我らが迷走 ――あの日のヒトラーに転生して、未来知識チートで平和に向かって邁進してみた
……あの時、私はポーランドへ攻撃せよという命令書にサインすればよかったのだろうか。
私がそう悩む時間があると知れば、ゲーリングの奴は驚いただろうか。
それも無理はない。
私が、このアドルフ・ヒトラーが、老いさらばえるまで生き永らえたのは、あそこでポーランド侵攻を始めなかったからだ。
ああ、エヴァ。
キミにだけは話したことがあったね。
キミは信じてくれたのか、それとも理解していなかったのかはわからないが、ただ微笑んでその秘密を聞いてくれていた。
そうだ、あの時だ。
あの1939年の9月、忘れもしないあの時。
私は、アドルフ・ヒトラーになった自分に気づいたのだ。
そうなる前の私は、別の時代の人間、いわば未来人だった。
こうして、総統として30年以上、生きていたのだから随分と記憶は薄れてしまったが、多分、まだ生まれてもいない人間だ。
私にはソヴィエトが崩壊したという記憶も、ワールドトレードセンタービルに飛行機が突っ込んだ記憶もある。
だが、私がこうして生きている以上、それが起こるかどうかは、もう誰にもわからない。
最初はうまくいったさ。
私が慌ててポーランド攻撃を中止させたときの幹部たちの顔は見ものだった。
一瞬、その場で殺されることすら覚悟した。
だが、私は努力した。
そうせねば私とドイツが破滅する事を知っていたのだから、必死に頑張った。
ゲッペルスにはちゃんとドイツ国民が戦争なぞ望んでいないことを説明した。
領土が増えるだけならともかく、これで英仏の介入を招く世界戦争が起こるとなれば、あの世界大戦の惨禍を思い出す、とな。
平和とともにある総統についてお前がきちんと宣伝してくれるなら、だれもがお前を無視できないと説得したものさ。
その場ではヒムラーの反対が一番強かったな。
東方生存圏の放棄は、奴にとっては裏切りに聞こえたのだろう。
だが、ポーランド侵攻で英仏を敵に回せば、ソヴィエトが漁夫の利をえることを、私は知っていた。
そう説明してもヒムラーは最後まで無言だったが、翌朝には『総統閣下の英断に従います』という短い電報だけを打ってきた。
あれは奴なりの“保留”だったのだろう。
意外なことに、ゲーリングは反対しなかった
英仏に加えてアメリカまで敵に回る可能性が高いという私の言葉に頷いた点もあったが、あれは半分以上はヒムラーが反対したから賛成に回ったというのが正しいだろう。
だが、彼の「総統閣下は正しい、ヒムラー君。君は、その正しい意見に逆らうのかね?」というヒムラーへの言葉は、最終的にヒムラーの反論を封じてくれた事には感謝はしている。
あの笑顔の醜さは正直引いたが。
翌朝、さっそくポーランド人によるラジオ局襲撃について、対話を継続し、ダンツィヒの問題解決を要求すると発表してやった。
実際、ドイツ国民は第一次世界大戦……いや、もう誰もこの名前で呼ぶ人間はいない……の記憶が生々しい。
喜んで戦争に行くバカは、あぁ、ごく一握りしかいなかったんだ。
そこからの道は、薔薇色に見えたんだ。
最初は、うまくいくと思っていた。
なにせ、私には何が上手くいって何が失敗するのか、既に知識があったんだ。
一番効果的だったのは、彼を利用したことだったな。
そう、ヴェルナー・フォン・ブラウンだ。
彼が有能な人物で、彼のもたらす成果が大きいことは、よく知っていた。
だから「予算はつけてやる。お前の夢を存分に果たすがよい」と言ったんだ。
だが、やっぱり夢は夢で、巨大なロケットを飛ばす前には、まず大陸間を飛び越える射程と精度のミサイルが必要だった。
