第43話 ~トージュの沼釣り~
「わー、綺麗! 意外って言ったら失礼かもですけど、ものっすごい綺麗ですね!」
「ここは村の貴重な食料源でもありますからね。
奔放な村人らではありますが、この沼だけは絶対に汚さない不文律があるんですよ」
翌日の朝。
宿で一夜を明かしたユース達は、村の北部にある大きな沼へ、ハルマに案内される形で赴いていた。
不衛生を絵に描いたような全容のトージュの村だが、こちらトージュの大沼と呼ばれるこの湖沼は、実に綺麗で水も澄んでいる。
遥か昔、ここに村を作る時にも拠り所として選ばれた沼であり、村の歴史を語るにおいてははずせない名所だ。
生息する魚も多く、釣りをすれば食料も確保できるので、沼の近くに居住区が無いのは、この沼が汚されることがないようにするための配慮でもある。
お世辞にも民度が高いとは言えないトージュの村は、居住区周辺は煙草の吸殻などを筆頭とするごみが、あちらこちらにポイ捨てされているので。
一方、村全体にもこの沼を汚さないようにという暗黙は浸透しているようで、沼のほとりを見てもごみ一つ無く、沼の水に人為的な淀みは一切ない。
釣りをしに来る人がいる以上、訪れる者がゼロというわけではないのである。喫煙者も来よう。
その上で、汚くされないよう意識が届いているのは確かであり、村人たちもこの沼に対してのみは、特別な意識を割いているのが見てとれる。
「さてさて、釣具はあちらの小屋にありますので。
さ、参りましょう。今日はたくさん釣って帰りますよー」
今日はそんな目的でこの沼を訪れたハルマ達。
沼にはほとりから伸びる桟橋が、あみだ目のように枝分かれして拡散し、沼の南部広くに足の踏み場を確保している。
沼のそばに設けられた、釣具や釣った魚を入れるための魚籠、水槽が山盛りの物置小屋に向かって歩くハルマに、ユースとアルミナ、カナリアも追従する。
「ハルマ様って都会派イメージありますけど、釣りの経験とかけっこうあります?」
「あれ、アルミナさんはそう思うっすか?
あたしはハルマ様、遊び人のイメージあるから釣りとかやってそうなイメージあるっすけど」
「私に対して皆様が抱くイメージが割れてて面白い。ちなみにユースどのはどちら寄り?」
「えっ、あー……まあ、なんでもそつなく出来そうなイメージあるので、得意そう、かな?」
「いやぁ、困った。私はいつの間にか、そんな幻想を抱かれるキャラになっていたんだなぁ」
はははと笑いながらのハルマだが、彼に対する世間の見方は割れがちだ。
叩き上げの武人にして現参謀職、その肩書きから人々の多くはハルマに、仕事の出来る、なんでもそつなくこなす大人の人物像を描きがち。ユースはそう。
王城暮らしの国家要人たるハルマ、あるいは色町にも詳しかったハルマの姿を彼の人物像として見てきたアルミナが、彼を都会派と思うのも自然なこと。
一方で、ハルマとの付き合いが長いカナリアのような相手には、遊び人気質だと思われる。
どれも間違ってはいない。
「若くて暇がある時は時々やっていたんですが、大人になってからは忙しいことばかりで、釣りで遊ぶ時間も殆ど取れませんでしたからねぇ。
人並み程度に出来て、でも腕はもう初心者の域になまっているだろうな、というのが自己評価イメージです」
「そんなこと言いつつ、さらっと釣りまくってくれそうなイメージがハルマさんにはあるなぁ」
「まーたアルミナどのまでユースどのみたいなことを。過大評価ですよ」
あんまりハードルを上げてくれるなと笑いながら、ハルマは物置小屋に入っていく。
手際よく必要なものを選び、これはユースとアルミナが持っていって下さい、これはカナリアに任せた、と渡してくる手際は良い。
