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市場

「フィリ」


 五年目の学院試験に見事落ちた次の日の晴れた朝。

 ほぼ丸一日暴飲暴食を繰り返し、美味しいスイーツと優しい同僚達に癒されて新たな気持ちでスッキリと下宿先から出てきた店で準備をしていると声が掛かった。

 フィリアスは露骨に嫌な顔をすると、その声を無視する。人手が足りなかったり、朝の仕込みを行う時は菓子職人達と共に準備を行ったりもするが、基本的にホール担当である為店から支給されている制服も白いフリルブラウスと短めのスカート、店のロゴが縫い付けられたエプロンである。

 エプロンの紐を解けないようしっかりと結びながら、聞こえないフリを貫こうとしていたフィリアスの目論見はもう一度自分の名前が呼ばれた事で失敗に終わり、不承不承、渋々と背後を振り返る。

 この猫撫で声で呼ばれる時は、大概ロクな事がないのだ。



「フィリ、済まないがこれから市場(マーケット)で果物と砂糖を仕入れてきてくれないか」

「え、でも私……」

「昨日で材料が切れてしまってねえ……ああ、困ったなあーー?」

「……喜んで行かせてください」



 昨日の今日なのだから、裏方仕事が全部私に来ても良いから泣き腫らしたこの顔を晒す事だけは免じてくれないのだろうか、この人は!

 思わずフィリアスは心の中で目の前の男に毒づいたが、何せ原因は昨日店の商品を片っ端から暴飲暴食した自分自身なのだ。ひくつく目元をなんとか押さえつつ愛想良く頷くと、リストと皮袋に入った硬貨を受け取り視線から逃げるようにして店から通りへと出た。


 そこそこ裕福な層の若い女性や、甘い物に目が無い女性を狙った洋菓子店は結構に立地が良い場所に建てられている。お得意様が増えるように、と住宅街からも近く、裏道を使えば何時でも新鮮な食材が並ぶ市場へも近い。

 フィリアスが何時も通る裏道は、特に人様の家の塀だったり屋根だったりもするので余計に早く市場に辿り着けるしその分今は自分の酷い顔を見られずに済むので有り難い。

 磁器人形(ビスクドール)のように奇麗な顔だったり、サラサラの金髪だとかしたら泣き顔もちょっとは見れるかもしれないが、何せ曖昧な髪に瞳の色に、中の下な感じが否めない残念な顔の作りである。

 まあ別段と顔の作りが少々悪いと言っても、悲観する程繊細な心の持ち主では無いので問題は無いのだが、そこは矢張り女性として腫れた目を周囲に晒してからかわ…心配されるのが心苦しい訳で。決してからかわれるのが嫌な訳では無い、決して。

 自分の中にあるちっぽけな少女心を前面に押し出して都合良く不貞腐れながら、塀と塀の合間を縫って市場の一角へと滑り込んだフィリアスは、何時も買出しを行っている露店へと近付いて行った。




●●●●●




「おはよう、フィリ!昨日は"また"駄目だったらしいなあ。 まあ落ち込むなさ、また来年があるよ!」


 季節の果物を扱っているこの店の主は、フィリアスの姿を見付けると恰幅の良い体格に見合った丸々とした顔を綻ばせて、先日店の同僚からも言われた言葉を朗らか且つ高らかに、そして自信たっぷりに励ました。

 貶されているのか励まされているのか正直分からない。


「おはようございます、ジールさん。 またって言わないでください……私のやる気度が絶賛下降中ですよ……」

「おや、それは済まなかったねえ。 それじゃあ、今日は傷心しているフィリの為に、ウチの商品二割引でどうだい?」

「え、ほんと? ジールさん大好き!」


 預かって来たのは自分の所持金では無く、店の金銭ではあるのだが、それはそれ。

 安くして貰えるのならやってもらわない手は無い。

 時に乙女はちゃっかり堅実に時代を生きる事も大切なのだ。

 落ち込み気味且つ、少し腫れた目をしていたフィリアスはその一言で忽ち機嫌を回復させると、メモを取り出して色とりどりに並ぶ果物達を指差しては必要な数を伝えてゆく。


「まだ市場に居るんだろう? なら、サービスでコレも掛けておこうかね」



『セ・リデュース・エウリア』



 そう言って、ジールと呼ばれている店主がフィリの購入した果物の入った籠へ軽く手を翳して呪文スペルを唱えると、淡く手が発光してすぐに納まった。


「これでよし、と。 何時間かは痛みが止まるから、ゆっくり買い物して店に戻んな」

「わー、やった! いつも有難うございます!」


 数時間の間に渡って物質の腐敗を停止させる効果は、元々腐敗を進行させる魔法と一定の対象を停止ささせる魔法の呪文スペルを組み合わせていて、店主の独創魔法オリジナルだ。

