第72話 ~ナナリー喉を焼く~
「熱も下がってきましたわね、ナナリー様」
「うむ、随分良くなった。
これなら明日からでも政務に復帰できそうじゃ」
「色んな人がお許しにならないと思いますよ」
風邪を引いて仕事をお休みしてから二日目の夜。
よく安静にしていたのも良かったか、ナナリーの体調も随分と良くなった。
幼いか、年をとってからだと、一度風邪を引いたらなかなか治らないが、やはり17歳の若い体は風邪への抵抗力も強い。見た目は10歳未満でも、ナナリーの体の中身は年相応であってくれているようだ。
「ナナリー様、そろそろお汗を」
「ん、頼むぞ」
お寝巻きを脱ぐよう促したイリスの言葉に従って、ナナリーが体を起こして上半身を裸にする。
イリスがそんなナナリーの背中や腕、首元や脇を、絞ったタオルで拭いてくれる。
常温水で一度濡らして少しだけ冷やし、よく絞ったそのタオルはほどよく冷たく、熱くなったナナリーの体には心地よい。
「それにしても、部屋いっぱいになってしまったのう」
「ふふふ、そうですわね。
それだけナナリー様が、みんなに愛されているということですわ」
体を拭いてもらう中で、ナナリーが見る先では、病床の女王様への見舞い品が山積みである。
昨日からの二日間で、いったい何人がここへ見舞いに訪れたか。
普段からナナリーと話す間柄の者達は例外なく見舞いに訪れ、また、一般兵のような、ナナリーには畏れ多くて来室できない者達ですら、女中を介して見舞い品を贈ってくる始末。
おかげ様で今ここナナリーの部屋は、ものの二日で見舞いの品の山というわけだ。
今この部屋は少々暑くしており、果物を置いておくと傷みそうな室温なので、見舞いのフルーツなどはすでに保管庫に移されている。
それでも見舞い品はたくさん残っているのだ。ルザニアがくれた恋愛小説をはじめ、退屈を紛らわせるための香薬や、あるいは一日ぐらいは暇潰しに使える知恵の輪やら。
そうして纏められた、あるいは固められた見舞い品を眺めるにつれ、ナナリーはいかに自分が愛されているかを再認識する形になる。
「イリスも、自分の汗を拭いてはどうじゃ?
おぬしも、そんな粘りつく体では快くあるまい」
「大丈夫ですよ、私は寝る前に湯浴み致しますから」
「……疲れておらぬか? 少し、息が荒いぞ」
「暑いですが、自分で言い出したことですから。
ナナリー様が、一日でも早く元気になって頂けるなら、それに勝る喜びはありませんわ」
夏場に窓も締め切ったこの部屋は、熱を発する特殊な石を部屋の隅に置くことで、室温をぐっと上げている状態だ。低温の蒸し風呂状態と言ってもいいかもしれない。
そうしてナナリーの体を冷やさぬようにして、汗をかいてもらうことで、少しでも早く良くなるようにというイリスが提案したことである。
そんな部屋で、イリスは暑いドレス姿でずっとナナリーにつきっきりで看病を続けており、彼女だって汗びっしょり。
昨日からずっとである。ナナリーの話し相手を務め、飲み水を汲んできて、しばしばナナリーの汗を拭き、額に乗せる冷たいタオルを絞ってくれる、それを昨日の朝から今の夜までぶっ通し。
本来女中がやるようなこの仕事を、暑い部屋を促したのは私、やらせて下さいと訴えた彼女は、ずっと献身的にナナリーに、くそ暑い部屋で奉仕し続けているわけだ。
ナナリーの背中を拭き、平気ですよという声を発しつつも、イリスの額から頬をつたって流れた汗は、ぽたぽたその顔から水滴を作って流れ落ちている。
「……妾は、愛されておるのじゃな」
「はい」
忘れていたことを再確認する発言か、それともわかっていることを敢えて復唱したのみか、いずれにせよ実感のこもったナナリーの呟きに、イリスは優しく、短い返答を添えた。
多くを語る必要もなく、しかしはっきりと応えておきたい、そんな二文字の返答を、なんとイリスは深々と発するものか。
その短い返答の中に、イリス自身もナナリーを愛していることが、どんな雄弁よりもわかりやすく含まれている声だった。
「はい、終わりましたわ。
新しいお寝巻き、お渡ししておきますわね」
「うむ」
ナナリーの体を拭き終えたイリスは、汗の染み込んだナナリーの寝巻きを回収し、用意してあった別の寝巻きを丁重に手渡す。
部屋の外で風晒しに干し、ほどよく冷え気味のその寝巻きは、暑いこの部屋で袖を通せばひんやりして肌にも心地よい。
ナナリーがそれを着るまでの間、イリスはまたもナナリーの額を冷やすためのタオルを、水で濡らして絞って冷やしている。
「……イリス、もうよいぞ。
もう夜も遅い。おぬしもそろそろ、よく寝た方がよいじゃろう」
「え……私は大丈夫ですわよ?
