018-異世界人 -4-
朝更新、なかなかいいかも
いつのまにか眠っていたと気づく。視界がぼやけたまま、焦点をあわせ辛いのはこの世界に来てしばらくしてからはずっとだったが、その症状が今はやわらいでいる気がした。
「【ここ、どこ。あれ】」
少女は、不意に口から出た言葉、ではなく言葉を出せた事自体に驚く。
「目が覚めましたか? もっと寝ててもいいんですよ?」
さらに傍らから急に声をかけられて驚いた。しかしもっと驚いたのは、自分の心の驚きに対して体がしっかりとついてきた事だった。さすがに体全ては動かせなかったが、声のしたほうに顔を向けられたし、驚きで動悸が激しくなっている。
食事を与えられなくなってどのくらい経ったのだろうか。
彼らがあんなに欲しがっていた髪の伸びが悪くなってきた辺りから、食事の質が目に見えて悪くなり、とうとうもらえなくなってからそれだけ経っているはずだ。
一切の食事を摂らずに一週間経った時には、自分がなぜ生きているのか、なぜまだ意識だけは明瞭としているのかが不思議で仕方なかったが、その状態でさらに一ヶ月過ぎた頃にはこの状態が当たり前になっていた。
食事をとらずに生きてはいても肉体は衰える一方で、ついに自分でも骨と皮だけしか残っていないなと自覚できるほどになってしまった。
話に聞いていた飢餓感というものは思っていたほどなく、空腹は感じるがどうしても何かを口にしたいと暴れだすような衝動は今まで一切感じていなかった。
どうやら自分がモノと同じ扱いであると気づいた時には、ほかの“商品”たちと違い、倉庫の奥の奥へと追いやられ、存在を忘れられているのではと思うほど放置されていた。
ならば、と何かを考える事をやめ、心を眠らせ続けて狂う事を食い止めた。
自ら永い眠りについたと思っていたというのに、その眠りから覚まさせたのは懐かしい母国語の響き。焦点は合わせられなかったけれど、ぼやけた視界の中に納まったその人物の顔、雰囲気はわかった。
彫りがそこまで深くなく、黒髪に黒目、黒い無精ひげ。失礼ながらきっとハンサムなどと呼ばれる類の人物ではないのだろうけど、その雰囲気はひどく懐かしい。
しだいに意識が戻ってきた所で、再び話しかけられ、はっきりと日本語だとわかった。どうしてか、涙が出た。
「【あの、さっきの人は。どこでしょう?】」
言葉は通じないとわかっているが、つい問いかける。
「ええと? もう、しゃべっても大丈夫なのかな? 待ってて下さいね? 人を呼んできますから」
そう、勤めてやさしい口調で話しかけられているとわかった。自分はやはり酷い状態なのだろうと改めて自覚する。やはりまだ手足は動かせないが、さきほど激しく動いた心臓と、左腕にまとわりついているぷにぷにと暖かく柔らかい感覚が、じわりじわりと自分の身体に活力が戻ってきている実感を与えてくれていた。
ほどなくして、扉が開き、少女は自分を助けてくれたであろう黒髪の男性を見る。
「【もう目が覚めたんだな】」
やはり耳に懐かしい日本語。また自然に涙が溢れて、頬を伝って耳の方に抜けていく。
「【は……はい。ありがとう、ございます】」
「【もうしゃべれるのか。点滴してあるとはいえこれは最低限のものだからそんな簡単に体力が戻るわけはないんだが。ああいや、今は難しい事はいいか。何にせよ回復が早い事はいいことだ】」
そう言って頭をなでられる。なでられた頭の感触から、少女は自分の頭が今どんな状態なのかを悟り、微妙な気持ちになった。
「ほら、女の子のナイーブなところに気安く触るんじゃないよ」
「おっと、そうなのか【すまん】」
後ろから小突かれて苦笑。少なくとも彼は現地の人間とうまくやれているようだと見て知って、また複雑な表情なる。
「【俺は、ジョージ・ワシントンという。こっちは上司の、ランナ・ディアル。君の名前は?】」
「【ジョージワシントン? なんで初代アメリカ大統領が日本人の顔をしてるの?】」
名乗り返すよりも先にジョージの名前につっこんでしまった。疑問が先ほどの微妙な気持ちも吹き飛ばしてくれたが、こんどは不躾な自分の態度に恥じ入ってしまう。
「【あっ、ごめんなさい。えっと、雁澤千紗といいます。助けて頂いて、本当にありがとうございました。それと、助けていただいたのに、失礼をしてしまっていて申し訳ありません】」
「【……ふふ。気にするな。どうしても気になるならいつか話してやる。どうやら日本人で間違いなさそうだな。しゃべるのは辛くないか?】」