フォン・ブラウン自身に正直に説明された私は、そこで頷いてしまったんだ。
案の定、1942年に初飛行したA-8試作ロケットが、地球を半周できると知った瞬間にゲーリングは目を輝かせていた。
「これでワシントンもニューヨークも一発だ!」と喚きながら、奴はすぐさま空軍専用予算で量産を命じていた。
何とか即時開戦だけは押さえつけたものの、そこからのロケット開発は軍事目的と並行せざるを得なかった。
だが、それでもやっぱりフォン・ブラウンは歴史に残る本物の天才で、約束通り人工衛星を開発した。
1949年の秋、私が指示してちょうど10年で最初の人工衛星が打ち上げられたとき――
それを見上げる私は、この素晴らしい技術を、戦争と切り分けることが出来なかった事を後悔していた。
ただ、この時のゲッペルスは、私が知る限りで一番輝いていた。
いや、あれは流石にやりすぎだった。
国民の支持は得られたが、列強の宇宙開発競争を随分と加熱させてしまったよ。
当然、人工衛星の次は、有人宇宙飛行にも手を付けた。
ガガーリン氏には少々悪いが、スプートニクのついでだ、この栄誉も我がドイツが頂くことにした。
しかし、最初の宇宙飛行士に相応しい人物を空軍から選ぶ事が会議で決定したとき、ゲーリングが「私が行く!」と言い出したのは流石に驚いた。
何が「飛行機から写真を撮るのは慣れている、宇宙船も一緒だろう」だ、全然違うとフォン・ブラウンが必死になって説得を始めていたよ。
空軍幹部も、党幹部も必死になって、トップがもしもの事故で失われる可能性の高い、栄誉ある危険な初飛行に行く事の無茶を解いていた。
私も一瞬は(そのまま宇宙に行ってくれれば、だいぶ楽になるんじゃないか……?)と魔が差したことは否定しないが、流石に口に出したのは引き止める言葉だ。
結局、彼の体重は最初の宇宙船には少々重すぎる、という身も蓋もない意見の前に、人類史に「人類最初の宇宙飛行士 ヘルマン・ゲーリング」の名前が刻まれることは無かった。
ただ、恐ろしいことに、彼は諦めていなかった。
何度か有人宇宙船が打ち上げられ、成功を重ねた後に、もう一度「今度こそ、私が行く」と言い出したのだ。
まさか、宇宙船の大型化に空軍の予算を削ってまで応じてくれた理由が、自分が宇宙旅行したかったためだとは驚いた。
確かに、大質量を宇宙に運ぶことが出来る宇宙船なら、ゲーリングの贅肉も宇宙に運べるのは当然だ。
そしてついに、奴は三人乗りの有人宇宙船の司令官兼カメラマンとして、宇宙飛行士になりやがった。
もう一度(……これが失敗すれば、軍の把握が楽になるのにな)と思わなくは無かったが、そこは流石というべきか無事に地球へと帰って来た。
そして、楽になるという私の祈りは、どうやら通じたらしい。
宇宙から帰って来たゲーリング元帥は、それ以降も宇宙開発に熱を上げ続けてくれて、私の平和路線にもかなりの賛意を示してくれるようになったんだ。
あと、ゲーリングが撮影した衛星軌道上からの地球の写真は、非常に素晴らしい出来栄えだった。
ゲッペルスが喜んで映画にも使っていたので、有名だろう。
まさに、私はフォン・ブラウンという天才のお陰で、ドイツという国が平和路線へかじを切ることに成功した。
だから、彼には最上級の感謝を、ここに残しておく。
個人の天才がフォン・ブラウンなら、天才の集団がI.G.ファルベンだった。
ある夜、私は研究部長たちを呼び出し、最初にペニシリンという奇跡の薬の名前を口にした。
彼らは、そのたった4か月後には自分たちが既にそれを量産可能であると答えてくれたよ……おかしくないか?