明日の朝が早いわけでもありませんし……」
「ダウィラスが妾に言うておった言葉じゃ。夜更かしは美容の敵、とな。
おぬしの寝不足が祟り、肌が荒れるようなことあらば、妾もおぬしに顔向けできぬ」
柔らかな笑顔でそう言うナナリーだが、主張の押しは強そうだ。
三十時間をゆうに超える時間、ナナリーに付きっきりでいてくれるイリスに対し、そろそろこれ以上はと気が引けてしょうがない顔でもある。
そんな顔をされてしまうとイリスも、いやいや頑張らせて下さいとは言えなくなる。
「……では、お言葉に甘えてお休みさせて頂きますね。
お気遣いありがとうございます、ナナリー様」
「うむ」
イリスは深々と一礼すると、部屋の隅に置いてあった、熱を発する石を回収する。
ナナリー就寝の際には流石に室温を戻すのだ。このままでは暑苦しくて寝付けまい。
窓を開け、一度風を通して蒸れた室内の空気を換気すると、その間に看病に使っていたトレイなども一纏めにして片付ける。
一定、室温が下がったら、再び窓を戸締りして片付けは完了だ。
「それでは、ナナリー様……」
「あ、ちょっと待て。待っておれよ、イリス」
「はい、なんでしょう?」
部屋を去ろうとしたイリスだったが、ナナリーが引き止めてベッドから降りる。
そのまま自分の机に歩み寄って、引き出しの奥から小さな袋を取り出すと、それを持ってイリスの方へと近付いてくる。
何のご用だろう、と待っていたイリスは、一連の行動を見て、まさかという推測も立てている。
「二日間、本当に助かった。
ほんの気持ちじゃ、受け取っておいてくれ」
「い、いや、そんな……!
こんなもの、お受け取りするわけには……!」
「おぬしの献身的な看病に対する、正当な報酬じゃぞ。
妾がそう認めた。何も気にせず、受け取っておいてくれぬかの」
ナナリーがイリスに渡した小さな袋、中身はちょっとしたお小遣いである。
ほんの気持ちとは言うが、女王様から差し出された貨幣入りの小袋の中身、額は決して小さくない。夜の町で一晩豪遊できるぐらいのお金は入っている。
それ以上に、一国の女王様がいち家臣に手渡す金銭というもの自体、金額以上に価値が高すぎる。
「あ、あのぅ、ナナリー様……どうか、その、お収め下さいませんか……?
私は決して、見返りを求めてナナリー様に付き添ったわけではありませんし……
そ、それにその、私めのような庶民には、ナナリー様から直々に受け取るお金など、あまりにも重すぎて……」
「…………」
「あ、い、いいえそのっ……!
ナナリー様がどうしてもと仰るなら、お受け取りするのですが……その、あのっ……」
慣れていない。お国の大上様から、お金を受け取るだなんてこと。
俗な庶民間での話なら、上役が気前良くくれたお小遣いなんて、喜んで受け取っておけばいい。自分のみならず、渡す方だってそれで満足できるはず。
だが、イリスの相手は女王様だ。ちょっと偉すぎる。
そんな人から纏まった大金を、たかが二日間の看病の報酬に受け取るなんて、イリスにとってはすんなり受け取る気持ちになれないのだ。あまりにも身に余りすぎる。
受け取れませんと一生懸命謙って言うイリスだが、こいつは何を言ってるんだという目でナナリーに見上げられると、焦って受け取る選択肢も作り出す。
いくら上層社会に馴染むよう練習してきたとは言っても、やはり元庶民の17歳だ。
思わぬ展開には混乱し、落ち着きを失ってどうすればいいのかわからなくなってしまう。
「……妾からの小遣いなど、受け取れぬと言うか?」
「そうじゃないんです、そうじゃないんです……!
