにも短い時間制限だ。小さな砂時計が、イリスの命を刻んでいる。


 独房にて泣いて震えるイリス。

 城を駆け回り、大人達に指示と懇願を繰り返し、真実の究明への足がかりを必死で求めるニトロ。

 かような事件が起こったことなど知らぬ庶民には、普段と変わらぬ平穏な日々と城の姿が、当たり前のように目に移る日々。

 そんな中、セプトリアの城内では、若き兄妹の悲痛な喘ぎがこだましているのだ。






「……確かなんですね?」

「限られた時間の中でのことですし、確証があるかと言うなら不確かでしょう。

 ですがもはや、これをおいて他に可能性は追えません。時間がありません」

「…………」


 それでも、ニトロやイリスにとっては救いなのか、そうでないのか、進展はあった。

 ナナリーが病床の中にあり、全権を任せられたダウィラスに頼み込んで助力を得たニトロは、セプトリア王国の諜報員からの報告を受け、沈痛な面持ちで考え込む。


 ナナリーに盛られた毒とされるヴィール液は、良くも悪くも、採取が盛んでない上に活用方法もごく限られているために、あまり盛んに横行しているような代物ではない。

 悪用すれば毒物であることもわかっている、要は劇薬であるために、その流通に関しても慎重に扱われる。

 したがって、国が全力を挙げて、国内でどのようにやりとりされているかを調べれば、かなり容易にその流通ルートを辿ることが出来るのだ。

 とりわけ密輸が許されない類の商品なので、商業記録に残りやすいという事情による。


 イリスは王都の外に出ることがまず無い。彼女がヴィール液を手にしてナナリーに盛ったのであるならば、どこから取り寄せたのかが逆算できるはずなのだ。

 ニトロ達は、王都にヴィール液が輸送された流通経路を探せばいいので、短期間でもそれぐらいは調べ上げて纏めることが出来た。

 国が本気で動いたら、商人らだって容易に口を閉ざせない。急仕立てでかなり強引に情報を集めはしたが、それによってヴィール液が王都に持ち込まれた流通経路は探し当てることが出来たのだ。


「シェバの町のパトル商会ですが……

 果たして、踏み込んだとしても、状況が好転する確信はありません。

 その上での決断を……!」


 諜報員が口にした商会こそ、半月ほど前にセプトリア王国にヴィール液を輸送した商会である。

 それも、売り先はセプトリア城だ。セプトリア城には顧問魔導士がおり、彼らも魔法学を研究する学者の端くれであるがゆえ、時々魔法に関する物資を取り寄せることがある。

 ヴィール液は本来、魔法使いの杖を加工するために用いるのが、主な本来の使い方だ。

 これは単体で見れば怪しいやり取りではない。


 きな臭いのは、セプトリア城にそのヴィール液を発注した人物が誰なのか、はっきりしない点である。

 確かにパトル商会にヴィール液を発注したという取引証明書は、セプトリア城に存在した。

 しかしこれは本来絶対にあり得ないことなのだが、その取引証明書の発注者の名前の欄が空白だったのだ。

 毒物、劇薬として指定されているヴィール液の取引を、注文した者の名をはっきりさせずに行なうことは、法で禁じられており、もはやこの時点で厳密には違法である。

 城内の顧問魔導士達に問うても、誰一人としてパトル商会にヴィール液を発注したという証言が取れなかったのが、事態の異常さを如実に表している。


 そんな取引証明書、要するに劇薬指定されているものの取引主の名すら書かれていない、誰かが一目見れば一発で問題になるような取引証明書が、なぜ今になって現れたのかも疑問が残る。