ジョージが言う「気にするな」は、彼の名前についてなのか、それに反応してしまった事についてなのか、千紗は判断がつかなかった。一瞬止まってしまい、ジョージが心配そうに間を埋める。
「【思考は、やっぱりまだ本調子じゃないように見えるな。それとも素でそんな感じなのか?】」
「【え? あ、えっと。ごめんなさい。不思議と声は楽に出せるみたいです。まだ、身体は動かせませんけど。あ、指は、動くかも】」
長らく身体の動かしかたなど忘れていたと思っていたが、意外にレスポンスの良い肉体に千紗は驚いた。しかしジョージはそれ以上に驚いていた。握力までは感じられないが、少なくとも簡単に指を握って、開いてを繰り返すくらいならばできている。
「【いくらなんでも回復が早すぎるんだが。本当に無理してないか?】」
本調子の時よりもゆるやかな動きにはなるが、震えもせずにグッパッを繰り返している千紗の手をジョージが取る。すると後ろに居たランナがまた小突く。
「なんか驚いてるみたいだけどね。限空腹の人間の回復速度なんてそんなもんだよ。それとも異世界の人間はもっと弱いのかい?」
なんとも意地の悪い笑みだ。
「そうなのか? そうなのか……ふむ。【どうやらこっちではこれくらいが普通らしい。もうすぐ食事も用意できるみたいだから待ってるとい。それと、点滴も追加しておく】」
ジョージはそう言うとポーチから瓶を取り出し、手にとっていた千紗の左腕に巻き付いていた透明で分厚いソフトビニール製のブレスレットのようなものに近づける。
すると瓶の中から透明な液体が勝手に動いてブレスレットに合体し、ブレスレットを膨らませる。
「【あっ、え?】」
戸惑っていると説明が入る。
「【これが点滴魔法だ。魔法で輸液を固めているが実際の粘土は通常の水と変わらない。成分は生理食塩水で8倍に薄めたブドウ糖液で、それがゆっくりと雁澤さんの体液を補充している。あとはこの世界の助けもあって、じきによくなるだろう。
説明と、聞きたい事は食事の後にでもしようか。胃に優しい物を用意してくれてるらしいし。まあ、俺も食った事がないんで、日本人にあう味かは保障できんが】」
冗談めかして言うと、千紗は笑った。まだほとんど骨と皮だけ。どうやらこの世界では、こういう状態になった人間の回復はジョージが知る飢餓状態、こちらでは限空腹というらしい状態からの回復からはずっと早いようだが、少し眠ったところで急に顔に肉がつくわけがない。
それでも、笑顔は笑顔だった。
「【さすがにやっぱり、急にしゃべって疲れただろう。食事ができたら起こすから、もう少し休んでるといい】」
「【はい、すみません。おやすみなさい……】」
笑顔のまま大きく深呼吸した千紗は、すぐにまた眠りに落ちた。
「言葉がわからない、ってのはちと厄介だね。なんとかできないのかい?」
「できると思う。明日にでも作る」
相変わらず便利な仮面である。
「けど本人にも憶えてもらわんとな。何をするにも、言葉は必要だ」
とはいえ、ジョージは彼女に便利さに甘える事はゆるさないようだった。
ランナがロックに買いに生かせたロポポという食べ物は、いわゆる粉ミルクのようなものだった。
しかしこれも元はモンスターからのドロップ品で、トレントパパヤーノという動く樹木のようなモンスターが残す実を乾かし、砕いて粉にしたものがロポポという。
トレントパパヤーノの実はバトルコックなどの特殊なジョブによるスキルは不要であるが、ダンジョン・ディープギアの少し深い層からしか出現しない。代わりに消費量が少なく、保存もきくため、けっこうな量が市場に出回っているわりに値段は安くない、という微妙な品だった。
ただ、肥立ちが悪く母乳が出辛い母親を抱える中流階級以上の家庭ではよく母乳の代替品として使われ、濃い目に溶かして大麦を炊きミルク麦粥のようにすれば離乳食にも使える、という事で一定の需要がある。
「……決して美味いもんじゃねぇ。ってありゃ」
おそらく人間の母乳に近いのだろう。濃い目に溶かれていても味が薄く、ジョージには追加調味料のひとつでも欲しくなるような物足りない味だったが、さらに一睡して自力で腕を動かせるようになるほど劇的に回復した千紗は、どれくらいぶりかの食べ物を必死に掻き込んでいた。
空腹こそ最大の調味料であるというが、千紗の状態はまさにそれだった。
「【いきなりそんなに食べて大丈夫か?】」
