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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

真紅の白椿

作者: 白藤宵霞

 振り下ろした腕に伝わる、生温かな感触。

 呆気なく途切れた吐息に重なるのは、自身の煩わしいほどの鼓動と荒い息。


――殺した、(わたる)を。俺はこの手で、友を殺した。


 盛遠(もりとお)は駆け出した。

 その腕に、まだ熱を放つ首を抱きかかえて。



「寒い……」

 真っ白な息を吐いて、盛遠はひとりごちた。

 籠手(こて)の下、(かじか)んだ手はその温度とは裏腹に真っ赤に染まっていた。

 季節は睦月の頃。色鮮やかな庭の色は珂雪(かせつ)に埋もれ、何処を見渡しても寒々しく映った。

 小さく身震いした青年は、僅かなぬくもりを求めて口元に掌をあてる。吐息は冷たい空気を吸った直後にも関わらず、じんわりと、凍えた指先をあたためてくれた。

 その後姿に、そろりと近づく影があった。

 片手で長い袴の裾を持ち上げて、気配と、身にまとう女房装束の衣擦れを消しながら。

 よほど慣れているのか、背を向ける青年にその存在は気付かれていない。溜息交じりで虚空を見上げる盛遠に、息がかかるほど接近した彼女は一気に手を振り上げた。

「――盛遠っ!」

「ぅわっ!?」

 むき出しの首筋に当たった硬い感触に、彼は大声で叫んだ。

 驚きに目を見開き、太刀の柄に右手を添えたまま半身を翻した盛遠は、だが目の前で大きく震える鮮やかな色彩にその動きを止めた。

「――あははははっ! 嫌だ、驚きすぎだわ……っ!!」

 そこには、長い睫の縁に涙を湛えて大笑いする幼馴染の姿があった。

 一気に緊張が解け、盛遠は項垂れる。

「何だ、袈裟(けさ)か……」

「もうっ、そんなにボーっとしちゃって……職務怠慢よ、盛遠殿?」

 言葉ばかりはぴしゃりと、袈裟――今年十七になる、ひとつ年下の幼馴染は、頬を上気させながら一本指を立てた。

「そう言う、袈裟はどうなんだ」

 ころころと笑う声の主を見上げ、盛遠は唇を尖らせた。

 けれど、その反撃も少女には痛くも痒くもない。

「あたしは、ちゃんと許可を頂いたもの。あなたと一緒にしないで頂戴」

 得意げに鼻を鳴らす彼女に、腹が立つ。

 かと言って、正論であるからには盛遠に反論の余地はなかった。

 消化しきれぬ思いに青年が小さく舌打つと、少女の勝利の笑みは、ますます深くなった。

「……いつも賑やかなことだな、ふたりは」

 その騒がしい会話に、静かな声がかかる。

 彼の姿を認め、ふたりはそれぞれの表情を浮かべた。

「亘」

「亘さま!」

 顔をぱっと明るくした袈裟が、乗り越える勢いで高欄に手をやる。

 そんなお転婆を宥めるように、亘がそっと盛遠の隣に並んだ。

「袈裟、危ない」

「……はーい、亘さま」

 咎める言葉は、けれどその瞳の色が意味を打ち消す。

 優しい眼差しが少女を見つめ、いつもより一層和らぐ。少女も、彼の言葉に素直に頷きながらも、頬に浮かぶ笑みを引き締めることはなかった。

 亘自身も、少女が懲りてないのを承知で強く言わないのだから……見ている側としては困ったものである。

 少女の笑みを眺めていた亘は、同じ場所に視線を向けていた盛遠へと横顔を振り向かせた。穏やかな瞳がここに来た用件を伝えた。

「盛遠、そろそろ交替の時間だ。中であたたまると良い」

「……あぁ」

 その言葉に、盛遠はこくりと頷いた。

 少し賑やかになった雰囲気は心惜しいが、これも勤めである。冷えた手を擦り合わせながら、青年は暖を求めて詰め所へと続く道――丁度、亘がやって来た方向へ袖を翻した。

 その僅かに起こった風でさえ、ひどく身に凍みる。

 だが、半ば小走りで退散しようとする彼の背に、少女は思い出したように声を張り上げた。

「あ、待って、盛遠! ――はいっ!」

「はい?」

 呼び止める声に、振り返る。

 と、やけに質量のあるボロが飛んできた。

「――って、わっ!」

 本日二回目の悲鳴を上げながら、盛遠はそれを掴んだ。

