「治癒師など金で雇える」と婚約破棄されましたが、私は王国唯一の聖女でした 〜支援を打ち切った途端、公爵家が詰んだようですが、もう戻りません〜
「エレナ・グランヴェル。貴様との婚約を破棄する」
ヴァレンターラ公爵家の大広間に、レオナルドの声が通った。
楽団の弓が止まり、銀の燭台に照らされた貴族たちが一斉に振り返る。祝宴のために磨き上げられた床の中央で、エレナは婚約者だった男を見つめた。
レオナルド・ヴァレンターラ。
王都でも名高い公爵家の嫡男であり、エレナと正式に婚約を結んでいた男だ。
その腕には、妹のリリアが寄り添っている。
淡桃色のドレスをまとい、潤んだ瞳でレオナルドを見上げる姿は、姉に怯える可憐な妹そのものだった。
「理由を伺ってもよろしいでしょうか?」
エレナが尋ねると、リリアは小さく肩を震わせる。
「お姉様……また、そんな怖い顔をなさるの?」
か細い声が広間に響く。
レオナルドはリリアを背に庇い、裁く側に立った者の顔で顎を上げた。
「貴様がリリアをいじめていたことは、すでに分かっている」
「いじめ、でございますか」
「ああ。毎日のようにリリアを部屋へ呼びつけ、魔力制御の訓練だの、礼儀作法だのと、できもしないことを強要していたそうだな」
「私、何度も言ったの。魔術の訓練も、礼儀作法も苦手だって。それなのに、お姉様は……貴族の家に嫁ぐなら必要だって、私を何度も叱りつけるの」
「リリアは優しい子だ。貴様のように人を追い詰める女とは違ってな」
レオナルドの声には、迷いがなかった。
エレナは、もう一度だけ妹を見る。
彼女の生まれであるグランヴェル家には、代々、回復魔術の素質を持つ者が生まれる。リリアにも弱いながら魔力があった。
だからエレナは、自分の魔力を乱さず扱う方法と、軽い傷を塞ぐ程度の基礎だけでも覚えさせようとした。
加えて茶会での振る舞いや、使用人への指示の出し方も教えた。貴族の家に嫁ぐなら、愛されて笑っているだけでは済まないからだ。
(ですが、リリアは努力しようとしませんでした……)
リリアはすぐに泣いた。
そのたびに、エレナは訓練時間を短くし、言い方を変え、茶会の作法と魔術の基礎を、順を追って繰り返した。
それらはすべて、今夜この場で「いじめ」と呼ばれている。
「それに、エレナ。貴様は魔物討伐作戦の功績で賞賛を受けているようだな」
「回復魔術で後方支援した件ですね」
「ふん、思い上がるなよ。それは我が公爵家が生み出した成果だ。貴様の回復魔術があってもなくても、結果は出せていた」
「そうですか……」
「リリアに対しても同じだ。自分だけが特別だと信じ込み、相手の気持ちを考えない」
「お姉様みたいな冷たい人が公爵夫人になるくらいなら、私がなった方が、みんな幸せになれると思ったの」
リリアは涙を拭い、震える声を重ねる。
「だって、レオナルド様は私といると笑ってくださるもの。お姉様といる時みたいに、難しい顔をなさらないわ」
「リリア……」
レオナルドが感極まったように妹の肩を抱く。
広間のあちこちで、扇の陰に隠された視線が交わされた。可哀想な妹。冷たい姉。妹を守る公爵子息。見た目だけなら、よくできた芝居だった。
「確認いたします」
エレナはレオナルドへ視線を戻す。
「レオナルド様は、私との婚約を破棄し、リリアを公爵家に迎える。そういうことで間違いございませんか」
「そうだ」
「お姉様、ごめんなさい。でも私、レオナルド様を愛してしまったの」
リリアが涙ながらに告げると、エレナは頷いた。
「承知いたしました」
あまりに迷いのない返事に、レオナルドの眉が動く。
「ずいぶん素直だな。ようやく自分の非を認める気になったか」
「いいえ。婚約破棄を受け入れるだけです」
エレナは背筋を伸ばし、広間の隅に控えていた公爵家の従者たちへ視線を向けた。
