大切な人
現在軸から10~6年ほど前のお話です。
現在でこそ王の膝元と呼ばれる王都に、小さいながらも居心地の良い部屋に住んでいるフィリアスだが、十五の時まで生まれ育った村は隣国との国境にも近い場所に位置し、なおかつ"聖域の森"の近くでもある為に、やたらと神聖視する者が多い所為で旅人すらも中々近付かない貧乏村だ。
オマケと言っては何だが、フィリアスは孤児である。
生まれ育った孤児院の院長によると、まだ臍の緒すら付いたままの状態で"聖域の森"の中にある"精霊の泉"に捨て置かれていたらしい。
否、捨て置かれていた、というのは少々御幣があるかもしれない。
籐で作られた大きめのバスケットの中には、清潔な白いシーツで包まれてスヤスヤと眠るい赤子と、赤子へ向けた謝罪、そして血の滲むような苦悩、愛情が綴られた手紙が同封されていたというのだから。
村人以外には神聖視して王族か、それに連なる貴族くらいしか立ち入らない森で偶然通り掛かった村の狩人が見付けた時は大層仰天したそうだが、何より驚いたのはこの森に住む野生動物達が、草食肉食問わず皆一様に籠の中で眠る赤子を見守っていたから、だと聞いている。
通常そんな事はまず有り得ないし、異常であるのだがそこは"聖域の森"、きっと精霊や神々が憐れに思って守ってくれていたんじゃなかろうか、というのが村人全員の見解である。
そんな訳で、生まれた時からデンジャラスな出自の本人は、と言えば、孤児だからと迫害する者のいない村人達全員から可愛がられてスクスクと育ち、自分を捨てた親に対しても何か深い理由があったのだろうとすんなり受け入れて、反抗期とは無縁の真っ直ぐで朗らかな性格に成長していた。
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"聖域の森"の中、自分が捨てられていた"精霊の泉"と呼ばれる泉は透明度が非常に高く、
一番深いところでも十五ミルはありそうな底まで見通せる。
夏は冷たく、冬はほんのりと温かい不思議な泉は太陽や月の当たり具合でふんわりとした光を放ち、十歳になったフィリアスにとって自分が捨てられていた場所云々関係無くお気に入りの場所だ。
ただ、年齢が近く仲の良い村の子供達は大人達と一緒で"聖域の森"に足を踏み入れる事自体が畏怖のようで、此処に来る時は何時も一人なのが少々寂しいところではあるが。
曰く神話等とは関係無しに、森にはとても神聖な気配が満ちているから、という事らしいのだが、毎日のように森を駆け回っているフィリアスはそんな気配を感じた事はこれっぽっちもない。むしろ、"彼等"と会えるのが嬉しいと思う程度だ。
「……あれ?」
なのだが。
泉へ近付くにつれて、森が何だか騒がしい。
今日は風が強くもないので実際のところ、森は穏やかな日差しに包まれているのだが、森の気配というか"彼等"が嬉しそうに騒いでいるのだ。
今迄偶々迷い込んだ旅人を出口へと案内している様子を見たりしてきたが、その時の嬉しさとは又違った感じを受けて、フィリアスは首を傾けつつも泉へと続く獣道を進んで行った。
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背の高い木をすり抜け、フィリアスにとって楽園に等しい泉の入り口に足を踏み入れた途端に、フィリアスは唖然と口を開いた。
天使だ。絶対に天使だ。
天使じゃなかったら、神様に違いない。
空から差し込む陽光にキラキラと輝く金の髪はきっと触ったら細くて柔らかくて、自分の髪とは比べ物にならないくらいサラサラだというのが見て取れるし、金色の長い睫毛に縁取られた瞳は見た事も無い奇麗な青色。
フィリアスよりも年齢的には同じか、少し上くらいの少年。
線は細く、陶器のように白い肌と繊細な顔立ちに下手をすれば少女にも見られるのではなかろうか。
ちょっと物憂げに溜息を吐いている姿すらも、絵の中の出来事のようだ。
それに、何よりも"彼等"――森の精霊達がこぞって彼の周囲に集まっている様子からも、フィリアスの予想をより強固なものへと固めるのには十分なのだ。
滅多にお目にかかれない美人さんを見逃す手はない、と妙な貧乏心を発動させて凝視していたのが悪かったのか、ふと青色の瞳が此方へ向けられると、別段怪しい事をしていた訳でもないのに心臓が跳ねる。
だが、驚いたのは自分だけではなかったらしい。
丸々と見開かれた深い青色の瞳にこそ驚きこそすれ、何故自分を見て驚いているのか皆目検討がつかない。
色褪せた灰色の髪に、ちょっと珍しいといっても薄紫色の瞳は貴色でも何でもないし、自分で言うのも悲しくなるが顔の造形は中の下、村にもちょっと出掛けた先の町にも自分より可愛い子は腐るほど居る。
何をどう切り出して、この人気の無い場所での挨拶を言うべきかと心の底から思い悩んでいたフィリアスは、躊躇いがちながらも空気を震わせた少年の高い声にハッと息を呑む。
「君は……なぜ、ここに」
しゃべった!天使か神様か知らないがとりあえずしゃべった!