釣竿も何気に質のいいものを選別しているし、経験者ゆえに、もの選びの目はよく利いている。
必要なものを手にすればさあ沼へ。桟橋の方へ進軍開始。
今日はたくさん、鮮魚が釣れれば望ましい。
「村の皆様にお魚を釣ってあげるお仕事、かぁ。私、力になれるかなぁ」
「お仕事感よりもボランティア感の方が強いっすよね」
「見方を変えれば、国民の幸せのために何かをやるのは、国に仕える立場からすれば仕事のようなものです。
よって今日の私の釣り作業はボランティアであり、仕事でもある。うむ、穴はない」
「ハルマ様って、遊びながら仕事する言い訳を作るのに慣れ過ぎっすよ。
市場調査に行く名目で色町に遊びに来たり、お祭りの哨戒任務の名目で出店を堪能したり」
「今日の私は公的にも非番扱いだ。名分なしに遊んでいても誰も文句は言わん。外堀は埋まっている」
「流石っすね」
「なにが流石なんだ? ん? なんだいその諦めたような渇いた笑いは? ん?」
「ひゃっ、ごめんなさいっ!」
元より親しいカナリアは、ハルマとの掛け合いも馴れ親しんだものであり、軽口を叩いて笑顔のハルマからお仕置きを受ける展開までも早い。
釣った魚を入れるための水槽を抱えるカナリアは両手が塞がっており、魚籠と釣り餌しか持っていないハルマは片手を空け、その片腕を後ろからカナリアの首に巻きつけてロック。
そしてその手でカナリアの首の後ろ、首筋をこちょこちょ。水槽を下ろすために腰を下げたいカナリアを、顎に肘あたりを引っ掛けてしゃがませず、両手が塞がったまま逃れられない状態をカナリアに強いる。器用だ。
「ごめんなさい、ごめんなさいってっ! あたしが悪かったっす、あはははっ……!」
「よーし、素直でよろしい。いつもそれぐらい素直な子でいるなら尚良い」
くすぐられて笑っている部分もあるが、ハルマに乱暴な触り方をされても不快な顔をしていない辺り、カナリアもハルマには随分と心を許しているのがわかる。
たとえ女相手のアルミナにも、みだりに体を触らせないぐらいの貞操観念であるカナリアをして、これは余程なついている証拠だろう。アルミナのそれは、手つきがいやらしいせいもあるが。
和気藹々とした空気の中で、四人は桟橋に足を踏み入れ、沼の真ん中へと歩いていく。
やがてはハルマの定めてくれた釣りスポットにて、釣り作業のスタートである。
「珍しいですね、シリカさんが野菜切ってて指に怪我するなんて」
「……なんだ、何が言いたいんだ」
ちょうどその頃、朝食を終えてしばらくの、昼と呼ぶにはまだ随分早い時間帯のセプトリア王都。
朝食の準備をしている時に、包丁でちょっとだけ指を切ってしまったシリカが、ちょっとへこみ気味の顔で絆創膏を貼り変えていた。
普段の彼女なら絶対にやらないような凡ミスだ。みんなの朝食を作るのは、四年以上やってきていることである。
「朝になったらユースもアルミナもいない、自分の離れたところで二人一緒。
改めてその状況を再認識したあなたが、朝っぱらから上の空なのは予想できたことでしたし」
「……別にそんなことない」
「はいはいそうですか」
案の定、図星ど真ん中をつついていじってくるチータに意地めいたことを言い返しながら、ふくれっ面のシリカは絆創膏の貼り変えを完了。
そんな中でも、頭の中からあの二人のことを締め出せず、目線がいまひとつ泳いでいるシリカの表情を見て、思ったよりも早かったなぁとチータは内心で笑っている。
早くて今晩ぐらいに落ち着きを無くすかなと思っていたところ、今朝からこれでは今日一日、この人何にもまともに手がつかないだろうなぁとしか思えない。
「午後になったら訓練場でルザニアに剣術指導でしょう?