「では本日をもって、ヴァレンターラ公爵家への治療支援をすべて終了させていただきます」
「なっ……」
真っ先に声を漏らしたのは、レオナルドではなかった。壁際に立っていた騎士服の男が、一歩前へ出る。
ヴァレンターラ公爵家の騎士団長、バルツァーだった。
「お待ちください。魔物の毒を受けた者を浄化できるのは、エレナ様だけです。昨年の討伐で怪我をした者たちも、エレナ様の回復魔術がなければ――」
「バルツァー、下がれ」
レオナルドが顔をしかめる。
「しかし若様、魔物討伐計画はすべてエレナ様の治療を前提に編成されています。魔物の毒を受ければ、我々は――」
「下がれと言った。これは私の婚約の話だ」
バルツァーは唇を引き結ぶ。声を荒げることはなかったが、床へ落ちた視線は絶望に染まっていた。
その沈黙で、広間の空気が変わる。
笑っていた令嬢たちの声が止まり、公爵家の内情を知る貴族たちほど、扇を持つ手を固くする。
レオナルドだけが、苛立った顔で周囲を見回した。
「何を大げさに騒いでいる。治癒師など、金を出せばいくらでも雇える」
「……若様」
使用人の一人が掠れた声で呼んだ。
「バルツァーが申します通り、魔物の毒を浄化できる治癒師は、王国にエレナ様お一人です」
「馬鹿な」
「事実でございます。通常の回復魔術で傷は塞げます。ですが、魔物の毒は血に残ります。表面の傷だけを癒やしても、毒が内側から身体を壊していく。エレナ様の回復魔術だけが、それを浄化できるのです」
「黙れ。招待客の前で恥をさらすな」
理不尽な命令に使用人は口を閉じる。
エレナは、怒鳴るレオナルドではなく、リリアへ向き直った。
「リリア」
「な、なにかしら……?」
リリアはレオナルドの腕に縋ったまま、姉を見た。
「公爵家に嫁ぐのは、あなたなのですから。今後、討伐隊が魔物の毒を受けた時、あなたが支えることになります。それを忘れないように」
「そ、それは……」
「では、末永くお幸せに」
最後の言葉を残し、エレナは背を向けた。
ヴァレンターラ公爵家は、何を手放したのか。知るのはもう少し未来の話だった。
●
(この屋敷にはもういられませんね)
実家に帰るしかないかと、廊下を進んでいると、向こう側から人がやってくる。
「エレナ」
呼び止めたのは、黒髪の美しい青年だった。
王国第二王子、アルヴィン・ローレングス。
辺境防衛軍の総司令官であり、魔物討伐の前線で幾度も死線を越えてきた王子だ。王都では、戦場帰りの英雄と評価されている。
「アルヴィン殿下」
エレナが礼をしようとすると、アルヴィンは片手で制した。
「僕と君の仲だ。畏まらないでくれ」
「では……」
膝を折るのを止めたエレナはまっすぐに彼を見据える。見惚れるほどの美しい容姿は、記憶の中の彼と変わらない。
(思い出しますね……初めて会った時の彼は、負傷していました……)
数年前、エレナは治癒師として王宮に派遣され、魔物との戦闘で毒を受けた彼を治療したことがあった。
その件から命を救った恩人として、二人は身分を超えた友情を築いている。
「アルヴィン殿下はなぜこちらへ?」
「君に会いに来たんだ」
「私にですか……」
「ああ。だが……」
アルヴィンの視線が、エレナの背後へ流れた。
大広間の扉は閉ざされているが、それでも、中のざわめきは廊下まで漏れている。
「祝宴の最中だったはずだよね。なぜ君が一人で出てきたんだい?」
「婚約を破棄されました」
「なんて愚かなことを……理由は聞かされたのかい?」
「妹へのいじめだそうです。魔力制御の訓練と礼儀作法を教えたことを、そう表現されました」
「そうか……」
それだけ言って、アルヴィンはエレナの顔を見た。
「では公爵家との関係は?」
「終わりです。ヴァレンターラ公爵家への治療支援も終了させていただきます」
