真名
「近頃地上界に頻繁に降りてるそうじゃない、何か楽しいことでもあるの?」
天上界の柱たる天主に歌や楽奏を捧げるのは仙女のつとめ。
天界にて天主に他の仙女たちと音楽を奏で捧げ終えた後、ユーリは友人たちにひきとめられた。
「ユーリ、面白い遊びが見つかったら教えてくださらなきゃ」
「天主様に叱られないくらいの悪戯なら、ぜひご一緒したいわ、ユーリ」
「別に……ただ、美味しい花を見つけただけじゃ」
ユーリがぼそりと答えると、ひらひらと舞っていた仙女たちから残念そうなため息があがった。
「なあんだ、花ですの。ユーリは花の生気が源。私は鉱石からの気が源ですし、ご一緒できないですね」
「あたし、花の生気が好きだけど、地上の花は濃厚すぎて生々しくって苦手よ」
「ねぇユーリ。地上の花ってすぐに枯れてしまうだろ。私は天上の咲き続ける花がいい」
口ぐちに好きなことを言って、何も返事せぬユーリにくすくすと笑いかけ、他の仙女たちは軽やかに飛び去っていった。
基本的に仙女たちは気まま。気まぐれ、思いのまま。楽しいことには足を踏み入れたがるが、興味がなければそれ以上近づいてはこない。
ユーリは、衣をなおしつつ天上のそれ自身が輝きをもつ白亜の天宮を見上げた。どこまでも果てしなく広がる宮にもみえる雲の上の宮。
汚れ知らぬ花々が咲き、常春の天上界。ユーリはここの生まれである。
かつて大昔は苦しい修行の末に大地から解き放たれて天上に足を踏み入れる力を得れたのが仙人仙女であったらしいが、ユーリが生まれた今の天界で、そんな者とはユーリも出会ったことがなかった。
大抵の仙人達は天主の生気に満ちた滴の塊りを天上界に振らせると、花や樹木、鉱石や風の生気に混じり合い生まれ出る。
ユーリも天上の花から生まれた一人だ――だから、生まれた時からユーリはユーリ。
仙女としての力は持っているが、それを磨こうとする気もおきないし、別に磨かなければいけないというわけでもない。
仙人仙女によっては力を駆使することに喜びを感じて、日々みがきをかけるものもいるが、与えられた力をどうするかなんて、自由なのが天上界であった。
深く考える気にもならない――ただ、楽しいことを。気持ちのよいことを。
目下、ユーリにとって楽しいことは、地上で見つけた巨人が育てる花畑に降り立つことだ。そして、濃密な花の生気を吸い、花を育てる巨人の大地に繋がれた愚かしい存在を眺めることだ。
「さあて、『楽の音』の勤めも終えた。また花を吸いに行こうか」
ユーリはこうつぶやくと、巨人族の男が守る花畑へとまた降り立った。
***
巨人族の男の名はゾードと言った。
男は言葉が話せなかったので、指で地面に書いて教えてもらった。
ユーリは地上文字はわからなかったが、仙女の力でその文字の音を大地と風に尋ねた。大地が読みとり、風がユーリに《ゾード》と音を耳打ちしたのだった。
ユーリが花畑に降り立つと、隣の畑で野菜の虫をつまんで取っていたゾードがばっと顔をあげて、満面の笑みを浮かべて走り寄って来た。
ここ最近、ユーリが現れるとゾードはすぐに畑仕事の手を止めて走り寄ってくるようになっていた。
巨体が走ると、軽い地響きが鳴る。
ユーリは足が汚れるのがいやで相変わらず宙に浮いたままであったが、大地がゾードの駆け足で鳴り響く音は捉えた。巨体が駆け抜ける速さで草が揺れ、花びらが震えている。
風が鳴る音は、ユーリの前で止まる。
ゾードは少し息を荒らしながらユーリの近くまで来ると、まるで好きなだけ花の生気を吸ってくれといわんばかりに、花畑の方を指さして、何度も頷く。
「そなたに指図されんでも、いただくつもりでおる」
ユーリはゾードの歓待ぶりに居心地が悪くなり、目線をそらして細く白い指を花畑の赤い花に伸ばす。
この流れはここ数日繰り返されていたものだった。
下界に降り立つユーリ、見つけるゾード、走ってくる音、唸る風、病のせいかわずかな疾走で荒れた息の中でも、一心にユーリを見つめてくる黒いまなざし。――あまりのゾードの熱心な瞳に、ユーリは少し早口の言葉となる。