見くびるつもりはそんなにないんですが、流石にそれはちゃんとやってあげて下さいね」
「それはちゃんとやる。絶対に」
これは大丈夫らしい。実際大丈夫だろう、剣のことになれば雑念は捨てられる人だ。
逆に言えば、剣が噛んでいても集中力を失ったりするようならあまりにも重症だ。
「……っていうかチータ、"そんなに"って一言多いぞ」
「突っ込みが遅いです。本当、いつものあなたじゃなくなってますよ」
今の有り様では何を言っても反撃として不充分である。
いけない、しっかりしなきゃ、と、不甲斐なさの意味で顔を少し赤くしたシリカが、両手でぎゅぎゅっと顔を拭くような仕草で、自分に気合を入れ直す。
さて、何時間でそのおまじないの効力が切れるだろうか。
チータは、ルザニアとの稽古が終わったらすぐだと読んでいる。
「ユースそれどうなってんの? あんた魚がよく釣れる魔法でも使ってんの?」
「す~ごいっすねぇ……何匹釣って帰る気っすか?」
「いや、まあ……俺も思った以上にかかっててびっくりしてるけどさ」
沼の釣りスポットで釣り糸を垂らしていた四人だが、注目はユースが釣った魚を入れる水槽に集まっている。
釣るわ釣るわのユースは一時間足らずで、もう二十匹以上の魚を釣り上げている。
たくさん釣れればいいよねの願をかける意味で、あらかじめ大きめの水槽を用意していたハルマだが、結果的に魚でいっぱいの水槽を見るに、敢えて過度に大きめのこれを選んだのが正解だったらしい。
たくさん入る魚に伴い、水槽の水位はそれなりに高くなり、跳ねれば魚が水槽から逃げかねないので、きっちり蓋をしているぐらいである。
「もともとここは、ものぐさな村人が釣りを嗜むことも少ないせいもあり、山ほど魚が生息していますからね。
場所の選定さえ正しければ、あまり慣れていない人でも釣れるという部分はあります」
「実際私でもちょっと釣れてますもんね。三匹だけですけど」
「それはそれでたいしたものですけどね。本当に初めてですか?」
「初めてです、えへん」
「にしてもホント凄いっすよ、ユースさん。何気に釣ってるハルマ様にもだいぶ差つけてるでしょ」
「まったくだ。自称たいしたことないよ~、からの案外釣れているこの展開、私がカッコイイ空気になりそうだったのにユースどののせいで霞んでしまう」
「つーかここ、メチャクチャ釣れません? 俺の田舎の故郷でも、こんな釣れるスポットないですよ」
「おうおうユースさんや、それは三匹しか釣れてない私へのイヤミですかい」
「お前初めてだろ、しょうがねえだろ」
「知ってる~。でも初心者の私でも釣れてるからけっこう楽しめてるよん♪」
最多数の釣り上げぶりは断然のユースで二十匹以上、ハルマも事前にああ言っていた割には既に十五匹超釣り上げており、こちらもなかなかである。
確かに彼が冗談めいて言うとおり、ハルマもなかなか見せ場を作って見せられているのだが、これではユースの方が目立ってハルマは霞みがちだろう。何気に結構な腕なのだが。
平凡な、ちょっとかじった程度の腕のカナリアが既に八匹、完全に釣りが初めてのアルミナでも三匹の釣り上げを確保しているのだから、確かにユースの言うとおり、この釣りスポットはかなりかかる方であろう。
そんなみんな、自分の釣竿に黙々と集中してだんまり釣りしているわけでもなく、雑談しながらほのぼの片手間にやっていて、一時間足らずでもう計五十匹近くの魚を釣り上げているわけだ。
もっとも、それにしたってユースは釣り過ぎだが。
「ユースってなんか意外なとこに、突き抜けた才能の趣味持ってるよね。
騎士っていう立ち位置からは想像できないとこにばっかり」
「剣の才能の方が欲しかったけどなー」