「……公爵家は、その意味を理解しているのかな」
「騎士団長様は、理解なさっているようでした」
「レオナルド殿は……してないんだろうね」
「ええ、治癒師など、金を出せば雇えると」
アルヴィンは呆れて笑みを零す。
「君がこの屋敷に残る理由がなくなったわけだ……」
「そうなりますね」
「なら丁度良い。僕から君に提案がある。一緒に王宮へと来てくれないかい?」
エレナは目を瞬かせた。
「公爵家との婚約があったから、これまでは踏み込めなかった。だが、その関係が切れた今、王家は君を正式に遇することができる」
「正式に、ですか」
「君を聖女として迎えたい」
聖女。その言葉に、エレナの指先がわずかに動いた。
「ですが、聖女は王国でも最高峰の治癒師に与えられる称号です。私に、そのような立場が務まるとは……」
「君にはその価値がある」
アルヴィンは迷わず言った。
「魔物の毒を浄化できる者は、王国で君しかいない。だが、僕が評価しているのは力だけじゃない。君は助けられる命を前にして、相手の家名や立場で手を止めたりしなかった」
「私は、当然のことをしただけです」
「その当然を、誰もができるわけじゃない。それに聖女となれば、王家が後ろ盾になる。報奨金も出るし、公爵家でさえ君を勝手に呼びつけることはできなくなる」
「私を、守るためでもあるのですね」
「そうだ」
アルヴィンは正面から頷いた。
「けれど、それだけじゃない。魔物の毒に苦しむ者たちを救うために、君の力が必要だからだ。だから、どうか僕の傍で一緒に働いてほしい」
「殿下……」
婚約破棄された夜、彼女は居場所を失った。けれど同じ夜、彼女の力を正しく必要としてくれる人が手を伸ばしてくれた。
その申し出を、拒む理由はなかった。
「王家からの依頼、謹んでお受けいたします」
「本当かいっ!」
「嘘は吐きませんよ。なにせ聖女になるのですから」
「はは、そうだったね」
アルヴィンは安堵したように目元を和らげると、エレナを連れて屋敷を後にする。その道中、彼女が屋敷を振り返ることはなかった。
●
『レオナルド視点』
エレナとの婚約を破棄してから、一か月ほどが過ぎていた。
ヴァレンターラ公爵家の屋敷は、表面上は何事もなかったかのように動いている。使用人は廊下を磨き、料理人は朝食の支度を整え、庭師は噴水の周りに季節の花を植え替えていた。
リリアを公爵家へ迎える準備も進んでいる。
すべては順調に見えた。
そんな日の朝、レオナルドは私室の寝台で目を覚ます。
カーテンの隙間から朝日が差し込み、机の上にはリリアとの婚約に関する書類が重ねられている。エレナの名が記された古い書類は、すでに下の段へ押しやられていた。
レオナルドは上体を起こして立ち上がる。すると廊下の向こうから足音が重なる音や、誰かが指示を出す声が響いていることに気づく。
「……朝から何を騒いでいる」
レオナルドは眉を寄せる。
公爵家の使用人が、廊下で足音を立てるなど本来なら許されない。来客のある日でもないため、屋敷内で慌てる理由もないはずだった。
「若様、失礼します」
聞き慣れた声が扉の向こうから届く。それは騎士団長バルツァーの声だ。レオナルドは身支度を整えると、入室を許可する。
扉を開けて入ってきた彼は、神妙な面持ちでレオナルドを見据える。
「何事だ?」
「巡回していた騎士隊が魔物に襲撃されました。そのせいで負傷者も出ています」
「なら新たに雇い入れた治癒師に診せればいい」
「すでに診せました。ですが、魔物の毒は浄化できません!」
「なら別の治癒師に診せろ!」
「若様、前にもお伝えしましたが、通常の治癒師では、傷は塞げても魔物の毒は治せないのです」
「またそれか」
「現に今、騎士が一人、毒で命を落としかけています」