繰り返されるのに、すこしずつユーリのゾードの表情は頬が赤らみながら、柔らかい笑みが混じり始めたのだった。
今日も、ユーリは、花に手を伸ばした。
花びら近くにそっと触れるとするりと入ってくる生気。顔を近づけて鼻から香りを吸いこめば、たちまちユーリの身体に大地に咲く花々の濃厚な生気が入ってくる。
花が枯れない程度にそれぞれの花の匂いと生気を味わう。
お気に入りの青色の花の爽やかであるのに甘い味、赤の鮮やかで溌剌とした味、橙色のあたたかみのある味……どれもがそれぞれに個性があり、また優しさのある生気の味で、ユーリは大変満足した。
だが、自分が満ち足りた顔をしていることを自覚したユーリは、そそくさと表情をかえて眉間に皺をつくり、
「ま、巨人族が病弱では、そなたには取り柄がないようなもの。……花くらい上手く育てられないとな」
と早口で言ってみた。
するとゾードはいっきに日焼けた頬を赤くして、嬉しそうに目尻に皺を作って笑った。
――いつもいつも笑顔を安売りしよって……愚か者よ。
内心でそう言いながらもユーリはちらっとゾードのあたたかな笑顔を見る。
「……まぁ、お前の花はなかなか美味ではあるが……この世で一番とは私は定められん」
あたたかく見守られることが居心地悪く、ついユーリは憎まれ口のようなことを並べたてた。
「私も森に出向くのが面倒で、森の大樹に寄生する花の生気は吸ったことがないからな。すべての花とそなたの花を比べられるわけではない……ま、私の口にはなかなか合う、そのくらいだと思え」
そんな言い草でもニコニコと笑って頷き、まるでもっと生気を吸えというように、自分が丹精込めて育てたであろう花畑を気前よくすべて開放するゾードに、ついついユーリもつられて笑いそうになり、あわてて眉をしかめた。
――この男、いつもへらへらと笑っているのがいけない、巨人族の男の癖に。巨人の笑顔などめずらしいゆえについ見てしまうのじゃ。
そう心の中でもいろいろ並べたてつつ、ユーリはゾードの姿を横目で眺めた。
ゾードは、笑顔こそ穏やかで「見れる姿」であったが、視線をうつせば明らかに自分で適当に切ったと思えるバサバサの不揃いの髪、ぼろきれを継ぎ合わせて作ったような服装とみずぼらしかった。また、身体付きは仙人やヒトと比べれば逞しく大柄なのだが、巨人族全体からすれば小柄な部類に入るであろう貧弱な体格だった。つまり、どこをとっても取り柄がなさそうにユーリから見えた。
そして、あまりにも生気は脆弱。
――まぁ、あれだけ病魔がすくっているならばな……。
ユーリは花に戯れに吸いながら、嬉しそうな表情のまま自分を見上げてくるゾードの顔を見た。
ゾードはどれだけユーリの来訪に喜びの表情を浮かべても、声はあげない。
――声がでないとはな。
「ゾードは生まれた時から話せないのだな」
ユーリが確かめるようにたずねると、大きな身体を起こして、ゾードは頷いた。
初めて見つけた時、呻いたところからすると呻き声はあげられるらしかった。だが、言葉として形にならないようだった。
素直に頷くゾードを見て、ユーリは宙に舞いながら腕を組み直した。
何度か花を吸いにこの花畑に通ううちにユーリは気付いていた。
ゾードは巨人族の仲間からも半ば集団からつまはじきにされている。同族であるというのに、巨人族の集団がくらす村からは随分とはずれたところに掘立小屋を立てて、ゾードは一人で暮らしているのだった――畑と花畑をつくって。
巨人族は雑食だが、大地に生きる獣の肉を一番に好む。その大きな身体を使って集団で狩りをするのだ。それゆえに、巨人族の特に男たちは肉体の強さ、狩りの能力の強さで人や物事をはかる。ゾードが仲間として集団に入れてもらえていないのは明らかだった。
仲間のいないゾードはほとんど肉を食べる機会がなく、畑で育てたものと森の木の実などを細々と食べている。努力すれば一人で森の小動物や野鳥を狩ることもできるであろうが……おそらくゾードの肺の黒き靄から察するに、狩りをするだけの力がもう残っていないのだろうとユーリにも予測がつく。