「いいじゃん、強いだけの人間なんてつまんないよ。私はそういうあんたの方が、一緒にいて面白い。
時々びっくりさせられるしさ。あんたがこんなに釣り上手いなんて初めて知ったし」
「あー、アルミナと同じ隊になって以降は、確かに一度も釣りなんかやってなかったなぁ。
ラヴォアス様の小隊にいた時は時々やってたんだけ……っと、またかかった」
並び座ったユースとアルミナ、語り合う間にまたユースの釣竿に手応えあり。
しなる釣竿をくいくい手元を操って左右させ、糸の端の釣り針に食らいついた魚の動きを抑制し、危なげなく釣り上げる。
未経験者のアルミナの目から見ても、技術を感じさせる手さばきのユースだが、たいして表情を変えることもなく、悠々とやってのけるその姿は職人芸のよう。
これは慣れている。明らかに、相当慣れている。
「ユースさん、剣や釣り以外にもなんかすごいスキルがあるんすか?」
「こいつ案外文化系よ。掃除丁寧いし、裁縫得意だし、料理上手いし」
「主婦っすか?」
「ナイス比喩」
「ナイスじゃねえよ、アルミナお前突っ込み誘導が露骨すぎるぞ」
「他にもそうだなー、花言葉や星座に詳しい、字が綺麗、あとダーツめちゃくちゃ上手い、とかかな」
「アルミナの中での俺の人物像がなんとなくわかってくる」
「あんた文化系で家庭的よ。騎士やってるの、改めて思うと不思議なぐらいに」
「まー俺、昔は商人様に憧れるような子供だったしなぁ。
根は本来武人向きじゃない、って言われたら、もしかするとそうかもって思ったりもする」
「意外っすねぇ。ユースさんあんな強いのに、武道とは真逆の技や知識てんこ盛りじゃないっすか」
「逆にカナリアちゃん、武人が持ってそうな才覚っていったらどんなの想像する?」
「そうっすねー、酒に強いとか大声で歌うのが上手いとか、あとは狩りが上手とか?」
「あはは、全部ユースには無いタイプの才ね。ユースお酒強くないし、大きい声で歌うとか苦手だし」
「なんかああいうの恥ずかしくねーか?
アルミナとか結構きれいな声張って歌ってるの見たこともあるけど、俺ああいうの絶対できねーよ」
「そうかなー。私は人前で歌うの結構好きだよ? すっきりするじゃん」
「アルミナさん歌えるんすか?
んじゃ今度、機会があったら、あたしがなんか弾くから歌って下さいよ」
「え、カナリアちゃん何か弾けるの?」
「バイオリンいけるっすよ。色町の芸で練習しましたしね」
「えーマジ!? 凄いじゃん、今度ぜひ聞かせてよ!」
「機会があったらっすね。そん時はアルミナさんも美声よろしくお願いするっすよ」
若い三人の会話が弾み始めると、敢えてハルマは何も喋らなくなる。微笑ましく見守るに徹する。
だんまりで、今もさりげなく一匹釣り上げたハルマだが、しなる釣り竿なんて殆ど見ず、楽しげな若者の姿から目を離さない。
彼は今を輝かしく過ごす年下の姿を見守ることの方が、釣りよりもずっと楽しいようだ。
「ハルマ様は、ダーツとかは上手いんじゃないですか? 勝手なイメージですけど」
「お、よくわかりましたね。私はだいたい狙った所、どこにだって当てられますよ」
「じゃあ今度ユースと勝負してみてくれません? こいつメッチャメチャ上手いですよ」
「ハードル上げるなよ。お前の前でやった時は、あれは相当上手くいった方だぞ」
若者の弾む会話に水を差さぬよう黙っていても、アルミナが巻き込みにきてくれるからハルマも嬉しいものだ。
別にわざわざ混ざりたいと熱望するわけではないにせよ、歓談を前にして、あなたも混ざってと歓迎されるとやはり楽しいものである。アルミナは、仲間はずれを作らない。
「ふふふ、ユースどの、私もけっこうダーツには自信がありますよ。
今度いっちょ勝負してみませんか? 場合によっては、ナナリー様の前での御前試合なども面白そうだ」