どうか誤解だけはしないで下さい……お気持ちは嬉しいのです、嬉しいのですけど……!」
小遣いの入った袋ごと、イリスはナナリーの小さな手を両手で包み込む。
手を握るような仕草に伴い自らも両膝をつき、ナナリーを見上げる姿勢になり、必死に理解を懇願する目になっている。
「私は、こうしたものを賜るために、ナナリー様にお仕えしているのではないのです……
どうか、ここは、お収め下さいませんか……お願いですので、どうか……」
いや、やはり若さ相応に潔癖さが勝っているのだろうか。
主君からそんなもののは受け取れない、という想いが少し強すぎる。忠誠心の形の一つともとれるが、どうにも意固地。
高潔なる王族に身を委ねる立ち位置を自覚しようとしてきたあまり、ちょっと退きが足りないのも事実か。
裏を返せばその根底には、たとえいかに無償でもナナリーのためならば身を捧げるというイリスの精神が裏付けられているのだが、果たしてナナリーにそれが通じているだろうか。
上手く伝えきる言葉を選べていないイリスといえど、この目と表情で訴えられるナナリーには、幾許かの想いは通じているはず、だが。
「……わかった。ぬしがそう言うのであれば、やめておこう。
すまぬな、無理を言うたようじゃ」
「いいえ、いいえ、まさかそんな……!
お優しいお心遣い、深く感謝しております、詫びの言葉などあまりにも勿体なくございます……!」
苦笑して小袋を握った手を引っ込めたナナリーだが、イリスはもう頭だけ上げた土下座の姿勢でナナリーを見据えている。
ナナリーが机に小袋を片付けに行くのを見届けて、それからようやく立ち上がる。
ナナリーが自分でベッドの方へと行くまで、そこから退出しようとすらしない。動きが乏しい。
「……ではな。今宵はよく寝るのじゃぞ?」
「はい……おやすみなさいませ……」
なんだか気まずい空気になってしまいかけ、イリスは挨拶も控えめに部屋を退出する。
部屋を出てからドアを閉じ、絶対に中に聞こえないよう声を殺して溜め息だ。
正しく対応できただろうか、いや、そんな手応えじゃなかった。
複雑な想いを胸に、しょんぼりと肩を落としてイリスが自室へと向かっていく。
「…………」
思い返すのは、自分を見送ってくれたあの時の、ナナリーの顔。
確かに最後まで、優しく見送るような笑顔で、退出する自分を見送ってくれていた。
だが、付き合いの長いイリスにはわかる。あれは作り笑顔だ。
お恵みをお断りしたせいなのか、あるいは自分の断り方が正しくなかったのか、どちらが原因なのかはイリスにもわからない。
ただ、ナナリーが釈然としていなかったことは、イリスの目にははっきりとわかった。
それも、受け取ってもらえなくて残念、という顔ではなく、どうして受け取ってくれないのか、と、内心ではイリスに快くない感情を抱いている、そんな気配をあの作り笑顔の向こうに感じたのだ。
「ナナリー様……」
不安を覚えてしまう。主君としてではなく、いち個人として嫌われたくない相手だ。
城を追放されるかナナリーに嫌われるか、どちらかを選べと言われても、きっとイリスは前者を選ぶだろう。
そんなイリスをして、ナナリーにあんな表裏ある表情で見送られたことは、少なからずショックなこと。
不意に、いつぞや立ち聞きしてしまったナナリーの言葉が脳裏をよぎる。
バルコニーでハルマの名を憎々しげに呟いたと思しき、あの背筋が凍るような声色だ。
いつかその声の矛先が、自分にすら向くのではないのかという漠然とした不安が、いっそうイリスの胸を締め付けていた。
「……まったく」
イリスがナナリーの部屋から退出してしばらく後の時間帯。
やや呆れ気味、あるいは不機嫌な顔でニトロが城内を歩いていた。階段を上っていく。
ナナリーが風邪を引いてしまった上に、看病役はイリスに取られてしまったことで、衛兵らしい立ち位置からここ二日はじかれ気味だったニトロは、せめて兵らしい仕事をと、城の周囲の夜回りをしていたところである。
普段どおりの仕事がしづらい状況になっても、勝手に仕事を探して働くあたりは、仕事に対して糞真面目などこぞの騎士様とよく似ているものだ。
彼が今にも溜め息でも吐きそうな顔をしているのは、ちょっと叱りたい相手を探しているところだからである。
夜回りの過程で城内を歩いていたニトロは、古参の城兵と顔を合わせて挨拶したのだが、その際その兵士から、さっきナナリーを見たと聞いたのだ。
こんな夜中に屋上の方へと歩いていったぞと。それを聞いた時のニトロの呆れ顔といったら無い。
風邪を引いて仕事もお休みしたのに、快調に向かってきているとは言ったって、風邪がぶり返したらどうするんだと。