「な、なにす……」

「それ、貸してあげる! 寒い中、お疲れさまっ!」

 大輪が咲くような笑みで手を振る姿に、思わず立ち止まる。

 だが、右手に収まった物の正体にまず文句が口を出た。

「お、温石(おんじゃく)を投げるなっ!」

「えー? ごめんね、盛遠ーっ!!」

 開いた口を隠すこともせず、清々しい程の笑い声が彼を見送る。

 彼女の近くに佇む男も、やれやれと言った風に苦笑を浮かべていた。宮仕えをしても、ああ言う素直すぎる部分は直らない……あちらこそ、職務怠慢だ。

 小さく舌を出して、盛遠はふたりに背を向けて走り出した。

 それでも、名残惜しくてもう一度だけ振り返る。

 そして、後悔する。ふたりはもうこちらを見ていなかった。

 亘の袖がそっと持ち上がる。そこから覗く可憐な花の色に、袈裟の顔に満面の笑みが浮んだ。

 それは、白い椿の花だった。袈裟が一番好きな早春の花。

 喜びに目許が赤らんで、真白の肌に艶やかに輝いた。

「……」

 それは、とてもあたたかそうで、とても甘やかでありながら、盛遠の胸をぎゅっと締めつけた。



 袈裟は、盛遠の従妹にあたる。

 幼くして両親を亡くした盛遠は、彼女の母・衣川の元で幼少期を過ごした。その傍らには、大抵、ひとつ違いの袈裟の姿があり、今と変わらぬお転婆ぶりで従兄を振り回していた。

 やがて、成人した盛遠は衣川の家を離れ、鳥羽上皇の身辺を守護する北面の武士の役目を担うようになった。

 それから数年後、袈裟は宮仕えを始めた。彼女は上皇の娘である上西門院統子の雑色女となり、その宮を警護する盛遠とも頻繁に顔を合わせるようになった。

 性格はあのようにお転婆だが、凛とした美しい容貌を持つ袈裟を妻にと望むものは後を絶たなかった。文を預けられた童が、彼女の元に色鮮やかな恋文を携えてくる光景を目の当たりにしたのは、一度や二度ではない。

 しかし、そんな数多の求婚者たちを物ともせず、彼女が選んだのは幼い頃から兄のように慕った亘であった。亘もまた、盛遠と同じ北面の武士であり、幼い頃から共に遊んだ幼馴染みだった。


 盛遠にとっても、亘は実の兄とも慕う友人だった。

 何処か大人びた雰囲気を持つ彼に、袈裟が童女のときから淡い憧れを抱いていたことは知っていたし、亘の実直さも長年の付き合いから良く分かっていた。

 亘から求婚されたと告げたときの袈裟の面差しは、今までで一番、美しいと思ったほどだ。

 実際、亘との夫婦生活は円満だったのだろう。

 穏やかな変化ではあったが、袈裟の表情は隠しきれない幸福感によって、ますます艶を帯びた。幼い蕾が花開くように、かつての幼馴染みは盛遠の知らない「女」になっていく。

(これで、良かったんだ。……袈裟が、幸せなら)

 己に言い聞かせるように、盛遠は何度も同じ言葉を繰り返した。けれど、幼い頃から降り積もった想いは決して淡雪のように消えることはなく、彼の胸に閉塞感をもたらすばかりだった。

「……どうした、盛遠。気分でも悪いのか」

 盛遠の暗い表情に、亘が静かに問いかける。

 昔から口数の少ない男ではあったが、だからこそ、盛遠にはその言葉に滲む気遣いがひしと伝わった。

 袈裟も亘も、盛遠を大事な友人として扱った。こうして、仕事終わりに亘の家へと集まり、袈裟の注いだ酒を片手に夜を明かすことも珍しくはなかった。

「あ、あぁ……久々に訪ねたから、少し飲み過ぎたかな」

 けれど、いつからかその他愛もない時間さえ、盛遠には大きな苦痛となっていた。

 戯れに触れた、彼女の指先の熱に心が疼く。

 焚いた香の匂いに、胸が詰まる。

 気づけば眼差しは袈裟の姿を追いかけ、その悩ましげな朱唇を求めた。

 友への罪悪感に、少し言葉に詰まりながら盛遠が答えると亘は眉間に皺を寄せた。

「無理は、するなよ。……今夜は、泊まっていくか?」

「有難う。でも、大丈夫だ……今日は、これでお暇するよ」

「そうか? 今更、遠慮する仲でもないだろうに……」

 なおも心配する親友夫婦に見送られながら、盛遠は馬の手綱を引いて歩いた。少しでも、頭を冷やしたかった。

 月光が照らす小路に、孤独な影が黒い染みのように伸びていく。

(……我ながら、諦めが悪い)