「えーそれは勘弁ですよ、緊張するじゃないですか」
「ナナリー様はそういうの大好きですよ。あのお方も執務続きでお疲れでしょうし、たまにはそんな余興があってもいいと思うのですが」
「いいじゃんユース、やってみようよ。
あんたのスキル使って女王様に余興を提供できるなんて、あんた想像もしてなかったでしょ」
「そりゃそうだよ、そうだけどさー」
「光栄な仕事だぞー?」
「お前、見たいだけなんじゃないのか」
「だとしたら私への接待にもなる。つーか、して?」
「……まあ、ナナリー様に迷惑じゃなかったら、そういうのもいいかもだけど」
「よし、決まった。今度そういう段取りを組んでおきますね」
「決断早いですねぇ」
「参謀職は、決断と計画遂行の速度が求められる立ち位置ですので」
今日の会話が弾めば未来の楽しみも作っていける。これが今を楽しく生きる秘訣というやつの一つ。
今日だけを追って必死なばかりになりがちなのが社会人というものだが、そんな世界の中で毎日を希望とともに歩んでいくためのコツがあるなら、案外それは、こんなありふれたことなのかもしれない。
「帰るのは明日ですよね。それじゃ、明後日にでも……っと、来たっ!」
続けざまに話を繋ごうとしたアルミナだが、ここで釣り竿を持つ手に手応え。
ハルマの方を向いていた顔を竿の方へ向け、獲物を逃さないスナイパーの強気な顔になる。
「お、アルミナかかったか。頑張れよ」
「ひっさびさの当たりだぜ~。逃がさ……なあっ!?」
事件発生。思わずアルミナは前へとつんのめり、沼に飛び込む寸前でぎりぎり堪えた。
これまでに釣り上げた三匹の魚とは全く異なる、もの凄い引きである。
油断していたところにこのパワー、銃を使い慣れて密かに腕力もあるアルミナでなかったら、本当に水に飛び込ませられていただろう。
「ちょちょちょっ、何コレ何コレぇ!?
すごっ、やばっ、落ちっ……ゆ、ユースっ!」
「え、待っ、なに、ちょっ」
重心を思いっきり後ろに傾けて耐えるアルミナの挙動が普通じゃない。表情にも焦りの色が凄い。
ただ事じゃないことを察したユースが自分の釣り竿を素早く桟橋に引き上げ、アルミナの後ろに回って――一瞬止まる。
仮にもアルミナ女の子、みだりに触りに行くのはユースも躊躇が入ったのだ。
妥協案としてユースが選んだのは、後ろからアルミナの両肩を持ち、前に引っ張られる彼女が、沼に引っ張り込まれないよう引き止める力の加え方である。
「ちょわーっ!? おかしいおかしいコレ絶対おかしい! バケモンでしょコレ!?」
「なっ、えっ、アルミナっ、お前なに引っ掛けた!? 何だコイツ!?」
「知らないわよー! これホントにただの魚!? 魔物とかじゃないよね!?」
ユースがアルミナの肩を握って引いた途端、アルミナがちょっと安心したのか、引く力に一瞬休みを入れたのだ。
間の悪いことに、まさにその瞬間、釣り針をくわえたお魚様は勢い良く沼底へと潜ろうとし、もの凄い力で糸と竿越しにアルミナを、そして彼女の肩を持つユースを引っ張り込もうとする。
ユースにもわかった。こいつはマジで大物だと。
きっと腕力に秀でるユースでも、釣り上げるのが大変なぐらいのどでかい奴だ。
ちなみに魔物ではない。ただの大型魚。
「アルミナっ、俺の手に合わせろよ……!」
「え、はいっ、よろしくお願いしますっ!」
これじゃ駄目だ、やばいと思ったユースは、少し前にアルミナに触れることを躊躇した雑念も一瞬で飛ばし、竿を握るアルミナの両手のすぐ下を握った。
二人で肩を寄せ合って、一本の竿の握って力を込める。この間にも、釣り糸の先で暴れ回っている大物は、竿をしならせ二人を振り回そうとしてくる。
「ゆっくりこっち……!
