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018-異世界人 -6-

 この世界での最初の記憶は、そこはすでに不潔な街中だった。


 木造のあばら家ばかりが無造作に立ち並んだ場所で。しかも放置されてそうなったのではなく、建てられた時には既にその姿だったと思わせるような建築技術の低さを思わせた。


 その細い通りに人の姿はないが、あばら家の中からは人の気配が感じられた。


 千紗はこの家々の住人に自分の姿を見られると何かとてもまずい事が起きるような気がして、慌てて駆け出した。


 そして自分が裸足であると気付く。姿はパジャマだ。そう、確か前日は普通に学校から帰ってきてベッドで寝た筈だった。


 裸足で走る石畳は汚く、泥か汚物かわからないような物がそこらに転がっている。雨でも振ったあとなのか、側溝で揺れている水面は茶色く、油が浮いていた。


 泥か汚物かわからないモノを避けながらあてもなく走っていると、すぐ人通りのある道に出た。だが千紗はそこで軽く絶望する。


 ここがどこだが、まったくわからない。人々が喋っている言葉を、まったく理解できない。



 平成四年。バブルが崩壊したといわれる年の翌年だが、辛うじて家屋や土地を初めとする財産を残していた雁澤家には、まだ千紗をお嬢様学校と呼ばれるような場所に通わせ、卒業させるまでの余裕があった。


 両親はバブルの真っ只中で財を成した、いわゆる成金と呼ばれる種類の人間で、金遣いは荒い方だが、急激に悪くなった景気に少しずつでも順応し、ゆっくりと出費を抑える生活にシフトできる数少ない人種だった。


 千紗は一人娘で両親からはひどくかわいがられたが、父方の祖母に厳しく躾けられ最低限の礼儀は叩き込まれ、嬢様学校でも常識を学ぶ。


 当時から中学生に教養として第二外国語を学ばせるような学校で、千紗は英語の読み聞きとドイツ語を少し喋る程度の語学力を持っていた。英語とドイツ語ができれば、欧州圏の言葉は意味を理解できなくともどこの国の言葉かの見当をつけることはできる。しかし、わからない。


 千紗が耳に聞いている言葉は、千紗がそれまでほんの少しでも触れてきた言語のどれにも当てはまらなかった。



 通りに並ぶ店の看板を見ると、○や×などの単純な記号の組み合わせばかりで、とてもではないが言葉がそこに書かれているとは思えない。


 その時に千紗は理解した。自分は、外国どころではない、地球上のどこにもない場所に来てしまったのだと。


 酷い不安に駆られ、自分の体を掻い抱きながらその場にへたりこむ。


 どのくらいその場でそうしていただろう。長くみつもってもさすがに一日中という事はないだろうが、気付けば完全に夜になっていた。ぼろぼろのあばら家が並ぶ街並みの中に街灯などはない筈だから、この世界で気付いた時にはまだ日が出ていただろう、と後になって考える。


 呆然としている間に、千紗の前で何人かが立ち止まって手を差し伸べてくれていたような気もする。しかし投げ掛けられる言葉を理解できず、結果的に無視するだけになってしまっていた。言葉がわかれば、その中から純粋な善意でもって接しようとしてくれた人もいたのかもしれないが、場所を考えるにおそらく廻りの売春婦か何かだと思われていたに違いない。


 夜になり、店から美味しそうな匂いがするようになりはじめた頃、その匂いに釣られて立ち上がったところで、千紗は気を失った。


 おそらく背後から襲われたのだ。この世界では珍しい、艶のある黒髪に目をつけられて。



 次に気付いた時には既に檻の中だったが、それから一時間ほどはまだ人間扱いだった。何度か話しかけられ、やはり言葉を理解できずについ日本語で返してしまった時から、動物扱いに格下げされた。


 動物扱いになってからはひどいもので、檻を叩かれ音に驚いて身をすくめた姿に指をさされてゲラゲラと笑われたり、明らかに食べ残しらしき骨や冷めたスープを投げつけられたりした。


 危なかったのは、この場に置かれた商品たちの世話を申し付けられていたらしき下男の一人が千紗を檻から出そうとした時だった。


 ふと何かを思いついたようにニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべたかと思うと、そのおぞましい笑顔のまま千紗の檻に近づいてくる。全てが見えるまではいかなかったが、ベルトに手をかけてカチャカチャと弄っている。


 千紗は聡い子供だったが、その時は何をされるか想像できなかった。ただ言いようのない恐怖を感じ、また勘が働いて、自分が入っているだけで精一杯というこの小さな檻から出てはいけないと思った。