ジョージのそれは純粋に心配からくる一言だったのだが、自分が今どんな状態なのかを自覚した千紗はその瞬間ピタリと粥を掻き込む手を止め、おもむろに器をおろす。血色がよくなったどころではなく、顔が真っ赤だった。
「なに言ったんだいあんた。まったく、自由に食べさせればいいじゃないか」
この場に居るのは相変わらずジョージと千紗、そしてランナだけだった。ジョージはためしに食べてみただけで、ランナも決して自分が好んで食べるようなものではないとわかっているらしく、しかし千紗とジョージがなにか食べるのならと黒パンのようななにかをかじっている。
「【いや、すまん。元気なのはいい事だ】」
「【いいえ、ちゃんと、食べます】」
この場合のちゃんとは、ちゃんと量を食べる、ではなく、ちゃんと行儀良く食べる、である。宣言どおり、千紗はそれ以降、ベッドに足を投げ出した状態で上半身を起こし、へその上辺りに置いた木の器から粥をスプーンで掬って口に運ぶというお上品な食べ方をした。
言葉遣いもしっかりしていたし、形振りはいいところのお嬢様という雰囲気だ。ただ、とっさにあのような食べ方をするあたり、そう浮世離れしすぎているようでもない。
「ふむ。で、この子このあとどうするんだい? あんたなら元いた場所に送り返すくらいはできそうだけどね」
相変わらずニヤニヤ笑いながら小突くランナであるが、それを聞いてジョージは申しわけなさそうな微妙な顔をした。
「さすがにそんな事はできんよ。もちろん技術的な問題でな。心情的にはできることならやってやりたい所なんだが」
申し訳なさそうに眉尻を下げたジョージに、さすがに突っ込みすぎたか、とランナは少し反省した。
「そうかい。そりゃ、さすがに口が過ぎたね。でも、じゃあどうするんだい?」
「出会っちまったからには面倒を見るしかないだろう。あとは本人の意思次第じゃないのか?」
「まあ。そうなんだろうけどね」
じつはランナは、本人には決して言わないが、まるで欠点や不得意な部分が見えなかったジョージにようやく掴みどころが見つかってうれしかったのだ。
普段は気だるげな受付嬢の仕事しかしていないランナだったが、ギルドマスターとしてメンバーの一員でしかないジョージの正体をまったくつかめない事は問題だと常々考えていた。
剣も魔法も達者で戦闘能力は未知数である。個人の武力だけでなく弟子とって育て上げている度量と手腕もある。イエート家と縁を作った運、それを逃さず利用する計算高さ。さらに超がつくほど高機能な仮面を作り出すだけの知識と技術。どれをとっても謎ばかりで底も得体も知れない。
にもかかわらず、普段はギルドマスターである自分を立てるだけあり人格者と言えなくも無い。あえて欠点といえば無頓着な無精髭くらいだと今までは思っていたが、聞くに伝わる異世界人とくれば、これまでの謎もある程度は納得できた。
異世界人というものは多くの場合で桁外れの技術を持つという。スキルという意味ではなく、素の身体にそれだけの力が備わっているのだと。よって異世界人の持つ技術は知識と経験によって裏付けられたものだけでなく、さらに血によって受け継がれる。十六分の一しか異世界人の血を継いでいない筈のアレクサンドルでさえかなりの若さで黄色という高いカラーランクを誇り、本来は維持が難しいとされる個人ギルドをバーを経営しながら保ち続けている。きっとそれにも異世界人の血がかかわっているのだろう、とランナは勝手に結論付けていた。
「【ごちそう、さまでした】」
ランナが内心だけで少し反省しているうちに、千紗が粥を食べ終わった。
ほっと息をつく幸せそうな表情と、顔色、目つきの様子を見て、このまま話しをしても大丈夫そうだと判断したジョージは、椅子に座ったまま膝に肘をおいて身を乗り出すような姿勢になる。
「【さて、飯のあとに消化が悪くなるかもしれない話しだが、君の今後についてだ】」
食事前からジョージの表情がなんとなく硬いな、と気づいていた千紗は、一度ビクリと肩を震わせたものの、すぐ覚悟を決めてジョージと正面に向き直った。
「【とりあえず衣食住は保証する。あと、さっきも紹介はしたけど、このランナがギルドマスターって言ううちの一番偉い人が、君の見た目にも気を使ってくれるそうだ。髪が伸びるまでは帽子かウィッグを用意してくれるそうだ。それでその――】」
「【遠慮なく、はっきりおっしゃってください。私は、帰れないんですね?】」
このやせ細ったからだのどこからこれほどまで強い覚悟が生まれるのか。目の前の少女の芯の強さにジョージは驚きを隠せなかった。
