災禍の種(3)
視点が何度か切り替わります。
夜の静寂は、普段なら穏やかな闇を湛えて人々に安息を齎すというのに、今フィリアスが肌に感じる気配は、びりびりと次第に痛いものへと変貌してゆく。
全身を思わず強張らせるようなその気配に追われるようにして、微かに痺れの残る身体を叱咤しながら、フィリアスは走る速度を増した。
早く、早く、もっと早く!
急がなければ、ジェイが危ない。
バッシェ達がフィリアスの血を使い、何を召喚しようとしていたのかはフィリアスに分かる筈もない。ただ、静寂にあって心臓を鷲掴みされる程の錯覚を抱かせるこの緊張感が、《幻獣界》から単なる下位のモノを呼び出そうとしているのでは無い事は、否応にも感じられる。
召喚に失敗した場合、召喚されたモノは怒り狂い"対価"を払った者と、召喚者に襲い掛かる。望んだ事では無いが、"対価"を支払ったフィリアスに本来であれば矛先が向く事をジェイが抑えてくれている以上、牙は確実にジェイにも向くのである。
暗い森の梢から、微かに見える大鐘塔の先端を道標にして走っている為、上を見上げる度に地面へ張った根に足を取られながらも、フィリアスは先程から心配そうに周囲を乱舞する、小さな妖精の姿をした風の精霊へ荒ぐ息で懇願した。
「おね、がい!ヴィルに――ううん、誰でもいい!知らせて!」
フィリアスの言いたい事が伝わったのか、コクリと首を頷かせると風の精霊達は風を纏って姿を消した。それを確認すると、フィリアスは心臓が跳ねるのを構わずに年齢を重ねた樹の合間を走る、走る。
精霊達を見る事の出来る者はとても少ない。けれど、此処は優秀な魔導師達の集う学院なのだ、友人のヴィーツェルアや上位魔導師ともなれば、姿は見えずとも常と違う精霊のざわめき、大気の揺らぎを肌に、自らの内に宿す魔力に感じる筈。
フィリアスが学院へと辿り着き、事情を全て説明してから召喚魔法陣のある場所へ連れて行くには時間が少しでも惜しい。
頬から顎に流れる汗を拭う事もせず、ひゅうひゅうと枯れ始めた息をそれでも無理矢理に飲み込むと、フィリアスは段々近付いて来る大鐘塔――学院へと、力を振り絞り尚駆ける足を速めた。
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「くそっ……」
思わず、貴族にあるまじき低俗な言葉がジェイの口から漏れ出した。
だが、それも致し方有るまい。見えざる狂気の手を取ってしまったのが、入学したての魔導師や一般的な魔力を持つ者なら、そもそもこの召喚陣自体が拒絶してこの召喚は失敗に終わる筈であった。
しかし、バッシェ含む三人は、ジェイよりも下位に位置するとて魔導師を多く排出する貴族の出自。なまじ妄執に憑かれた強い思念は、普段なら耳を貸さぬ存在すらも、時に振り返ってしまう。
それが一般人を巻き込んだ今この只中とは。
珍しくはあるが、さして魔力が高いとは思えない薄桃色の瞳を戸惑いと不安、そして混乱に瞬かせていた人物を脳裏に思い描き、バッシェは小さく舌打ちを響かせた。
「まさか、俺があの落ちこぼれを庇う日が来るとはな……」
口元に浮かべた笑みには苦いものが混じる。
そういえば、あんなに疎ましいと思っていた薄紫色の瞳が、先程の刹那に美しいと感じたのは、ただの錯覚だろうか。
召喚陣から漏れる光が、炸裂し――森全体が眩い光に包まれた。
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「フィリアス君!風が知らせた、一体何が……」
「ヴィル……っ…!魔導師が、召喚魔法を、しよう…と……」
存外にあの場所から学院まではかなりの距離があり、森から講堂が集まる区域に出た時にはフィリアスの息は絶え絶えであった。願い通り、風の精霊がヴィーツェルアや他の魔導師達に異変を伝えたらしく、慌てて駆け寄ってくるヴィーツェルアの腕にしがみ付きながら、一緒に出てきていた"師"達へ震える声で告げると、それだけで皆は何が行われているのか察したらしい。
顔色を変え、慌てた様子で其々が行動に移そうとした刹那、夜の闇が光に圧倒されて、一瞬世界は白昼夢の如く白一色に染まった。
「――ッ!?」
「まさか、"月代の君"!?馬鹿な!」
「何というモノを!」
水面に波紋が拡がるように、思わず膝を折りたくなるような重圧感が森から見えない波動となって全員の肌に襲い掛かる。