天使や神様も、孤児の小娘にすら慈悲を垂れて話し掛けてくれるのか、ありがたや!
ちょっと興奮状態に陥って何も言わないフィリアスへもう一度少年が戸惑った声を掛けると、漸く自分に話し掛けられていると気付いたフィリアスは慌てながらも嬉しさに緩んだ笑顔を向けた。
「だってここは、私の庭みたいなものだもん」
「庭……?"聖域の森"だよね、ここ」
「うん、そうだけど?」
「……」
呆れたような、でも興味を持ったような、そんな瞳にフィリアスこそが首を傾げた。
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「でもびっくりしちゃった。 この森は普通あんまり人が入らないから、私もあなたに会うなんて思ってなかったもん。最初は天使か神様かって思っちゃったの」
「僕は天使でも神様でもないよ。 本当はここまで来るつもりなかったんだけど、皆が騒ぐから…だけど、今は君に会えたから感謝してるんだ」
暖かな陽気に包まれた"聖域の森"の中。
初めて少年と出会った"精霊の泉"で午後からの時間を一緒に過ごす事が、フィリアスにとって此処数日の新しい日課となっていた。
透明な泉の水面にちゃぷん、ちゃぷんと裸足の足で悪戯に波紋を生み出しながら、隣に座る少年へちょっと照れたような笑顔を向けると、少年も青色の瞳を優しく細めて笑ってくれる。
「あー、確かにみんな騒いでたけど……あれってイクスにじゃないの?」
「違う。 フィリの存在を皆が僕に教えたんだ」
「私?へー、そうなんだー……だからあの時すぐに見付かったのね」
失敗したー、と空を見上げる一歳年下のフィリアスに向けられた青色の瞳はどこまでも優しい。
フィリアスは精霊達の姿が見え、意思を交わす事ができる。
本来、その力は太古の昔人が誰しも持っていた力だという。
しかし、精霊や神々からの贈り物である魔力を自分達の力だと次第に驕り始めた代償なのか罰なのかは分からないが、今では精霊達を見る事が出来るのは王国の王族に連なる者と、魔導師の中でも最高位に位置する者達だけだと言われている。
辺境の村で生活しているフィリアスがそんな事を知っている筈も無く、どうも精霊達が見えているらしき動作を取る姿に少年から聞かされた時は余りの違和感を覚えた程だ。
確かに、村の皆には精霊達が見える事を言った事はない。
だがそれは別段言う必要と、機会がなかっただけであり、フィリアス本人にとって"見える"事は至極当然であったのだ。
もう十年も生きていて今更に"見える"事の尊さを言われても、首を傾げるしか方法が無いのは些か仕方の無い事だろうか。
とはいっても、イクスも精霊達が見えているので尊いだとか、凄い事だとか言われてもいまいちピンとこない。
最初こそからかっているのかと思っていたが、物凄い躊躇いを挟んだ後にイクスから言われた言葉で漸く納得するに至った。
イクスの本名は、イクトゥース・シェル・ラティリカ
フィリアスが暮らすラティリカ王国の第二王子であり、現在は年に一度"聖域の森"にて行われる行事に参加する為王都からやって来た、というのだ。
金の髪も、青の中に星が瞬くような不思議な色の瞳も生まれてから一度もフィリアスは見た事が無かったが、成程王族だけが持つ"貴色"ならそれも納得だ。
とても強い魔力を持つという王族の中でも、極少数しか精霊を見る事はできない。だから、イクスには精霊達が見えていて、何でも無い事のように過ごしているフィリアスに驚いた。