 酒で火照った身体に心地好いはずの夜風は、彼の心を鎮めるどころか、更なる熱を持って嬲る。胸を焼き焦がす恋慕は、むくりむくりと首をもたげて、彼の良く鍛えられた身体を苛んだ。

 それでも、どれだけ苦しくとも、この想いを告げるわけにはいかなかった。告げたところで、誰も幸せにならないことは目に見えていた。


 だから、この想いは墓場まで持っていくはずだった。



 何処で間違えたのだろう、と盛遠は自問する。けれど、明確な答えは何処からも返って来なかった。代わりに、慕わしい女の声が盛遠を詰る。

「嘘つき! 一度だけだって、言ったのに!!」

 もう何度目かになる袈裟の言葉に、盛遠は自嘲気味に笑った。

「嫌なら、突っぱねれば良い。……そのときは、衣川さまを殺して、俺も死ぬ」

「っ、卑怯者……!!」

 腕の中で足掻き続ける腕を乱暴に掴むと、彼女の喉がひくりと痙攣する。その白ささえ愛おしく、彼は滴り落ちた汗と共にそっと唇を寄せた。

「あぁ、卑怯でも構わない。……袈裟を、手に入れられるのなら」

 彼女を傷つけたくないという想いとは裏腹に、己の身体は本能に忠実だった。

 身動きを封じた彼女の頬に顔を寄せ、積もり積もった思いの丈をぶつける。布越しに丸みを帯びた線を辿れば、少女の瞳に怯えの色が走った。

「いやだっ、嫌だ、亘さま……っ!!」

 助けを求め、彼女は夫の名を叫ぶ。

 その声を咎めるように、四肢を床に押しつける。女の抵抗が、一層、強くなった。

「袈裟」

「いやっ、放して! 放して、盛遠っ!!」

「袈裟、愛してる……」

 柔らかな耳朶を噛み、吐息を落とす。

 胸を焦がして止まない想いを、彼女の内へと注ぐ。

「……だから、どうか、俺を拒まないで」

「もり、とお……っ」

「俺を見てくれ、袈裟。亘ではなく、俺だけを…………」

 懇願するような声に、袈裟の抵抗が僅かに緩む。

 その一瞬を逃さず、盛遠は彼女の唇を奪った。白い頬に涙が零れ、彼女がいやいやと首を振る。

 けれど、どれだけ袈裟が拒んだところで、彼女の細い腕が彼を突き放せるはずもなく、盛遠は難なく袈裟の帯に手を掛けた。

 狭い部屋の中、荒い息遣いと袈裟の嗚咽が混ざり合い、長く尾を引き、響き渡る。

(……こんな、はずではなかった)

 袈裟の白い柔肌に赤い花弁を散らしながら、盛遠はぼんやりと考えた。彼は決して彼女を傷つけたいわけではなかった。

 しかし、幼馴染みへの叶わぬ想いは、罪の意識が深まれば深まるほど、理性の檻を脅かした。いつしかそれは膨れ上がり、彼の欲望へと火を着けた。

「袈裟、袈裟……っ」

 一度だけ、一度だけ袈裟を抱ければ、それで諦めるはずだった。けれど、一夜で長年の想いが満たされることはなく、彼女の母を人質に、盛遠は何度も許されぬ関係を強いた。

 彼女の香りと、頬を濡らす涙の甘さに溺れながら、盛遠の理性は果てを知らずにぐずぐずと崩れていく。


――せめて、亘さえいなければ。


 堕ちていく意識の中で、そんな恐ろしい禁忌さえ抱くようになっても、己を止めることが出来なかった。

 どれだけ身体を重ねても、心までは許してくれない彼女へ恨みが募る。盛遠に穢されてもなお、彼女が乞い求める亘への憎しみが増す。

(違う、違う。俺は、ふたりの不幸など望んでいない……)