師達さえも微かに呻きながら身体を震わせる程なのだ、思わずフィリアスがヴィーツェルアへふらりと身体を揺らがせたのは些か致し方有るまい。だが、あの場所でこの気配を直に当てられているだろう人物が浮かび上がると、フィリアスは気遣わし気なヴィーツェルアの手から離れ、再び森へ、その向こうの召喚魔法陣へ向かうべく足を踏み出した。
「フィリアス君!君は此処に……!」
「ううん、駄目だよ、ヴィル。 この召喚は、私の血で喚ばれたの……そして、私が助けを求めにいけるように、残ってくれた人が居るから」
「君の血が?……成程、だから"月代の君"も耳を貸したのか」
ヴィーツェルアはフィリアスが精霊と対話できる事を知っている。
普通なら、一般人如きの血で、と笑うところを真剣な顔で頷くと、森の奥へ険しい視線を向けた。しかし、すぐにフィリアスが行けぬよう手を伸ばして、フィリアスの腕を掴んだ。
「ヴィル! 私、行かなきゃ」
「呪文を唱え、魔法も使えぬ君が戻ったところで、何が出来る?」
「それは……っ…」
厳しい視線と合わせる事が出来ずに、フィリアスの視線は地面へと落ちた。
上手く言葉に出来ない歯痒さに、軽く唇を噛む。言い返せない。
呪文を唱え、風を足に纏って疾風の如く森へと入って行く師達を他所に、フィリアスとヴィーツェルアの間には、奇妙なまでの静けさが漂っていた。
「……フィリアス君。 君が、その魔導師を助けたいのなら、無詠唱を使いなさい」
「ヴィル……でも、でも……わたし」
「君は自分の力では無いと言うが、紛れも無く君の中に眠る力だよ――君が過去の事に縛られてその力を恐れる限り、君自身が精霊達を恐れている事になってしまう」
喉がカラカラに渇いて、言葉が出ない。否、例え喋れる状況であっても、強い光を湛えた瞳で問い掛ける友人に返す言葉は、今のフィリアスには無かった。
何より、フィリアスは金槌で頭を殴られたような衝撃に呆然としていた。精霊達が見えている事に安堵して、心優しい友人達の存在に甘えて、都合の悪い事から目を逸らしていたのは、他でも無い自分ではないか。
「精霊達と意思を交わす君の血で喚ばれたのなら……恐らく、《幻獣界》のモノを制する事が出来るのは、君だけだ。 失敗すれば陣を作った者だけでなく、この学院――王都にも被害が出る」
「……!」
「感じているだろう、たった"一人"呼び出しただけで、世界が此程までに震えている」
大気に滲む圧倒的な威圧感、重圧感。触れれば切れる程の、緊張感。
こんなものを垂れ流している存在を、制せるというのか。フィリアスは自分に課せられた試練を恨めしく思ったが、すぐに意識を切り替えた。ヴィーツェルアは嘘を言わぬ。
自分の弱気一つで、守ってくれたジェイも、師や友人、そして何より王都の城にいる大切な人を傷付けてしまうのは、絶対に我慢ならない。
「私は、君を"化け物"などとは思っていないよ。 ちょっと落ち着きがなくて、慌てんぼうで、でも誰よりも精霊を……この世界を愛している、私の友人だ」
若草色の瞳が柔らかく、撓められる。
ああ、自分にはこんなにも素敵な友人が居てくれるじゃないか。
「――行ってくるね、ヴィル」
「ああ、もう此方へ来ているとは思うが……私はミルフェリア君を呼んで来よう」
この状況にしてはそぐわないが、柔く口元を綻ばせる友人にフィリアスも笑みを返すと、視線を森の奥へと向けた。眩い程の光は既に無いが、陣のある方向からは未だに強い気配が衝撃波のように発生している。
一度息を吸い込むと、フィリアスは精霊達へ、世界へ向けた言葉を紡ぎ出した。
「――今まで、怖がっていてごめんね。 少しだけ、私に力を貸して。 皆を、助けたいの」
『おかえりなさい』
そう、誰かが笑い掛けた気がした。
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ふっ、と微かな残光の煌きを残して、フィリアスは一瞬で掻き消えた。
「相変わらず、規格外な事を容易くしてくれるね……」
まさか転移魔法とは。
風と時の魔法を使った高等連携魔法と呼ばれる転移魔法は、"風の詠み手"の二つ名を持つヴィーツェルアとて、長い呪文を紡がなければ発動させる事が出来ない。高難易度の魔法だというのに、たった一言、それも唯の言葉で瞬く間に術式を発動させてしまうのは相変わらずというか何というか。
ヴィーツェルアは小さく笑うと、森では無く一人の少女と合流する為に学院へと駆け出した。