詳しく話を聞いてみると、急すぎる総統命令に化学合成用のタンクで培養したら上手く行ったとかなんとか……正直、理解できなかった。
ただ、この最初の功績とゲッペルスの宣伝が、他の政策を現実化するまでの時間を準備してくれた。
同じ夜に、私は新たな抗生物質が他にもこのドイツの大地に眠っているのではないか、と発破もかけた。
……いや、私はペニシリン以外の抗生物質があることと、土の中の細菌からも抗生物質が取れることぐらいしか知らなかったんだ。
だが、天才たちはそんな曖昧な言葉を元に、次々と新たな抗生物質を見つけ出していった。
特に、ストレプトマイシンと呼ばれるその薬は、まだ不治の病だった結核すら治療できる第二の奇跡となった。
しかも、この「ドイツの大地」と言うのが、ヒムラー達の心に刺さったらしい。
「これぞ、ドイツの大地こそ神に選ばれた土地の証です! アーリア人の永遠のための奇跡の薬が生まれるとは!」
……いや、どこの土からでも取れるから、近場から調べろって言ったつもりだったのだが。
今、思い返してみれば、ここまで医学が発展した理由に思い当ってしまう。
彼らは、いくらでも人体実験繰り返すことが出来たのだ。
人体に有害か無害か、実際に効くかどうか、お手軽に結果を調べられるのだ。
そんなことを総統に提出する報告書に残すはずがない、だがあの発展速度は異常だった。
ただ、当時の私はそこまで気づかず、素直にドイツ国民が死ななくなったことを喜んだものだった。
ああ、もう一つ、I.G.ファルベンに与えた指示があった。
あれは、ニーダーザクセン地方の油田探査(私がヒトラーになる前の彼が行っていた政策だ)の報告を受けたときのことだった。
担当者は暗い顔をして、苦渋に満ちた表情で報告してくれた。
「申し訳ございません、総統閣下。
有望と見込まれたレーデンの油田候補地ですが、石油は出ませんでした。
あの地域には、有機ガスしか眠っておりません」
「そうか、天然ガスが出たのか!
これで、エネルギー問題は大きく解決するな、さっそくガス採取を始めるんだ」
「ガスを、ですか……?」
しかし、私の喜びに周囲の人間は困惑を隠せなかった。
なぜなら、私は天然ガスが有用なことは前世の常識として知っていたが、当時のドイツではまだ実用化されていない理由を知らなかったんだ。
私の指示に、I.G.の担当者は恐縮しながら答えてきた。
「閣下……天然のガスを活用するには、
輸送のために液化状態の極低温と高圧に耐える特殊タンクが必要でして……
我々にはその技術がございません」
私は首を傾げた。
「……そんなもの、フォン・ブラウンの研究所にいくらでも転がっているじゃないか。
総統命令だ、やってみろ」
「……!」
その一言で、彼は敬礼もそこそこに部屋を走り出してしまった。
後に、この時の彼のインタビュー記事を読んだのだが、その瞬間に可能性の洪水が脳内を埋め尽くし、輝ける未来しか目に入らなくなったらしい……大げさな、と当時は笑ったものだが、正しいのは私ではなく、この研究者のほうだった。
天然ガスは一気にエネルギーの主役に踊り出し、1944年には、もうドイツは石油を一滴も輸入しなくても済むようになっていた。
……それを聞いたゲーリングが戦争をやりたがっていたが、当然無視した。
ただ、そのガスで動く工場で働き、ペニシリンを作っていたのは、ゲットーに残されたユダヤ人たちだった。
そうだ、これは忘れてはならない私の罪だ。
私にもどうしようもできないことがあった、その象徴がユダヤ人隔離地区……いわゆるゲットーだ。
つまり、私は……ユダヤ人差別を、止められなかった。
努力はしようとした。
1942年の冬、二度目の「水晶の夜」が起きた。
地元の30人の党員たちが、リンツ近郊のゲットーが焼き払った事件だ。
「総統閣下が甘いから、自分たちで最終解決してやった」と供述したらしい。
私は激怒し、己の良心に従い処罰を命じようとした。
だがヒムラーは静かに言った。
「閣下、彼らは貴方の政策に不満を抱いているだけです。
処罰すれば、党は分裂します」
……結局、私は何もできなかった。
あの30人は謹慎処分で済んだ。
焼け落ちたゲットーの灰は、雪と一緒に消えていった。
それでも、私はやれることはやったつもりだ。
アウシュヴィッツもビルケナウも、観光資源も何もないただのポーランドの片田舎だ。
ユダヤ人の国外脱出についてもできるだけ阻止しないように指示していた。
多少の資産の持ち出しよりも、ドイツ国内からユダヤ人が消えたほうが喜ぶ人間が多かったんだ。
でも、私は、ゲットーそのものを、隔離政策を無くすことは出来なかった。
ドイツに残っているユダヤ人は、今も苦しみ続けている。
ガス室なんかには決して送っていない。
しかし、ゆっくりと、隔離された檻の中で老いさらばえて死んでいくのは、それより幸せだと言えるのだろうか?