不機嫌めな早歩きで、ニトロは城の上層階を歩き回る。叱る対象を探す親のような目つきだ。
既に頭の中には、ナナリーに対面して開口一番に発する、お説教の言葉も数パターン練成されている。
心配させられた側っていうのは、いよいよという時にけっこう怒るのだ。
「ここにもいない、ってことは……」
どこを探してもいない、既にご自室にお帰りであればそれはそれでよし。
あとは残すは屋上のみ。そこにいらっしゃらなければよし、いたら問題、お小言タイム。
屋上への階段を上っていくニトロは、その先に女王様がいないことを内心では望みつつ、いそうな予感に心構えを要される立場である。
さあ、屋上に到達。先客一名発見。
「ナナリー様」
既にちょっと呆れを含んだ声で呼びかけたニトロに、屋上の端で城下を見下ろしていたナナリーが、びっくりしたように肩を跳ねさせて振り返る。
悪い事をした子供が、親に見つかったようなリアクションである。見た目も幼いからいっそうそう見える。
「え……」
「っ……に、ニトロか、すまんすまん、ちょっと寝付けなくてな……
すぐに部屋に戻るから、お説教は勘弁……」
「……泣いておられたのですか?」
「あ、あー、うー……いや、まあ、その……」
風邪引きがこんな時間に外をうろついている様に、お叱りの一つはすべきだと思っていたニトロとて、振り返った瞬間のナナリーの目元を見れば、そんな意識も吹っ飛んでしまう。
振り向きざまに雫が飛んだほど、その目元には涙が溜まっていたのだ。
主君の予想外の涙を前にして、用意していた小言を発せる家臣はなかなかいまい。
「あ、あんまり聞かんでくれ?
心配をかけてしまったことには申し訳なく思っておる。
だからその……な? 今日はもう寝るから、お説教なども明日にしてくれぬかの?」
「……そうですか。わかりました。
夜風が体に障ってはいけませんので、お早めにお休み下さいね」
「うむ。本当にすまなかった。反省するからの」
そう言ってナナリーは、足早にニトロの横をすり抜けて、自室の方へと向かっていった。
背中を見送る立場になったニトロは、用意してあった言葉もすべて無くして、頭がナナリーの涙のことでいっぱいになってしまった。
その理由は語ってはくれなかったが、主君であり許婚でもあるナナリーが泣いていたという事実には、やはりニトロも個人的に気が気でなくなってしまう。
涙の理由は憶測を立てる他ない。
責任感の強い女王様だ。風邪を引いて仕事に穴を開けてしまったことや、あるいはふとこうして休みを経て、看病などを経て、いかに自分が愛されてるかを再確認したことなど、ニトロにも想像することは出来る。
きっと、その辺りだろうと思うのだ。ニトロの知っているナナリーは、そういう人だから。
気丈に見えても脆さは年相応にあるし、立場ゆえに人に弱みを見せたがらないことも想像できるからこそ、こんな夜長に風に当たりながら、何かを想い馳せていたのだろうと推察するしかない。
病み上がりの体で外をうろついていたことに対する怒りなんて、後日にでも少し言えばいいだろうとニトロも割り切ることにした。
あの奔放ぶりや無茶が過ぎる姿勢に苦言を呈することの多いニトロとて、自分の知らない苦悩を抱えられている女王様を想像すると、やはり口出しも弱くなる。
自分も自室に戻る中、ニトロは、ナナリーの風邪が治ったら、今までよりもずっとよく、ナナリーの力になれるようにしようと、意を改めて決するに至っていた。
風邪休みを明けたナナリーのそばで、再び衛兵として仕える翌々朝を見据えてだ。
その"二日後"が、果たしてニトロの想定していたとおりに、必ずしも訪れるものだろうか。
この翌日、ナナリーの身に起こることなんて、国内でも数名を除いて誰も想像できなかったのに。
悲劇に予兆などあるとは限らないのだ。だからこそ、災厄を未然に防ぐのは難しい。
「随分お熱も下がりましたわね、ナナリー様」
「うむ、これもイリスの看病のおかげかのう。
改めて、礼を言うぞ」
「うふふ、勿体ないお言葉です」
風邪もずいぶん治ってきて、今日からでも政務に戻れそうなほどまで回復したナナリーは、イリスと仲良く笑顔を交換していた。
完治を最優先し、大事を取って今日も一日安静のナナリーだが、この体調であと一日休めば、いっそう明日には元気な体で、普段どおりに過ごせるだろう。
休日生活にいくらか慣れたか、働きたいと駄々をこねるナナリーの姿もなく、真昼日の王室にて旧友同士の、穏やかで和やかな会話があるのみだ。
「イリスももうよいぞ。連日、本当にご苦労であった。
もう大丈夫じゃ、あとは妾もおとなしくしておるし、そろそろな?」
「え、結構ですよ?