レオナルドの喉が詰まる。その反応を見てから、バルツァーは頭を下げた。
「エレナ様を、お呼びください」
「……何だと?」
「この毒を浄化できるのは、エレナ様だけです」
レオナルドは不快げに顔を歪める。
あれから一か月。
エレナがいなくても屋敷は回っていた。リリアはよく笑い、屋敷の空気は以前より柔らかくなった。
部下たちも自分の選択が正しかったといずれ分かってくれる。そう思っていた。
なのに、またエレナだ。
「エレナを呼びたいなら勝手に呼べばいい。貴様の頼みなら、あの女も断るまい」
「若様、あれからエレナ様は聖女の称号を得て、王家の庇護下に入りました。勝手に呼びつけることはできません。王家の許可が必要なのです」
「なら許可を得ればよかろう」
レオナルドは苛立ちを隠さない。だがバルツァーは一歩も退く素振りを見せない。
「すでに王宮へは使者を送りました」
「なら、なぜここにエレナがいない」
「門前で止められました。エレナ様への個人的な接触は認めない、と」
「個人的な接触だと?」
レオナルドの目つきが鋭くなる。
「こちらは負傷者を出しているんだぞ。公爵家の騎士だ。王宮もそれくらい分かるだろう」
「王宮からは、負傷者の状態を記した報告書を、責任者の署名入りで提出せよとの返答です。必要と判断されれば、王家の指揮下で受け入れると」
「ふざけるな!」
責任者の署名が必要とは、つまりレオナルドの名前でエレナに助けを求めなければならないことを意味した。
婚約破棄した相手に縋らなければならない現実に苛立ちを覚える。だが叫んだところで事態は変わらない。それが何より彼を苛つかせた。
「……リリアはどうした」
レオナルドは思いついたように口を開く。
「リリア様でございますか」
「グランヴェル家の娘だ。回復魔術の素養があるはずだし、エレナから魔力制御も教わったと口にしていたではないか」
「若様、それは――」
「呼べ!」
バルツァーの言葉を遮り、レオナルドは命じた。
「リリアならできる。エレナの代わりに公爵家へ入るのだからな」
しばらくして、バルツァーがリリアを連れてくる。
薄桃色のドレスをまとい、髪は急いで整えたのか、少しだけ乱れが残っている。眠たげな目は、部屋に集まった男たちを見た瞬間に不安で揺れた。
「レオナルド様……何かあったのですか?」
リリアはレオナルドの腕へ寄ろうとした。
だが、彼はその前に告げる。
「魔物の毒を受けた騎士がいる。治療してほしい」
「え……?」
リリアの足が止まった。
「私が、ですの?」
「ああ。リリアにお願いしたい」
「でも、私は、回復魔術を……」
「やってくれ、頼む」
レオナルドの声に焦りが混じる。以前のリリアなら怯えた顔をすれば誰かが助け舟を出してくれた。
けれど今、誰も口を挟まない。
「……分かりましたわ」
リリアは胸の前で両手を握る。
「私がやりますわ。レオナルド様のためですもの」
「そうだ。君ならできる」
レオナルドはようやく胸のつかえが取れた気がした。
エレナでなければならないなど、思い込みにすぎない。リリアにも素質がある。なら、彼女が代わりになればいい。公爵家に必要なのは、冷たい女ではなく、優しく寄り添う公爵夫人なのだから。
「行くぞ」
皆を連れて、レオナルドは屋敷の一階にある治療室へと移動する。
その扉を開けた瞬間、リリアが口元を押さえた。
「ひっ……」
寝台の上で、若い騎士が腕を押さえている。肘から先が紫黒く変色しており、額には汗が浮かんでいる。
「若様……」
騎士がレオナルドへ目を向ける。
「エレナ様は……」
その名を聞いた瞬間、レオナルドの胸の奥がざらついた。
「リリアが治療する」
騎士の目がリリアへ動いた。
期待ではない。戸惑いだった。
リリアは寝台の前に立ったまま、両手を胸の前で固めている。