 何処か遠い場所で、もうひとりの自分が泣き叫んだ。



 ふと、盛遠が目を覚ますと、袈裟は庇でひとり夕陽を見ていた。

 乱れた衣はきっちりと整えられ、宵の風をまとった艶やかな黒髪がその背に流れる。

「袈裟……」

 夕刻になれば、袈裟は亘の元へと帰っていく。そのたびに、盛遠は置いて行かれた子供の気分になった。気だるい身体を起こし、縋るようにそっと抱きしめる。

 細い肩から彼女の甘い香りがたゆたい、盛遠に冷めやらぬ熱を焚き起こさせた。

「……盛遠」

 ぽつり、と細い声が青年を呼ぶ。

 夕焼けに照らされ、袈裟の頬が赤く染まる。涙の跡が痛々しい横顔を見つめ、盛遠は彼女の言葉を待った。

「あたしのこと、本当に愛してる?」

「っ、もちろん……!!」

 その返事に、袈裟は慈愛さえ感じさせる微苦笑を浮かべた。目許に僅かな朱が灯る。

「それなら今晩、八つの鐘が鳴る頃……忍び込んで来て」

 赤い唇が、誘うように甘く囁く。彼女の言わんとする意味を知り、盛遠は目を見開いた。

「東からふたつ目が、亘さまの寝所よ。洗い髪を頼りにして。……それが、亘さまだから」

「袈裟……」

「あたしを本当に愛してくれるというのなら、今晩、亘さまを殺して頂戴」

 薄く涙で濡れた眼差しが、彼を真っ直ぐと見つめる。その目に、自身の言葉への後悔は微塵もなかった。ただ、何かを決意した強い光が夕映えに反射していた。

「俺が、亘を……」

「そうよ。……出来る、盛遠?」

 袈裟が小さく首を傾げる。

 盛遠は、もう躊躇わなかった。

「やる。――袈裟を、手に入れられるのなら」

 袈裟の長い黒髪に顔を埋め、盛遠は熱にうなされたように返事をした。慕わしい香が鼻腔に触れる。

「盛遠……」

 そろそろと、白い掌が盛遠の頬を、そして髪を撫でる。

 その優しい感触に、彼女を抱く青年の力が一層、強くなった。うわ言のように、何度も愛しい名前を呼ぶ。

「……待ってるわ。盛遠」

 彼に応える声は、ひどく甘く、そして優しい。

「待って、いるわ……」

 その言葉に、盛遠の意志は確固たるものとなった。



 雲がたゆたい、まろやかな月を翳す。

 今宵、罪人となる盛遠を庇うかのように、月影を失った空は何処か薄暗かった。

 濃い藍染めの直垂(ひたたれ)をまとった盛遠は、逸る気持ちを落ち着かせながら通い慣れた屋敷へと忍び込んだ。袈裟が気を利かせてくれたのか、今夜は人の気配が少ない。寝殿の明かりも消え、まるで屋敷全体が寝静まっているかのようだった。

 さわり……と、庭の桔梗だけが無言で盛遠を見ていた。

 袈裟に言われた通り、東からふたつ目の部屋へと身を滑らせる。腰に履いた太刀をぐっと抑えつけ、足音を殺して突き進む。あまりの静けさに、己の僅かな呼吸さえ耳に厭わしく、盛遠は苛立たしげに奥歯を噛んだ。

 灯台の火は絶え、部屋は深い闇に沈んでいた。目を凝らしてやっと調度品の影が確認出来る中、彼を導くのは部屋の奥から漂うツンとした刺激臭――酒の、匂いだった。

 その強い香りに、視界が歪み、目眩に襲われる。

 それでも慎重に歩を進めて行けば、褥に横たわる影が盛遠の視界に映った。衾を被り、規則正しい吐息を漏らすその人の髪は確かな湿り気を帯びていた。

(袈裟は、俺を選んでくれたんだ――!!)