私は単に、こうしたくてしてるだけですから」
「まぁそう言うな、おぬしならそう言いそうじゃとは思ったがな。
それにその、な? そろそろ完調じゃと自覚があるのに、あまり手を焼いて貰っては妾としても心苦しい」
にへと笑って、ちょっとぐらいは一人になりたいという態度のナナリーに、イリスも返事を失ってしまう。
仰ることはもっともだ。ナナリーも女王である以前に一人の人、過剰に世話を焼かれては肩身を狭く感じたりもするだろう。女王様に献身するイリスの姿勢は間違いではないが、時と場合も多少は考えるべきか。
「……かしこまりました。
では、私は退出致しますが、何卒ご安静にあらせられて下さいね?」
「んむ、勿論じゃ。
せっかくイリスに看病して貰ってここまできたのに、またぶり返しては愚の骨頂じゃからのう」
「あ、では最後にお水だけ汲んで参りますね?」
「おお、そうかそうか。助かるぞ」
退出宣言したイリスに返事して直後、枕もとの水差しの中身を、グラスに注いで飲み干すナナリー。
水差しからの水の出方からして、それで明らかに水差しが空になった。それを見たイリスが、最後の気遣いを見せた形である。
ナナリーから水差しを受け取って退出し、しばらくしてから水の満ちた水差しを持ってくる。
どうぞ、うむ、のやりとりをして、イリスの仕事は完了したと言えそうだ。
「それではおやすみなさいませ、ナナリー様」
「うむ」
ベッドで上体だけ起こしたナナリーに一礼し、部屋を去っていくイリス。
見送るナナリーはふぅと息をついて小さく笑う。まだ昼なのにおやすみなさい、要するにうろうろするなと、失礼ないよう釘を刺してきたようなものであろう。
愛されていることを実感するナナリーの表情が綻ぶのは自然なことだ。
しばらく天井を仰いでぽやーっとしていたナナリーだが、連日寝すぎですぐに眠りにはつけそうにない。
時間が経てば喉も渇く。ある程度時間が過ぎたところで体を起こし、また水差しに手をかける。
その水差しの中身をグラスに注ぎ、口にして、その僅か数秒後。
詰まるような息遣いと共に、グラスを落として割ってしまうナナリーにより、足元の絨毯にはじんわりと悪しき水が沁み広がっていった。
「――ナナリー様!?」
はじめ、異変に気が付いたのは、一人の若い女中だった。
壁に手をかけ、立って這うように自室を出てゆらゆらと歩を進めるナナリーの姿を見れば、城内の者なら誰だって血相変えて駆け寄ろう。
明らかに異常なナナリーの姿を見て、女中の顔色すらも悪くなる。
「い、医者を、呼べ……!
妾の、部屋に……」
「ひ……!? なっ、ナナリー様……!?」
「い゛……イリ、スも……」
女中が悲鳴をあげたのは、うつむいたナナリーの口元から、血が流れ落ちていたからだ。
駆け寄ってくれた女中に顔を上げるナナリーの顔色も、風邪を引いて赤い顔の逆、まるで全く別の病に罹ったかのように真っ青である。
部屋を這い出てきたナナリーは、ようやく人に巡り会えたところで力を使い果たしたかのように、よろりと女中の方へと体を傾けてくる。
口元から血を流す女王様を、エプロンに血が沁みることも気にせず、必死に女中が抱き止める。
小さな体でこんなに重いのは、彼女に全く立つ力がないからだ。
「だ……っ、誰か、誰かあっ!
ナナリー様が大変なことに……誰か来てえっ!!」
半ばパニックを起こしたかのように叫ぶ女中の声に、間もなく人が集まってくる。
駆けつけた者達がナナリーの様相を見て、例外なく血の気が引いたことは言うまでもない。
その身を蝕む毒に意識を失いかけたナナリーが、か細く呼吸を繰り返すその姿には、風邪を引いて弱っていた前々日の姿も懐かしくなる。
血を吐くナナリーの姿を見て、女王暗殺の二文字を連想した者は少なくなかった。
女王ナナリー襲名以降、間違いなく過去最大の事件。
しかしそれすら、この後に起こることを思えば、セプトリア王国そのものを蝕む毒が動き始めた、ほんの始まりの一事に過ぎなかったのである。