次は上、行きすぎもう少し下、そうそうそのまま……次は右!」
「ちょ、ちょ、ひ、引っ張られる引っ張られる……!
だ、大丈夫よね!? これホント大丈夫!?」
「焦ると糸切られたり竿が折れたりする……!
焦るなよ、このままじっくり……!」
涼しい顔で何匹も魚を釣り上げていたユースが、真剣な顔で汗水たらして竿を操るぐらいの強敵だ。
初心者で、初日にこんな怪物とエンカウントしてしまったアルミナの慌てっぷり、焦りっぷりったらないが、ぎしぎししなる竿を見る不安より、ユースの顔を見ることに意識を傾けて不安を拭い去ろうとしている。
竿が折られるんじゃないかという光景を目にする不安より、頼もしい人を見る方が安心できるというメンタルコントロールを、アルミナが本能的に選んでいる。
「そうそうそう、引いて引いて……!
もがいたっ、今度は右っ、ここは強く!」
「ひゃっ、はわっ、すごっ、やばっ、だだだ大丈夫よねっ、ねえユースっ、ユースっ!」
「何とかする……! 逃がしたくないだろ、こんな大物っ!」
「あったりまえでしょーっ!
ユース絶対放さないでよっ、あんただけが頼りなんだからっ!」
「放すわけな……いけるいける、次は上っ、上っ、今より強く!」
「……ハルマ様、あたしも手伝った方がいいんすかね」
「普通はそうだが、聞く時点で」
「やっぱそうっすよね。邪魔しづらいっすよね」
竿を強く右に振る際には、二人そろってぐーっと右に体を傾け、竿と相棒の顔を交互に見る二人の目がしばしば合って。
二人とも必死。全身全霊でこの共同作業に、楽しむ暇もなく熱中している。
当事者二人は周りを見る余裕もなさそうだが、傍から見る限りでは、なんとも仲のいい限りとしか。
ぼそぼそ二人に聞こえない小声で疎通し合うカナリアとハルマだが、なんとなく今のユースとアルミナの共同作業に、第三者が加わるのは無粋な気がして、本来手助けすべきようなこの場面で傍観者である。
「よしよし、あと少し……!
もう見えてきた、焦るなよ、もう少しだから……!」
「う、うん、でももう思いっきり引っ張っちゃダメ……!?」
「糸が切れるからもう少し待て……!
焦るなよ、揺らして、上げて、そうそう少しずつ、その力加減で……!」
時間をかけて、魚の動きに合わせて竿を操って、じっくりユースが魚を水面近くまで引き上げていく。
綺麗な水面ゆえ、獲物の影が見える水面下までぼんやり見えていきている中、アルミナも気が急きそうだ。
ユースの制止する声を信じ、苦闘の中で手に力を込めながら、しかし加減を利かせて辛抱する。
その甲斐あってか、桟橋から離れた水面にいよいよ最接近した、大きな魚のシルエットも鮮明になってくる。
「……今だっ! 引けっ、アルミナっ!」
「ラジャー……っ、ひゃわあっ!?」
「だわ!?」
ここで引けばフィニッシュ、そのタイミングでユースが発した声に応じて、アルミナは全力で竿を振り上げた。
先述のとおり、アルミナは見た目以上に力持ちなのだ。そこに、ユースが竿を振り上げた力も加わる。
二人ぶんのフルパワーは、水面近くでもがいていた魚を一気に大気の世界へと引き上げ、それと同時に抵抗力を失った魚は、二人の竿が引かれる力をゼロにする。
二人がかりの勢い余ったパワーは、背中から桟橋の上にこてんと倒れるユースと、その上にそこそこの勢いで背中から倒れてくるアルミナという、なかなか不格好な結末を導いた。
沼底から引き上げられた巨大魚はべしんと桟橋の上に転がり、駆け寄るカナリアの目の前でびちびちと跳ね暴れている。でかすぎて元気すぎて水しぶきがすごい。
「でかっ!? ハルマ様、これ凄いっすよ!?」
「これは確かにすごい。沼のぬしとかじゃないよな、まさか」