 ニトロにとっては嫌な話だが、イリスは確たる仕事を城内で持っていないため、書類整理などの仕事を手伝うことがしばしばあった。

 イリスがその書類を確保して隠していた、という可能性も、客観的に見れば存在するのである。

 もっとも、そんな犯罪の尻尾にもなり得るものを、犯人のイリスが確保したというならいうで、なぜ燃やすなりして処分していないのか、という異論もあるが。


 腑に落ちないことが多い取引証明書が、このタイミングで現れたのは、救いか悪魔の罠かさえも疑える。

 ただ一つ判明しているのは、ヴィール液がセプトリア城に持ち込まれた原因は、はっきりとパトル商会にあるということ。状況証拠が揃っている。

 判明していないのは、誰がパトル商会にヴィール液を注文したのかということ。如何にしてかは定かではないが、ともかく隠蔽されている。

 少なくとも、それをはっきりさせることによって、この事件は次の展開を望める状況にある。


「……パトル商会に、踏み込むことは出来るでしょうか」

「筋は通ります。

 こちらに取引証明書がある以上、パトル商会が注文主不明の取引でヴィール液を扱ったという違法行為に対し、容疑が発生しております。

 言葉は悪く、過激でもありますが、一斉検挙して尋問することも可能な要素が揃っています」


 決定権は、ニトロに委ねられているようなものだ。

 彼がそうしたいか、したくないか。

 パトル商会と接触し、真実を聞き出すことを是とするか、否とするか。


 誰に注文されてヴィール液を売ったかとヴィール商会に詰問したとする。

 口を割りたがらないかもしれないが、司法取引やら何やら、交渉材料は存在しなくもない。向こうも黙秘を貫き続けるのは、国が相手ではそう簡単ではないと見込める。


 だが、たとえ嘘でも本当でも、パトル商会の口からイリスの名が出たら?

 きっとナナリーは信じるだろう。イリスの運命は変わらない。

 これはニトロにとっても、必ずしも最善の結果を導ける旅路への出発ではないのだ。


「……ナナリー様は、いつ復職なされる見込みですか」

「明日の朝、ですね……

 朝の開口一番に、イリス様の極刑を言い渡される見込みが高いと思われます……」


 だが、もはや考えている暇もないのだ。

 限られた時間の中で、状況を少しでも動かして、イリスを延命させていかねばならない中にある。

 状況そのものが進展し続け、新しい情報をナナリーに届け続けることが出来れば、ご決断をもう少しお見送りになって下さいと、ナナリーに訴え続けることも出来る。

 真実究明までの時間が稼げるとも言い換えられよう。

 それすら叶わぬようでは、ナナリーによる断罪の方が先に行なわれてしまいかねない。

 今やニトロに、じっとしている余裕などないというのが厳しい現実である。


 たとえどんなに腑に落ちぬ要素が散見したって、前に進むしかないのが今のニトロの立場ということだ。

 イリスを、愛する妹を助けたいと思うのであれば。


「パトル商会に話をつけに行こう。

 どのみち、ナナリー様に盛られた毒の出所と、それを用いようとした真犯人をはっきりさせることは必要だ。

 ナナリー様には、ダウィラス様と一緒に、パトル商会との間での結論が出るまで、結論を急がれないよう直訴してくる」

「進展があるまで、イリス様への刑の執行は待って頂くように、ということですか……

 ナナリー様は、聞き入れて下さるでしょうか……?」

「……俺は、ナナリー様の婚約者だ。

 この立場を利用したくはないけれど、聞き入れて下さることを信じたい」


 その見込みは絶対ではないが、悪い賭けではない。

 ダウィラスは口が立つ。ニトロも懇願する。気が強く意志力も固いナナリーだが、無視はするまい。

 パトル商会から、少なくともヴィール液に関するいくつかの真相を聞きだしてからでも遅くはない、と、聞いて貰える次元でナナリーに交渉することは出来るはずだ。


 もっとも、それで状況に変化がなければどうなるかわかっておろうな、と、釘を刺されるのも見えている。

 前に進んでも、後門の狼はより大きくなる。ニトロが冷や汗を流しているのは、夏が近付いた暑さのせいではない。


「……わかりました、シェバの町へと乗り込みましょう。

 良き結果が導き出されることを、祈りましょう」

「…………ご協力、よろしくお願いします」


 囚われた妹を救うための、衛兵ニトロの一大決心だ。

 その妹を捕えているのが、たとえば悪しき者たちであればどんなに血気盛んでいられたか。

 婚約者であるはずのナナリーが、最愛の妹の喉元に鎌をかけている実状に、ニトロは頭を抱えることを

耐えながら、辛うじて背筋を伸ばして立っている。











「ひぐっ、ぐすっ……ううぅ……」


 決して日の光が届かない、セプトリア城の地下牢獄。

 果たして地下何階まであるのかも、一般人には公開されていない地下牢獄の最奥地、独房の中で枯れぬ涙を流す少女がいる。


 こんなドレスは自分には不釣合いだ、と、王族のドレスすら恐縮して身に纏っていた元庶民は、華やかな衣服を剥がれ、奴隷のようなぼろ布服を着せられて、汚らしい独房の中で座り込んでいた。