「リリア、頼んだぞ」
レオナルドが促す。
「で、でも……」
「君がやると言っただろう」
「だって、こんなにひどいなんて聞いていませんわ」
リリアの声が震えるが、バルツァーが迫るように一歩近づく。
「リリア様。毒はすでに肩の近くまで回っています。浄化を始めなければ、腕を落としても助からない可能性があります」
「そんなこと言われても……」
「魔力を集めてください。まず毒の流れを探るところからです」
「無理ですわ」
リリアは即座に首を振った。
「私には無理です。こんなものに触れませんわ」
「リリア、やるんだ!」
「嫌ですわ!」
リリアは数歩下がった。
寝台の脚に裾が引っかかり、よろめく。騎士が呻いた途端、彼女はさらに顔を青くした。
「私じゃ治せませんわ!」
「君はできると言っただろう!」
「だって、レオナルド様が私を選んでくださったから……頑張ろうと思っただけで……でも、これは無理ですわ。お姉様を呼んでください。お姉様ならできるでしょうから」
その言葉で、レオナルドの喉が詰まった。
呼べるなら、とっくに呼んでいる。
婚約を破棄し、功績を軽んじ、治癒師など金で雇えばいいと言い放った。それが誤りだとは認めたくなかった。
「若様、これが現実です」
バルツァーの声は低い。
「エレナ様の治療を前提にしていたから、我々は魔物と戦えました。毒を受けても戻れば助かると知っていたから、騎士たちは勇気を振り絞れたのです」
「黙れ!」
「いいえ、黙りません」
バルツァーは初めて、レオナルドの命令を拒んだ。
「エレナ様なしでは、討伐体制は成り立ちません。騎士が動けなければ領地も守れません。そうなれば、貴族の役目を果たせていないと、爵位剥奪もありえます」
それは脅しとも呼べる忠告だった。
リリアは泣きながら部屋の隅へ下がっている。騎士は毒に侵された腕を押さえ、声も出せずに歯を食いしばっている。
全員が、レオナルドを見ていた。
次期領主として、エレナを捨てた男として、どのような判断をするのかを見守っていた。
「王宮へ報告書を提出し、公爵家からの正式な要請としてエレナを派遣してもらえ」
レオナルドは声を震わせながら、ようやく口にする。その表情には悔しさが滲んでいたのだった。
●
王宮の一角に設けられた治療室へ、負傷者が運び込まれたのは昼を過ぎた頃だった。
廊下には担架を運ぶ近衛たちの足音が響き、薬草を煮出した匂いに、血と泥の臭いが混じっている。白い布をかけられた寝台がいくつも並び、その間を治癒師たちが行き交っていた。
「毒を受けた者をこちらへ。傷だけの者は隣の部屋に回せ」
アルヴィンの声が室内に通る。
普段の柔らかな口調とは違い、そこに迷いはなかった。近衛も治癒師も、短い命令だけで動いていく。
「エレナ、無理のない範囲で、毒の深い者から順に診てほしい」
「承知いたしました」
エレナは傍にある寝台へ向かう。
運ばれてきたのは、ヴァレンターラ公爵家の若い騎士だった。顔に見覚えがある。以前、討伐から戻った際に腕を治療したことがあったからだ。
その騎士は、意識が半分途切れかけていた。左腕は肘の上まで黒く染まり、毒は肩の近くまで迫っていた。
「エレナ、様……お手間をおかけして……申し訳……ございません……」
「謝る必要はありません。あなたは生きて戻ってきました。それだけで十分ですから」
エレナは患部に手のひらをかざし、皮膚の下を走る毒の流れを追う。黒い魔力が血管に絡みつき、傷を塞ごうとする回復魔術を押し返していた。
「治療を始めます」
エレナは騎士の腕に、毒を押し戻すだけの癒しの魔力を流し込む。
黒い毒が皮膚の下で暴れるように脈打ち、騎士が奥歯を噛み締める。エレナは毒の抵抗を感じながらも、治療のために注ぎ込む魔力を増やす。