想像を絶する大きさであった。
どれぐらいって、右手を真横に広げてたら、その指先に魚の口が、左腕の付け根に尾の端が来るぐらい。
運ぼうとしたら間違いなく、両腕全体でのっしりと抱え上げないと無理だ。
「ちょ、どいてくれ、アルミナ……」
「えっ、あっ、ごめんユース……わっ、何ソレ!? でかっ!?」
大物を釣り上げた達成感と興奮で、倒れたユースの上に乗っかったまま、はぁはぁと息を切らして呆然としていたアルミナ。
下敷きにされたユースが、アルミナの両腕をくいくいと押し上げる仕草と声で、ようやく我に返ってユースの上からころりんと我が身をどかせる。
そしてふと自分の釣った魚を見たら、もうユースに謝っていたことも忘れたように驚愕だ。
これは仕方ない。本当にでかいんだもの。
「これ、持って帰れませんねぇ。
せっかく釣り上げてくれたのに申し訳ありませんが、湖に返しません?」
「あー、残念だけどそれがいいかもですねぇ……
なんかこのレベル釣り上げたら、生態系壊しそうな気もする」
「そこまでいくことはありませんでしょうけど、持って帰って食べてもバチが当たりそうな予感が漠然と」
「ハルマ様、冗談で沼のぬしとか言ってたっすけど、なんかマジでそんな風にも見えるっすよね。
確かにこれ何となく、食べちゃダメなような気がする」
別に特別な魚でも何でもないのだが、いかんせん大きすぎて持って帰る手段が無い。
水槽に入れたら、下手すると他の小さな魚も食いかねない。
かと言って、現在水槽に入っている大量の魚も、こいつに水槽を取られたら他に入れ物がない。
沼のぬし様にでも見える、食べたらバチが当たりそう、というのは、感覚的な話でほぼ冗談なのだが、言うなればこれはむしろ、持って帰る手段のないせっかくの大物をリリースする、言い訳作りのようなもの。
びたんびたんと桟橋の上で跳ねる元気な大物は、早く沼に帰りたそうに苦しそうだ。
「ユース見て見て! これすっごくない!?」
「お、おぉ……これは、凄いな……」
アルミナのように、ハイテンションで驚きを口にするタイプのユースじゃないから、傍目から見た彼の人物像に適した反応で、誰も違和感を感じなかった。
今のユースは、ちょっと別のことに頭を支配されていて、それどころじゃなかったのだが。
きっと彼にとっては幸いなことに、その真意は誰にも知られていない。
何故だか今のユースの胸は、興奮とは違う意味でとくとく騒いでいる。
「残念だけどユース、これやっぱり沼に返すね? どうせ持って帰れないしさ」
「あー、まあ、そうだな……いい思い出にはなったし、充分だろ」
あぐら座りで同意してくれたユースの言葉を受け止め、アルミナはのっしりとしたその魚を抱きかかえて持ち上げ、沼に返してあげた。
運ぶまでの短時間で、びちびち暴れた魚により、アルミナは水びたしにされてしまったが。
「ひゃー、暴れん坊だったなぁ。でも私達の勝ち!」
「見事でしたね。釣り上げたのは誇るべき勝利ですよ」
「あたしだったら、あんなの一人じゃ絶対に無理っすよ。ユースさんの力もあっての、二人の大勝利っすよね」
二人で大きな成功を勝ち取ったことを強調するカナリアの言葉に、うんとうなずいたアルミナがユースへと近付いてくる。
座ったままのユースの前で、膝を曲げて中腰になって、濡れた前髪を左手でかき上げながら右手を差し出す。
「ありがとユース、助けてくれて」
「あ……うん……」
アルミナを見上げつつも、照れたように目線が少し横に逸れがちになりながら、ユースは右手でアルミナの手を握った。勝利の握手というやつだ。
へへ、と嬉しそうに笑ったアルミナがまたユースの隣に座り、釣り竿を握って次の戦いに臨まんとする。