新聞は今も、ゲットーに残るユダヤ人の数を数えて、最終的解決の瞬間までのカウントダウンを続けている。
それ以外に方法はなかった。
……無かったんだ……。
私の計算を狂わせたものは、他にもいる。
最初に名前を上げるとすれば……あの大馬鹿野郎のムッソリーだ。
この私が、あのナチスドイツが平和路線へと舵を切ったというのに。
どうしてお前は、1940年の秋、忘れもしない10月28日に、私が知っている通りの準備不足のまま、ギリシアへ侵攻を始めたんだ。
そのニュースを聞いた瞬間、私は本気でお前の正気を疑った。
案の定、イタリア軍は雪の中で多数の凍死者を出し、半年でアルバニアまで押し戻された。
知識としては知っていても、実際にその状況になると衝撃を受けるものだった。
私は、この自業自得の大馬鹿ものの同盟国に、最小限の介入しかしなかった。
あの大馬鹿野郎のために、私を支持してくれているドイツ国民が傷つくことを恐れたんだ。
しかし……私とドイツの最大の危機を乗り越えることが出来たのも、ある意味では大馬鹿野郎のおかげだった。
1943年の秋、ペニシリン量産の成果と天然ガス活用によりドイツの経済成長が見込めるようになったとき、
ついにフランスがヴェルサイユ条約を振りかざして更なる要求をしてきたのだ。
金をよこせ、さもなくばルールを占領する、とね。
まさに、この時期はムッソリーニが失脚したその時だった。
フランスは、この私が最後までムッソリーニを見捨てる弱腰かどうか確認した上で、仮にも同盟国がなくなって弱ったところに要求してきたのだ。
拒まなければドイツ国民がやっとの思いで得た暖かな暮らしは失われ、拒めば戦争だ。
当然、ゲーリングは抗戦を高らかに叫び、私もそれを留めながらも降伏はできない、そう考えていた。
私は自主的に付いてこようとする武装親衛隊を最小限にとどめながらケルンに向かい、近づいてくるフランス軍と交渉するつもりだった。
しかし、ついにフランス軍と対峙するという前日、背後から近づいてきたヒムラーの囁きが、情勢の全てを変えた。
「総統閣下。共産主義者たちの革命の波が、イタリア南部を席巻し――ローマまで到達しようとしています」
ヒムラーはこの点では優秀だった。
彼と彼の秘密警察は、イタリアに入り込み、膨れ上がる共産党の動きを、誰よりも早く、偏執狂じみた正確さで洗い出していた。
そして、それを聞いた時の私の狼狽振りは、言葉にできないほどだった。
ローマが!
人類の遺産が!
サンピエトロ大聖堂が!
ルネサンスとバロックの最高傑作が!
宗教をアヘンとしか見なさない共産主義者の手によって、永遠に失われてしまう!
これを、美大落ちの総統が錯乱した、と笑う歴史家もいるだろう。
だが、狼狽したのはあの時にヒトラーになった私で、その狼狽は未来に生きてその価値を知る私の狼狽だ。
あの時の私は、生涯で唯一、本物のヒトラーと同じような行動をしていたのだろう。
私は、悩んだ。
悩みに悩んで、そのままフランス軍と対峙する羽目になってしまったんだ。
はっきり言って、あれは映画のような劇的な計算だったのではない。
あまりにも深く悩み過ぎていただけなんだ。
あの時、フランスの将軍が何か言った言葉に対して、私は叫んでしまった。
「そんなことを言っている場合か!
今は、共産主義者どもがローマを奪おうとしているんだぞ!」
彼には悪いことをした……名前も顔も思い出せないが。
私の言葉が両軍の間に響き渡り、眼で見てわかるほどの動揺と衝撃が伝播していく。
フランス軍は確かに敵だったが、それ以前に彼らの多くは敬虔なカトリック教徒だったんだ。
そして、ドイツはプロテスタントの国でカトリックは少ない、と私は思い込んでいたのだが……この時点のドイツは、熱心なカトリック教徒が多いオーストリアをすでに併合していたんだ。
「ローマへ!