やがて、黒く染まっていた腕の色が薄まり、健康的な色を取り戻した。
「殿下。毒を受けた方の処置は終わりました」
「よくやってくれた!」
アルヴィンは労うように、エレナに近くの椅子を差し出す。
勧められるまま腰を下ろすと、傍にいた近衛が水の入ったグラスを差し出してくれる。喉を潤しながら、感謝していると、ふいに廊下の奥が騒がしくなる。
「通せ! 私はヴァレンターラ公爵家の嫡男だ!」
レオナルドの声だった。アルヴィンは扉へ視線を向ける。
「入れて構わない」
アルヴィンの許可が下りたことで扉が開かれると、レオナルドがリリアを引き連れて入室してくる。
リリアは泣き腫らした目で、レオナルドの袖を掴んでおり、二人とも王宮にふさわしい礼装ではない。
「エレナ! 貴様は公爵家の騎士を治療したそうだな。なら、今後も――」
「それ以上は認めない」
アルヴィンが遮ると、レオナルドの視線が彼へ向く。
「殿下。これは我が公爵家の問題です」
「違う。エレナは王家の指揮下で動いた。公爵家への個人的な支援を再開したわけではない」
「詭弁です。結果としてエレナは我が家の騎士を救った」
「命を救ったことを、支配の根拠にするな」
その一言で、レオナルドの顔が赤くなる。
「もとは私の婚約者だ!」
「だがその婚約を君は破棄したはずだ」
アルヴィンの正論にレオナルドは言葉に詰まらせる。そんな中、リリアが袖を引いた。
「レオナルド様……私、こんな場所は怖いですわ。早く帰りましょう」
「黙っていろ」
短い声に、リリアの肩が跳ねる。
エレナはその様子を見て、胸の奥が冷えるのを感じる。一か月前のレオナルドなら、リリアにそのような強い言葉を発したりはしなかった。
だが今は違う。彼の目は自分の失敗を隠すための出口だけを探していた。
「レオナルド殿」
アルヴィンが目配せすると、近衛が一通の書類を差し出す。封蝋はすでに切られていたが、そこに押されていた紋章はヴァレンターラ公爵家のものだった。
「君の父君から、王家宛てに書類が届いている」
「父上から?」
「廃嫡の申し出だ」
治療室にいた全員の動きが止まった。
レオナルドの顔から血の気が引いていく。
「……何の冗談ですか」
「冗談で王家に提出する書類ではない」
アルヴィンは書面を開いた。
「理由は三つ。王国唯一の聖女との婚約を相談なく破棄したこと。毒を治せる回復魔術の価値を理解せず、公爵家の討伐体制を破綻させたこと。領民と騎士を危険に晒し、自らの誤りを認めなかったことが挙げられている」
「違う!」
レオナルドが叫ぶ。
「私は公爵家の名誉を守ろうとしただけだ! エレナがリリアを追い詰めていたから――」
「その点は監査で確認済みだ」
アルヴィンは別の書類を取った。
「リリアに行われていたのは、魔力制御の基礎、礼儀作法など、いずれも貴族の令嬢として必要な教育だ」
リリアの唇が震えた。
「そ、そんな……だって、お姉様は私に意地悪を……」
「君が受けた教育の記録も残っている」
アルヴィンの声は乱れない。
「途中で泣き出した日は時間を短縮し、体調が悪い日は休ませたとの記載もある。エレナ嬢は、むしろ配慮していた」
リリアは助けを求めるようにレオナルドを見た。
しかし、レオナルドは書類から目を離せない。
「ありえない……父上が、私を……」
「君の父君は、こうも書いている」
アルヴィンは読み上げた。
「失敗を反省しない者に、領主の器はないと」
レオナルドの喉が震え、リリアは蒼白になる。そんな中、彼女は自己保身のために、一歩前へ出る。
「わ、私はどうなるのですか?」
「レオナルド殿が廃嫡されれば、公爵家の後継者ではなくなる。当然、それでもレオナルド殿についていくなら、平民の妻として暮らすことになる。贅沢はできない。使用人もいない。茶会で注目を浴びることもない。質素な生活が待っている」