ユースも同じく、自分の釣り竿を改めて手にし、二人並んでの釣り作業の絵図が再び出来上がる。
「またああいうの、かかるかな?」
「さぁ……一日に二回も、あんなのかかることはないと思うけどなぁ」
「また来たら、またヘルプお願いするからね?」
「……うん」
ユースと顔を合わせ、さぞかし楽しそうな明るい笑顔のアルミナとは対照的に、ユースは顔はアルミナの方を向きつつ、目のやり場に困るように目線を不確かにさせていた。
アルミナには、頼りにされていることに照れているユースに見えただろうし、同じ解釈をするハルマとカナリアの目にも、仲睦まじき二人の光景にしか見えなかった。
ユースは、それどころではなかった。
アルミナに上から乗られた時、普段まったく意識していなかったことを、強く思い出してしまったのだ。
アルミナも、女の子なんだって。
力強く、勇ましく、戦場を駆ける彼女ではあるが、自分の体全体で触れたアルミナの体は細くて柔らかくて、性の違いをユースに強く意識付けるには充分すぎるものだった。
自分の上に乗っかっていたアルミナに触れる際、控えめに腕を下から押すことしか出来なかったのもそのせいだ。
アルミナの二の腕も、ユース自身のそれとは違って柔らかく、強く握れば血が出てしまうんじゃないかとさえ思ったほど。
アルミナが自分の上からどいてくれて、ユースが自分の体を起こしつつも、呼ばれるまで釣り上げた大物の確認すら出来なかったのは、胸の奥が騒がしくてそれどころじゃなかったからである。
ユースはアルミナといつも一緒だった。四年以上だ。
彼女が女の子であること自体を忘れたことは無かったが、気兼ねなく何でも話せて、他愛のない憎まれ口だって気安く叩き合えて、戦場では最も頼もしいパートナーとして認識して。
そんな日々が長々と続いてきた中では、隣にいるこの人が女性であることだって、他のもっと強い意識、親友認識や信愛感情で薄れ、当然過ぎて意識の外側へと逃げていってしまう。
「またこういう機会があったら、今度は細かく教えてよ。釣り、私けっこう好きになれるかもしんない」
「……そっか。次があったら、今度は色々教えてやるよ」
「ふふ、楽しみ。ユースいっぱい技持ってそうだし、いっぱい伝授して貰えると嬉しいな」
普段のように話しかけられても、見方が変われば返しも普段どおりに出来なくなる。
何よりも、暴れた魚にふっかけられた水のせいで、アルミナの髪についた水滴がきらめいて、普段の彼女とは姿すら様変わりしているのだ。
それが劇的に、ただでさえ可憐なアルミナがたまらなく綺麗に見えるほど、性の意識はアルミナを見るユースの目を、その光景世界を一変させてしまう。
こいつ、ここまで可愛かったっけ、と思わず心の中でつぶやいてしまった瞬間、静まりかけていたユースの胸が、再びことんと鳴ったのは、誰の耳にも目にも届かない、小さな小さな大変動。
エキサイティングな思い出の余韻に浸りながら、次はどんなのがかかるかな、と、釣り糸と水面の境界点を見つめるアルミナの横顔を、なぜだかユースはこの後一度も、直視することが出来なくなっていたのだった。
たくさん魚が吊れたので、予定よりも早くこの釣り遊びはお開きとなった。
魚籠と水槽にこれ以上、魚が入らなくなってしまったのだ。
村人へのお土産の獲得としては大成功であり、桟橋から引き上げ、台車に水槽や魚籠を乗せて村までそれを運ぶ四人の会話は、戦利品をがっぽり稼いだハンターのように、揚々と心地よく弾むばかりであった。
その明るい歓談の中にあって、ユースの口数が普段より少し少なかったことに、誰も気付くことは出来なかった。