無理をすれば、息が苦しくなり、初めてあったときのように倒れてしまう。
もちろん畑仕事も体力をつかうから、おそらく満足に食べられていないだろう……。
せめて言葉が話せたら、その身に宿る病も若き頃のうちに説明できて、薬草を煎じてのむなりして、手を打てただろうに――……。一人でできる範囲でしか食物を手に入れられず、まともな食事もできぬゆえに、本来頑強な巨人族であるのに病をさらに身体にはびこらせて手の打ちようがないところまで進行させてしまったように見えた。
ユーリはぼんやりと、畑を耕すゾードの背を見つめて、なにかわりきれない想いを感じた。
巨人族は家族を持つ種族、ゾードにも親がいたはずだ。
だが、きっと言葉をうまくあつかえぬゾードは病気のこともうまく説明できなかったのだろう。そして親や家族も何らかの形でうしない、孤独になり……
ゾードの親が話せず体も弱い息子のために残したのであろうこの僻地の一角を、毎朝手入れし、水を運び、暮らしている、巨人族の男、ゾード。
何度か降り立ったが、たずねてくるものもいない。ひとり、ひっそりと病を進行させて死を待つだけの――……。
天上界では考えられないことだな、とユーリは思った。
楽しいことだけを探して、音楽を奏で、微笑んで天主のそばに侍れば良い暮らしと……この差はなんであろう。
「愚かなことだ」
ユーリがそう呟くと、隣でゾードが小さく首をかしげて不思議そうな顔をしている。
その表情を見た時、巨体であるのに病を背負いたった一人朽ちていくゾードを、ほんの少し哀れに思った。
だからなのか、ユーリは気まぐれに問う気になった。
いつもなら花の生気を思い存分吸った後は、手持無沙汰になって、ユーリは照れるように頬をそめて眉はしかめて天界に戻るのが常だったけれど……今日、ユーリの唇から自然とこぼれた言葉。問いかけ。
「……そなたの楽しみはなんだ」
ゾードはユーリの言葉に首をかたむけた。
二人の間にそよそよと爽やかな風が通り抜ける。花の香りを含んだ、柔らかで清らかな風。
ユーリの長い淡い金色の髪が揺れ、ゾードの切りっぱなしの黒髪も揺れる。
しばらくゾードは少し考えるように一点をみつめると、何かを確信したように木切れを取り、土に何やら文字を書きはじめた。ユーリはその文字についてまわりに吹く「風」にたずねた。おそらくゾードには風が強く吹いたくらいにしか感じていないだろうが、仙女の力で風と短い会話ができるユーリは文字の訳を教えてもらったのだ。
《花 育てる》
《花 咲く》
そこまで書いたゾードは、いったん木切れを止めて、それから宙をゆらゆらと飛ぶユーリを見て、それから微笑んだ。ユーリは風から教えてもらったゾードの書き文字の訳に頷いた。
その仕草を確認したゾードは笑みをたたえたまま、再びうつむいた。そして同じように土に字を書いた。
風がユーリに耳打ちする。
《ひと 来る》
「ヒト?」
風の訳を聞いたユーリは戸惑いの声をあげた。
ゾードはそんなユーリに頷いて、ユーリの方をさしてにっこりと微笑みかけた。その仕草で意味を理解したユーリは、
「なっ……"ヒト"とは私のことかっ!痴れ者っ!」
と咄嗟に声を荒げた。
仙女の自分を「ヒト」とあらわされたのが我慢ならなかったのだ。
仙女にとって「ヒト」とは大地に縛られし生きもののの一種。巨人族よりも小ぶりでもっと矮小な生きもの。そんなものと同等にされたというのが我慢ならず、一瞬でカっとしたのだ。
「わたしは人にあらず――……」
ユーリは宣言しようとした、自分が天界に住まう仙人仙女であることを。
だが、そのときユーリの淡い緑の瞳と、純粋な煌めきをもったゾードの真っ黒な瞳と目が合った。
ゾードの黒い瞳は、ただ美しく煌めいていた。そして、そのきらめきは、まるで天上で仙人仙女の多くが天上の主を見上げるときのような憧れと崇敬の念のこもったような煌めきだった。
ユーリはゾードの心底嬉しそうな表情を目の当たりにしてしまったのだ。
――……『そなたの楽しみはなんだ』
――……《ひと 来る》
私が来ることを、楽しみと……?