 檻の戸が開かれ、千紗を檻から出そうと下男が手を伸ばす。


 叫びながら、格子を掴んで必死に抵抗するが千紗の力では男にはかなわない。


 髪を捕まれ、強引に引っ張られ、何本かがブチブチとちぎれた。


 その時、物音を聞きつけたのか長いローブを纏った女性が入ってきて、下男を叱りつけた。


 下男はローブの女に逆らえないようだった。


 ローブの女は檻の中でガタガタと震えている千紗を一瞥したあと、再び下男を罵った。内容はわからなかったが、千紗を指差しながら下男を口汚く罵って嘲笑しているようだった。


 しかし、それで千紗が助かったわけではなかった。


 ローブの女は満足するまで下男を罵ったあと、千紗にさも助けてやるといわんばかりの顔で手を差し伸べた。


 このまま下男と残されるよりは、とローブの女の手を取り、檻から出る。


 ローブの女はしきりに千紗の髪を気にしていた。なにも、ローブの女の頭に髪がなかったわけではなく、千紗の髪の艶に嫉妬しているような様子でもなかった。かといって、美しい物を見つけてうっとりしている様子とも違った。


 言うなれば、新しい商品を見つけた時の顔、だろうか。


 今思えば、女は千紗の髪に大きな価値を見出していたのだろう。他の商品たちの中から、女の自室らしき場所へ移された千紗は、それまで腰の辺りまであった長い黒髪は、無造作に刈り上げられた。


 また抵抗し、泣き叫ぼうとしたが、なぜか声はでなかった。これも今思えば、魔法で声を出せないようにさせられていたのだろう。


 と、この辺りで千紗の記憶は一度途絶える。



「思い出せない?」

「はい。おもいだす、する。できない」

「詳しく聞きたいから今は日本語で」

「【はい。思い出そうとするとその光景がぼやけるんです。それで、どうしても】」

「トラウマからの記憶障害にはよくある事だが。頭痛とかは?」

「【痛くは、ならないんですけど、まったく思い出せません】」

「ふぅむ。そうか。よほどショックな事があったんだろう。こういうのは必要な時が来れば自然におもいだすというから、やっぱり無理に思い出す必要はないな。また公用語で頼む」

「はい」



 次の記憶からはもう無生物扱いだった。


 地球に居た時から身に着けていた唯一の品であるパジャマはいつのまにか剥ぎ取られ、代わりにボロのような貫頭衣をかぶせられていた。


 とっさに自分の身体を調べたが、頭以外に異常は見つからず、代わりに頭からはまともな髪の毛が一本も無くなっていた。


 それから、おそらくは数週間置きに仏頂面の少年が無造作に千紗の髪の毛を刈りに来た。それが何回か続き、仏頂面の少年に何度か話しかけてはみたが、向こうも千紗の言葉がわからないのは同じらしく、少し戸惑う様子を見せるだけでやる事は変わらず、二センチほど伸びた髪の毛を乱暴に刈って持っていくだけだった。


 やがて今のように骨と皮だけの身体になり、髪の毛も伸びなくなると、その少年もまったく来なくなった。


 この頃から、千紗は心を飛び飛びに眠らせて自我を守る術をおぼえた。だから正確な月日はわからない。


 霞のかかった記憶の中から髪を刈られた回数を数えて、最低でも三ヶ月ほど。完全に心を眠らせてからジョージと出会うまでの時間は予測できないので、おそらくはもっと長い時間、その状態でいる事を余儀なくされていただろう。



「あ、ランナ、さん?」


 いつの間にか千紗は顔をランナに抱きしめられていた。


 褐色の肌に短い茶髪で、見るからに男勝りな印象を受けるランナだが、頬に触れる柔らかな感触はやはり女性のもので、鼻につく香りも不思議と心を落ち着かせる。


「まったく、ジョージ! こんな事を言葉の練習にさせるんじゃないよ……、やっぱり男は無神経だね……いいよ、もういいんだ。もう大丈夫なんだよ……」


 優しい声色。


 胸に抱かれる千紗からは見えないが、ひょっとしてランナは涙しているのだろうか。


 優しく頭を撫でられ、髪がないせいでやはり違和感があったが、記憶を呼び覚まし、気付かないうちに高ぶっていた鼓動がじんわりと落ち着いていくのがわかる。


「ありがとう、ございます」


 礼を述べる千紗は、もう泣いていなかった。

来週も月、水、金で更新します


朝か夕かはまだわかりません

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