「嫌ですわ!」
リリアの声が治療室に響いた。
「そんなの嫌! 私は公爵夫人になるはずだったの! 綺麗なドレスを着て、みんなに羨ましがられて、レオナルド様に大切にされるはずだったの!」
悲痛な叫び声をあげるが、リリアに同情する者は誰もいない。
その空気を感じ取ったのか、リリアが突然、エレナに期待するような目を向ける。
「お姉様、私を助けてくださいまし!」
「助ける?」
「お姉様が公爵家で治療してくれれば、レオナルド様は貴族の地位を失わずに済みますもの」
突拍子もない提案だったが、レオナルドも乗る。
「そうだ! 私に従え! それですべてが丸く収まるんだ!」
「お断りします。私はもう自分勝手な人たちに利用されるのは御免ですから」
エレナがきっぱり断ると、レオナルドが顔を真っ赤にして踏み出した。
近衛が前に出るより早く、彼はエレナへ手を伸ばす。掴むつもりだったのか、殴るつもりだったのか。エレナには分からなかった。
ただ、その手が届くことはなかった。
アルヴィンがエレナの前に立ち、レオナルドの腕を掴んでいた。
「王家の庇護下にある聖女へ手を上げるとはね」
「ち、違……私は……」
「王族の前での暴行未遂だ。許されるはずもない。近衛、この罪人を牢屋へ連行しろ」
「はっ」
「待て! 私はヴァレンターラ公爵家の――」
「もう後継者ではない」
アルヴィンの一言で、レオナルドの声が途切れた。
近衛に引かれ、レオナルドは扉へ向かう。
「うっ……ど、どうして俺がこんな目にっ!」
レオナルドが悲痛な叫び声をあげながら、そのまま扉の先の廊下へと消えていく。その声も徐々に遠ざかっていった。
残されたリリアは、絶望的な状況を前にして、その場にへたり込む。
「嫌……嫌よ……平民の……それも罪人の妻なんて……そんなの、私……」
やがて侍女が数名入り、リリアを部屋の外へ促す。リリアは泣きながら何度も首を振ったが、最後には支えられるようにして連れていかれた。
治療室に、ようやく落ち着きが戻る。
「エレナ、怪我はないかい」
「はい。殿下が守ってくださいましたから」
アルヴィンはレオナルドが連れていかれた扉を一度だけ見やり、すぐにエレナへ視線を戻した。
「君に手を伸ばす者を許すつもりはないからね」
「……ありがとうございます」
エレナは治療室に並ぶ寝台へ目を向け、グラスを両手で包んだ。頼りになる王子に感謝しながら、エレナは自分の意思でこの場所にいることを誇りに思うのだった。
●
王宮の談話室には、午後の光が差し込んでいた。
窓辺の卓には香りのよい紅茶が置かれ、淡い色の花が花瓶に飾られている。エレナは椅子に腰かけながら、久しぶりに背筋の力を抜いていた。
「よく働いてくれたね」
向かいの席で、アルヴィンが紅茶のカップを置く。
「魔物の毒を受けた者たちを君が救ってくれた。皆が君に感謝している」
「治療を手伝ってくれた方々のおかげです」
「それでも、君がいなければ救えなかった命だ」
まっすぐに言われ、エレナは返す言葉を探した。
公爵家にいた頃、治療は当たり前だった。無理をしても、疲れても、エレナならできると扱われた。
けれど王宮では違った。
休息の時間が用意され、魔力の消耗を見れば気遣ってくれた。だからこそ、多くの人を救えたのだ。
「ありがとうございます」
エレナがそう答えると、アルヴィンはわずかに目元を和らげた。
「今日は、その礼を言うためだけに呼んだわけじゃない」
「ヴァレンターラ公爵家の件でしょうか」
「ああ」
アルヴィンは卓の上に置いていた書類へ手を伸ばした。
「正式にレオナルド殿は廃嫡に決まった。新しい領主候補には、弟君が立つ」
「弟ですか……」
「君も会ったことがあるはずだ。アーノルド・ヴァレンターラ。派手さはないが、現場の報告書をきちんと読み、騎士団長の意見にも耳を貸す真面目な男だ」