 彼女の言葉と寸分も違わぬ状況に、盛遠の心は震えた。

 あれは自分から逃れるための口実ではなかった。彼女は本当に、盛遠の気持ちに応えてくれたのだ。

(亘を殺し、袈裟を俺の妻にする……)

 その歓喜が、盛遠の手に力を与えた。

 彼女が手に入ると思えば、これから犯す罪過への躊躇いも消えた。恋い焦がれた彼女が、あの愛しい眼差しが手に入るのならば……。

「……袈裟、これでお前は、やっと俺を――」

 熱を孕んだ声と共に、盛遠は鞘から抜き放った切っ先を力いっぱい白い喉へと落とした。

 闇の中、僅かな苦悶も漏らさず、友は果てる。

 あまりにも呆気なく、まるで花が落ちるように首は静かに床へと落ちた。

「……あぁ」

 盛遠の口から、溜め息が零れる。

 終わった、何もかも――なのに、胸中を駆け巡る達成感は、ひどく重たい痼を伴っていた。息が詰まり、吐き気がする。

「俺、は……」

 振り下ろした腕に伝わる、生温かな感触。

 呆気なく途切れた吐息に重なるのは、自身の煩わしいほどの鼓動と荒い息。


――殺した、亘を。俺はこの手で、友を殺した。


 盛遠は駆け出した。

 その腕に、まだ熱を放つ首を抱きかかえて。

(……寒い)

 晩夏の気配に染まった夜風は、絶えず盛遠の額に汗を滲ませる。だと言うのに、今、彼の身を苛むのは季節外れの激しい寒気であった。

 さむい、さむい、さむい。

 震え続ける身体で、盛遠はひとりごちる。ガチガチと、前歯が上手く噛み合わず音を立てた。

(こんな寒い日は、袈裟がこっそりと温石を貸してくれたっけ……)

 その脳裏を横切るのは、ただ諦めることしか出来なかった頃の記憶。けれど、だからこそ穏やかに笑い合えた戻れない日々。

 子供のように盛遠とじゃれ合い、お腹の底から笑う袈裟と、それに怒ったり呆れたりしながら反論する盛遠と、彼らの様子を穏やかに、そして誰よりも楽しげな微笑を浮かべて眺める亘と……。


――俺は、何処で道を間違えたのか。


 もう、あの頃の自分たちに戻ることは出来ない。その虚しさと寂しさに、彼の眦から熱いものが溢れた。

 腕の中の重みが、突如、増したように思えて盛遠は立ち止まる。もう、走るどころか、歩くことさえ出来そうになかった。

 その頼りない肩を抱くように、雲間から月が顔を見せる。

 冴え冴えとした白銀が、赤く濡れた青年の姿を照らし出した。

「月、が……」

 降り注ぐその色が、あまりにも哀しくて、優しくて。

 彼は惹かれるように、ぼんやりと虚空を見上げた。そして、何とはなしに自らの腕の中を――その顔を、覗いた。けれど。

「……け、さ……?」

 そこにあったのは、白い椿のかんばせだった。

 亘の、首ではなかった。

「どう、して……」

 どうして、気づかなかったのだろう。

 濡れた髪からは、今も変わらず彼女の香がしていたのに。

「どうして、袈裟……」

 彼女が愛した花のように、首落ちてなお、彼女は美しかった。

 白い肌に、閉じられた長い睫の影。しっとりとした黒髪の感触に、鮮やかな朱唇。盛遠が恋焦がれた、美しい花。

「袈裟、……袈裟……っ」

 震える手が、声が、彼女の名を呼ぶ。

 けれど、血濡れた腕の中、あの優しい声が応えてくれることはなかった。

 頑なに閉じられた瞼の上に、盛遠の涙がぽつりぽつりと落ちる。白い頬と混じり合ったそれは、まるで彼女が泣いているかのように見えた。

 ただ、その唇に浮かぶ笑みはひどく優しい。今宵、盛遠が自分を殺めに来ると知りながら……その罪も、全て許すとでも言うように。


「袈裟、どうして……どうして、お前は――っ!!」


 けれど、それがどれほど残酷なことか、彼女は知らない。

 優しい面差しを残しながら、何処までも盛遠の気持ちとは乖離かいりする。

 一方的な想いは平行線のまま、決して交わることはない。そう、永遠に……。




――その瞳は、この最期のときすらも、俺を見てはくれないのだ。





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― 新着の感想 ―
[一言] はじめまして、花橘と申します。 この道を選ばざるを得なかった袈裟の覚悟が痛いほど伝わってきました。盛遠は、死ぬまで袈裟のもういない袈裟の面影を追い続けるのでしょうね… 切なかったです。ありが…
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