「【さっきとは別人みたいだな。やっぱり食事をとって頭がハッキリしてきたのか】」
返事はない。茶化さず真面目に答えろ、と千紗は目で訴えている。
「【帰れない、と断定するのは正確ではない。俺は君が元居た世界に帰る方法を知らないし送り返す方法も知らない。だが世界は広いから、どこかに帰還の方法がある可能性はある。あと、この世界には神が身近に存在しているから、彼らに頼むという手もあるかもしれない。願いを聞き届けてくれるかは、微妙な所だが】」
希望は残したが、これも断言はできないレベルの話だ。少なくともジョージが読み漁った神話関連の中に異世界人にまつわりそうな記述は見つけられなかったし、それが無いのだから彼らが神の力によって帰還したという記述も当然無い。
「【……そう、ですよね】」
千紗が取り乱す事はない。きっと本調子であっても同じだっただろう。その覚悟などは囚われ、物として扱われた時にはできていた。ジョージと出会えた時にはもしかしたらとも思ったが、ジョージがランナの仲の良さを見て希望は消え入った。
きっとこの人はこの世界で生きる事を選んだのだ。だからこの世界の言葉を喋っている。だからこの世界の人間と仲良くできる。だから世界に馴染んでいる。そう思った。それほど千紗は聡い少女だった。或いは物として扱われた末に忘れられた存在になり、心を眠らせるまでにずっとすごしていた独りの時間がそうさせたのかもしれない。
ジョージもまた、見苦しい行動をとる自分を嫌った千紗を尊重した。目にたまった涙をこぼさず染み込ませるように自分を納得させている少女に、少し優しい言葉をかけ思い切り泣かせてやるのは簡単だ。その方がすぐに彼女の内心に決着をつけさせるだろう。
しかしそうすると、千紗は確実にジョージへ依存する。ただでさえそうなり易い状況が揃っているのだ。ジョージとてそれができないほど手一杯というわけではなかったが、それはお互いの為にならない。
「【神の加護があるわりに、この世界は厳しいからな。日本みたいにはいかん。帰還する方法を探すにしても、その過程において安住の地をみつけるにしても、生き残る力は必要だ。わかるな?】」
「【はい】」
千紗の目に滲んでいた涙はもう無い。強い子だ。いや、よく強がりえる子だ。ならばジョージがやってやれる事はひとつしかないだろう。そのためにもジョージはひとつ確認しておく。
「ランナ、限空腹からはどのくらいで動けるようになる?」
「そうさね、人によって違いはあるけど、この子は若いし、早い方みたいだから、明日には立って歩けるだろうし、まともに体を鍛え始めるなら四日後って所かね」
思っていた以上に早い。もともとの日本人の感覚がこの速さについていけるか心配ではあるが。しかしこれがこの世界の普通なのだから本人にもそれに慣れていってもらうしかない。
ジョージは頷くと千紗に向き直る。
「【ちょうど今、俺はこのギルドで新人研修みたいな事をやってる。君は4日後にはまともに鍛えられるようになるというから、君も彼らに合流する。たった4日じゃさすがに言葉は覚えられないだろうから、君が自力でこの世界の言語を扱えるようになるまでに補助具もつけるが、明日からさっそくこの世界の言葉を憶えはじめてもらう。
言葉を憶えたら、この世界の基本的な仕組みについて色々教えながら、生き残る為の力をつけていく。
いいね?】」
まっすぐに視線を合わせながら確かめると、千紗の表情に否はなかった。
「【決まりだな。ランナにもそう言っておく】」
ぽん と笑顔で手を打つと、ランナもそれでだいたいどのような話しをしていたのかわかったようだった。
「決まったようだね。どうするんだって?」
「最終的にどうなるかはわからんが、鍛えられるようになりしだいあいつらと合流させて、一緒にダンジョンに潜る。ただ、一応レイデムセールが終わって正式に所有権が移る1ヵ月後まではギルドに正所属させる事ができないと思う。だから、言葉を憶えさせるのが先決で、細かい訓練内容なんかは――」
「あー、わかったわかった。とりあえずあんたが面倒みるんだね。ま、動けるまでの世話はあたしたちでやるよ。女の子を乱雑に扱わせるわけにゃいかないからね」
ぶっきらぼうに言いながら、こんどは強めにどつくランナ。痛みはさほどだが、鎖骨の辺りにドンと響いてくる衝撃が照れ隠しなのかどうかは定かではない。それでも、なんだかんだいってやはり頼りになるギルドマスターだなと、ジョージは思ったのだった。