「それなら、安心しました」
エレナはカップに指を添えた。
ヴァレンターラ公爵家へ戻るつもりはない。だが、あの領地に暮らす人々まで憎んでいるわけではない。その気持ちは、婚約破棄された今も変わっていない。
「だがレオナルド殿とリリアは、すべてを失ったよ」
アルヴィンの声に、エレナは顔を上げる。
「君の実家であり、リリアの実家でもあるグランヴェル家にも、事実が伝わった。君を追い落とし、婚約者を奪ったことに怒っていたよ」
「それでリリアは……」
「身分を失ったレオナルドと共に生きればいい。そう言って、君の父上から家を追い出されたそうだ」
リリアはいつも、欲しいものを泣いて手に入れようとした。誰かが差し出してくれるものだけを見て、その後に必要な責任を見ようとしなかった。その結果が、今の現実だった。
「レオナルド殿も同じだ。公爵家の庇護を失い、罪人として裁かれる。王族の前で聖女へ手を上げようとした件は軽い処分で済まされないからね」
「そうですか……ようやくこれですべてが終わるのですね……」
そう口にして、エレナは自分の声が思ったより穏やかだったことに気づいた。
レオナルドに裏切られた夜、胸の奥には確かに痛みがあった。リリアに嘘を重ねられたことも、積み上げた努力をいじめと呼ばれたことも、簡単に忘れられるものではない。
けれど今、その痛みはエレナを縛ってはいない。
治療室で助けた騎士の顔。自分を必要だと言ってくれた人々。それらが、少しずつ彼女を別の場所へ進ませていた。
「エレナ」
アルヴィンが名を呼んだ。
いつもの柔らかな響きだったが、そこには覚悟があった。
「君の未来の話をしたい」
エレナの指が、カップの取っ手に触れたまま止まる。
「私の未来、ですか?」
「ああ。聖女としての役目ではなく、君自身の未来だ」
アルヴィンは姿勢を正した。
戦場で指揮を執る王子でも、王家の使者でもない。ひとりの男性として、エレナを見ていた。
「僕は君の力を必要としている。魔物の毒に苦しむ者を救うために、君の力は王国に欠かせないからね」
「はい」
「けれど、僕が傍にいてほしいと思うのは、それだけが理由じゃない」
エレナは言葉を返せずにいると、アルヴィンは続ける。
「僕は君を尊敬している。隣で言葉を交わす時間も、君が誰かを救おうとする横顔も、大切に思っている」
「殿下……」
「だから――」
アルヴィンは椅子から立ち上がると、胸元から小さな箱を取り出した。蓋を開けると、そこには青い宝石の指輪が収められている。
「エレナ・グランヴェル。僕と結婚してほしい。そして、これからも僕の隣にいてほしい」
エレナは指輪を見つめた。
かつての婚約は、家同士の約束だった。公爵夫人になるために、エレナは学び、支え、黙って役目を果たしてきた。けれどその先にあったのは、便利な治癒師として消費される日々だった。
だが今、差し出されているものは違う。
役目のための鎖ではない。
彼女自身を見たうえで、隣に立ってほしいという願いだった。
「私でよろしければ、婚約をお受けいたします」
アルヴィンは一瞬、動きを止めた。
次の瞬間、彼の表情から張り詰めていたものがほどける。
「ありがとう、エレナ。君を幸せにすると誓うよ」
アルヴィンは指輪を取り出し、エレナの手を取った。
その手つきは丁寧だった。戦場で剣を握る王子の手なのに、触れ方には一切の強引さがない。
指輪がエレナの指に通される。
青い宝石が、窓から差し込む光を受けてきらめく。新しい人生を歩み始めるエレナの隣には、これから先、彼女自身を選んだ王子が寄り添い続けるのだった。
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