総統閣下、ローマを、共産主義者どもから守りましょう!」
生まれた時からキリスト教徒で、今はナチズムに染まった武装親衛隊の誰かの叫びが、次々に両軍へと伝播していった。
彼もおそらくは、武装親衛隊という組織の一員として行動していたのなら、こんな軍令に無い発言はしなかっただろう。
しかし、ここに集まっていた武装親衛隊の隊員は、一度は上からの命令に逆らって個人的な感情ででアドルフ・ヒトラーを守ろうと集まった、ナチズムに染まり切った隊員ばかりだった。
彼にとって、私は国家の元首である以上に、信仰の偶像だったんだ。
「ローマへ!」
「ローマへ!」
「偉大なるローマへ!」
「教皇を、助けるんだ!」
「信仰を、守るために!」
「ローマへ!」
その熱狂の渦は、誰にも止められなかった。
いくつもの視線が、私に向けられる。
その瞳の中には、確かに信仰の炎が燃えていた。
「……全軍、ローマへ向かえ」
「総統、万歳!!」
その熱気に圧されるようにして、私の生涯で唯一、ドイツ国民へ戦地へ向かうことを命じた。
苦渋に満ちた私の命令とは裏腹に、聞きなれた万歳の叫びには熱意と歓喜が入り混じっていた。
「総統、万歳!!」
そして、驚いたことに、フランス軍にも同じように叫ぶ兵士がいた。
フランス南部出身の信仰に篤い一部の兵士たちが、私たちと共にローマへ向かうことを望んだのだ。
武装親衛隊員の中には嫌な顔をするものもいたが、同じように信仰に燃えた一部の隊員たちがフランス兵たちの勇気を称え、抱きしめ合っていた。
私としても、拒否するつもりはなかった……正直な所、自分が出したローマ進軍の命令が本当に正しいのかどうか、悩み続けてそれどころではなかった。
「閣下、フランス人は……」
私の隣にいたヒムラーが、頬を強張らせながら、何かを言いかける。
彼の性格を考えれば、フランス兵士達の参加など拒否したかったのだろう。
しかし、武装親衛隊への彼の教育はしっかり行き届いており、「共産主義者こそ最大の敵だ」というナチズムの思想は兵士の骨身に染みついている。
フランスへの私怨と功績の独占の為に、兵士たちの思想を自ら否定するような真似は、彼にはできなかった。
数日後、パリからフランス兵たちを義勇軍として認める命令書が届き、正式に目標はルールからローマへと改められた。
ドイツへの敵意が残っていたとしても、フランス政府もフランス国民もローマへの信仰を捨てることは出来なかったのだ。
正式な命令が下るとともに、武装親衛隊に付随するフランス人兵士の数は膨れ上がっていった。
ルールからローマに至る長い道のりの間に、両軍の兵士たちは助け合い、長く深い独仏の恨みが次第に解けて流れていく様子が、肌で感じられた。
これが、戦地に向かう道行きでなければ、私はどれほど喜べたことだろうか。
さらに、イギリスも即座に反応した。
チャーチルは議会で叫んだという。
「我々はヒトラーと手を組むのではない。
キリスト教文明そのものを守るのだ!」
……あの酔っぱらいじじいが、ツンデレじみた言い訳をする姿を想像すると、今でも笑いがこみ上げる。
だが、マルタを出港した地中海艦隊の援護はこの上なく頼もしかった。
なお、アメリカは最後まで一兵も出さなかった。
だが、ルーズベルトは「聖ペトロの守護」という名目で、石油とP-38戦闘機を大量に送り届けてくれた。
そして、スペイン内戦の後始末で忙しいはずのフランコまで、呼んでもいないのに義勇軍と一緒に合流してきた。
20世紀の十字軍……おっと、これはゲッペルスの映画の名前だ……は、なんとかローマだけは守ることはできた。
しかし、イタリアの南半分は、今も共産主義者の手に落ちたままだ。