ユーリはここで自分が「仙女」と言っても、とうていゾードにはわからないだろうことに思い至った。
巨人族の中でも明らかにつまはじきにされて育ったらしい彼の世界は狭い。
自分を仲間とみなしてはくれていないであろう巨人族の集落と、この森や川と、自らが育てる花と畑の植物のみが……彼の世界。
そこに、空から降りてくる彼曰く"ひと"が加わっただけのこと。
――……名で伝えるほうが良いか。
ユーリは愚かな地上の者に説明するのが面倒くさいと結論づけた。
「私はひとではない……名があるのだ……」
言いかけたとき、ユーリを見つめてくるゾードの瞳が、さらにつやつやと輝いたように見えた。
名を教えてくれるのが、たまらなく嬉しいというように。
おそらく巨人族の年齢でいえば青年に入るころであろう若い男であるはずのゾードが、きらきらと素直に名ひとつで喜びを顔に浮かべることに、ユーリはどうしようもなくいらだちのような切ないような、わりきれぬ気持ちがした。
だから……ここでまたユーリの気まぐれがおきた。
ゾードの純粋な瞳の輝きがユーリの冷えた瞳を変化させる。
「……どちらにせよ、そなたは声が出んのだからな……」
ユーリは、巨人のもつ木切れの端をつまんだ。
巨人はきょとんとして、あわててその木切れをはなしてユーリにわたす。
ユーリは大地のものに自ら触れるのは今まで花だけだった。地に落ちていた木切れをつまむなど今までありえなかったはずだった。
だが今、木切れを自然に手にしていた。
そして身体は相変わらず宙にういたまま、上体を伸ばすをようにして土にさらさらと文字を書いた。だが、地上の文字をユーリが文字としては読めないように、ユーリの文字は巨人族には読めぬ文字である。
ゾードは顔を傾け、困ったようにユーリを見つめた。
ユーリは苦笑しながら息をついた。
「情けない顔をするでない」
そう呟いたあと、ユーリは文字を見せながら自らの口元をゾードの耳元に寄せる。ゾードはびっくりした顔をして肩を震わせた。もうあとほんの少しで肌が触れ合うくらいに近づくと、ゾードからゾードの花畑と同じ生気の香りがした。ゾードはユーリと至近距離にあることに緊張したような照れたようなもじもじとした態度をしていた。
ユーリはゾードの反応が小気味好くて、愉快な気持ちになった。
だから、笑いながら口を開いたのだ。
「百合花」
仙女の真名―-本来であればめったに人に教えぬ真名を――口にしたのだった。
「百合花」とユーリが告げたとき、ゾードの顔がぱあっと輝いた。
ユーリはそのゾードの素直な表情の変化をまぶしく思った。
見つめていると、ゾードは口元をもぐもぐと動かしはじめた。
何かを言おうとするように。
声にはならない。
けれど、おそらく……ゾードが口にしようと動かしている”言葉”は。
仙女の心はなぜかくすぐったかった。
***
気まぐれに真名を教えたから――……まぁ、それを口外することはなかろうが、念のために気をつけておかねばな。
名を伝えて以降、ユーリが下界に行く回数は増えていった。
濃い花の生気が欲しいから、名前が口外されぬかを見ておかねばならぬから……ユーリの中で、ユーリ自身への言いわけをつのらせながら。
何度も何度も降りてゆく。
そんな日々に……限りが迫ってくることは、頭のすみでわかっているのに。