しかも、稀有な力と自分の地位を明かしても「へー、そうなんだー!」と驚きはしても、自分を驕ったりだとか変にへりくだったりとか、緊張その他諸々を全く見せずに、寧ろイクトゥースは呼び難いからと愛称まで付けられてしまった。
共通の"秘密"を持つ友人。
王族として、稀有な人として、そんな壊れ物を扱うような周囲の扱いと、権力に餓えた者達の視線に幼い頃から晒され続けているイクトゥースにとって、少女の反応は新鮮で、とても眩しい。
だからこそ数日後に儀式が終わり、王都へ帰る事になった旨を伝えた際、折角仲良くなれたのにと薄紫色の瞳にいっぱいの涙を湛える少女へ極一部の親しい者にしか教えない、イクトゥースと直接連絡を遣り取りする事の出来る方法を教え、また来年訪れる約束をしたのだ。
だが、それも長くは続かない。
十六の成人の儀を一年後に控え、今までのように地方の儀式やパーティに出席する事をイクトゥースは禁じられた。成人する王族として、何時までも"遊び"に興じてはならぬという王自らの判断であった為、イクトゥースも反発する事が出来ずに項垂れるしかなかった。
「それなら、今度は私がイクスに会いに行くよ」
「……え?」
「だって、いままでイクスは森に来てくれてたでしょ?それで、来れなくなるんだよね」
「うん。 来年成人を迎えるから、王都で勉学に励むようにって…」
「だから私が今度はイクスに会いに行くの。 うーん、でもイクスって王子様だから、会わせてくださいって言っても無理だよねー」
「フィリ?」
「あ、そうだ。 私、院長先生から聞いた事があるんだけど、お城は沢山の人が働いてるよね」
"聖域の森"で会うのは恐らく最後になる日。
苦しい心地の侭で告げたイクトゥースに返ってきた言葉は、何ともあっけらかんとしたものだった。
なにやら真剣に王都まで来ようと考えているらしき横顔を唖然とした青色の瞳が見詰める間にも、フィリアスは"作戦"を確立すべく顎に人差し指を軽く添えて、ちょっと気取ったように眉を寄せる。
「魔導師は王国でも尊重される存在で、上位魔導師は宮廷魔導師として、王族を守る光栄な地位に就く」
孤児院の院長が言った言葉をそのまま真似ているらしいが、得意気にフィリアスは続ける。
「フィリ、でもそれは」
「私、魔法以外で役に立てる事なんて何もないから…どれくらいかかるのかは分からないけど、なってみせるよ。 上位魔導師に」
躊躇いを滲ませるイクトゥースとは裏腹に、フィリアスは少しだけ照れくさそうに、そしてちょっとだけ不安を滲ませてイクトゥースへ薄紫色の瞳を向けた。
「必ず会いに行くから。だから、イクス……まってて、くれる?」
「……勿論。 それじゃあ僕は、フィリが来てくれた時に失望されないように、する」
イクトゥースは強く頷く。
フィリアスと過ごした日々は一年でもたった数日間のみだが、手紙の遣り取りや一年に数日間の邂逅でも直ぐに知れる、少女の誰にも縛られない心は愛おしい。
そう、愛おしい。
何事にも一生懸命で、笑顔を絶やさず、精霊達を心から好いている少女が。
今も自分の言葉一つで、とても嬉しそうに表情を綻ばせる小さな存在を思わず抱き締めながら、イクトゥースは目を白黒させているフィリアスにも聞こえないように、囁いた。
「いつか、僕が君を迎えにいくよ」
1ミル=1m