この戦いを正義だと、ヒムラーもゲーリングも褒めたたえてくれた。
ゲッペルスは当然のように仰々しい映画に仕立て上げてくれた。
ローマ教皇ですら私に深く感謝してくれたのだ。
この事件をもってドイツの戦後は終わり、新たに始まった「冷戦」においてドイツはポーランドと共に栄誉ある最前線を担う国であると認められた。
ヴェルサイユの呪縛は解け、世界は私を「キリスト教文明と資本主義の守護者」として受け入れた。
だが、この戦いで死んだ972名の命の重さは、今も私の心の中に深く、突き刺さっている。
ああ、そうだ、ポーランドは結局、独立を保てたんだ。
私が知る歴史と比較すれば、ポーランドは随分と良い歴史をたどることが出来たと言えるだろう。
ローマ防衛にまでは手が回らなかったが、彼らも西側の陣営としてソヴィエトの脅威を封じ込めてくれた。
スターリンの手引きでポーランド国内のベラルーシ系住民が民族独立運動を成功させたりしたが……最終的に、彼らは国内の諸民族に民族自治区を設定し、連邦国家を作り上げた。
その一報を聞いた時、私はやっとこの悪夢を、ドイツのユダヤ人差別を止められるのかと内心、小躍りしていた。
なにせ、ポーランドには総人口の一割に達するユダヤ人が住んでいるのだ。
彼らに自治権が与えられ、ゲットーで苦しむドイツのユダヤ人たちを移住させられるかもしれない、そんな希望を抱いたんだ。
しかし……私の密かな希望は、打ち砕かれた。
少数のドイツ民族さえ、ダンツィヒ自治都市という自治区を得ているのに、ユダヤ民族の自治区だけは作られなかった。
それは、彼らにもユダヤ人への差別意識があった事と……なによりも、隣国である我らがドイツ第三帝国が差別しているユダヤ人に自治区を与えて、関係を悪化させたく無かった、という理由だった。
……そう、私の罪が、罪を償う機会を奪ったんだ。
ポーランドに回廊問題を自発的に解決させるほどの強国となったドイツの存在が、ユダヤ人差別を正当化する最大の理由になってしまったんだ。
結局、この世界のどこにも“イスラエル”は存在しない。
同盟国といえば、かつての同盟国、日本の現状についても責任がないわけではない。
彼らは既に戦争を始めていたが、やはりあの太平洋戦争はヨーロッパでの戦争が無ければ起きないものだったらしい。
結局、真珠湾への攻撃も、インドシナへの進駐も発生しなかった。
彼らから見れば裏切り行為に等しかったのだろうが、私から見れば悲劇の回避に成功したつもりだ。
その代わりに軍事援助は行っていたんだし、勘弁してほしいと思っていた。
だが、軍事援助といっても、当時はまだジェットエンジンも長距離ミサイルも未開発な時期だったのが災いした。
日本は泥沼の戦争から抜け出せず……もしかしたら、アメリカ相手に華々しく散ったほうがマシだったのかもしれないくらいに疲弊していった。
ドイツから物資を送ってはいたが、遠すぎる距離の影響はあまりにも大きかった。
結果、どうなったかは、よくわかるだろう。
そう、あのスターリンが手を伸ばしたんだ。
あのニュースを最初に聞いたときは、ベッドから転げ落ちてしまった。
「日本でソヴィエト政権が誕生」なんて話は、私にはまったく予想もできないできことだった。
……まぁ、その点はスターリンにとっても予想外な点があるので多少は心理的にはマシだが。
なぜ、共産主義革命が起こっているのに、天皇が国家元首のままなんだ? ってね。
あれは私にも理解はできない。
さらに奇妙なことに、あの日本は私が知る歴史の上での日本と、ほとんど変わらなかったんだ。
人民企業に終身雇用で入社して年功序列で定年まで真面目に働いている。
共産主義国ってのはそういうものだったのか?