 臭くて、不衛生で、地面を触ればその手で涙を拭っても顔が汚れるほど。

 それでもあまりに理不尽な投獄を受けたイリスは、あの日から何日経っても、寝ても覚めても泣きやむことが出来なかった。


 人との接点も殆ど無い。あるとして、朝と晩の質素な食事を持って来てくれる看守のみ。

 太陽も拝めぬ彼女は、それで以って今の時間を認識する他ない。

 食事がなかったら、投獄されてから何日と何時間経っているかも全くわかっていないだろう。

 事実、一日に何度の食事が与えられているかもはっきりとは知っていない彼女は、今もはやここに来てからどれぐらいの時間が経っているのか、全くわかっていないのだ。


「辛いか?」

「ひっ!?」


 泣きじゃくっていたイリスの耳に、不意に届くおぞましい声。

 これは初めて聞く声ではない。看守の声でもない。

 ふとした時に、イリスの独房の扉の前に現れて、鉄格子の向こうからこちらを覗きながら、話しかけてくる謎の人物がいたのだ。

 訪れるタイミングもまるでまちまちで、それは何もすることがない独房生活のイリスに、不快な暇潰しを強要する悪魔とも例えられよう。


「明日には、ナナリー女王が玉座に戻るそうだ。

 そうなれば、まずは貴様の極刑を命じるだろうな」

「わた……私は、ナナリー様に毒など盛っておりません……!

 どうして……どうして、私が極刑なんかに……!」

「貴様が敬った女王の判断だ。

 仕える相手が正しくなかったということだ」


 こうしてこの男は、しばしばイリスの前に顔を出し、彼女を絶望に追い込む言葉を並べ立てる。

 死刑が目の前、それを小刻みに突きつけられるイリスが、謎めいた男の声に力強く反抗していたのも初めのうちだけだ。

 時を刻むにつれ死が近づいている。平和な世界で生きてきた少女にとってはあまりに恐ろしい現実。

 まして罪人を不衛生に閉じ込め、やがて死刑台に送る者に福祉や衛生など不要と言わんばかりの独房の中、いくら態度で反抗しても、突きつけられる死の足音にイリスの心は蝕まれていく一方だったのだ。


「ナナリーは悪魔だ。貴様の命を奪う悪魔だよ」

「違います! あの方は、そんな……きっと、わかって……」

「貴様を理解しない人物だから、貴様をこんな場所に閉じ込めている」

「な、何、かの……まちが……」

「間違いで、貴様は命を断たれるのだな」


「……もう、いやあっ! やめてやめてやめてえっ!

 聞きたくありません! もう、いじめないでえっ!」

「叫べるのも今のうちだけだ。

 貴様はじきに、屍となる」

「誰か、誰かあっ! お兄様あっ! ダウィラス様あっ!

 ハルマ様あっ! 誰か……誰か、助けて下さいよおっ!!」


 耳を塞いで大声で叫び、絶望を促す声から逃げ続けるイリスの声は、誰の耳にも届かない。

 セプトリア城の地下深く、身も心も穢された少女のそばにあったのは、よりいっそう彼女を追い詰める囁き以外に何も無い。

 食事を届けに来る看守に、何者かがどす黒い囁きを聞かせにくるんだと訴えても、作り話をして話し相手を欲しがっているのかと、あるいはとうとう気が触れたかと、冷たい目で見られるだけ。


 悪魔じみた声に死を宣告されながらも、潔白を訴え続けるイリスの迫真の声は、彼女を救える者達の耳にすら届いていない。

 無実の罪で断頭台に上らされ、罪人を見る目に晒されながら命を奪われる。

 そんなあまりに残酷で耐え難い未来を突きつけられた、17歳の少女に出来ることは、ただただ泣き叫んで愛する人に、届かぬ悲鳴をあげることしか残されていなかった。

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