 だが、その効果は侮ることなかれ。

 冬でも熱気に溢れた市場である。春の朝とはいっても次第に暖かさの増し始めた市場で買出し等続けていたら、すぐに新鮮な果物は傷みが始まってしまう。

 そんな時ジールの魔法はとても有難いし、何より彼の唱える呪文スペルには精霊達への"命令"が感じられないから好ましい。

 願ってもないプレゼントにフィリアスは弾んだ声を上げ、ついでにジールへ愛の言葉も言ってはみたが、これは「冗談は顔だけに……」と笑われてしまった。

 華の乙女に良い度胸だ。今すぐ正座させて懇々と説教しようかとも思ったが、悪気がある訳では無いと長年の付き合いで分かっている為、フィリアスは寛容な心で聞かなかった事にして、果物の入った重い籠を抱え店先から市場の通へと出た。




 そもそも、魔力マナは太古にか弱い存在だった人間へ神々と精霊達が施した祝福である。

 人間はその恩恵に感謝し、祈りや願いを捧げる事で魔力を魔法へと昇華させた。

 だが、何時の頃からか人間達は魔力マナを自分達が得た力だから、と驕り始め、自分達と異なる存在を見る事を止めた挙句、祈りや願いとは異なる強制力を持った呪文スペルで魔法を使用するようになった。

 暗い夜道を照らす街灯の明かりも、暖炉へ火を灯す時の火種も、傷を癒す治癒も。

 全ては人間を愛してくれる存在の祝福を得ての"奇跡"だというのに、人間は敬う事を止めてしまったのだ。

 あまつさえ、その"奇跡"は使えて当然であり、当たり前だと思っている。



 だから、フィリアスは呪文スペルを唱えられない。



 物心付いた時から人では無い存在を世界に感じているフィリアスにとって、魔法は彼等に"命令"をして得るものではないからだ。

 精霊、と一つに言っても、形は様々。

 力の弱いものは淡く輝く光の粒子に、多少力のあるものは掌程の透明な羽を持った妖精フェアリーや或いは蝶のような形であったりと形は複数あるが、共通しているのは淡い輝きを持っている事と、フィリアスやイクトゥースなどの極少数にしか見えていない事である。

 当たり前だと思っているから、皆は気付かない。

 人間に手を差し伸べる存在が居てからこその、尊い"奇跡"なのだと。


 せめて、呪文スペル無しで生み出すものを認めてもらえたら。


 そうは思っても、過去の五度に渡る試験で一度も免除された事は無い為、今後も無い気はひしひしと沸いてくる。

 来年挑戦して、それでも又駄目だったら精霊達に謝って試験の時だけ呪文スペルを使おうか。いやいや、やっぱり命令するのは気が引けるし、何より自分は唱えようとすると喉がつっかえて上手くいかないではないか。


 嗚呼、六回目確定かもしれない。

 流石にもう待って貰えないかも。


 籠の中に持つ果物は艶々としていて、今にも食べて下さいとばかりに輝いているのに、それを持つ人物は何処か違うところへと意識を飛ばして引き攣り笑いすら浮かべている。

 市場を行き交う人々は見てはいけないものを見てしまった、と記憶から抹消している事に当の本人は気付かない侭、次の材料を仕入れる為に人の波を進んでいたフィリアスは、ふと人と人が作る壁の向こうから市場の活気とは又違う喧騒が漂ってくる事に瞳を瞬かせた。



『――――』

「…!……――」



 喧嘩だろうか?

 人間の言葉を操れない小さな精霊達のざわめきに混ざって、複数の声が響いてくる。

 こんな人通りの多い場所で喧嘩をするなんて、他の人や精霊達にも迷惑だ。

 皆の視線が人垣の向こうに注がれているのを良い事に、フィリアスは一人憤ったが、次に仕入れる予定の砂糖はこの人垣の向こうに出ている露店で購入している為行かぬ訳にはいかない。

 自分自身が(あまり良い意味ではないが)有名人な為、あらぬ火の粉を受けてこれ以上情け無い思いはしたくない。

 出来るだけ離れて、通行人その一として通ってしまえば良いだろう、と果物を潰されないようにとだけ気を付けながら、フィリアスは止まっていた歩みを前へ進め始めた。




 それが間違いだったのかもしれない。


漸く魔法らしきものと、主人公が呪文を使えない理由が出てきました…!理由はちょっとこじつけっぽい感じもしますが、ご、ご都合主義という事で…。

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