日の丸にせめて鎌と槌でも追加してくれれば分かりやすかったのに、そのまま「赤いから」で同じ国旗をつかっているのはバカなんじゃないかと思ったよ。
ただ、ドミノ理論が正しかったということは、現実的に思い知らされたよ。
今や、東アジアは共産主義圏だ。
日中戦争はうやむやの内に中華ソヴィエトの勝利に終わり、私が知っていたよりも強大な共産圏が誕生している。
……そして、私のこの人生における最大の失敗についても、ここに記さねばならない。
あれは1948年の春の事だ。
冷戦構造の大枠が組みあがり、私が心の中で帝国主義がいつまで残るのか悩んでいた時期だった。
ヒムラーがまたも恐るべき情報を入手してきたのだ。
「総統、スターリンが中央アジアでウラン鉱山の開発に着手したと情報が入りました。
核兵器の開発に着手したのは確実なようです」
私は、その瞬間に背筋が凍り付いた。
核兵器、という恐るべき兵器の名前は既に有名になっていた、しかしその本当の恐ろしさを知っていたのは、おそらく私だけだっただろう。
ソヴィエトが核を持つ、それもただ一国が核を持つというのが、どれほど危険な結果を生むのか、それは想像もしたくなかった。
私は、震える声で党とI.G.ファルベンの幹部を呼び、緊急会議を開いた。
その席で、ソヴィエトが単独の核保有国にならないよう、自国でも開発するように許可を与えてしまったんだ。
もちろん、それで国民に無理を強いるつもりはない。
予算も無理をせずに10年計画で実施を行い、実のところ8年後には量産可能なプルトニウム型の核兵器は完成してしまった。
アメリカも同じ思いだったのだろう、似た事をして核実験まで成功させている。
そして、当時、真っ先に動いたはずのソヴィエトは……アメリカとドイツに送れること4年、1959年に核実験に成功した、との一報が入った。
そして、なぜ遅れたのか、ヒムラーのスパイ網がきっちりと、その理由――私の愚かさを、突き付けてくれた。
「……申し訳ございません、総統閣下。
国内情報部、最大の失態を報告せねばなりません。
国外情報部の報告によりますと、ソヴィエトの核兵器の技術の八割以上が、アメリカと我がドイツの機密情報を基に構築されたものでございます。
ハイゼンベルク博士の理論資料、プルトニウム精製プロセス、爆縮レンズの精密設計図……ほぼ全てが盗用です。
もし我々が核開発を始めていなければ、ソヴィエトの核実験は……失敗していた可能性が高いと……」
私が、前世で持っていた核大国のイメージで過剰反応をしてしまい、それが核の時代を幕開けさせてしまったのだ。
その自責の念がどれほど激しいものだったのかは、エヴァ、キミも覚えているだろう。
私は、その場で総統の座を辞してしまう事さえ考えた。
しかし、ドイツという国は、私と言う重荷がなければどこに向かうのかわかったものではない、その責任感だけで、総統の椅子から降りることはしなかった。
かくて、世界は冷戦へと突入した。
今もそれは続いている……今年は1969年か、私も80歳となった。
私の知っている歴史通り、アメリカは月への有人飛行を成功させた。
フォン・ブラウンの研究はドイツで続けさせたのだが、ドイツにはあれほどまでの予算を宇宙開発につぎ込む余力がなかったのだ。
「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な一歩である」 どこかで聞いたことのある台詞を、テレビで見たよ。
でも、人類が月にまで足を踏み入れたのに、アフリカの地図は1939年とあまり変わりはない。
アジア独立している、と言えるのは天皇を頂く共産主義国家の日本と、同じく共産主義国家の中華人民共和国、あとはタイとイランぐらいだ。
核を得た帝国の支配力はあまりにも強大で、生半可な独立運動は簡単に潰されてしまう。
国際連盟は、まるで死に損なった老人のように、今もジュネーブの古い建物で細々と息を続けている。
棺桶に片足を突っ込んだ組織になにができるのか、といわれれば何もできない、としか答えられない。
核不拡散も、侵略行為への制裁も、それどころかドイツ国内のユダヤ人差別を止めさせる権利すら彼らは所持していない。
結局、彼らの仕事は、各国が便利に使える会議室を掃除することだけだ。
もしかしたら、あと何十年かのちには、人類の意識も進歩し、植民地も解放されるかもしれない。
しかし、私が生きてそれを目にすることはないだろう。
第二次世界大戦とホロコーストと言う、歴史に残る悲劇は確かに存在しない……それでよかった、と断言できないことが、私の後悔だ。
だが……
だが、だ、エヴァ……。
世界はかくも変わってしまったが、
こうしてキミと一緒に老いることが出来た事だけは、このアドルフ・ヒトラーが本物に勝利した点と、誇ってもいいと思っているんだ。
多くの方に読んでいただき、ありがとうございます。
加筆修正として、整合性の確認とともに、有人宇宙飛行のエピソード、ローマ防衛についての状況、ポーランドの顛末、そして核開発に関する失態など、いくつかのエピソードを追加させていただきました。
ウラン型では核時代にならない過ちに気づいたので、プルトニウム原爆に修正しました。




